学問のはじめ

片山洋一

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第三話「郷関出ずれば」

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   郷関出ずれば

   一

 時が少しさかのぼる。
 「総二階造」という珍しい構造をした大坂城乾櫓。その乾櫓より西に位置する東町奉行所の中に御用部屋があり、与力たちがそこに詰めている。
 文政八年(一八二七)六月六日早暁。
 小雨は前夜より続いており、庭にはいくつも大きな水溜りができていた。だが構わず同心や手代たちが水溜りの上を慌しく右に左にと走り回っている。
 彼らの服装は平時のものではなかった。羽織の下に鎖帷子、頭は鉢金を着して武装しており、配下である同心の手には捕物三具――刺股、突棒、袖搦といった長物が握りしめられていた。与力たちは大坂の地図を見入り、あるいは十手を素振りしながら来るべき時に備えている。
 御用部屋の上座には一人の男が鎮座していた。色白で細面、眉は細くやや吊り上っている。身の丈は五尺五寸と人並みだが、全身から漂う凛気は人を圧している。羽織には丸に揚羽蝶の紋、その下にはかるた板を縫いつけた畳具足を着込み、頭には三段鉢金を被っている。脇差は実に特徴的だった。金高彫の龍の出目貫、白鮫の柄、頭は身形で鍬形の銀覆輪、鍔は金覆輪の木瓜形の突兵拵で、男が特に意匠を凝らして作らせたものである。姿形、そして全身を覆う凛気。この場にいる者は皆、畏敬の念を払っていた。
 そうした中でただ一人、圧されることなく親しげに語りかける人物もいた。四十半ばで陣笠を手にしており、静かな笑みをたたえている。
「文さんよ。少し気を張りすぎだ。今からそんなんやと身体が持たんぞ」
「藤四郎さん、いい加減その名はやめもらえんか。……これだから幼馴染は始末に悪い」
 文さんとは男の幼名「文之助」のことで、藤四郎は親しみとからかいを込めてこの名を呼ぶ。
「相変わらず堅苦しいな。そやけどこないな時に心静かなことは心強い。大塩平八郎天晴なり」
 文さんと呼ばれるこの男こそ、大塩平八郎、号を後素。東町奉行において腕利きの与力であった。
その友人の瀬田藤四郎は平八郎の隣家に住む同じ奉行配下の与力である。文武両道に秀で、その人柄は飄々としていた。平八郎とは違った面で人々の崇敬を受けている人物であった。しかし、と藤四郎は乱闘で刀身が抜けないように目貫を点検しながらつぶやいた。
「随分と時をかけたな」
「あかんぞ」
「何がや」
「最後の最後まで刀は抜いたらあかん。必ず生け捕るんや」
「懸念無用。それにだ。この剣は我が為には使わん。倅の師を傷つけては、親として申し開きができんからな」
 そう言うと藤四郎は声を立てずに笑い、平八郎も目許だけを笑ませて静かにうなずく。
 藤四郎の倅は瀬田済之助と言い、平八郎主催の塾・洗心洞の門人である。平八郎は済之助を甥のように慈しんだ。また済之助も師への尊敬の念は人後に落ちず、格之助とは肝胆照らす仲であった。
「よもや寛永の如き戦にはなるまいが……彼奴らは国禁を犯す輩。努々油断せず、一網打尽、十把一絡げに召し捕らえる」
 平八郎の声に思わず力が入る。
 寛永の戦とは寛永十四年(一六三七)に起きた島原の乱であり、あれからすでに二百年近く経とうとしている。島原の乱以降、切支丹規制は強化されてきた。無論、大塩たち与力にとって切支丹は断じて許さざる科人どもであり、命を賭してこれを滅しなければならない。それにしても、と平八郎はなおも憤る。
「信仰と称して阿漕なことをする」
 平八郎の脳裏には走馬灯のように捜査の記憶が蘇る。
 目指す切支丹たちは豊田貢という女陰陽師を主犯とする詐欺集団であった。信仰をもって弱った人々を騙し、金品を巻き上げる悪質な新興宗教であったのだ。当初は京のみで活動していたが、先代の教祖である水野軍記が亡くなると活動範囲は広がり、ついに大坂にまで触手を伸ばしてきたのである。これ以上捨て置けば被害者はもちろん、邪教がとめどなく伝播し、国家転覆の危機も考えられた。
「文さん。まだ終わってはいない。考えるのは後におし」
 平八郎は何事も深く物事を考え、実行力が人並みはずれている。だが熟慮しすぎるがために、時折行動を止めてしまうことがあった。
「藤四郎さん。もういけるのか」
「ああ。あとは文さんの合図あるのみや」
 平八郎はこくりとうなずき、肩で風を切るようにして奉行所の庭へと出る。
「方々。下手人どもは耶蘇の教えを奉ずる謀反人なり。かの者どもは武芸の心得を持たぬといえども、努々油断するべからず。日頃鍛えし技を存分に示すが良い。だが奉行所配下の者として彼奴らを殺すべからず。必ず生け捕りとし、天下の法に照らして裁くのだ」
 平八郎がぎょろりと見回すと、皆胸を叩いて改めて己を鼓舞した。
「藤四郎さん。御奉行に出陣の許しを得て参る」
 藤四郎はうなずき、平八郎は奉行が座する表座敷へと向かった。
 その間に藤四郎は捕り手たちを組分けしなければならない。今回の捕り物で大事なるは一網打尽。相手が邪教徒である以上、取り逃がしてしまうと布教活動を再開してしまう恐れがある。そのためにも三つある拠点を一気に抑えてしまわねばならない。
いずれもこちらの動きが悟られていないことは、三箇所に派遣している隠密より逐次報告が上がっている。
 藤四郎は事務的な手腕に優れていた。
 まず首謀者である豊田貢宅。ここは大塩平八郎を頭目とし、補佐には吉見九郎右衛門。そして腕利きの与力を主力とした精鋭を配置した。
 次に腹心である藤井右門宅。こちらは瀬田藤四郎を頭目として、こちらは熟練の同心を配した。
 最後の拠点は勧誘を盛んに行っているという医者宅。こちらへは洗心洞の門弟である与力・庄司儀左衛門を頭目として、主に若き与力と同心を配置した。この中に見習である済之助と格之助も配置されている。

「済之助」
 配置を終えた藤四郎は済之助を呼び出した。見習となって済之助は数ヶ月経つ。その間小規模な事件に関わってきたが、ここまでの規模は初めてのことであった。
「そなたと格之助君だが庄司さんの組に入ってもらう」
 済之助は意気込んでいるため、声に張りがある。ところで、と藤四郎はやや声を潜めた。
「格之助君はどうか」
「格之助殿も命を惜しまず、名を惜しもうと張り切っております」
 それは自分も同じだという表情を済之助はした。だが案に反して藤四郎は懸念の色を浮かべたのである。
「格之助君の気持ちはわからぬでもないが、文さんも依怙地やからなァ」
 済之助には意味がわからず眉をひそめた。格之助は意気軒昂、相手がどのような者でも怯まず突き進むことができよう。だがその意気にあるのは極めて危険な焦りがあることを藤四郎は知っていた。
 ――誰もが格之助君こそ大塩家の跡継ぎだと認めているのに、文さんだけが……。
 そう思うと格之助が気の毒でならない。格之助は先ごろ与力見習に任じられた。与力は「御抱席」と言って建前としては一代限りの役職である。だが実質は世襲であり、見習は与力を司る家の跡継ぎでなければ任命されない。格之助は大塩家の後継者として見習になったのだが、まだ「大塩格之助」ではなく、「西田」姓のままであった。では平八郎は格之助を毛嫌っていたのかと言えば、それはない。むしろ平八郎は彼を誰よりも愛し、格之助も父としてこれ以上ないほど尊敬しきっている。これほどの仲にも関わらず、何故、大塩姓を与えようとしないのか。
 ――文さんは大塩の血脈へのこだわりが強すぎる。
 大塩家の先祖は戦国時代、駿河今川氏に仕えた名門であった。今川家滅亡後、大塩家は家康に仕え、小田原の戦いで戦功を挙げて梓弓を拝領した。その後、宗家は尾張徳川家に、分家は大坂の町奉行配下の与力として今に続く。平八郎は大坂大塩家の八代目となる。
 ――私は人生において三変した。
 ある時、そのようなことを平八郎から聞いたことがある。三変、すなわち三度大きく変化したと言うのだが、その一つは十五歳の頃であったと云う。
 十五歳の時に大塩家の家譜を目にし、先の家伝を知って感激したとのことだった。気性荒く、勉強嫌いな平八郎が変わったのは十五の頃であったことを藤四郎は記憶する。
「済之助、ああ見えてもな。文さんは随分と洒落ていた人やった」
 洗心洞や奉行所における平八郎は武士の規範が服を着ているようで、とても藤四郎の語る過去は想像できなかった。十五で目覚めた平八郎はひたすら文武両道を磨き、鍛錬に鍛錬を重ねた。やがて御抱席という状況に満足いかなくなったようであった。
 平八郎は遠足(旅)こそ文武を鍛錬するための修業だと考え、よく遠出をした。陽明学は歴史の中から真実を掴み取ることを教えているため、遠足をして史跡を探訪するのである。尾張へ赴いたのも大塩宗家の人と会い、身の出自を確かめたい想いからであった。もう一つの理由は宗家より大坂大塩家の後継者に迎えたいと考えたからだ。
「後素さん。やめとき」
 平八郎の号は後素と云うが、その名で呼ぶのは親友の一人である坂本絃之助であった。 自然に人に圧するためか、平八郎に面向かって諌める者は少ない。藤四郎でさえ、年長で幼馴染であってもどこか萎縮してしまうことがある。だが絃之助は至って開放的であり、平八郎が一目置く数少ない人であった。そのためか、彼の言うことであれば平八郎は耳を貸した。その絃之助が尾張に養子を迎えに行くことを止めたのである。
「格之助の何が不満なんです」
 この問いに対して平八郎は否と答えた。
 格之助は何事に対しても真摯であり、自分の跡を汚すことなく継いでくれるのは、この少年以外にはいないであろう。それほど認めていながら、一体何が平八郎を躊躇させていたと言うのだろうか。それは陽明学を学ぶ者として刑吏の仕事への疑問が心底にあったことと、捨てることのできない大塩の血脈へのこだわりがあったからだ。
 儒教において士は刑吏のような穢れある仕事はしてはならないとされている。また武士は子々孫々まで己の地位を伝えることが出来ること、すなわち世襲こそ名誉とされた。そのため名目のみとは言え、一代限りの御抱席の身分をどこか恥辱と考えていたようであった。だが今の御時世で世襲を許されるような機会もなく、いかに身もだえしようともどうしようもないことがわからないほど平八郎は非常識ではない。 血筋で言えば格之助は平八郎の継祖母の実家・西田氏の出であり、大塩の流れを汲んでいない。そのことも平八郎の躊躇に繋がっていたのである。ならば――せめて宗家の者を向かえ、血を正したいと願ったのである。
 ――文さんはこうと決めたら動かない人やから。
 藤四郎は意思の強い平八郎が好きであったが、裏を返せばそれは思い込みであり、無闇に人を傷つけ、恨みを買ってしまう。格之助はこの件ではひどく傷ついている。本人の才覚や努力ではどうしようもない所を否定されてしまえばどうしようもない。
「坂本さんから聞いた」
 藤四郎は済之助に向かって呟くように先年の狼藉騒ぎに触れた。三平を叩きのめしたあの一件である。
「格之助君が荒れるのは当たり前だ」
 格之助にしてみればやるかたない思いが募り、折悪しくふらふらしていた三平が目に入って、あの騒ぎになった。結局、大塩宗家には養子にやれるような子がおらず、縁組の話は流れることになった。だが未だ妄念に憑かれている平八郎は事実上、格之助を養子としながら大塩姓を名乗らせていなかった。こうしたことから格之助は功を焦っている。
 ――大塩家の誇りを紡ぐ者だと認めていただく。
 野望と言うより、それは哀しき少年の悲願であり、格之助は命を落としても構わないとさえ考えているようであった。
「済之助。不本意であるかもしれないが、そなたと格之助君は大手(正面)から外れてもらう」
済之助は篤実であるが、それでも血気盛んな年頃である。このような大捕り物で大手を外されるなど恥辱だと感じた。
「捕り物は戦に挑む覚悟がいる。だが戦ではない。命を奪ってもならぬし、無論奪われてもならぬ」
 今の格之助に先陣を任せたなら、捕縛せず殺めてしまうか、はたまた無用に命を失う恐れがあった。
 藤四郎の哀しげな表情を見て、済之助は理解した。しばらく済之助はうつむいていたが、彼は功名心よりも大塩親子が誰よりも好きであった。特に格之助は尊敬すべき賢弟であり、父の言うように是が非でも守ってあげなければならない。
「わかりました」
 顔を上げた時の済之助は実に爽やかであった。
「すまんな。しかしそなたも父同様、貧乏くじを引いたもんやな」
 この言葉に済之助は苦笑した。
 父は平八郎に、そして倅は格之助に。大塩親子はどちらも悍馬であり、利かん気が強い。大塩家の隣になったが運命か、瀬田親子は生涯その補佐をしていかなければならないだろう。

「武士の恥辱でござる」
 案の定、格之助は血相を変えて藤四郎に抗議した。だが藤四郎はこうなることは想定内であり、淡々と処置をした。
「そなたは何者か」
 平素穏やかな者の睨みは恐ろしい。格之助は藤四郎の鋭い眼光に怯みながら、「与力見習でござります」と、答えた。
「そうだ。見習だ。いわば半人前で、大手を攻めるはまだ早い。見習の分際でかような口答えをするは烏滸なる振る舞いだ」
「ですが――」
「黙らっしゃいッ。命に背くのならやむをえん。謹慎を申し渡すが、どうか」
 ここまで言われてしまっては格之助に言葉なく、ただうなだれるしかなかった。
 やがて来るべき時が訪れた。奉行への目通りを終えた平八郎は昂然と号令した。
「方々、抜かりなきよう。いざ参るッ」
 おうッと捕り方たちは鬨の声を挙げ、一斉に奉行所を後にした。

 格之助と済之助も駈けている。庄司儀右衛門組の最後列に属し、十手を片手に目的地へと向かう。物具の音が明け方の大坂に鳴り響き、否が応にも格之助の気が高まった。
「格之助殿」
 次第に興奮していく格之助に済之助は釘を刺した。
「我が父はああ見えても厳しいですぞ」
「重々承知しています」
 水を差された格之助は不機嫌な声で答える。
「済之助さんは町人を甘く思われている。豊田の婆ァは町人どもをけしかけて耶蘇の教えを広めようとしている。野次馬の中にも一味がいないとは限らない」
 格之助の懸念は確かに考えられないことではない。だが今から向かう相手にはそのような者はほぼいないと考えられる。仮にいたとしても本拠である豊田宅にいるはずだ。
「見えたぞ、格之助殿」
「あれが一味の医者……」
「藤田顕蔵の家だ」
 格之助たちが目指した先は何と――三平が親炙していた顕蔵であったのだ。

 集団の動きは頭たる者によって大きく左右される。無能な者が采配すれば相手が幼子であっても取り逃がしてしまう。だが平八郎と藤四郎の采配は見事であった。三組それぞれが一糸乱れることなく目標宅を囲み、相手の意表を突くことに成功したのである。格之助が属する庄司組も抜かりなく藤田宅を取り囲んだ。
 ――何や、何や?
 取り囲まれた顕蔵は状況を把握できず、ただうろたえるばかりである。
「藤田顕蔵であるな」
 組頭である庄司は威丈高に叫ぶ。
「我は東町奉行支配下の与力、庄司儀右衛門である。その方、不届きにも耶蘇の教えにて良民を惑わし、世情を乱す者なり。おとなしく縛につくか、それとも抗するか。手向かい、刃向かうならばこれを容赦せず斬り捨てるが――いかに」
 いかに、と言われても顕蔵はただの医者である。またここまで囲まれては逃げるも何もあったものではない。崩れ落ちるようにその場に座り込み、同心たちは踊りかかるようにして高手小手に縛りつけた。格之助は、庄司の命で野次馬となった群衆たちの立ち入りを禁じることであった。
 ――なぜこんなことを。
 不承不承であったが、それでも御役目であるので格之助は真剣に取り組んだ。 
 それにしても町人たちは物見高い。何や、何やと騒ぎ立てながら一歩でも前に進もうとし、様子を伺おうとする。それを格之助たちは押し止めなければならないのだが、如何ともしがたい。
「一体、何の捕り物や」
「誰が捕まったんや」
 口々に思うままに尋ねてくる。無論、答える義務などなく、本来ならば黙って彼らを押さえつければいい。だが初めての捕り物に格之助は興奮しきっている。つい馬鹿正直に答えてしまった。
「格之助殿、慎まれよ」
 一方の済之助は与力見習であったが、少しは捕り物を経験している。それだけに格之助より落ち着いていた。だがこれほどまでの規模の捕り物であり、次第に格之助と済之助たちは余裕を失っていった。
「これ以上、立ち入るなッ」
 悲鳴に近い叫びを格之助は挙げ、必死になって野次馬どもを抑える。やがて思いがけない声が格之助の耳に入った。
「顕蔵先生が何をしたんです?」
 ――この声、どこかで……。
 格之助は再び、制止するために声を挙げた。すると再び先ほどの声がまた聞こえ、その主に目をやった。
 ――あッ。
 見覚えのある顔がそこにあった。驚いたことに緒方三平が悲壮な顔つきで叫んでいたのである。どうやら藤田顕蔵と知り合いらしく、とにかく中に入れろと叫び続けている。
 ――あのド阿呆ッ。
 衝動的に格之助は己の任を忘れ、三平の手を握りしめていた。
「格之助?」
「ええから来いッ」
 痛がる三平に構わず、格之助は引きずるようにして路地裏へと連れて行った。
「あ、格之助殿ッ」
 持ち場から離れる格之助を済之助は制止しようとしたが、こちらはこちらで手一杯である。格之助は無我夢中になって、この場から離れようと人垣を分けてその姿を消した。

「何をしとるんやッ」
 息を切らせながら、格之助は三平を怒鳴りつけた。三平はすっかり混乱しており、なぜここに格之助がいるのか理解できない。
「どうして格之助がここにいるんだ」
 愚問であったが、三平にとってみれば当然の質問であった。格之助はその質問を無視し、反対に問い詰めた。
「それはわしの言い分や。何でお前がここにおるんや」
「何で……そうや、何で顕蔵先生があんな目に遭っている」
「先生、やと?」
 この瞬間、格之助は身体を凍りつかせた。この阿呆は事もあろうに耶蘇に染まったのではあるまいか。耶蘇に染まれば三平の命運は絶たれてしまう。
「田上……お前まさか耶蘇に染まってはいないやろうな」
 予想だにしなかった言葉に三平は驚愕した。いくら世間知らずとは言え、耶蘇は国禁であり、少しでも染まってしまえば厳罰に処せられることは周知のことである。
「……顕蔵先生が耶蘇の者とでも言うんか?」
 晴天の霹靂だと言わんばかりの顔を見て、格之助は安堵した。
 ――耶蘇に染まっていないようだ。
 まずは一安心であるが、だが染まっていなくとも耶蘇の者と係わりを持てば、口実次第で濡れ衣であろうとなかろうと処罰される恐れがある。
「田上、いいから忘れろ。あの医者とお前は関係がない。寝言でも藤田顕蔵の名を出すな。いつものように間抜け面で大坂をうろうろしていればエエ」
 こいつは――相変わらず口が悪い奴だと三平は腹が立った。それよりもお世話になった先生を助けたいという一心が三平を狂わせた。
「どけ、先生を助ける」
「助けるやと?」
「先生はええ人なんや。国禁を犯すような方やない」
 お奉行でも大坂の御城代の前に罷り出て無実を証明してみせる――三平は口泡を飛ばしながら必死になって喚いた。
 ――阿呆ッ。
 訳もわからず三平の口中は血であふれ、身体を地面に叩きつけられた。
「何をするッ」
 三平が血相を変えて吠えたが、格之助の鬼相ぶりはその比ではない。馬乗りとなって必死な面持ちで三平を押さえつけた。
「世の中を甘ァ見んな。お前に救える訳ないやろ。無駄に命を捨てるだけや」
 三平は顕蔵によってようやく道を見出そうとしていた。だがまたしても理不尽にその道が塞がれようとしている。それだけではない。短い期間であるが、顕蔵の人柄に惚れてしまっていたのだ。人の繋がりあっての人であり、人脈こそ世を生きる者の宝であることを顕蔵や宗吉から学んできた。その絆が再び断たれようとしてはまた無為な日々を送ったことになる。対する格之助は言えば三平のそんな悲痛さを思いやる余裕はなかった。
「ここから離れろ。今ならまだ間に合う。わしが何とでもしてやる」
 義や憤なりと言わせてやると思っていた格之助であったが、初めて温かみのようなものを三平は感じていた。世の中を舐めるな――格之助はそう叫んだが、彼自身もまた随分と甘くとらえていた。
「西田格之助。何をいたしておる」
 恐る恐る格之助が振り返るとそこには庄司と組下の者たちが居並んでいた。すでに顕蔵は捕縛され、庄司は残党がいないか探索していたのだ。そうした中、格之助が持ち場を離れていることを知ったのである。
「今一度問う。ここで何をいたしておる。そやつはまさか藤田の弟子ではないのか」
「ち、違います」
「では何者か」
「こやつは……こやつは……」
 どう答えていいかわからず格之助は口ごもらせた。だがすぐさま顔を上げて、「同門です」と答えていた。
「同門?」
「はい。こやつは田上騂之助と申します柴田門下です」
「まさか柴田先生まで耶蘇に染まっていると言うのか」
「滅相もなき事。そのようなことがあろうはずもござりませぬ」
「ならば、そやつは何者なのだ」
「ですから柴田門下で……そう。門下でもっとも役立たずで、東に西にと日々歩くだけのどうしようもない阿呆なのです」
 あまりにもひどい言い様であったが、これぐらい貶めねばならなかった。三平は取るに足らぬ愚か者で、努々耶蘇に染まるような器用者ではないと格之助は論理づけたかったのである。だがやはり格之助はまだ拙かった。庄司は嘆息しながら三平に目をやり、傍らの済之助に命じた。
「済之助。わしはこれより藤田顕蔵を奉行所へ連れて参らねばならぬ。とんだ貧乏くじであるが、この不埒者どもに構っているほど奉行所は暇ではない。子の不始末は親の責。ここは格之助の親父殿に始末を願うほかあるまい」
 これは庄司に成しうる最大限の配慮であった。持ち場を離れることは敵を前にして逃げるという大きな罪であり、奉行所に戻れば、厳格に処罰しなければならない。だが格之助は見習である。半人前の責は父である平八郎が負わねばならない。どう裁くかは親の料簡で、他人が口出すことではない。
「しかと承りました。瀬田済之助、この不届き者を大塩邸へ連れてまいります」
 うむ、と庄司は深くうなずき、自身は奉行所への帰路についた。かくして三平は再び大塩家へと足を踏み入れることになったのである。

 ――あれ以来だ……。
 三平は緊張していた。何しろ国禁たる耶蘇教に関係しての連行である。下手をすれば三平本人のみならず、父母や兄を初めとする一族、さらに足守藩にまで類が及ぶことも懸念される。それにしても腑に落ちないのは格之助である。なぜ共に玄関先に座しているのか。
 ――私が嫌いではなかったのか。
 そんな疑問が三平にある。だがそれは格之助もまた同じで、
 ――なぜわしはこんな間抜けのために初陣を不意にするのか。
 若さは無鉄砲で潔い。大塩家の養子に相応しい手柄を――。格之助はその意気込みで捕り物に挑んだ。だが藤四郎の配慮もあり、いわゆる野次馬の整理という御役目を命じられてしまった。そんな御役目でもしっかりと果たすことができれば大塩家の跡継ぎとして衆人は認めてくれたであろうし、反対に言えばこれぐらいの仕事をこなせなくてどうするという厳しい目があった。だが間抜け面をした三平を目にしてしまい、何をとち狂ってしまったのか、持ち場を離れて彼を逃がそうとしてしまった。格之助が見るところ、三平は無実、と言うより耶蘇に関わるという大それたことができないくだらない男だと決め付けている。三平は道定まらず、相変わらずふらふらしているだけで、国禁を犯すような大それたことはできない。
 もし田上でなかったら――。
 ふと格之助は考えた。格之助は決して情で流されることはなく、今までも確かな目で勉学をし、そして見習の業務を果たしてきた。だが三平という男は実に不可思議である。三平ほどどうしようもない奴はいないと思うのだが、なぜかつい気にかけてしまう。儒学で言えば一種の人徳というものであるかもしれない。

 この日の平八郎は多忙を極めている。何しろ国禁たる耶蘇教徒どもの一掃であり、彼の与力生活の中で、まず最大の捕り物になる。烏滸な息子どもにかまけている暇はなかった。
 だが事は御役目放棄、戦であれば軍律違反である。陽明学を信奉する平八郎にとって軍律を破ることは断じて許せることではなかった。このまま無罪放免というわけにはいかなかったのである。わずかながら時を作り、平八郎が帰宅したのは深夜のことであった。
 ――戻られた。
 大塩家の者は皆、身体を強張らせながら主を迎えた。
 玄関先に三平と格之助は何も敷かず、座らされている。平八郎は両名を無視し、無造作に大刀を腰から抜いた。
「湯漬け」
 妻――いや正確には妾だが、ゆうに大刀を手渡し、用意されていた床机に腰をかけた。ゆうは無言で奥へ行き、すぐさま湯漬けを差し出す。平八郎は前夜から何も食べておらず、無心で湯漬けを掻き込んだ。
「済之助君。腹が減ったろう。湯漬けを食べなさい」
「かたじけのうござります。ですがそれがしも御役目を果たさぬ者。いただけませぬ」
 平八郎はゆっくりと目蓋を閉じ、口をへの字に曲げた。静かに、そして重々しく格之助たちの周囲を歩く。平八郎はあくまで無言であり、こうした時が一番恐ろしいことを格之助は知りすぎているほど知っていた。やがて足が止まったかと思うと、激しい痛みが格之助の頭に走った。
 ぐわんッ。
 とてつもなく大きな音と共に陣鉢が宙を舞い、格之助はどうと音を立てて地面に倒れた。飛ばされた陣鉢の金具部分が異様なまでにへこんでおり、本人のほおには平八郎の拳骨のあとがくっきりと残っていた。
 平八郎の打擲は容赦がない。倒れた格之助を起こすと、二度三度打っては、蹴飛ばす。そしてまた起こしては打った。
 ――死んでしまう。
 見かねた三平が飛び込もうとしたが、平八郎の殺気に近い迫力はそれを止まらせる。 だが三平は勇気を振り絞り、平八郎の腕にしがみついた。
「何だ、そなたは?」
 平八郎の折檻は犯してはならない神聖さがあり、三平は畏れた。だが自分のために痛めつけられる格之助を見捨てることはできない。自分のためにやめてほしい――三平は涙ながらに訴えたが、平八郎は不思議そうな表情で顔を覗き込んだ。
「異なることを申す。端からそなたのことは眼中にない」
 この言葉を聞き、三平は殴られるよりも心に痛みを感じた。平八郎は自身の血に誇りがある。自家を誰よりも尊んでいる。眼前の三平はただの書生であり、取るに足らぬただの格之助の喧嘩相手にすぎなかった。だが格之助は違う。まだ大塩姓を許してはいないが、いずれは伝統ある大塩家を継がねばならない。大塩家を継ぐ以上は無論与力職を任として大坂市政を担っていくことになる。与力たる者に許されないのは公私混同であり、そして職務に対する怠慢であった。
 平八郎は幼い頃に両親を失い、若くして与力となった。与力は実質的な大坂の支配者であり、商人たちにとって彼らのご機嫌こそ何よりも大切なことであった。しきたりのように与力職に就くと、商人たちは必ず賄賂を贈った。もし贈らなければ、どんな嫌がらせを受けるかわからなかったからだ。ところが賄賂を贈られた平八郎は激怒し、奉行所の詰め所へ乗り込んで声高に叫んだ。
「このような物をもらって喜ぶ者がいるから、治世は乱れるのだ」
 あまりに潔癖すぎる平八郎に庶民は喝采し、同僚たちは眉をひそめた。それほど与力職に誇りを持つ平八郎にとって、大塩家を継ぐべき格之助の体たらくは絶対に許せないのである。
「功を焦ってのしくじりなら、まだ許せる」
 平八郎は意外な見解を示した。本来ならば武士がもっとも忌むべきは抜け駆けである。ところが平八郎の思想はそうではなかった。信条を通すためには己の身をいとわない。そのために例え軍律に背こうとも、他の者を奮い立たせ、さらにその死を次代に繋ぐことが出来ると平八郎は固く信じていた。
「大塩家のため先陣をと藤四郎さんに詰め寄ったらしいが、その心意気まさに佳し。されど、大事なる御役目を勝手な料簡で疎かにし、庄司君の足を引っ張るとは何たること。それでもそなたは大塩家を相続する者か。それとも何か――」
 大塩姓を与えない自分への当てつけか、とまで言ってしまったのである。
「先生ッ」
 あまりの言葉に済之助は涙ながら叫んでいた。格之助ほど大塩家に誇りを抱き、そして平八郎を敬慕している者は他にいない。いやそんな生ぬるい感情ではなく、格之助にとってもはや平八郎の子として、大塩家の者として生きる以外に道はない。その格之助に向かって平八郎の放った言葉はあまりにも酷い。
「大塩先生――」
 落胆する格之助に代わって、次に叫んだのはまた三平であった。本来ならば三平こそ責められるべき存在であるにも関わらず、無視されている。
「あなたは心をお持ちなのですか?」
「何を申したい」
「格之助が……いや格之助殿がいかに奮励されているのかご存知ないのですか」
「家を継ぐべき者が文武に励むは当然ではないか。家のために生まれ、励み、そして生涯を終える。人があるから家があるのではない。家があるから人がある」
「そうでしょうか。世は人あっての世。人あっての人。それぞれ人に心があり、そして心あるからこそ人は生きていける。それを否と申さばこの世は地獄です」
 ――青二才が。
 平八郎の目は明らかに三平を軽蔑している。
 今、世は乱れ出していた。御公儀は退廃し、威厳を失いつつある。特にこの大坂におけるお上への敬慕の念は喪失する中で亡国の兆しがあることに平八郎は憤慨していた。
 ――その顕われがこたびの騒動だ。
 平八郎として、こんな騒動に首を突っ込む三平に怒鳴りつけたかった。内なる混乱が予想される中、わざわざ蘭学という紅毛人どもの学問を入れるとは何ということか。
豊田貢は病を治すだの、家運を上げるだのと甘言を述べ、その権威付けとして耶蘇の教えを取り入れたのであった。もっとも彼女は不幸な人生を歩み、本来の教祖であった水野軍記に唆された被害者であった。だが水野の教えに妄信した彼女は呪われるが如く信者を集い、そして京や大坂など広域に亘って宗派を広めていったのである。
 平八郎は二年の間、調べに調べていたため、その実態を熟知している。だが彼の卓越した洞察力は真実と違う真実を導き出してしまった。それが大坂や京で町人どもがお上の権威を虚仮にした結果だということである。後世から見れば実に愚かしく偏った見解であるが、平八郎の論理はこの時代の武士たちを説得させる力を有していた。
 一罰百戒、これが与力である平八郎の大切な役目である。まだ小さくはあったが、豊田たちを罰することによって国の滅亡を防がなければならない。それが神君以来、大坂を支えてきた大塩家の役割であり、その跡目を継ぐ格之助は一心不乱に、軍律違反で処されようとも功を立てねばならない。その聖なる役目を眼前の青二才が邪魔をしていることに平八郎は憤りを隠さずにはいられなかった。
 だが平八郎は三平を殴らない。三平には殴られる値すらなかったからだ。だが殴ることはないが、場合によっては豊田一味として処することはできる。
「君は藤田顕蔵の何だ」
 弟子です――と答えてしまえば万事休す、その時点で一味とみなされてしまう。平素の三平なら「滅相もない」とすぐに答えたが、三平はいつもと違う精神状態にあった。
 父たち大人どもは道を探せと急かす。そして彷徨しながら道を求めたかと思えば、理不尽にも全てを奪ってしまう。三平は蘭学で身を立てるつもりはない。どう考えても歌道をするに蘭学は意味がないのだが、三平はあることに気付いた。謎の商人・清兵衛は宗吉先生を見よと言った意味に。好きでも何でもない道を歩み、橋本宗吉や藤田顕蔵というこの時代を代表する蘭学者と医者に出会った。そして彼らの人間性に触れて、三平は何かをつかもうとしていた。今考えてみれば顕蔵の博愛精神は耶蘇教の影響があったのかもしれない。だがその精神に触れ、わずかだが世の中が何であるか光を見出したように思えた。
 もっと、いやあと少しでもあの人たちに触れていたかった。こういう気持ちにしてくれた人を死なせたくないし、何よりも邪教の輩のように言われては顕蔵先生があまりにも可哀想ではないか。三平は彷徨していた経験からか、この頃より師を何よりも重んじる性格に変貌しつつあった。
 言えば死罪も免れぬ。父や足守藩に多大な迷惑をかけてしまう。どうするか、どうすればいいか。三平の理性はしきりにごまかせとささやいたが、若さが危険な道へと誘っていた。
「私にとって藤田顕蔵は……藤田顕蔵は――」
 声を大にしてその続きを叫ぼうとすると、格之助が跳ねるようにして起き上がり、力一杯三平を突き飛ばした。
「この阿呆は、この阿呆は……藤田の患者でござりまする」
「患者?」
「はい。この阿呆は幼い頃、疱瘡を患ったとのこと。それゆえ道場でもひ弱で誰にも勝てませぬ。このような軟弱な者に全てを邪神に捧げよと申す耶蘇は合いませぬ」
「阿呆は耶蘇に合わぬか」
「耶蘇どころかこやつは何もできぬうつけ、間抜け、たわけでござりまする」
「口が悪いな」
 平八郎は思わず苦笑した。
「畏れながら――」
 今度は三平の番であった。格之助を押しのけ、面を冒して声を挙げた。
「格之助はお役目を投げ出してはおりません。なるほど私は愚か者。ですが格之助殿は力量小さく、阿呆一人を抑えることで手一杯。もたもたしているうちに機を逸したのです」
 格之助も言うが、三平もまた言う。たがいにかばっているつもりが、痛烈な悪口合戦となってしまっている。
「誰が力量小さくや」
「人を阿呆扱いにすんな。格之助は何や。力量あるなどうぬぼれんな」
 またしても両人は子供の喧嘩をしている。喧嘩をするほど仲がいいとは言うが、それに当てはまるかどうか。やがて感情が昂ぶり、双方掴み合いになりそうなところで平八郎は手を打って驚かせた。
「ええ加減にせえ。格之助もそちらの阿呆も立場を弁えているのか」
 この言葉に二人はおとなしくなり、再び座した。
「どちらも童(わっぱ)だ。だが……童ならばやむをえん。未熟なる格之助をこたびの大事に加えたのは父の不覚であった」
「先生、では……」
 済之助は微笑しながら尋ねると平八郎は頷いた。
「こたびは我が胸に収める。だが格之助。そなたはまだまだ修業せねばならぬ。よって当分の間は見習として励め。大塩家にふさわしい者となれ」
 やや落胆したものの、格之助は安堵した。もはや三平が耶蘇の一党として裁かれることはないからだ。
「そちらの者」
 平八郎はギロリと三平をにらんだ。
「そなたはいつまでも童ではあるまい。童でない者がいらざることをすればそなたはもちろん、一族もろとも死を覚悟せねばならぬぞ」
 この言葉に三平は反発と恐怖を覚えたが、気遅れしてなるものかと胸を張った。生意気な小僧めと平八郎は心中で苦笑したが、どこかでこの二人がうらやましかった。
 平八郎には友がいる。藤四郎と弦之助はまこと得がたき人たちだ。だが感情を剥き出しにして言い合える友が自分にはいるだろうか――いや凛然という甲冑を脱がねば、こうも心をさらせることはできない。格之助は反発し合っているが、そんな友を得ている。それが何ともうらやましかったのだ。
「二度と怪しげなる場所に近付いてはならぬぞ」
 そう言い放つと、平八郎は再び刀を差し、奉行所へ戻っていった。彼には山のような仕事が待ち受けている。
ようやく困難を乗り越え、二人はたがいのことを考えた。なぜ自分を相手はかばい、助けようとしたのか。それは実に不可解な、この時代になかった友情というものが二人の間には芽生えていたのだ。雨はいつしか止み、大塩邸の空には事件の深刻さとは無縁に美しい月が浮かんでいた。

   二

 ――立ち寄るな。
 そう命じられたものの、どこへ行けばいいかわからない三平の足はつい藤田邸のあった堂島の方に向いていた。
「そのうち取り潰されるらしいで」
 堂島に着くと、町人たちが声をひそめてそんなことを話している。藤田邸には誰も立ち入れないように竹矢来が組まれており、同心と手代たちが厳重に見張っていた。当の顕蔵は毎日、東町奉行所で取り調べを受けているらしい。
 ――ひどいらしいで。
 噂を聞かずともそのようなことは三平にも察しがつく。あの優しい眼鏡をかけた顔が脳裏に浮かんでは消え、涙があふれそうになる。もう二度と顕蔵に会うことはないだろう。
 ――そうだ、心斎橋へ行ってみよう。
 三平はふと宗吉の顔が思い浮かんだ。宗吉は顕蔵の師であったが、今回の事件とは無関係である。まだ自分には宗吉先生がいたではないか――一縷の望みを抱いて絲漢堂へ向かった。
 だが、三平の読みは甘かった。江戸期はとかく連座制で、弟子が犯した罪は師も負わねばならない。絲漢堂は閉鎖、宗吉は追われるようにして弟子たちの家を転々とした。
 一体自分は何をすれば良いか、皆目検討がつかない。こう言う時こそ絲漢堂へ招いた清兵衛を訪ねるべきであったが、どこに店を構えているのかこれもまた知らない。
 ――私は本当に物知らずだ。
 三平はあまりの無能さに自己嫌悪した。心斎橋は長堀川に架かった橋で、その下を忙しく舟が行き交う。その舟を虚しく三平は目で追うばかりであった。
 行き先が見つからず、見つかりそうになったらまた失う。その繰り返しではないか。行って戻って徒労に終わって嘆息してそしてまた彷徨する。
 ――生涯このままなんやろうな。
 自嘲と共に絶望感が全身を走った。一体、何のために生まれたのか。何のために生きていくのか。その点、格之助が羨ましい。色々とあるようだが、行く道は与力となって大坂を守る。立派なものではないか。大坂どころか己一つを何ともできない三平と比べて格之助は立派だ。結局、義や憤なりと言わせるのではなく、己の不甲斐なさによって言わされてしまっている。
 ――ん?
 欄干に肘掛ようとした時、袖中に何かあるのに三平は気付いた。何かと思って出してみると義眼であった。藤田宅が御用改めされた日は顕蔵に義眼を納める日であったのだ。
 ――素人の気持ちになって作れ。
 顕蔵の言葉が脳裏に蘇る。そして宗吉のぶっきらぼうだが人懐こいあの笑顔が思い浮かんだ。顕蔵と再び話すことはできまい。宗吉は死罪にはならないだろうが、絲漢堂が再開することはない。あの奇妙奇天烈な先生に教えを乞うことはないだろう。
「振り出しか……」
 三平がつぶやくと、野太い声が背後からした。
「一人双六か」
 驚いて振り返ると、総髪で不精髭だらけの男が不機嫌そうな顔つきで心斎橋を渡っていた。何か嫌なことがあったのか、昼間だと言うのに流し込むようにして酒を口に注ぎ込む。
「餓鬼はええな。のん気に双六遊びとはな」
「これはさいころやないです」
 男は奪い取るようにして義眼を手にした。
「何や、これは」
 こんな酔っ払いにわかるもんか――三平の顔には嘲笑の色が浮かんでいる。しばらく男はまじまじと義眼を凝視していたが、欄干の上にそれを置いた。そして懐から小刀を取り出した。
「まだまだやな」
 何をするのだろうと思っていると、男は義眼に小刀を入れたのである。あッ――三平は小さく叫び、それを止めさせようとした。だが男の気迫が三平を凄ませ、一心不乱に手を加えていった。
 酔っ払いには敵わない。何しろ彼らは酒の力に任せて理屈などない連中だ。意に逆らう者には容赦なく罵声か暴力を振るわれる。三平は嘆息しながら、男を眺めていた。だがその手さばきを見ているうちにそうではないことに気づかされた。
 顕蔵の作業を見てきた三平には義眼作りが何であるか多少はわかっている。男はがむしゃらに小刀を振るっているのではない。三平のつたない出来の義眼が見る見る間に本物のように仕上がっていく。それはまさに芸術であった。
「あなたは……?」
「人はもちろんやが……物にも命言うもんがある。この(義)眼は元は木や。言うまでもなく――」
 言葉を止めると、優しく橋の欄干を撫でてやった。欄干もまた木でできている。
「木は生き物や。動かんし、喋らん。やけど大きくなるし、枯れる――そう死ぬこともある。何も考えずに人は生きていける。だから世の理を知ることもなく、己が天よりいかなる命が下されたのか知る由もない。まあそれはそれで幸せなんかもしれん」
 だが、と男はなおも続ける。
「こういう人の身体を補う物を作るんやったら、理を知らなあかん。そしてあらゆることを無駄にせんという心がけが必要や。この眼の元になった木がどんな生涯を過ごしたのか。そしてそれを知ることによって人の眼にどのように合うのか考えるんや。先人の遺してくれた書を読み、そしてその人に教わりに行く」
 三平は唖然とした。あまりにも高尚すぎてどう理解していいかわからないのだ。だが男は変人であった。構わず話を続ける。
「お前は一人で生まれ育ってきたと思うとる。だがそうやない。その出来損ないの眼も木を切る者がおり、そしてその作り方を教えてくれた人がおったはずや。書を読んだのなら、その書を生み出すに幾多の書を読んだに違いない。その書もまた多くの書を読み、そして人に教わった。数え切れん者の智恵と人生がお前の身体に息づき、今がある」
 相手が取るに足らない少年であり、このようなことを話しても埒がないことを男は知っている。だが誰彼構わず話をしなければ気が収まらないほど、この日は鬱屈していたのだ。相手にされてしまった三平には迷惑な話であった。
 ――何があったのです。
 と、聞く前に男は喋り続けた。
 名は中耕介(なかこうすけ)、号は天游(てんゆう)と云うらしい。
「お上は偉大なる方を葬ろうとしている」
 奉行所の役人に聞かれたなら大事になることを天游は愚痴った。
 ――中さん。
 三平は顔を青ざめながら止めたが、天游は構わない。
「おい、小僧――」
「緒方三平です」
「何や、それは」
「名ですよ、名」
「ほう、三下君と言うんか」
「三平、です」
「なるほどなるほど。餓鬼にも名はあるわな。さて三平君とやら。ここにいるちゅうことは、絲漢堂と無縁でないな。蘭学と関係ないのか」
「あなたに答える必要はあるのですか」
「ある。わしほど橋本先生を崇敬する者は大坂にはおらんからや」
「意味がわかりませんが、歌道を究めるために通っていたんです」
「歌道?」
 天游は意味がわからず、首をかしげた。この反応は当然であった。歌道のために蘭学塾に通っているなど酔っ払いでなくとも誰も理解できない。
「人を見ろ、と言われたんです」
 天游はほうとつぶやき、興味深そうに助言した人についてしつこく尋ねた。だが詳しく聞かれてみてあの清兵衛が何者であるのか、よくわかっていなかったことに気づいた。
――いや、清兵衛さんだけやない。
 考えてみれば関わってきた人全てのことについてどれほどのことを知っているのであろうか。
 父のことをよく知らない。母のこと、兄のこと、姉のこと。どこまで深く知っていると言うのか。大坂も足守のことも、いやひょっとすれば三平自身のことさえよく知らないのではないか。
 ――迂闊の塊ではないか、私という人間は。
 中天游という男は実に不思議であった。徹底的に理を追求する彼の姿勢が三平に深く物を考えさることを覚えさせたのである。
「まあ、やっぱり先生は偉いなる方や。君みたいな不気味な小僧でも懐深く導かれる。大したお方や」
「不気味はないでしょう。それを言うならあなたこそ不気味ですよ」
「おもろい小僧やな。君は今、歌道を誰かに学んでるのか」
「いえ……。今回の騒動で行くべき先を失いまして」
「そりゃ大変なこっちゃ。ところで何で歌道なんや」
 三平には今、自分の道について語るべき相手がいない。誰かに聞いてもらいたいという想いから、歌道を道にと口にした理由を天游に語り出した。一番の理由は甥の養子先が国学者の藤井高尚であったことだ、と三平が話すと、天游の顔色が激しく変貌した。
「藤井、藤井高尚先生やと?」
 相当興奮していたのか、天游は鼻息荒く、三平の腕をわしづかみにした。
「藤井先生と言えば当代一の国学者やないか。そんな方と親戚筋とは……お前はなんちゅう幸せな奴ゃ」
 三平はあまりの興奮ぶりに閉口した。だが天游がここまで興奮するには大きな理由があった。彼は蘭学をしていたが、一方で熱烈な国学愛好家でもある。三平が上坂する二年前の文政六年(一八二三)、藤井高尚を自宅に招いて講義を依頼したことがあったのだ。
 天游は何事においても情熱的で、何よりも人を敬慕してしまう。幼い頃、父からもらった『解体新書』を読んで蘭学に憧れ、様々な人々に親炙した。その熱の入れようは異常で私塾まで開いてしまったのだ。
「坂本町にな。思々斎塾ちゅう蘭学塾を開いておる。ええ名前やろ。思々斎塾」
 天游の言い様に三平は苦笑いしながらうなずくしかない。
 藤井高尚の講義に天游は感動した。その後、反対を押し切って自宅をむりやり改築して国学塾まで作ってしまったのだ。その名を「小柴の屋」と云った。
 小柴の屋はかくして開塾したのだが、やはり勢いのみではいけなかったらしい。まったく門下生が入らず、周囲は閉めるよう説得しているとのことであった。それほど国学に傾斜していた天游であったので、憧れの人を親戚に持つ三平に強い関心を抱いたのは当然のことであった。
「小柴の屋に来い。どうせ緒方君は宛がないんやろ」
「船津橋の蔵屋敷に住んでおりますから」
「船津橋?」
 天游の輝かんばかりの顔を見て三平はしまったと後悔した。思々斎塾、すなわち小柴の屋がある坂本町と足守藩の蔵屋敷がある船津橋は近い。天游は激しくうなずきながら、「だったら通え」と何度も促した。だが三平は幾度かの騒動を経て、やや人間不信になっていた。
 三平は隙を見つけて走り去ると、天游は大きな声を張り上げた。
「坂本町や。気が向いたら坂本町の中天游を訪ねて来い」
 遠ざかる天游の声を背に三平は無我夢中で船津橋の方面へと駈けていくのであった。

 どうしてこうも奇妙な人ばかり寄ってくるのだろうか。そして奇人たちは皆、自分を攫うようにして誘い込もうとするのか。
 ――それは緒方三平の人徳というものや。
 心の中の声がそっとささやく。その声に対して三平は激しくかぶりを振った。
 冗談やない。何度も何度も人攫いに遭っては身も心も持たない。いい加減誰にもわずらわされることなく生きていきたい。他人の由に縛られてではなく、自らの由でもって生きていきたい――本気でそう考えるようになっていた。
 だがこれからどうすればいいのだろうか。絲漢堂も当分は出入りができないであろうし、柴田道場へも気まずくて行く気が起こらない。と言って違う塾に通う気にもなれず、ましてやあの奇妙奇天烈な天游がいる思々斎塾など近寄りたくもない。

 すでに夕刻。また一日を無駄に過ごし、三平は蔵屋敷の長屋に戻ってきた。ここ五日ほどはあの騒動もあり戻らなかった。わずか五日であったが、随分久しぶりの帰宅なような気がする。滑りが悪い門戸をゆっくりと開けた瞬間、突如激しい痛みが三平のほおに走った。
「この不埒者ッ」
 痛みの正体は父の拳骨であった。
「お前という奴は……」
 事もあろうに切支丹に加担するとはどういう料簡か――瀬左衛門の怒りは頂点に達している。どうやら帰坂早々に三平の世話を依頼されていた庄右衛門から聞き及んだらしい。 もっとも庄右衛門は告げ口をしたわけではない。あくまで三平の身を案じ、瀬左衛門に相談しただけであった。だがこの話を聞くや否や、瀬左衛門は怒り狂い、三平の顔を見るなり殴り倒してしまったのである。なおも瀬左衛門が殴り続けたため、慌てて庄右衛門が止めに入った。
「おやめください、騂之助様が死んでしまいます」
「このような不埒で不忠者は死んでしまえばエエ。こやつを殺してわしも死ぬる」
 瀬左衛門はすっかり逆上していたが、無理もなかった。切支丹は国禁であり、それと係わりを持つということは大罪である。三平本人はもちろん、佐伯家や親類、さらに言えば主家である木下家や足守藩にも類が及んでしまう。これほどの不忠不孝がまたとない。
「佐伯様、ここは貸し屋敷でございますよ。血で穢されては困りまする」
 この理に瀬左衛門は閉口せざるをえなかった。
「騂之助」
 気を取り直した瀬左衛門は怒鳴りつけたが、すでに三平は気を失っていた。
「庄右衛門、縄を貸してくれ」
「縄?」
「ここで誅してはならんのだろう」
「まさか国元でお手討になさるつもりで?」
 庄右衛門はまだやめないのか、と言った表情をした。だが殺気を孕んだ眼光を瀬左衛門は庄右衛門に向けた。そして左手は刀の鍔に指かけている。
「この屋敷はそなたの言が重い。だがこの愚息をどうするかは親の言が重い。これ以上要らざることを申すなら、無礼討にする」
 震えながらやむなく縄を持参し、瀬左衛門は三平を縛り上げて、藩で使用している荷車を用意した。やがて芋虫のように縛りあげた三平を荷台に放り込むと、短く先ほどの問いに答えた。
「上坂したばかりだが、致し方がない。ただちに国元に帰る」
「え? 騂之助様を連れて」
「当たり前だ。もう二度と大坂の地に足を踏ませぬ。長き間、愚息が世話になった。再び大坂へ戻ってまいるが、礼はその折に」
 瀬左衛門は深く頭を下げると、そのまま蔵屋敷を後にした。やはりお武家様は性質が悪い――改めてそう感じる庄右衛門であった。

   三

 まるで罪人の扱いであった。いやまるでではなく、瀬左衛門にとって三平はまさしく罪人である。
 足守藩を滅ぼしかねない大罪を犯した愚息。せめて父の手で始末してやる――瀬左衛門の覚悟は並大抵ではない。慌てたのは意外にも家老の木下権之助であった。
「おい、瀬左衛門。大袈裟すぎるぞ」
「愚息を殺して、それがしも切腹いたします」
 権之助は三平を気に入っていたが、個人的感情だけでかばっていたのではなかった。
 豊田貢事件のことは権之助も耳にしている。だがこの大事件に三平がほとんど関係していないこともしっかりとつかんでいた。
 ――奉行所は甘くない。
 権之助は家老なだけにそのことをよく知っていた。もし奉行所が一味だと掴んでおれば、三平が無事なわけがない。必ず捕縛されていた。だが三平にはお咎めどころか相手にさえされていない。要するに瀬左衛門がすべきことは拳骨の一発でも食らわせて叱責すれば良いだけであり、大仰に連れ帰り、挙句の果てに誅殺すると騒ぎ立てれば、藩は幕府に痛くもない腹を探らせてしまうことになる。
 ――佐伯の爺ィめ。
 そう思うとおかしいが、困ったものであった。
 瀬左衛門は六十近くで本来ならば隠居の身であるが、能力が卓越しているため、現役でいる。歳をとれば頑固になり融通が利かなくなるもので、権之助としては依怙地になった瀬左衛門ほど扱いにくい者はいない。
「さて……どうすればいいか」
 権之助は目を閉じ、一人思案した。

 ――もう我慢ならぬ。
 瀬左衛門と同じ気持ちを抱いたのは、三平当人であった。父は人さらいだと思っていたが、今回は物として扱われた。足守へ戻る間、縛り付けられたまま荷台に載せられ、その間は水しか飲ませてもらっていない。殴られたほおと縛られた後がうずき続けている。
 それよりも父のやり方が許せなかった。話を聞いてから打擲するべきであり、何も聞かずに殴りつけて、足守に持って帰るなど人としての扱いではない。
 ――親父に殺されるなら、その前に私の意地を見せてやる。
 三平は青き炎をたぎらせ、そう決意した。足守の実家に着くやいなや、三平は物置に放り込まれた。どうするかは藩と相談しなければならない。だが家老の意向もあって中々返事が来ない。
 その間、三平は断食することにしたのである。処分を藩に伺う以上、瀬左衛門は息子を生かす義務がある。だが三平はこれに抗して断食を敢行した。元来、三平は病弱で、その彼が断食をすれば身体がもたないことは想像にかたくない。
「軟弱者が強がりおって。ふん。どこまで我を張れるか見てやる」
 そう言って、息子の反抗を冷たい視線を向けるのであった。

 ――親も親なら子も子。
 この不毛な諍いに嘆息したのは母のキョウであった。夫は若い時より頑固であったが、今回ほどてこずらせたことはない。さらに言えばおとなしかった三平までが依怙地になっているのだから困ったものである。三平は心も身体も弱い子であったが、いつの間にこんな意地を張るようになったのか。キョウは困ったと思いながらも子の成長を嬉しく思うのであった。
 何とかしたいが、良い案がどうしても浮かばない。こうした時に役に立つのは長男の馬之助であった。馬之助は実質的な当主であり、資金不足にあえぐ父に必要な金品を仕送りしていた。そのため諸事利かん気の瀬左衛門が馬之助にだけは一目置いていた。
「馬之助さんはどうお思い?」
 畑仕事から帰ってきた馬之助にキョウは尋ねた。
「私に考えがあります」
 驚く母に馬之助は染み入るような笑みを浮かべて安心させた。さすがは兄さんだ――息子がしっかりしているほど母にとって孝行なことはない。キョウはにこやかに微笑み、静かに頭を下げた。

 馬之助は鍬を物置にしまうと、その足で三平が閉じ込められている部屋へ出向いた。 真っ暗な部屋の真ん中に、凄まじい形相の三平が座している。
「騂、気を張っているな」
「……兄さん……」
「腹減ったろ?」
「いえ」
「嘘つけ」
 三平は無言でかぶりを振る。馬之助は微笑しながら懐から煙管を取り出し、優雅に煙を吹かせた。
「父上が憎いか」
 憎い――本音を言えるなら三平はそう叫びたかった。だがどんなに心中で思っていても武士である以上、親を憎いなどと言ってはならない。
「騂は武士の子だな」
 まるで幼子を褒めるような口ぶりであった。それが今の三平には気に入らない。
「許せ。兄の口が多かったなァ」
 馬之助は微笑しながら三平の隣に座った。
「騂は、足守を……いや佐伯の家を出たいのだろう」
 この言葉に三平ははっとした。自覚はなかった。だが言われてみて、自分は家を出たいのだとわかった。
 大坂へ出てから一番欲していたものは何であったのか。それは自ら由とする――すなわち「自由」ではなかったのだろうか。この当時にはなかった「自由」を三平は渇望していた。
 だがこの時代における自由ほど恐ろしいものはない。命の保証もなければ確たる食い扶持があるわけではない。束縛は無くなるが同時に全ての庇護を失ってしまう。三平のような者が佐伯家を離れ、足守を脱藩すれば嵐に舞う木の葉よりも頼りない存在になってしまう。
 だが大坂という街の魔力なのか。奇人変人のるつのであり、三平はその中でも類なき人たちと接してしまった。ここまで毒されてしまえば足守で蟄居するような生活に戻れない。
「人はそれぞれ天より授かった命運がある。父上は終生足守川を行ったり来たりすることがそうなのかもしれない。だがお前は違うようだ」
 兄はにこにこしながらあごを撫でた。
「父上が大坂へ連れて参ると仰った時はどうなることかと思った。何しろ身体も心も強くはなかったからな」
「それは今も変わりありません」
「大坂の水が合わぬ、とお前は言っていたが、そうではないかもしれぬ」
「なぜそう言えるのです?」
「顔さ。面魂と言うのかな。大坂へ行って帰ってくるたびに定まってくる。苦しいこともあるようだが、お前には大坂の水が合っているようだ。少なくとも足守にいる時のお前は虚ろな目をしている。きっとここにいるのはお前の命運ではないのだろう」
「だから大坂へ行け、と仰るのですか」
 そうだ、と兄はうなずいた。だが三平は吐き捨てるように無理だと答えた。
「父上ですよ。父上はもう私を大坂へは行かせないでしょう」
 たしかに瀬左衛門は二度と三平を足守から出すまいと考えていた。親としての心配はもちろんだが、切支丹と付き合う寸前までいく三平を安心して放ってはおけなかった。このままではどんな大事件を引き起こすかわかったものではない。
「随分勝手と思うだろうが、父上にもそして我が足守も今は余計なことに足をすくわれたくはないのだ。それほど切迫している」
 三平は末っ子であり、御役は何もない。そのため藩の情報はほとんど入ってはおらず、深部までは想像できない。ただ足守藩の財政が最悪なことだけは肌感覚で理解はしていた。と言って今回の父の横暴を許す気にもなれない。
「兄上は……」
 三平は沈着に父や自分について話す兄に聞いてみたくなった。兄の命運は何であるのか、ということを。
「父やお前を支えるが我が命運」
 この言葉に三平は驚いた。生涯、このまま足守に埋もれてしまうつもりなのか。だがこの三平の驚きに、馬之助は苦笑した。
「埋もれるとは無礼だぞ。だが、そうではない」
「違うのですか?」
「戦は合戦するだけではない。帰るべき城あっての戦だ」
 馬之助は語る。
 外に出て行く性分もあれば、内を固める性分もある。瀬左衛門と三平は前者であり、馬之助は後者であると言う。だが外に出て行く者だけが偉いわけではない。内を固める者こそ重要なのだと馬之助は胸を張る。
「地味であるがな」
 照れ隠しのためか、馬之助はおどけた口調で語る。
「父上も私もそなたが外に出て御家の役に立つ者になることを望んでいた。だがそれは違ったようだ」
「ご期待に添えませず……」
「ははは。そうではない、そうではない。つまりはだ。お前は足守という小さな所では収まらないということだ」
「それは買い被りというものです」
「ふむ。肉親の贔屓目というものかな」
「……そうでしょう?」
 馬之助は再び笑い声を上げた。
「自分で自分のことはわからぬ。ひいき目かもしれないが、お前は大坂のような地でこそ本来の姿になるのではないかと楽しみにしている。母上もそうお考えだ」
 そう言ってくれた兄に感謝したが、やはりピンとはこない。だがもう足守に籠もって生きていくのも、父の鼻息を伺うのも辟易していることは間違いなかった。
「騂」
 馬之助はまた真顔になって三平を凝視した。
「どちらか選べ。父や兄の頸木を着けたまま生きていくのか。路頭に迷い、命落とすやもしれぬが大坂で生きていくのか」
 まさに究極の選択であった。だが何の代償もない自由などこの世にはないものだ。必ず力を得たならば何かしら犠牲を支払うものである。
「お前はもう子供ではない。一人の武士……いや人にならなければならない歳になった。どうする。このまま芋虫のように生きて安穏とするのか、羽根を伸ばして蒼天を舞うのか」
 蒼天に舞う――。そう言えば家老屋敷の門番の平次も似たようなことを言ってくれた。前回は結局、瀬左衛門の意思で大坂へ戻っていったが、今回は違う。全て三平の責任をもって生き方を考えなければならない。
 責任をもって生きる。それが少年から大人へと変わるということであった。三平が脱皮出来るかどうかの瀬戸際にある。
 馬之助は無言になり、弟の決断をひたすら待った。
 三平は悩む。どうするべきかではなかった。進むか止まるか。止まれば息をしていても人生はもうそこで終わりだ。死を跳ね除けるぐらいに戦ってこそ人生ではないか。
 三平よ、緒方三平よ。意を決せよ。己の人生にするために意を決せよ――。顔を上げた三平は見違えるほど覇気に満ちた「面魂」を宿していた。
「兄上」
 もはや多くの言葉はいらない。この顔一つですべては語られた。
「お前の心、しかと見届けた」
 馬之助は嬉しくあり、寂しげでもあり、そして弟がうらやましかった。三平は微禄たる佐伯家にはいられない運命がある。だがそれは自身の足で歩く自由を選ぶことができる。 馬之助には道が定められている。小さな家とは言え、代々受け継がれてきた佐伯家を惣領として受け継がねばならない。弟のように空を舞うことは許されない。
「騂」
 馬之助はそう言うと、懐から竹皮に包まれた握り飯を取り出した。
「腹が減って、戦はできぬぞ」
 三平はやや顔を赤らめながら、必死になって握り飯をほおばった。
「それと餞別だ」
 今度は銭が入った袋を三平に手渡した。
「兄上、それはいけません」
「大して入ってはおらん。本当はもっとやりたかったのだがな。それぐらいは受け取ってくれ。兄に恥をかかすな」
 馬之助は真剣な表情で強引に三平の懐に銭袋を押しやった。
「今夜行け」
 今夜、家を出て、そのまま国抜け――すなわち脱藩しろと馬之助は言うのである。脱藩は主君を見限る大罪で、残される瀬左衛門も馬之助もそれ相応の覚悟をしなければならない。やはり――と三平が躊躇すると、小さな声であったが馬之助は叱責した。
「蒼天を舞うには覚悟がいる。これぐらいのことでうろたえるな」
「兄上。紙と筆をいただけませんでしょうか」
三平は最後に父に向けて一筆したためたいと考えたのだ。無論、馬之助は承諾をした。それがここまで育ててくれた父への礼であり、いかに脱藩するとはいえ当然のことであった。その日の深夜。三平は兄の手引きで佐伯家を出奔していったのである。

 三平の置手紙を瀬左衛門は食い入るようにして読み進めていた。

 「自分は生まれつき病弱で武士には適していません。ただ蘭学に触れ、医術に接してきていましたが、武士を捨てることは不孝だと考えて申し上げられなかった」

 さすがに歌道で生きていく、とは書けず医術を志すと記していた。だが三平は医術を志すと言った言葉は必ずしも虚言ではなかった。まだ確たる思いはなく、あくまで漠然としていた。だが顕蔵と出会い、その昔自分を疱瘡から救ってくれた医術で身を立てようと思っていたからだ。
 さらに文面は続く。

 「しかし無為に過ごして人の嘲りを受けることもまた不孝だと思うので、あえて暇を賜り、志すところに進むことを許していただきたい。医は疾病を治し、万人を救う法であるため学ばなければならないものです。古来の聖賢も名君も病には勝てず、その病を治す医者の仕事は尊貴だと思うのです」

「……知ったふうなことを」
 瀬左衛門は必死になって意を述べる三平に舌打ちをした。結局のところ、ただ父から逃げ出したいがための口実を累々と述べているだけではないかと感じたからだ。 
「馬之助、父をたばかったな」
「滅相もない」
「御家を捨てるは大罪だ。なぜ、止めなんだ」
「騂は罪など犯してはおりませぬ」
 瀬左衛門は目を剥くようにして馬之助に詰め寄った。
「大夫ですよ。そなたの父は実に頑固だ。兄である私に何とかせよと仰せで」
 それを聞いて瀬左衛門は部屋中に響くほどの舌打ちをした。あの狸め、要らざることを――瀬左衛門は口汚く家老を罵った。
「もはや騂之助は子供にあらず。と言ってこのまま家におればただの厄介者。ならば一人で大坂へ出して勝手に暮らすが御家の為にもなるのでは、と」
 三平には権之助の尽力による修業の命が下されていたのである。つまり三平は脱藩と考えていたが、合法的に足守を出立したことになっていたのだ。合法的である以上、本人はもちろん佐伯家にもお咎めはない。
「ただ――。佐伯の当主は父上です。修業願いは当主がせよと御家の命にござりまする」
 ――はめおったな。
 瀬左衛門は切歯扼腕、悔しくて仕方がない。ここで瀬左衛門がへそを曲げてしまえば、三平は脱藩となり、佐伯家を処罰される。瀬左衛門に選択肢などなく、ただ三平の修業願いを出さざるをえなかった。
「なぜ……騂をそこまで買い被る」
 この問いに馬之助は答えなかった。だが割って入り、答えたのはキョウであった。
「狭いのですよ」
「狭い?」
「あの子にとって足守は狭いのです。だから日々を持て余したのです」
「親馬鹿というものだ、それは」
「旦那様だけですよ。旦那様だけがあの子を知らない」
「馬鹿な」
「御家老様がなぜ佐伯のような小家のためにお骨折りをなされるのです」
「それは……」
「ここまで育て、旦那様はあの子に大坂を見せてあげました。残された親の仕事は一つじゃありませんか」
「残された仕事?」
「信じてやることです。親が子を信じなくてどうするのです」
「だがあいつは切支丹に関わりそうになったのだぞ」
「関わってはいないでしょう。耶蘇に染まるほど器用な子ではありません。旦那様に似て本当に頑固」
 キョウはそう言うと微笑したが、瀬左衛門はこれ以上言い争う元気を喪失させてしまっている。しばらく瀬左衛門は目を閉じ、何事かを考えていた。やがて憮然とした顔つきで立ち上がり、墨をすり始めた。
 ――まさか。
 三平を勘当するつもりではないかとキョウも馬之助も固唾を飲んだ。
「キョウは騂の手紙を読んだか。まったくけしからん。あいつは一体大坂で何をしてきたのか。誤字脱字だらけで、修行が足りておらん」
 三平は興奮しているせいもあって誤字脱字が著しく、文法もおかしい箇所が多々あった。
「戻ってきたら、書き直しをさせる。わしが朱筆で手本を書かねばならぬ……。つまらぬ仕事を増やしおって」
 ぶつぶつと愚痴をこぼしながら、その表情はどこか晴れ晴れとしていた。
 親も親なら子も子だ――。
 改めてそう思うキョウであった。
 時に文政十一年(一八二八)七月。緒方三平、十九歳。
 少年であった季節は終わりを告げ、青年へと三平は静かに脱皮をしていく。夜を照らす蛍たちが足守の川々を飛び交っていた。
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