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5巻
5-1
しおりを挟む第一章 フラジェリッヒ
私、神崎美鈴は、日本で平和に暮らしていたゲームオタクな女子大生だ。それがある日突然、黒い霧の中から出てきた『腕』に引っ張りこまれ、異世界トリップしてしまった。
この世界では真名――本名のことね――を知られたら、魔法をかけられたり、支配されたりする危険がある。だから私はこちらではリィーン・カンザックと名乗っている。
幸運なことに、こちらの世界での私のスペックはかなり優秀。ここの言語は問題なく理解できるし、ゲームのように魔法が使えるし、アイテムボックスまである。その上、人やもののステイタスも見れちゃう。
おまけに私は回復魔法が使える。まあ、ゲームでは『ヒール』は基本だもんね。
でもこの世界――ガイアの箱庭では、回復魔法の遣い手――『癒し手』は数が少なくて貴重なのだ。しかも私の回復魔法は強力で、ステイタスには『黒の癒し手』なんて厨二な称号までついている。
そのおかげで私は、ファンテスマ王国第二王子、レオンハルト殿下の庇護を受けて癒し手として働くことができた。
これまで、ほんとにいろいろ危ない目に遭いつつも、それなりにこの世界に溶け込んで生活しながら、日本に帰る方法を探していた。そんな中、私がお世話になっているレオン殿下の国、ファンテスマが、隣国ギューゼルバーンと停戦協定を締結した。そのため、レオン殿下や青騎士達が王都へ凱旋するのにあわせて私も王都へ向かったのだ――
コルテアの街から王都へ拠点を移してひと月あまり。
私は今、映画やテレビで見るベルサイユ宮殿のような、広くて豪華なホールにいる。
魔道具のシャンデリアが照らす会場には、煌びやかな装いの貴族達が集まっていた。
私もシャンパンゴールドのドレスに身を包み、高く結い上げた黒髪には薔薇の花を模した髪飾りを着けている。まるでロココなお姫様になった気分だ。
「ご尊顔を拝し、恭悦至極に存じます。ヴァルナ・リィーン」
着飾った貴族が、うやうやしい態度で挨拶を述べる。
この〝ヴァルナ・リィーン〟ってのは、私の新しい称号。
直訳すれば〝私達のリィーン〟という意味だ。それを考えると、気恥ずかしくて呼ばれるたびに身体がもぞもぞしてしまう。でも、それがステイタスに表示された私の称号なのだから仕方がない。皆、公式の場で私に呼びかける時はこれを使うしね。
この手のやり取りにもずいぶん慣れた。自然な微笑みを浮かべて挨拶を返すのも、もうお手のもの。
王都に到着した翌日に男爵位を賜り、私は晴れて貴族の仲間入りを果たした。それから生活基盤を整えるため、もろもろの手続きなどに忙殺される日々を過ごしてきた。
そうして今日王城で、ファンテスマの女男爵となった私のお披露目を目的とした式典とパーティが開かれる運びになったのだ。
だって私こと『黒の癒し手』は『ガイアの申し子』かつ、『魔王の半身候補』なのだから。
うん。改めて列挙すると、私の肩書の物々しさに乾いた笑いが出そうになる。
『ガイアの申し子』っていうのは、この世界唯一の神様『ガイア』が特別に力を与えたヒューマン――人間――のこと。彼らは魔力がすごく高いらしい。しかも、もしその人達が迫害されたら、ガイア神が怒って「大地が揺れる」んだって。
だから『ガイアの申し子』は人々に大切にされている。ちなみに女性なら『ガイアの娘』、男性なら『ガイアの息子』ね。
私も魔力がすごく高いせいで『ガイアの娘』だと思われている。本当は違うんだけど。
私の魔力が高いのは『ガイアの娘』だからじゃなくて、異世界人なのが理由だと思うものの、それは王家とほんの一握りの人達だけの秘密。私は『ガイアの娘』としてファンテスマ王家に守ってもらっている。
『ガイアの息子』リリアムを閉じ込めて癒しの術を独占しようと画策していた大神官は、私のことも『言の葉』で縛ろうとしたため捕えられ、更迭された。
この一件から、王都でも癒しの術は神殿から切り離され、今後は診療所で行うこととなった。
その動きは、徐々にファンテスマ王国全土に広がりつつある。
だからこそ、その立役者である私『黒の癒し手』が『ガイアの娘』ではないなんて、絶対知られるわけにはいかないのだ。私が『ガイアの娘』ではないと知られれば、ガイアを信じる人々から反発されることになる。それはレオン殿下の――王家の考えでもあった。なので、嘘をついて申し訳ないと思いつつも、『ガイアの娘』で通している。
『魔王の半身候補』についても、もう有名な話だ。
魔王ノーチェが私のカレシになる少し前、私は隣国ギューゼルバーンに誘拐された。後からそれを知ったノーチェはギューゼルバーン王都に報復の攻撃をしかけ、王城を壊滅させたのだ。
その後、魔界からヒューマン各国に通達が行われた。〝『黒の癒し手』はいずれ紫魂王の半身となる御方ゆえ、『黒の癒し手』に干渉する者は魔界が許さぬ〟と。
だから私がノーチェの……魔王様の半身候補であるという事実は、このガイアの箱庭中に広まっている。
そして、魔王の半身候補となった私が平民のままでは扱いに困るので、ファンテスマ王家が社会的地位として女男爵位を授けてくれたのだ。
このお披露目は、「新しい女男爵『黒の癒し手』をよろしくね」という意味合いよりは、「新しい女男爵『黒の癒し手』は魔王の半身候補だから、絶対に危害を加えるなよ」というファンテスマ王家からの警告の意味が強い。
もちろん、魔界からの警告も――
「あの……マノウヴァさんもガーヴさんも。ずっと私の傍についていていいんですか?」
私は後ろを振り返り、先ほどから周囲を威圧している二人に声をかけた。
「当然」
八公第五位、虎人族ガーヴさんの返事はいつも簡潔だ。
「貴女は我が主の半身候補。お傍を離れるなどできませぬ」
第二位エルフ族のマノウヴァさんも、厳かに頷く。
彼らは今日のお披露目の間、こうやって後ろに控え、ヒューマン達が私に危害を加えないよう目を光らせていた。さらにその後ろには、私の大親友、翼犬のノエルも座っている。
二人は八公と呼ばれる魔族の重鎮だ。
この世界は魔界が中心にあり、その周りをヒューマンの国が取り囲んでいる。魔界には魔城を囲むように八公の城が等間隔に並んでいて、ヒューマンとの折衝は、各方角を守る八公がそれぞれ執り行う。
ファンテスマ王都のある西は、第二位マノウヴァさんの管轄だから、この地で魔界の代表といえばマノウヴァさん。
ガーヴさんの管轄はコルテアのある南西方面のため、王都に彼が来ることは珍しい。けれど、彼には私がコルテアにいる時からお世話になっていた。その縁で、今も私の担当をしてくれている。それで彼も、今日ここに参加しているってわけ。
「今日は王都の貴族達との顔合わせだけですから、そこまで心配していただかなくても……」
私がそう言うと、マノウヴァさんが首を横に振る。
「こういうことは初めが肝心なのです。今日我々が……八公が二人も貴女の後ろについていることで、魔界がどれほど貴女を大切に考えているか、ヒューマン達にもよくわかりましょう。陛下がお越しになれないのですから、この程度は当然かと」
本当は、今日のお披露目にノーチェもついてきたかったらしい。
でもね。ノーチェは魔王様で、この世界の頂点なのだ。ヒューマンの国のパーティに、そう簡単に魔王が出てくるわけにはいかない。だから、代わりによく見張るようにと、ガーヴさんとマノウヴァさんはノーチェから言われたんだって。
結果、貴族達を怯えさせてしまっているのだけれど……
私は、如才なく挨拶をしては後ろの二人を見てびくびくと下がっていく貴族達に、内心でため息をついた。
挨拶が一通り終わると、人々がぞろぞろと移動してホールの中央が広く空けられる。
そこに、金髪の美丈夫が嫋やかな美女を伴って現れた。ファンテスマ国王と王妃だ。
二人が中央に進み出て、互いに向き合う。見つめ合ったタイミングで、楽団がワルツっぽい曲を奏で始めた。
二人が軽やかに踊る。シャンデリアの光に照らされ、身に纏う宝石や金糸銀糸の刺繍がきらきらと輝いていた。うん、まるで宮廷絵巻だ。リアルベルサイユだ。
私からすれば、たくさんの人達に見守られる中、一組だけで踊るのはかなり勇気がいる行為だと思う。だけど、小さい頃から視線を集め続けるだろう王家の人達には、なんてことはないのかもしれない。
本来ならこういうパーティの場合、主賓である私が最初にダンスを踊るらしい。でも、それはあらかじめ魔界からNGが出ている。
いわく、魔王の半身候補に魔王以外の男性は触れるべからず、だそうで。
私としても、やったこともない社交ダンスを人前で踊れって言われなくてほっとしている。
最初に主催者である国王夫妻のダンスがあり、その後は私にはわからない複雑な序列に従って、複数の男女が踊ることになるらしい。
やがて、ため息が出るほど美しい国王夫妻のダンスが終わり、十数組の煌びやかなカップル達が中央に進み出てくる。
綺麗な等間隔を保ち、緩やかな円の形に並んだ彼らは、流れるようにワルツの曲に合わせて踊り出す。
二人だけの踊りも素敵だったけど、こうやってたくさんの人達がくるくると移動しながら踊る姿も、かっこいい。まるで映画のワンシーンみたい。
踊りに加わらない者達は思い思いの場所に集まり、楽しげに話をしたり料理をつまんだりと、大広間には和やかな空気が流れる。
挨拶も終わったし、これで一応のお務めは終わったかな。
私は目の前で繰り広げられる宮廷絵巻を特等席で眺めつつ、ほっと一息ついた。
と、その時――
「リィーン!」
私の名前を叫んだ少年が、飛び跳ねるような足取りで近付いてきた。銀色と見まごう金髪が軽やかに揺れる。『ガイアの息子』リリアムだ。
その小公子みたいな姿からは、彼が齢二〇〇歳越えだとは到底思えない。
「リリアム。挨拶終わったのね。お疲れ様」
リリアムの後ろから付いてくるのは、新しく彼の家令となったバウマンさんと、護衛の青騎士達。向こうもつつがなく今日のお務めが終わったようで、バウマンさんもほっと一安心といった風情だった。
「あ、そうだ。叙爵、おめでとうございます、ザムリィクス男爵」
「ありがとう、カンザック男爵」
そう澄まして挨拶して、私とリリアムは同時に笑う。
ザムリィクス男爵。これがリリアムの新しい名字だ。
平民出身であるリリアムには、本来家名がない。
『ガイアの申し子』として神殿に入った時から二〇〇年以上、彼は『リリアム・メネ・ガイア』と名乗っていた。
この『メネ・ガイア』は、神官達や神殿で働く者達全員が名乗るもの。『ガイアの使徒である』というような意味らしい。
神殿では、もとが貴族だろうと平民だろうと、この名を名乗る決まりだそうだ。おそらく、神殿内の序列や扱いに影響を出さないための仕来りなのだと思う。
神殿を出たリリアムは〝ただの〟リリアムに戻ったのだけど、今までの癒し手としての功績を認められ、今日、国王陛下から爵位を賜ることになった。
同じ『ガイアの申し子』だから扱いは私と同様に一代限りの男爵で、領地の代わりに年金が支払われる。癒し手として働くことが主な職務。
それで、貴族になるにあたり、家名が必要になったってわけ。
新しく家を興すリリアムに、国王陛下が考えてくださった家名が、こちらの言葉で『日光の輝き』を意味する『ザムリィクス』だ。
リリアムは『光の癒し手』だものね。彼らしい家名だと思う。
うんと小さな頃から、二〇〇年以上の時を神殿で暮らしていたリリアムは、神官達によって神殿から出ることを禁じられ、考え方を矯正されていた。そのため、癒しを施すことしか知らない。
神殿から解放された今は、私の屋敷で一緒に住み、社会に出るためのリハビリを続けている。
おかげで最近は、ずいぶん人らしい考え方ができるようになってきた……少しずつ、ね。
まるで幼児退行でもしているのかと思うくらい不安定だった精神も、このところやや落ち着いてきた。
人と触れ合い、身内以外とも自然に会話できるようになったリリアムを見ると、成長したなと母親みたいな気分になってしまう。
大神官の『言の葉』でおかしくなっていた頃は、大神官以外の者と会話すらできなかったそうなのだから、『隷属契約解除』のスキルをくれたガイアに感謝だ。
自由になれて本当によかった。
ガイア……私、ちゃんと約束守ったからね。
「もう、聞いてる? リィーン」
つい考え込んでいた私は、拗ねたようなリリアムの声に我に返る。ごめんごめん。ちょっとお母さん、貴方の成長に感慨深くてさ。
リリアムに微笑みかけてそんな冗談を言おうとした、その時――
「『光の癒し手』様」
ふいに後ろから呼びかけられた声に、二人して振り向いた。そこには、騎士を伴った侍従らしき男性が深刻な表情で立っている。
「なに?」
私との会話を中断させられたリリアムは、少し不機嫌そうに口を開いた。
「ご歓談中、誠に申し訳ありません。火急のことゆえ取次もなくご無礼いたします。『光の癒し手』様に癒しをお願いいたしたく参上仕りました」
侍従がそう言って頭を下げる。
治療という話に、リリアムは不機嫌な態度を改めた。すぐに癒し手の顔になるあたり、リリアムもさすがだ。だてに二〇〇年以上も癒し手をしていたわけじゃない。
「ファムディヒト宮?」
リリアムは侍従の制服に視線を落とすと、そう尋ねる。
ファムディヒト宮とは、王太子の後宮のことだそうだ。王太子妃や側室、その子供達が住むための宮なんだって。
侍従や侍女の着ている制服は、所属によってデザインが変わるらしい。リリアムはずっと王家の治療をしていたから、彼の制服にも見覚えがあって当然か。
ファムディヒト宮ということは、今日癒しが必要なのは、王太子の家族の誰かってことかな。
一刻も早く治療してほしいらしく、「詳しくはあちらで」と侍従がリリアムを促す。
時間が惜しいという理由もあるけど、こんな公の場で、王家の者の病について不用意に話すわけにはいかないからだろう。
今日は招待客も多い。誰が聞いているかもわからないんだから、当然だよね。
リリアムが頷く。侍従は私に視線を向けて「『黒の癒し手』様はいかがなさいますか?」と聞いてきた。
実は、私が王都に住むことになった当初、神殿対策の必要もあって「今後は、王家の治療を『黒の癒し手』に」という話も出ていた。
でも、神殿からリリアムが解放されたことで話は振り出しに戻ったのだ。
だって、リリアムは今まで何の過失もなく、王家の癒し手を二〇〇年以上に亘って務めてきた。
それなのに、実績のある彼を差し置いて私にその役目が与えられたら、リリアムの立場がなくなってしまう。
だから、王家の病気には今まで同様、リリアムが対応することになっている。
とはいえ、王家としては私の癒しの術にも期待しているようで、メインはリリアム、私がサブという立ち位置を考えているみたいだ。
なので、「リリアムの治療を私も見てみたい」と頼むとあっさり希望がかない、私も同席させてもらえることになった。
やった! 本物の『ガイアの申し子』の癒しの術を、一度は見てみたいと思ってたんだよね。
それに、ここでの今日の私のお仕事はもう終わったし、どうせそろそろ帰るつもりだったのだ。
マノウヴァさんとガーヴさんに事情を説明して今日のお礼を言ってから、私達は慌ただしく部屋を出た。
王太子の家族という、大切な存在の治療に同席できる。それだけ『黒の癒し手』の癒しの術を信頼してもらえているのだと思うと嬉しい。
治療はリリアムに任せるけど、何かお手伝いできることがあれば、私もちゃんとしなきゃ。そう考えながら侍従の案内に従い、診察のために用意された部屋へ向かう。
私は、先導する侍従がノエルの方を振り返って何やら言いたげにしている姿を見て、内心ため息をついた。
ノエルは私の眷属で、翼犬という種族の魔族だ。
見た目もその名の通り〝翼のある犬〟という感じなんだけど、サイズは象ほどもある。
体高は二メートル以上。鼻先からお尻までは四メートルくらいの長さで、漆黒の大きな翼を持っている。ふさふさの大きなしっぽが可愛い。
『黒の癒し手』を助けるため、ガイア神が遣わした『ガイアの御遣い』という設定のノエルは、人々に御遣い様と呼ばれ、『黒の御遣い』なんて称号まで持っている。
神の遣いとして敬われてはいるけれど、治療の場にノエルがいることについて恐れる人は多い。なんせ翼犬は巨大な魔族だから。
力も魔力も、ヒューマンなどあっという間に殺してしまえるほど強い。
侍従にしても護衛達にしても、王家の方々の身に何かあればその責を取らされる立場なのだ。たとえそれがガイアの御遣いであっても、安心はできないのだろう。
まあ、気持ちはわかるよ。
だってさ。この人は絶対危害を加えないから大丈夫だよ、と言われても、マシンガンを構えている人の横で安心なんてできないよね。それと一緒。
でも、ノエルがいつも私の傍にいることが、私を狙う人達への抑止力となっているのだ。ノエルに影に入ってもらうわけにはいかない。
彼らの不安を少しでも取り除くため、私は口を開いた。
「ノエルはとても賢くて、ヒューマンの会話をすべて理解できています。私が危害を加えられない限り、いきなり暴れたりはしません」
「御遣い様が暴れるなど、めっそうもございません」
侍従は焦ったように言い募る。
そして、「失礼いたしました」ともう一度頭を下げると前を向き、案内に徹した。
ファムディヒト宮にまで行くのかと思えば、そうじゃないらしい。治療のために別室が用意されているのだとか。といっても、かなり奥まった棟まで行くようだ。
騎士や侍従の手を借りていくつもの結界を抜け、地下に潜ったり妙に見晴らしのいい回廊を通ったりと、複雑な道を進む。
そうして通された部屋で、やっと詳細を聞かせてもらった。
「熱ですか?」
「はい、今朝は少しぐずる程度だったのですが、昼頃より発熱がひどくなられ、たいそうお泣きになりまして」
王太子のお姫様が熱を出したらしい。まだたった二歳の幼児なのだそうだ。
私は、王太子の吸血鬼っぽい青白いイケメン顔を思い出しながら話を聞いていた。レオン殿下のお兄さん、『銀の宝刀』も子供には「パパでちゅよ」とか言ったり……しなさそうだ。
子供はよく熱を出すと従姉妹のお姉ちゃんが言ってた。小さな身体に高熱は辛いだろう。
侍従はある程度の説明を済ませると、深々と頭を下げた。
「まだまだ幼き姫でございます。泣いたり大声を上げたりする可能性もございますが、なにとぞご寛恕くださいませ」
それはリリアムにではなく、私にかけられた言葉だ。
『魔王の半身候補』という立場がそうさせるのだと苦笑しつつ、私は「小さな子供なのですから問題ありません」と答える。
やがて――
たくさんの侍従と侍女、護衛達に囲まれた女性が部屋に入ってきた。その女性の腕の中に、姫らしき幼児が抱かれている。とすると、この女性は乳母かな。
乳母に抱かれ、ぐったりとした姫の姿は痛々しい。
もう泣く体力もないのか、乳母の胸にもたれかかり、時折痙攣するかのようにしゃくり上げるだけで、周りを見る気力もない様子だ。
片手は乳母の胸辺りの布を掴み、もう片方の手は犬のぬいぐるみをしっかりと抱きしめている。
わあ、こちらにきて初めて見た。ぬいぐるみ。
ぬいぐるみといっても、アンティークもののテディベアみたいな、いかにも高級感あふれるものだった。見る限りでは本物の毛皮っぽい質感。
幼児が持つには重たそうなのに、しっかりとその手を離さないのは、相当このぬいぐるみが好きなんだろう。もしかして、犬が好きなのかもしれない。
観察する私をよそに、乳母がリリアムに姫の病状を説明している。
うん、ちゃんと診察を見なきゃね。
私は興味本位の観察をやめ、癒し手の目で姫を見た。
そして、自分ならどう治療するかを考える。
子供特有の病気とかもあるよね。どうしよう?
幼児の治療は経験がない。従姉妹の赤ちゃんにもそう頻繁に会っていたわけではないから、乳幼児については、ほとんど知らないと言っていい。
いつか私も幼児の治療をすることがあるかもしれない。ちゃんと勉強しなきゃ。
ええっと。
熱があるからと言って、単純に熱を下げるだけじゃだめだよね? でも、こんなに苦しそうなんだから、まずは熱冷ましで、その次に熱の原因となる病気を治すって感じかな?
こんな時にも、リリアムなら『治れ』の一言なんだろうけど、私はそうはいかない。ちゃんと一つずつ状況を見極めないと。
とはいえ、私には日本で得た雑多な知識がある。それは断片的な一般常識程度のものだけれど、それだけでも、この世界の人にはないアドバンテージだ。
発熱は体温を上げることで病原体の増殖を防ぎ、身体を守ろうとする防御反応だと、日本で育った私は知っている。
熱が高いからといって熱を下げるだけでは、何の解決にもならないってことね。
今までの患者は大人だった――子供もいたけど、ちゃんと話のできる年齢だった――だから、自分の身体の具合について、しっかり説明できた。
自分で話せないほどの幼児は初めてだ。
とりあえず乳母に、水分はちゃんと取らせているかとか、嘔吐や下痢はあるかなどについて質問する。
嘔吐や下痢の症状はないそうだ。また時折汗を拭いたり着替えさせたりして、湯冷ましを飲ませて安静にしていたと説明を受けて安心した。
発熱に対するこの程度の処置は、こちらでも常識なんだろう。
リリアムの邪魔にならないよう、そっと『スキャン』を唱える。
すると、姫の身体全体がぼんやりと赤くなった。なんとなくお腹の辺りに集中している気がする。
『スキャン』は、身体の中の悪いところを表示するための魔法だ。つまりお腹を中心にして、全体的に悪いということかな?
食べ物にあたったか、風邪か、そこまではわからないけど。
発熱は免疫力を高めるためなんだから『免疫力向上』をしてやれば、その分早く病原体を倒すことができるのかも。
と、つらつらと考えていたら――
『治れ』
リリアムが一言、呪文を唱える。
効果は絶大だった。
ぐったりと乳母の胸に頭をあずける小さなお姫様は、さっきみたいな浅い呼吸ではなくなっている。
「これで終わり?」
「また明日も診る」
なるほど、何回か診察しつつ、『治れ』と唱えて様子を見るのか。
姫は乳母の胸にもたれて眠り始めたようだ。睡眠は大切だよね。ゆっくりお休み、お姫様。明日にはもう少し元気になっていると思うよ。
明日もまた来ますという話を侍従と交わし、跪かんばかりに礼を言う乳母や侍従に挨拶を返して、私達は部屋をあとにした。
「すごいね、リリアム」
どんな治療も『治れ』の一言。私にはない、本物の『ガイアの申し子』のチートに感心して声を上げると、リリアムは肩を竦めて答える。
「リィーンは抉れた骨を一度の癒しで繋いでみせたそうじゃないか。リィーンの方がすごいよ」
リリアムの『治れ』でも、時間をかければ骨折程度なら治すことができるらしい。そういえば前、誰かにそんな話を教えてもらったような気がするな。
詳しく聞くと、リリアムの治療は『治れ』の一言だけど、それ一回ですべてを治せるものではないのだそうだ。
応援ありがとうございます!
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