学問のはじめ

片山洋一

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第六話「麻中(あさなか)の蓬(よもぎ)」

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   麻中(あさなか)の蓬(よもぎ)

   一

 いわゆる抜け駆けの罪を格之助は犯してしまった。戦場において忌むべきは抜け駆けであり、陽明学でもこれを厳しく戒めている。弓削一派を殲滅させんと格之助は天王寺安兵衛を捕らえようとした。だがこの行為は一歩間違えれば格之助が殺されるだけでなく、弓削の捕縛自体が失敗してしまう危険性があった。
 エラいことになる――。
 格之助の心情を考えればやむなきとは言え、事の顛末を知らせた正一郎は平八郎の反応に固唾を飲んでうかがった。その平八郎が格之助を連れてくるように命じたため、正一郎は緊張を余儀なくされた。
 だが当の格之助は平然としていた。いや、平然としていたと言うより開き直っていた。 成敗されるならそれも良し、義絶されるなら義絶せよ。それならば末期の抗いに思う存分罵倒し、溜まりに溜まった気持ちをぶつけてやる ――まるで仇討ちをするかのような心持ちで覚悟を定める格之助であった。
 格之助が呼び出されたのは柴田道場であった。道場には道着を身に纏っている平八郎が端座しており、向かいには老齢の師・柴田勘兵衛が面している。
「先生」
 平八郎は深々と頭を下げる。
「親子二代にわたってのご高恩、言葉もござりませぬ」
「ホホ。そない、改まらんでもエエ」
「いえ。先生の御恩は海より深く、山より高きもの。本来ならば寸分でもお返しせねばなりませぬに、未だかようにお手数をおかけしてしまい……汗顔の至り」
「相変わらず堅苦しいな。いつまでも弟子に困らされるのもまた師の業ちゅうもんや」
 この言葉に平八郎はただ頭を下げるのみであったが、そんな姿を見て勘兵衛は微笑した。
「しかし人の親も同じやな。弟子も子も、真に師と親を信ずれば全力でぶつかってくるもんや。迷惑と言えば迷惑やが、遠慮されるうちはまだまだ師も親も未熟や。平八郎はようやく――」
 親になったちゅうことや、と言って勘兵衛は何度もうなずいた。
「やけどな、平八郎。子に遠慮している親も未熟やぞ。格之助はようやくホンマの子になってきたが、平八郎はまだまだ真の親になっとらん」
 いつの間にか、温和であった勘兵衛の表情は険しくなっており、子供に戻ったように平八郎は身体を小さくして耳を済ませた。
 思えば勘兵衛の弟子たちは若き頃から師を困らせた。坂本鉉之助は今でこそ後輩たちの世話をよく見る器量人だが、十代の頃はどうしようもない喧嘩屋で、しょっちゅう同輩と騒動を起こしていた。平八郎も今は洗心洞の主として学問を教え、そして崇敬されているが、少年時代は不勉強で有名であった。
 大坂には懐徳堂という優れた民間の学問所がある。享保年間に富豪たちによって設立された学問所であり、中井竹山など優れた学者が教鞭を執ってきた。懐徳堂は言うまでもなく町人たちも学べたが、与力や同心といった武士階級の者もその門を叩いている。
 少年平八郎(文之助)もその一人で、物心がつくや手習いのため懐徳堂に通った。だが平八郎は大人になってもそうであったが、融通の利かない子であり、とかく物覚えが悪かった。
 「寧ろ」という字がある。この字は「むしろ」と読むのだが平八郎にはどうしても「むしろ」と読めなかった。彼の師であった中井履軒はどうやって覚えさせるか苦心をしたが、やがて機転を利かせ、自身の座っている筵を指差した。
「これや。その字はあなたが座っているその筵や」
 履軒は駄洒落好きの大坂人らしく、諧謔的に教えてやったのだ。ようやく平八郎は「寧ろ」を「むしろ」と読むことができたのである。だが不器用な彼は「寧ろ」を書き取りさせると「筵」と書いてしまい、履軒はそれを修正させるのに再び苦労した。
 平八郎はこの手の話が多く、武芸においても勘兵衛は我流を改めさせることに苦心した。勘兵衛も履軒も共に根からの教師であり、頑迷になりかねなかった平八郎を羽毛で育むように教え、そして矯正してやった。
 人も川も流れに沿って正しき道に導かねば決壊することを勘兵衛は本能的に識っており、個性を大切にしながら徐々に無理なく良き方向に導くべきだと考えていた。だがそれは頭ごなしに矯正するよりも数倍手間がかかることで、根気がなければできることではない。
 平八郎も鉉之助も、そして格之助も頑固者であるが、身体の奥に弾けるような輝きを有している。彼らからどんなに迷惑をかけられようとも勘兵衛はいずれ咲くであろう大輪の花を夢見て我慢強く見守り続けている。
「覚えておいででしょうか。私が一度破門されそうになったことを」
 平八郎は青い炎を目に宿しながら詰め寄ると、勘兵衛の表情は固まった。温和な勘兵衛であるが、ただ一度だけ激怒したことがある。それは平八郎が無断で他流試合をしたからである。当時の道場において他流試合をすることはご法度であった。その理由は私闘から殺し合いへと発展し、思わぬ惨劇を生むことがあるからだ。
 血気盛んな若き平八郎はこの法度を犯し、危うく破門されそうになった。ただこのことに平八郎は恨みを抱いてはいない。それどころか破門しなかった師の心がわからないと言いたかったのだ。
「もしあの時、わしが許さなんだら、今のお前はどうなっていたやろうなァ」
「今の平八郎はありませぬ」
「許さぬは易し、許すは難しや」
「ではあの時のお怒りは間違いだと仰せで?」
「そうやない。弟子が間違った道に入れば叱るのが師の仕事や」
「ならば――」
 威勢のついた平八郎は畳み掛けるようにして弁論しようとしたが、勘兵衛はそれを手で制し、別なことを尋ねた。
「平八郎が示したい道とは何や。親として与力として格之助に示したい道は何や」
「上には忠、祖先には孝、下には慈、国には義」
「さすがは平八郎。武士はかくあるべし。そやが、人に対しては優しくあらねばならぬのも武士や。人は己に優しく人に厳しくなるが性。それを克服するために武芸があり、学問がある」
 勘兵衛は視線を上げ、道場の神棚に目をやった。
「武芸は己を厳しく鍛え、強き心を会得していくもの。得てして人はそれを他で試したくなるが、一人を傷つけるだけではすまん。相手の面目をいたずらに傷つけ、そして無用の恨みを買う。いわば無限地獄や。その因はただ己の力を試してみたいという我欲で、これほど救いのないものはない」
 平八郎はただ押し黙るしかなく、口をへの字に曲げて聞き続ける。
「師は弟子に厳しく当たるは真の強さを身に付けてもらうため。親が子に対する想いもまた同じやが、その想いを誤って伝えれば子は行き先を失ってしまう」
 いつの間にか。勘兵衛が親子について話していることに平八郎は驚いた。
「格之助はな。平八郎がどのようなお役目をいただいているのかは知らぬ。またそれが天下の御為になることは重々承知や。また親として格之助を守ってやりたい想いがあるのもわかっている」
 平八郎は全てを賭す覚悟なのだろう。その決死の行動に格之助を巻き込みたくないというのは、紛れもない平八郎の「親心」と言うものかもしれない。
 ――だが、それは中途半端というものや。
 つまりはこの二人はまだ親子になりきっていない――勘兵衛にはそう思えて仕方がないのだ。平八郎の「思いやり」は格之助にとって遠慮に過ぎず、格之助はこの遠慮によって平八郎を敬慕しつつも壁を作ってしまっている。この二人に必要なのはぶつかり合うことであり、無用な言葉は意思疎通の障害でしかない。格之助が家出同然で居候を申し出たことを快諾したのは、こうした機会――つまり二人が思う存分ぶつかり合う時を待ち続けていたのであった。
「平八郎。今日は誰も道場には来ンから、好きにせえ」
 話はまだ――と平八郎は止めようとしたが、勘兵衛は相手にしなかった。言うべきことは言った。あとは親子が心で語り合うしかないのだ。

 それから半刻が過ぎた。正一郎に連れられて格之助は道場へとやって来た。
「先生」
 事が事なだけに正一郎は動揺している。それに反して格之助は当事者にも関わらず実に落ち着いている。
 ――言うたる。
 鬼相に近い彼の表情がその覚悟を示していた。もし勘兵衛の先ほどの言葉とやりとりがなければ、平八郎はどうしたであろうか。深く格之助の心を考えず怒鳴りつけていたかもしれない。
「正一郎。格之助にこれを」
 先ほど勘兵衛が用意してくれた道着がそこにあった。平八郎の真意がわからず、格之助はただ躊躇した。
 ――四の五の申すなッ。
 無言であったが、平八郎の眼には格之助を圧迫する気迫が満ちている。
「格之助」
 平八郎はじろりと睨み据え、十手を手渡した。そして自身は棒を手にして立ち上がった。
「命を懸ける覚悟は有りや無しや」
 この言葉に格之助は憤然となった。大塩家の嫡子となってからいつでも命を捨てる覚悟はある。それを改めて問われるのは武士への侮辱であった。
「その心意気や善し。じゃが、先の切支丹どもとこたびの敵は雲泥の差なのはわかっているな」
 はい、と格之助が答えようとした。だが平八郎は突如棒を突き出し、格之助は這うようにしてそれを避けた。
「格之助ッ」
 平八郎はさらに攻撃を繰り返す。
 ――命のやり取りに卑怯も何もない。
 殺気を孕んだ攻撃に格之助は一瞬たじろいだ。だがすぐさま気を取り直し、十手を構える。
 先の捕物――すなわち豊田貢の事件では相手は教祖といっても、老婆や医者に過ぎず、剣戟を交える相手ではなかった。
 だがこたびは違う。相手は筆頭与力と言う権力そのもので、命知らずの与太者たちである。卑怯だの道だのと言った理屈が通る相手ではなく、やるかやられるか――ただそれだけであった。いわばこれは平八郎の試験であった。不意を襲い、そして有無を言わせぬ中で格之助はどう対応するのか。
 平八郎は鬼の形相で格之助を追い込んだ。格之助の手には十手が握られている。十手ほど与力の職務にとって適切な武具はない。
 相手を殺さず、生け捕る――。
 これこそ与力に課せられた至上命題であり、平八郎や藤四郎たちが常に心掛けていることであった。 
 十手には鈎という刀の鍔に当たる部分がある。その鈎をいかに使うのかが腕の見せ所であった。得物の先をその鈎で挟みこみ、ねじ込む。そうすることによって武器を奪い取ることが出来るのだが、それには完全に相手の動きを見切らねばならない。
 ――できるのか、どうか。
 そんな悠長なことを考えている暇はない。
 日頃鍛錬した技をどのように活用させるのか。全ては格之助の武士としての本能が物を言うのだ。
 格之助は五感を研ぎ澄ませ、平八郎の動きを感じ取ろうとしている。
 格之助は一匹の獣と化した。
 目の動き、息の仕方、そして気配。
 平八郎は目を見開くや、奇声を上げて格之助の胸を突かんとした。
 格之助はこれを川に流れる木の葉のようにしてひらりとかわし、棒にまとわりつくようにして平八郎の懐に飛び込んだ。
 相手との距離あっての長物であり、懐に飛び込んでこその十手である。格之助は理屈でなく本能的にその長所短所を識り、流れるままに十手の鈎を平八郎の手許に押し込んだ。
 平八郎は力任せに格之助の十手を払いのけようとしたが、それが無駄な努力であることを熟知している。
 やられた――ほんの一瞬、平八郎が諦めた隙をついて格之助は棒を跳ね上げることに成功した。
 もはや相手に武器はない。
 勝った――。
 そう思ったことが油断に繋がった。試合では勝った瞬間、全てが終わる。だが生死を賭した戦いでは相手を倒すまで終わらないのだ。実戦経験の乏しい格之助はそのことを知らず、手練の平八郎は熟知していた。
 平八郎は棒術、剣術のみならず柔術にも精通していた。
 気を緩めてしまっていた格之助の襟元をつかむや、彼を宙に舞わせて道場の床に叩きつけた。さらに間髪入れず馬乗りになり、両腕をもって格之助の咽喉許を押さえつけた。
 格之助も随分と成長したが、やはり幾多の実戦を潜り抜けてきた平八郎の経験には遠く及ばなかった。
 格之助は今更ながら平八郎の大きさを思い知らされた。いや、父の大きさよりも自分の小ささを改めて知ったと言うべきであった。
 そう思いうなだれる格之助であったが、平八郎は見直していた。平八郎は棒術において誰にも負けない自負があった。もしこれが道場での試合であれば平八郎の負けである。まだまだ格之助如きにと軽く見ていたが、なるほど子はいつの間にか成長していたらしい。
「不覚やな」
 格之助は力なくうなずいたが、平八郎は右手首を擦りながらかぶりを振った。
「不覚はわしや」
 格之助にはわからなかった。だがどうやら先ほど棒を跳ね上げた時に平八郎は手首を痛めてしまったらしい。
「格之助。わしも衰えた」
 完膚なきまでに組み伏せておきながら何を――格之助の表情がそう責め立てる。だが平八郎は意に介せず続けた。
「そなた、命は惜しくはないか」
 この問いに格之助は即答しなかった。
 以前なら、「惜しくはない」と、答えたであろう。だがある男の顔が脳裏に浮かび、軽々しく命を惜しくないとは言わせなかった。
 その男の顔とはそう、緒方三平である。どうにも不思議な男で頼り甲斐があるわけでもなく、顔を合わせれば喧嘩ばかりをするのだが、妙な懐かしさを感じずにはいられない。
 あの間抜け面を見たいという思いが「命など惜しくはない」という言葉を押し止めさせていた。
 しばらく平八郎は押し黙ったまま格之助の顔を見つめていたが、やがて深く息を吸った。
「格之助」
「はい」
「今から戻る」
 格之助は意味がわからず、首をかしげている。
「ぐずぐずするな。かような姿で奉行所へ参るつもりか。大事が迫っている。余分なことを話さず、黙って付いて参れ」
 格之助はようやく全てを明かしてくれるのかと顔を明るくしたが、平八郎は答えなかった。
 与力として大事なのは相手を殺さぬことだが、それと同じく自身も傷つかないことが肝要であった。以前の格之助はただ血気に逸るばかりであったが、命を無駄にせぬ心がけを得て、ようやく与力として通用する。格之助を一人前の武士として認めた以上、もはや子供ではない。平八郎と志を同じくする一人の士である。大塩家の命運を懸けて、大坂の闇に立ち向かう刻がやって来たのだ。

 文政十二年(一八二九)二月。
 西町奉行筆頭与力として横暴の限りを尽くしてきた弓削新左衛門にとって運命の刻が近付きつつある。
「弓削殿」
 西町奉行・内藤隼人正は上役ながら弓削に対しては常に慇懃であった。
 ――与力あっての大坂町奉行。
 これは隼人正一人の心得ではない。
 平八郎の上役の高井山城守実徳も同じで、奉行たちは所詮、江戸から派遣される鉢植えにすぎない。だが与力は御抱席という名目上一代限りの役職であっても代々大坂を治めてきた者たちで、大坂市政を執行するには彼らを敵に回すことはできない。
 ただ与力を使うにも色々なやり方がある。実徳は平八郎の義侠心は過激であるが使いようによっては有効であると見て大いに活用していた。
 後年、
「大塩は俺でなければ上手く手綱を引けねぇよ」
 と、周囲に語った。その成果が先年の豊田貢一派の逮捕であり、有罪無罪の是非はともかくとして実徳は大いにその名を挙げた。
 一方の隼人正は実徳と同じく弓削を重用したが、こちらは使うのではなく、彼らの神輿に乗り続けたと言うべきであった。すべて筆頭与力の彼に一任し、自身はただ、「良きように」と、一切の不可を言わなかった。その結果、弓削は西町奉行を壟断し、権勢を振るうばかりでなく、あらゆる悪事も成してきた。
 なぜ隼人正がこうまで無気力であったのか。それはそれなりの実績――例えば何事もなく任期を過ごせば江戸に戻ってから順調に出世できたからだ。
 わざわざ危ない橋を渡って大坂を良くしようとも騒動を起こせば御役御免の上、隠居謹慎となってしまう。と言って市政を疎かにすることは出来ないため、有能な与力に全てを任せてしまうことが最上であった。
 ――御役を全うする。
 これだけが隼人正の政治理念であり、それ以上もそれ以下もない。弓削は弓削で、この隼人正の無気力を奇貨として大いに利用した。
「わしがおらな、内藤様は屁みたいなもんや」
 弓削はすっかり増長し、新町の妓楼で広言したことを多くの者が耳にしている。だが弓削の権勢を恐れてたしなめる者はいなかった。
 だがこの弓削の権勢が実は脆弱なものであることに気付く男もいる。
 それは八百新であった。闇の中で己の身体一つで生き抜いてきただけに、権力の構造を直感的に理解していた。
 弓削はすっかり隼人正を木偶の棒とばかりに馬鹿にしている。だがその木偶の棒にこそ力の根源があることを弓削は理解していないように思えた。
 それほど脆弱な基盤であるからこそ、外部からの横槍を八百新は恐れに恐れた。だが依然と弓削は内部にのみ注意をし、八百新の危惧を嘲笑し続けてきたのであった。
 弓削が警戒したのは同じ権力源を持つ西町奉行所の者で、特に見習ながらも切れ者の内山彦次郎の動向を監視した。
 いかに切れ者であろうとも見習である以上は限界がある。そのために彼を毛嫌っている老父をいつまでも当主の座に引き止めておけば飼い殺しにできる。弓削は彦次郎の老父を事あるごとい尊重し、そして子への嫉妬を焚きつけた。彦次郎は動くに動けず、隼人正も思うまま、弓削の地位は安泰であった。だがその力の「根源」が突如、崩れ去る時がやって来たのである。
「弓削新左衛門。そなたを迎方与力に命ず」
 青天の霹靂とはまさにこのことで、人は予想しない出来事にはあらゆる思考を止めてしまうものらしい。
 弓削は足許が瓦解するような脱力感に襲われた。迎方与力とは次代の奉行を東海道で迎えにいく役目のことで、つまりは奉行交替を隼人正は伝えたのである。
「長きにわたってこの内藤を支えてくれた。礼を申す」
 弓削は満面に汗を浮かべ、目を泳がせた。
奉行交替のことは昨日今日の決定ではあるまい。わかっていたならもっと早く耳打ちしてくれれば良いではないか。
「昨年の暮れに江戸表から下知があった。短い間であったが江戸とは違うて大坂もまた良き街であったのう」
 弓削は隼人正の暢気さに呆れ、そして苛立ちを感じた。もし事前にわかっておれば色々と手が打てたが、次代の西町奉行は内定している今は何もできない。
 弓削は己の「誤算」に地団駄を踏んだが、隼人正にとっては誤算でも何でもなかった。彼は愚鈍に見えて自己の計算については弓削の想像に及ばないほど達者であった。
 隼人正は目をつむり、耳を塞いできた――いやそのように見せていただけで、その実は弓削が自分をないがしろにし、奉行の権勢を背に悪行を行ってきたかを全て把握していた。しかし弓削を罷免または遠ざけてしまえば必ず西町奉行所に波風が立つ。そうすれば隼人正は騒動の主となってしまう。
 ――わしが去った後の大坂など知るものか。
 大坂を離れてしまえば与力との繋がりも終わりだ。いや繋がりを持ちたくとも持てないのだ。自分の交替を知れば、必ず弓削は工作をするであろう。当然隼人正も動かされるであろうし、そうなれば無用の政争に巻き込まれかねない。
「御奉行。静かに大坂を発つ方法がござりますよ」
 そう入れ知恵をした男がいた。それは彦次郎であった。
 弓削はここでも誤算をしていた。隼人正は奉行でありながら任期中は何もしなかった――いや、弓削がそうさせなかった。そうなると隼人正のできることは遊びに興じるしかない。
 遊びには金がいり、その援助をしたのが著名な豪商たちであった。奉行をもてなすことで豪商たちは商売を邪魔されることはなく、変にやる気を出されるぐらいなら骨抜きにする方が良い。その間を取り持ったのが彦次郎であったのだ。
 ――彦次郎を政務に関わらせない。
 弓削は封じ手として彦次郎を与力にさせなかった。だがこれがかえって彦次郎の動きを自由にしたのである。
 つまり与力と言う奉行所内の仕事を制限することで力を抑え、監視していたつもりであったが、奉行所以外では野放しであったのだ。
 一見、彦次郎は遊び呆けているように見えた。だがそう見せかけて、実は彦次郎は豪商たちと結びつき、隼人正とも遊び仲間として言葉をかわしていた。
 なぜ彦次郎が豪商と結びつくことができたのか。それは彼が与力見習の立場から諸色の情報に精通していたからだ。現代で言えば優れた経済助言者(コンサルト)であった。情報をつかむだけでなく、いかに活用するか彦次郎は識っており、その分析能力は天賦のものとであった。それを豪商たちは珍重したのである。
 弓削は優れた与力であった。だが筆頭与力であったため、どこまでも武士的な思想しかない。一方、彦次郎は見習という外れた道を歩んできたため、弓削には想像出来ない箇所から触手を伸ばしていたのであった。
 その彦次郎が唆したのは、
「いずれ御奉行交替の沙汰がありましょうが、静かに大坂を去りたければどなたにもお漏らしなされますな」
 といったものであった。
「弓削殿。とにもかくにもご苦労でござったのう」
 隼人正はとりつくしまもなく慇懃に挨拶し、呆然とする弓削を置いて席を立った。

 彦次郎はどうにも念入りな男であった。西町奉行所内で弓削の力を空洞化させると同時に、匿名で東町奉行の実徳に密書を提出していたのである。
 彦次郎らしく金銭的な面で弓削の悪行を事細かに調べ上げ、ただ事実としてのみ密書には認められている。平八郎も秘密裏に調べていたが、彦次郎のそれに比べるとひどく簡易的なものであった。匿名ということでこの密書自体の効力は薄い。だが弓削摘発のきっかけとしては十分であった。
 ――小賢しいことだ。
 実徳は隼人正と違い、能吏として名を馳せてきた。そのため平八郎を重用し、密かに弓削摘発の機会をうかがっていた。
 人を見る目に長けた実徳は密書の主が誰であるのか容易に想像できる。匿名と言いつつ、彦次郎は逃げも隠れもしていない。だが直接手を下さないよう心掛けているのが実徳にはよくわかった。
 つまり人の手――東町奉行所を使って西町奉行所の権限を握ってやろうという魂胆だと実徳は見ていた。
 忌々しいと思わないでもない。もし実徳が血気盛んな年齢ならばこの密書を破り捨てたかもしれない。しかし実徳は知っている。敵の敵は味方ということを。
 今、西町奉行交替で権力の空白が生まれようとしている。この時を逃しては永遠に弓削を摘発することはできなくなる。事は一挙にある限りの手札を出し尽くさねばならないのだ。その手札としてこの密書ほど力を持つものはない。
「清濁併せ呑むって奴かい」
 苦虫を噛み潰したような顔をしながら実徳は一人ごちた。
 業腹ではあるが、ここはこの密書を使うしかあるまいと実徳は決意するしかなかった。

 ――機を待て。
 弓削摘発に逸る平八郎に自重を求めてから随分と経つ。
 実徳の狙っていた「機」とはすなわち隼人正の奉行任期切れであった。
 徳川幕府の職制ではどの役職も複数制である。
 江戸町奉行は南北、大坂町奉行は東西の二つにわかれており、その職務は交替制となっている。つまり大坂の東を東町奉行所が、西を西町奉行所が担当するのではない。東西というのはあくまで奉行所の位置だけであり、職務内容は全く同じで、期間ごとに交替するだけであった。
 つまり常時は並立しているわけだが、一時的にいずれかの町奉行が単独で支配することがあった。それが奉行職交替であった。
 隼人正は西町奉行を辞任し、次の者が赴任するまでは実徳が西町の権限を一手に握ることができた。その間、西町奉行所の与力と同心は東町奉行の支配下となり、裁きもまた実徳の一手に握られる。
「手筈は整っているかい」
 実徳は奉行の執務室である表座敷に平八郎を呼びつけるや、いきなりそう尋ねた。
 平八郎は驚きもせず、深くうなずいた。興奮しているせいか、ひどく顔が紅潮している。今か今かと願っていた時が訪れたことに平八郎の身体は武者震いを起こしていた。
「そいつは良かった。東町奉行所の者を皆使え。西町奉行所の押さえは瀬田(藤四郎)にやってもらいな」
 それと――と実徳が文箱から彦次郎の密書を取り出し、投げ渡した。
「名は明かしておらぬゆえ、切り札にはなるめえが……便利が良いと思うぜ」
 平八郎は恭しくその密書を広げ、目を通した。その内容は事細かく、ここまで弓削の不正な金銭の動きを調べ上げることは至難の業であろう。平八郎も探索能力に自信があったが、この密書の主の能力にはとても敵わない。
 弓削を捕らえる助けになる――。
 そう思う一方で不愉快であった。どう考えてもこれは西町奉行所内の者が密書の主であることは明白であり、それならば裏切りではないかと平八郎は思うのである。義を重んじる陽明学を信奉する平八郎にとって裏切りが何よりも許せない。
 その平八郎の気持ちを敏感に察した実徳は苦笑しながらかぶりを振った。
「後素さんが求める義の世を創るためさ。ここは一つ、清濁併呑で行こう」
 実徳の顔は奉行と言うよりまるで悪童のようであった。まだ心の底では納得出来ていなかったが、弓削という大いなる悪を前に、平八郎の不愉快さは瑣末なことであろう。それにあれこれと議論する時間はない。機を逃しては元も子もあるまい。
 平八郎はすうと息を吸い、密書を懐に入れると深々と平伏をした。
「大塩平八郎、出陣いたしまする」
「ふむ。任せたよ」
 そう言うと実徳は愛用の煙管を取り出し、ゆっくりと煙を吸った。煙が表座敷に漂い、呆然と天井を見上げる。その煙を掻き分けるように平八郎は立ち上がり、猛然と与力たちの控える御用部屋へと大股で歩いていった。
 実徳は煙を胸一杯に吸い込み、恐れに似た気持ちを必死になって静めようとした。
 九分九厘、この捕物は成功する。そして弓削一派を粛清することも、大坂における不正無尽に対して大きな灸を据えることもできよう。だが問題はその先、いや奥にあると実徳は見ている。
 ――どこまでその奥に手を入れることができるか……。
 平八郎は勇みつつ弓削を捕らえに征く。だが果たして実徳の見ている深い闇まで見えているかどうか。
 ――賽は振られた。行き着く所まで行くしかないぜ。
 実徳は三度、煙を吹かせ、見えなくなった平八郎の背を見送った。そして誰もいない表座敷で、
「大塩、征け――」
 と、励ますのであった。 

 ――我が生涯最も大きな戦になる。
 一世一代、全てを投げ打って悪の根を絶つ。何事においても真剣なだけに、これほどの事件になるとその意気込みは尋常ではなかった。
「藤四郎さん」
 平八郎は凛として表情で瀬田藤四郎を呼んだ。
「先駆けとして西町奉行所へ走ってくれぬか」
「承知」
「もし言葉を重ね、我らの指図を拒むようであれば、この――」
 高井山城守様のお墨付きを見せよ、と平八郎は藤四郎に手渡した。藤四郎は恭しく実徳のお墨付きを受け取ったが、かすかに苦笑した。
「これは使うまでもないが……この藤四郎はそこまで不器用やないよ、文さん」
 相変わらず幼名を口にする幼馴染に平八郎も苦笑し、藤四郎ならば穏便に進めてくれるだろうと絶対的な信頼を寄せていた。
「格之助」
 平八郎は格之助を呼び寄せると、東町奉行所の厩舎からもっとも脚の早い馬を選ぶよう命じた。
 たかが馬をと思うかもしれないが、これもまた平八郎の試験であった。
 見習の仕事として厩舎の管理もある。脚の速さ、持久力、気性など諸々、格之助は適切な馬を選らばなければならない。何でもないようなことだが与力は常に注意深く本質を掴む心がけをしなければならず、どの馬にするのかでさえ、与力の力量を測ることができるのだ。
 格之助は自分を認めてくれなかったことに対して自暴自棄になっていたが、だが平八郎と同じく何事も真面目にしなければ気が済まない性質であった。平八郎の期待通り、良い馬を選んで曳いてきたのである。さらに感心したのはいつ何時出陣出来るように馬の体調まで管理していたことであった。
「藤四郎さん、格之助を供にしてほしい」
「わかった。替わりに倅の済之助を文さんの手足にしてくれ」
 藤四郎は頭を下げるや、馬に飛び乗り西町奉行所へと駈けていった。格之助は手際よく自身もまた最適の馬を選んでおり、藤四郎の後に続いた。

 ――ひと波乱あるやもしれぬ。
 藤四郎が危惧したのも無理はない。
 東西奉行所の対立は表立ってこそないが、それでも対抗意識はある。臨時的に西町奉行所は実徳の支配下にあり、彼らはその命に従わねばならない。だが西町奉行所の連中からすれば業腹であり、自分たちの筆頭与力を捕縛せんとする東町奉行所の者に対して屈辱的に思う者もいる。斬り合いにはなるまいが、陰に籠もった抵抗をされることは覚悟しなければならない。
 だが意外にも藤四郎の心配は杞憂に終わった。西町奉行所は静寂であり、弓削捕縛のために活気さえ呈していた。
「瀬田殿、でございますね」
 そう藤四郎に声をかけたのは若い与力であった。歳は二十前後で格之助たちと同年代であった。名を稲本彦五郎と言い、若いながら礼儀をわきまえている。
「こたびの仕儀、甚だ不本意でござろうが――」
 そう言いかけると、稲本は表情を崩さず、「ご懸念なきよう。すべて御差配に従いましょう」と、よどみなく言い切った。藤四郎にすれば抵抗がないことはありがたい。だがあまりにもすんなり事が進むことは気味悪くもあった。
 ――機先を制せられた。
 後になって考えてみると、そう思えて仕方がなかった。剣術で言えばひと当てされて鋭気を削がれたようなものである。だがそう思わせないようこの若く明朗な与力を対応に出させたらしく、これを演出した者は相当な者だと考えなければならない。
 一体、誰が――。藤四郎は格之助を伴いながら西町奉行所の与力たちに指示を与えていく中で、その演出者が誰なのか察しがついた。
「内山彦次郎」
 藤四郎が気づいたのは、格之助が凍りついたように彦次郎の名を小さく叫んだことにあった。
 ――あれが内山彦次郎か。
 与力見習ながら頭の切れ、妙な人脈を有す変り種として藤四郎は耳にしている。その彦次郎を、初めて藤四郎は見た。見習であるため、表立っての采配を執ってはいない。だが西町奉行所の流れは彼を中心に回っており、隠然たる指導者であることは明らかであった。
 藤四郎は初めて見る能吏の顔を見ながら、なるほど合点がいくと思ったことがある。
 一つはこたびの事件は平八郎が精力的であると考えていたが、彦次郎もまた積極的に動いていたということ。
 一つは東町奉行所の面々は彦次郎の野望――すなわち弓削を蹴落とす手伝いをさせられているということであった。
 ――文さんが嫌うはずや。
 そう思うと藤四郎は何やら可笑しくなった。平八郎にしろ、彦次郎にしろ、有能であることに違いない。だがどちらも極端であり、中和こそ大事と思う藤四郎にすればどちらも変り種には違いなかった。
「格之助」
 藤四郎は所内を走り回る格之助を呼び止めた。
「ここはわしと配下の同心と手代数人いれば十分だ。取って返し、お父上に合力せよ」
「しかし何が起きるかわからず、手薄にされるのは……」
「何事もあらへん。西町の黒幕と我らの目当ては一致している以上、ここに人を割くは無用と言うものや」
 まだわかりかねていた格之助であったが、藤四郎は笑みを収めて、「早よ行けッ」と、怒鳴りつけた。驚いた格之助は飛び乗るようにして馬に乗り、平八郎の組に合流すべく駈けていった。
 さてその肝心の弓削の行方はどうなったのか。
 狡猾な弓削のこと、どこかに潜伏している――平八郎はそう睨んでいたが、逃げも隠れもせず八百新の妓楼で酒を飲んでいた。
「今生の別れちゅうことやな」
 西町を出発せんとする格之助に彦次郎は弓削の居所を伝えた。
「あなたは相当な悪人ですな」
 崇敬の念がかけらもないことを下馬しないことで格之助は示す。だが彦次郎の食えない所はそんな瑣末なことに微動だにしない強かさにあった。
「格之助君。弱い犬は義なり憤なりと吠たえるだけや。人が人として生きていくためには掌やろうが足の裏やろうがどこでも踊らなアカンで」
 そう言いながら哄笑し、彦次郎は手にしていた鞭を馬に当てた。
 馬を駈けさせながらなおも不愉快であったが、今は鬼でも蛇でも利用して本懐を遂げるべきであった。少しずつだが格之助も強かになりつつあった。
 ――内山の青二才が。
 格之助から報告を受けた平八郎は露骨に嫌な表情を浮かべた。
「治世の能臣、乱世の姦雄」
 漢籍に明るい平八郎らしい表現であるが、言い得て妙と言えた。
「癪ではあるが、むざむざ弓削を捕り逃すもまた業やな」
「そのようなことになれば東町奉行所の恥辱」
「うむ。大手はわしと庄司君、搦め手は小泉君に任せる。そなたは小泉君を助けよ」
 庄司とは庄司儀右衛門、小泉とは小泉淵次郎のことでいずれも洗心洞で学ぶ与力たちであった。
「……搦め手」
 何を思ったのか格之助がつぶやいているのを耳にし、平八郎は不服なのかと尋ねた。
「滅相もない。父が大手で息子が搦め手とはまるで大石内蔵助と主税でございますね」
「これは見世物ではないぞ。気を抜くな」
 平八郎は語調厳しく叱りつけたが、なるほど吉良邸に討ち入る大石親子もこのような気持ちであったのは間違いない。

 人殺し、冤罪、与力権限の乱用。
 悪の権化と人々に恐れられてきた弓削のこと、新町は修羅場に化すだろうと誰もが恐れおののいた。だがここでもそれは杞憂に終わった。もはやこれまでとばかり弓削は悠然と酒を飲み、平八郎たちの来着を待ち続けたのだ。
「末期の花咲かせたるッ」
 そう息巻いたのは八百新や天王寺安兵衛といった与太者たちであった。
 人は末期において本性を顕す。弓削は品性下劣であったが、生まれついての武士である。武士は死に際こそ泰然としなければならないと教育されてきた。そのため最期を覚悟した弓削はどこまでも泰然としており、その穏やかさに誰もが驚きを隠せないでいた。
「弓削様ッ」
 八百新は普段は平身低頭であったが、もはや弓削への崇敬の念がかけらもなかった。
 そんな八百新たちを憐れそうに見つめながら弓削は末期の酒を口にする。
「逃げたいか?」
 そう声をかけたのは右腕に抱いている妓であった。彼女でなくともこのまま弓削に抱かれたままでは巻き添えになるのは災難でしかない。一刻も早く逃げ、係わりを切りたかった。焦りと恐怖で妓は小刻みに身体を震わせていたため、弓削は優しく声をかけてやった。
「去ね」
 短く叫ぶと妓を突き飛ばし、お前のような不器用はお払い箱やと悪態をついた。だがその表情はどこまでも優しく妓ははっとした。
「手切金や。持ってけ」
 そう言うと懐にあった金子を投げつけ哄笑しながら酒を瓶ごと口にした。
 この金子はどさくさに紛れて西町奉行所の金倉から拝借したもので、初めからこの妓に呉れてやろうと弓削は考えていた。妓は拾い集めるようにして金子を懐に入れ、這う這うの体で妓楼を飛び出していった。
「八百新、飲め」
 弓削は杯を手渡そうとしたが、八百新は激しくかぶりを振った。
「もはやこれまで。これは末期の水や。お前にやろうと思ってとびきりの酒を買うてやった。こんなエエ酒は冥途で飲めんぞ。それとも最期まで役人どもに抗いたいか。それやったらこれをやろう。弓削家の宝刀や。よう斬れるぞ。斬って斬りまくれ」
 そう言うと弓削は転げるようにして笑い、八百新は獣のような声で泣き叫んだ。
 そのようなやりとりをしているうちに楼前が騒がしくなり、弓削は、「来たか」と小さく叫んだ。
「西町奉行所配下筆頭与力・弓削新左衛門。不正無尽、人殺し、不当なる取調べなど諸々の科をもって捕縛いたす」
 平八郎は実に威風堂々と口上を述べ、弓削に迫った。八百新はすでに戦意がなく、ただ呆然と弓削を見つめる。
「……お前が大塩平八郎か」
「いかにも」
 なるほど、と弓削はなめ回すようにして平八郎の面体を確かめた。
「童臭残った奴やと想像していたが……やはりな。それにしてもクク……」
 何が可笑しい、と平八郎は詰め寄る。
「餓鬼が大人の真似してると大怪我をする。わしがそのエエ見本や。その昔、面相見がわしの顔を見て抜かしたことがある。畳の上で死ねん相をしとる、とな」
 畳の上で死ねない――この言葉に平八郎はどきりした。以前、とある男に同じようなことを言われたからだ。
 その男とは江戸の旗本で近藤重蔵と云った。近藤は旗本であるが、とにかく血気盛んな男で蝦夷探索を買って出た奇人であった。探検でこそ類稀な力を発揮出来たが、常時において彼ほど諸人と交わることが苦手な男はいない。そのため同僚や上役に嫌われ、島流しのように大坂へ赴任させられてきた。その近藤が平八郎を見るなり、「わしと同じく畳の上で死ねん男よ」と言って、驚かせた。
 弓削は先ほどまでの温和な笑みを打ち消し、不敵な表情を浮かべた。
「わしは西町奉行所筆頭与力、弓削新左衛門や。面相見の思うままにはさせへん。わしは武士や。白州にも座さぬし、罪人として奉行所へも行かん。意地でも畳の上で死んだる」
 一瞬のことであった。弓削は脇差を鞘ごと引き抜き、電光石火抜刀して腹に突き刺した。
 ――しまったッ。
 平八郎は止めに入ったが、すでに弓削の腹からは腸が飛び出し手遅れであった。
「死なせるなッ」
 それでもなお平八郎は生け捕りを命じたが、弓削の気迫がそれを許さない。
「わしは悪の限りを尽くした。お前は義の限りを尽くすつもりやろ。限りを尽くす者が畳の上で死ねる思うたら大間違いやッ。エラいこっちゃ、エラいこっちゃなァッ」
 力の限り哄笑し、最後は脇差の切先を咽喉に当てて果ててしまった。
「弓削ッ」
 平八郎はなおも叫んだが、もう弓削に声は届かない。寄せる捕り手たちは唖然とし、そして取り残された八百新たち与太者たちは呆然と悪夢のような現実を見つめるだけであった。
 ――限りを尽くした者の末路。
 断末魔のような弓削の言葉をいつまでも平八郎は心の中で繰り返した。
 弓削が死に、全てが終わる。平八郎はそう信じてやってきた。だが弓削はまだ奥に得体のしれない深淵があると示唆した。
 一体何が弓削の奥にあると言うのか。眼前に広がる血の海を目にしながら平八郎は足元が無くなるような心許なさを感じていた。

 弓削は自害した。
 だが彼の一派は八百新を初め一網打尽にすることには成功した。この一件は大塩平八郎の名を大坂のみならず、江戸表にまで鳴り響かせることになる。これにて大坂の街は良くなるであろう――弓削に恐れおののいていた庶民たちはこの快挙を褒め称えた。
「いやはやお見事」
 そう暢気に声をかけてきたのは彦次郎であったが、その明るさがどうにも格之助には気に入らなず、無視してしまった。
「格之助君」
 彦次郎がなおも声をかけてきたため、格之助は嫌々ながら挨拶をするしかない。
「ついにやったな」
 お陰様で、とは格之助は答えなかった。お陰様どころか、一歩間違えれば大塩家は事を成すことなく滅亡していたかもしれなかった。薄氷を踏むように弓削一派をし止めたが、漁夫の利を得たのは他でもない彦次郎ではないか。それを言外で責めると、彦次郎は腹を抱えながらその料簡違いよと嘲笑した。
「まあ大塩の家やから……しゃあないな」
 意味不明な嘲笑ほど腹立たしいことはなく、思わず刀の柄に手をかけそうになった。
「待て待て。いや何。聞けば大塩家は阿波の血筋を受けているのやろう。……何や。自分の養家のこともよう知らんで子になったのか」
「何の話だ?」
「大塩家は尾張に宗家を持ち、そしてその一流が大坂与力となった――そうやったな」
 何と油断のならない男か。大塩家の系譜は秘密裏ではないが、いつの間に調べたのであろうか。さらに彦次郎は語る。
「曽祖父の代の御当主は阿波蜂須賀家の家中からの養子やとか」
 つまり生粋の大坂与力でないことを彦次郎は馬鹿にしているのか――格之助の目に殺気が宿る。だがほぼ血縁のない家であっても養子になることは、多々あった。
 例えば東町奉行所の与力や同心たちの多くは近郊の豪農からの養子であり、反対に次男坊や三男坊が農家に婿入りすることもある。平八郎の妻・ゆうも豪農である橋本忠兵衛の養妹であり、先祖代々血を絶やさずに続いている家は珍しい。米沢上杉家や岡山池田家、そして少し後になるが福岡黒田家といった大大名でさえも他家から養子を迎えてすでに純血ではなくなっているからだ。だが彦次郎が言いたかったのはそんなことではない。
「血ィなんてもんはさほどの意味はない。代々大坂で住んできたかどうかやな」
 つまり途中で阿波から渡ってきた大塩家に大坂に流れる心意気などわからないと彦次郎は言うのであった。
「言いたいことはな。義やの、漁夫の利がどうだの――そういった枝葉のことを大坂では気にせんもんや。それが阿波の血を引いたアンタらにはわからん言うとる」
「ならば聞く。大坂云々以前にあなたは何だ」
「何だ、とは?」
「武士やないのか。武士たる者は義と節こそ大事ではないか」
「大義を見失って小義に生きるのが武士ちゅうわけか。まあともかくや。あんたら親子にとやかく言われる筋合いはない。利用されたと思うてるかもしれんが、それはお互い様や。そっちも手柄を立てられたんは、わしの小賢しさあってのことやないのか」
 ここまで一気に言い切ると、彦次郎はにわかに口をつぐみ、声を潜めた。
「ここで喧嘩してもつまらん。大塩殿には大塩殿の、内山には内山の生き方があり、義がある。それにや――」
 事は終わっていない。むしろこれからだ、と彦次郎は声を凄ませた。
「これから?」
 この問いに彦次郎は答えなかった。格之助を後に再び慌しく西町奉行所内を走り回った。
 一体何が起こるのか。この言葉を語ったのが彦次郎なだけに身体を強張らせるのであった。

   二

 どうにも天というのは若人に意地悪であるらしい。
 紆余曲折――いや、まだ確たる道を歩んでいるわけではなかったが、ようやく格之助は大きな一歩を踏み出すことができた。
「あいつはどうするつもりなんやろう」
 人は現金なもので、余裕が生まれると他者を思いやれる。思々斎塾を追われた三平のことが気がかりでならなかった。塾に戻れず、行く宛もなく、そして郷里にも戻れない。三平の人生は五里霧中、楽観する材料が何一つなかった。
 ――何とかしてやりたい。
 無謀にも天王寺安兵衛を急襲しようとし、救ってくれたのは三平である。また冷静に弓削一派と対峙できたのも、父とのわだかまりを小さくしてくれたのも三平であった。
 格之助は奉行所での仕事をしながらどうするべきか思案し続けた。
 その本人は日々為すことなく、ただ呆然と道頓堀を行き交う舟を虚しく眺めていた。
 かつては大坂の騒がしさがわずらしかったが、行く宛もなくなった三平は人の賑やかさを聞いていなければどうにかなってしまいそうであった。
 日長、呆然と道頓堀の浜道に腰掛け、そして陽が沈めばなけなしの金で安宿へと泊まる。その金は郷里を出る際に兄からもらった餞別であるが、それもいつまでももたない。どこにも行けず、宛もなく、友もない。ただ無意味に時間ばかりが流れる。
 やる事がない三平にできることは思々斎塾で書き写した江戸ハルマの翻訳のみで、それを何度も読んでは暗誦した。
「……もう水無月か……」
 誰かと会話をしたくとも相手がいないため、声を出せば自然とそれは独り言になる。それならば声など出さなければ良いのだが、黙っていると自分が人でなくなるような恐怖が三平を襲ってくる。人は人と接してこその人だとこの時ほど三平は思い知らされたことはない。帰るとも戻るとも言えないことに虚しさを感じながら三平は力無く立ち上がった。
「緒方」
 ふと自分を呼ぶ声が聞こえた。だが今の自分に誰が声をかけると言うのか。これは幻聴だ、緒方三平もとうとう狂うたなァ、と自嘲しつつ足を進めようとした。だが、
「緒方」
 と、再び声がする。
「緒方。大事ないか」
 その声の主は天游の従弟で彫物師である伊三郎であった。
「伊三郎さん?」
 伊三郎は目許だけを笑ませて、浜道に腰を下ろした。そして宗右衛門町の鰻屋で買ってきた蒲焼を差し出した。
「食え」
 無造作に伊三郎は差し出したが、三平は素直になれない。そっぽを向いて受け取るのを固辞した。
「蒲焼は苦手か」
「伊三郎さん。私は乞食やないです。塾を追い出された以上、伊三郎さんとは無縁。無縁の方からの施しはいりません」
 ほほ、と伊三郎は肩をすくめて苦笑した。
 ――あいつは柔和な面に似合わず、頑固者やで。
 天游は三平をそう評したが、果たして相当なへそ曲がりであった。いや、追い出されてしまったことで拗ねているだけで、伊三郎は微笑しながらかぶりを振った。
「拗ねたなる気持ちはわからんでもないが……」
「拗ねてなどいません」
「まァ聞けや。蒲焼の一つや二つ貰うたくらいで緒方はありがたや、と拝むんか。それやったら乞食やが……しょうもない意地張ってんとさっさと食ってしまえ」
 よくわからない論理であったが、旨そうな匂いを嗅ぐと三平の腹の虫が騒ぎ出した。三平は顔を赤らめながら蒲焼を受け取り、久しぶりのまともな食事を摂ることができた。
「なァ、緒方。大坂はホンマ橋が多いな」
 伊三郎は手が不自由である。彫り物では大坂随一の腕前であるが、普段の動作ではどうしてももたつく。蒲焼を包んだ紐が固く解けない。見かねた三平は代わって解くと、伊三郎は屈託のない笑みを浮かべた。
「あの橋やが……だいぶ古なったようやな」
 なるほど伊三郎の言うように二人の眼前にある橋は古びており、架け替えの普請がされるようであった。
「杭倒れにならなエエんやけどな」
 大坂の陣後。慶長と元和初年のわずか四年足らずを除いて大坂は将軍家直轄となっている。その間、市政を担ってきたのは城代や奉行、そして与力同心たちである。だがその実は大坂商人たちが担ってきた。
 大坂は俗に八百八橋と称されるほど橋が多い。だがそのうち幕府が管理する公儀橋はわずか十二基でしかなく、その他は私設橋、すなわち町人たちが運営してきた。
「昔、住んでた長屋の爺ちゃんから聞いた話やがな――」
 今はそのようなことをする者はいないが、当初は橋を渡る時は荷物を馬から下ろさなければ通ってはいけなかったらしい。それほど自分たちの架けた橋を大切に思い、その思いが運河流通都市として大坂を栄えさせてきた。
 そして杭倒れ。この言葉もまた大坂人が自分たちのことは自分でするという精神を表したものであった。
「大坂ちゅう所はな。御城代や御奉行様ちゅうどエラい者は無理やが、大抵の者には力と運さえあればなれる。天游先生もわしも言うたら流れ者や。さほど緒方と変わりがあらへん。……いやもっとひどいかな?」
 伊三郎はそう言うと哄笑した。
「ともかくや。大坂で財を成した者には無言の掟がある」
 そうや、と伊三郎はうなずく。それは財を得た者は店前にある橋を架け直すか、または杭を補修せねばならないのだ。
「そやけど橋を修繕するは難儀なこっちゃ。中途半端な稼ぎをすると杭を直すんで店が倒れてしまう。つまり杭倒れや」
 まるで噺の落ちのように伊三郎は愉快そうに笑うが、三平はこの「杭倒れ」という言葉に大坂の真骨頂を見た気がした。
 塾を追い出されてから三平は大坂に落胆していた。
 誰も助けてはくれず、これほど冷たい街なのかと失望していた。そして行き交う人々の慌しさを見て自分はただ一人取り残されたような気持ちに襲われていた。
 だが何気なくその上に立っていたが、大坂の至る橋や川、土地、そして人の流れは大坂人の自分のことは自分でするという気風の中で成り立ってきたのである。それも己一人の栄誉を求めていては決して成り立たない奇蹟がこの街を作り上げている。
「伊三郎さん。世のため、人のため、己のため……ですか」
 どこでそんな言葉覚えた、と伊三郎は不思議そうに三平の顔を覗き込んだ。だが三平はたじろぎもせず、
「橋の上です」
 と、答えた。
「……ようわからんが、橋で思い出した」
 伊三郎は立ち上がると思い出したように三平を訪ねた理由を思い出したらしい。
「言伝でもないんやが、明日の明け六つ(午前六時ごろ)に心斎橋に来てみィ。来るも来ンも君の勝手や」
 そう言うと伊三郎は立ち去ろうとしたが、一体何をしに来たのかやはり三平にはわからない。
「私を連れ戻しに来られたんやないんですか」
 怪態なことをと言わんばかりに伊三郎は驚いた表情を浮かべた。
「わしはな。旨い物を一人で食うのが嫌いなんや。それにな。義姉(さだ)さんから無駄な物は食べるなと叱られる。夕餉が食べられんようになるからな」
 腹を空かせた孤独な若者に蒲焼を奢ったろうと考えただけや、とよく意味のわからない理由を伊三郎は述べた。だが笑顔であったがその目は笑っておらず、まだ三平は許されていないことを暗示していた。

   三

 行くか行くまいか。
 翌朝、明け六つ。三平はあれこれと迷った。
 ――やることないやろ。
 そうだと言えばあまりにもみじめであったが、行く宛もない今、この状況を打破してみたい思いはある。結局のところ、藁をもすがる気持ちで「何か」を期待して心斎橋へと足を運んだ。
 思えば心斎橋には思い出があった。正確に言えば心斎橋近くにあった絲漢堂で、心が頼りない今ではひどく懐かしい。
 ――それにしても。
 絲漢堂の主・橋本宗吉先生は不思議な人であった。
 親切でもなければ特別優しくもない。いや、優しいどころか土足で人の心に上がってくるような人で幾度も辟易とさせられたことか。だがなぜか疎ましくはなく、可笑しみと温かみを宗吉から感じる。もし藤田顕蔵の事件がなければ、あのまま絲漢堂に入門していたかもしれない。だがあの事件があったから絲漢堂は解散となり、天游と出会い、さだと再会した。その結果、意味もわからず塾を追い出され、あてもなく大坂をさまよっている。
 人生塞翁が馬とはよく言ったもので、この先どうなっていくのか不安しか三平の心にはない。そんなことを考えているとあの野放図な宗吉の顔が脳裏に浮かび、無性に会いたくなった。
 ――先生はもう大坂にはおられんやろうなァ。
 先日来より豊田貢一派の取調べは過酷を極め、顕蔵も酷い拷問を受けていると云う。
 三平は思々斎塾に在籍していた頃は意識的に考えないようにしていたが、こうして身一つになった今はしきりに顕蔵のことを考えてしまう。
 この時代は何事も連座制であり、師匠の宗吉がいつまでも在坂出来るとは考えにくい。それにあれほどの学識があれば幕府直轄でない城下町に行けばいくらでも食っていくことはできる。
 そんなことを考えていると、いつの間にか心斎橋を通り過ぎてしまい、かつて絲漢堂があった場所まで進んでしまっていた。そんな三平の眼前に置物のようなのそっとした人物がゆっくりと近付いてくる。
 ――熊か?
 いや、ここは大坂の市中である。熊などいるはずがない。だが人にしては異様な雰囲気を醸しだしており、三平は警戒の色を示した。
 見れば何と宗吉が呆然と立ちすくんでいた。無造作に生やした髭のためにすぐに宗吉だとわからなかった。三平に気づいたのか、首を伸ばしながら唸り声のように何かをつぶやいた。
「先生、ご無沙汰いたしております」
「……どこぞでお会いしたかのう……」
 宗吉は瞬く間に蘭語四万語を暗記する能力を持ちながら、人の顔を覚えることが苦手であった。
「たしか……束脩払えんかった子やないか」
 そう宗吉が叫んだ時には三平はがっくりきてしまった。三平は世間知らずにも束脩無しで絲漢堂に入ろうとした経緯があり、それが宗吉の心には強烈に焼き付いていたようであったのだ。
「束脩払う気になったか」
 三平は気まずい表情をしながら赤面すると、宗吉は相変わらず文無しであることを理解し、眉をしかめた。
「相変わらず手ぶらか」
 そう言うと何が可笑しかったのか宗吉は愉快そうに笑った。これでまた文無しとして強く記憶されるであろうと思うと三平はやや辟易せざるを得なかった。
「まァ、もう束脩はいらんけどな」
 宗吉はのそっと立ち上がると、かつて絲漢堂であった家の壁を撫でるようにして触れた。
「大坂は大好きやったんが……」
 この時の宗吉の顔はただの老人となっており、三平は愕然とした。かつては本の山に埋もれ、あたかも仙人然としていた宗吉であったが、何と変わり果てたことか。
「安芸にな。安芸に宿替(引越し)や」
 面倒やけどしゃあない――宗吉は力無く笑う。
 この時になってようやく三平は自分が呼ばれた理由がわかった。伊三郎は宗吉が引越しするのを手伝わせようと声をかけたのであろう。
 ――何でそないなことを。
 もし宗吉でなければ三平はそう言ったであろう。三平は心優しい親切な男だが、今は浪々の身である。身寄りがない時、人の心はささくれてしまうのが常だ。だが衰えたとは言え、宗吉にはかすかに愛嬌な面があり、三平は頼まれずとも手伝おうと身を乗り出すのであった。
「伊三郎さんはまだですか」
「何で伊三郎君のことを知っとる?」
 人間関係に疎い宗吉は驚いたが、「まァ、どうでもエエこっちゃ」とにこやかに笑い、気に留めなかった。ところで、と宗吉は真剣な面持ちで三平の顔を覗き込んだ。
「君の名は何やったかな?」
 これには三平は驚いたが、そう言えば自分の名を宗吉が呼んでくれたことはなかったように思える。今更ながら三平は自己紹介をせざるを得なかったが、何と間抜けた話であろう。
「緒方三平と申します」
「おがたさんぺい?」
「かつては田上騂之助と申しました」
「たうえ、せいのすけ……そんな名やったんか」
 宗吉はしきりに首をかしげたが、やがて三平の名について考えるのが面倒になったのか興味を示さなくなった。
「名は覚えとらんが……歌詠みになるちゅうて来たんやないかのう」
「はい。そうです」
「まだ歌詠みになりたいンか」
「よくわかりません。今は食うために医を学んでおりました」
「……食うため、なァ」
 宗吉は急に厳しい顔つきになり、腕を組んだ。
「わしはこう見えても医者や」
 宗吉はよほど自分が医者に見えないと思っているらしく、念を押すように説明した。宗吉が崇敬するのは彼が医者番付で上位に選ばれるほどの名医であるからで、三平にすれば言わずもがなであった。
「医は難儀や」
「承知しております」
「エラい簡単に言うなァ」
「先生、どういうことでしょう?」
 三平は少し依怙地になっている。未だ思々斎塾を追われた理由がわからない。理由がわからないことほど人の心を苛立たせることはない。いかに宗吉の言葉とは言え、三平は素直に受け止めることができなかったが、宗吉はお構いなく話し続ける。
「医はな……人の歩む道やない」
 あまりにも衝撃的な言葉であった。
 医は仁術なり――。三平は幾度も思々斎塾のみならず、あらゆる所でそう教えられてきた。そして自身もそう考えてきた。だが話を聞いているうちに宗吉一流の表現であることに三平は気付いた。
 医は人の道やない。
 これは医術というものは自然に逆らった、本来人が持ち得る力ではないと宗吉は言いたいらしい。
 いかなる生物も病にかかれば自然のまま運よく治癒するか、または運悪く死んでしまう。人だけが医術という非自然的な技術をもって生き、そして飽くことなく進歩させようと人生を懸けてしまっている。
「医者は皆、生を司っていると勘違いしている。そやけど人が死ぬことをどんな名医も食い止めることはできん。かと思いきや、さじを投げてしもうた病人がけろりと治ることもある。わしは医者など無駄なんやないかと頭を抱えたもんや」
「先生はなぜ、医者をやっておられるのです。なぜ、医をお伝えになるのです」
「三平君。あれ見てみィ」
 宗吉は空を舞う鳥を指差した。
「何で鳥は飛んでいるんや。何で草花は踏まれようと、誰も見なくとも花咲かせるンや」
 そんなことはわからない、そんな顔を三平がすると宗吉は力強くうなずいた。随分と生きて、そして多くの蘭書を貪るようにして読み、そして多くの患者を看た。
「だが多くの患者を看れば看るほどわからんようになる。多くの本を読んでわかったンは人が無力であることだけや」
 宗吉はそう語る。
「わしは口下手や。そやから上手くは言えんが……三平君は人と物の理ちゅうもんを知らなアカンのやろな」
 わかったような、わからないような――。三平はただ首をかしげるしかない。宗吉はにこやかに微笑みながら荷詰めの手伝いを願った。
 伊三郎は明け六つと言ったのだが、実は明け五つ(午前八時)であった。
「家内(さだ)には内緒やで」
 と、釘を刺しながら天游が伊三郎にわざと違う刻限を教えさせたのである。
「曇斎(宗吉)先生は言葉でなく、その存在で物事を教えてくださる希少な方や。今の緒方に必要なのは理屈やなく、感じ取ることや」
 そうとも天游は話していた。
 果たして三平は宗吉から何かを感じ取ったのであろうか。心配であったが、過度の手助けは本人のためにならないことを実感として伊三郎は識っていた。
 
 若者はあふれる力を過信し、しばしばあらぬ方角に成長してしまうことがある。だがまっすぐ伸びる麻の中にあって蓬が曲がることなく成長するように、周囲の大人たちは若者を修正してやる義務がある。だがそれは口でなく、背中で語らねば真に伝えられない。
 文政十二年(一八二九)六月。
 大坂が育んだ天才・橋本宗吉は安芸へと去っていった。宗吉は追われたが、彼は影響という目に見えない確かな財産を残していった。まだわからないでいる三平の胸にわずかながら宗吉が伝えたかった何かが芽生えようとしていた。
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