海辺の町からもう一度

中田カナ

文字の大きさ
上 下
8 / 8

最終話 パートナー

しおりを挟む
「今だから白状しますけど、療養所で働く人達は不必要に入所者に話しかけてはいけないという暗黙のルールがあったんです」

 ようやく泣き止んだ彼女は、私が差し出したホットミルクを飲みながらぽつりぽつりと話し出す。

「もちろん声をかけられれば話し相手にはなりますし、何か話したそうにしていたら察してこちらから声をかけることもありますけど。だけど先生にはそのルールを破って私から声をかけたんです。覚えてますか?」
 そう、療養所で最初にまだ幼かった彼女から声をかけられた。それまで子供と接する機会がなかったので、とまどったことをよく覚えている。
「もちろん覚えてるよ。だが、どうして?」

「療養所に来たばかりの頃の先生は、なんだかすぐにでも消えてしまいそうだったから」
 あの頃の私は親友と恋人の裏切りで人間不信に陥り、生きる気力も欠けていたと思う。彼女がそう感じたのもわからなくはない。


「あの療養所は、いろんな人が来ては去っていきました。ほとんどは無言の帰宅でしたけどね」

 今まで考えもしなかったが、彼女は幼い頃からあの療養所でたくさんの死や別れを見つめてきたのだろう。そしてそれが彼女の作品の根底にあるのかもしれない。

「でも、先生は先がある人だから、少しでも前を向いて欲しかった。お医者さんが声を出したり話したりするのがいいって言ってたのを聞いてたから、私から話しかけたり本の朗読をせがんだりしたんです」

 そうだったのか。
 あの頃の私は小さな主治医がいたおかげで早く立ち直れたのかもしれない。

「本を読んでくれる先生の声が好きでした。頭をなでてくれる温かくて大きな手が好きでした。もちろん今も大好きですよ」

 泣き止んで私に向けた彼女の笑顔はとても愛おしかった。



 彼女が使用人から人生のパートナーとなり、書類の上でも正式にパートナーとなった頃。

 下の階の弁護士事務所がもっと広いところへ移ることになったので、その後を私が借りることにした。そろそろ仕事の資料が収まりきらなくなってきたからだ。
 3階建ての最上階は今までどおり住居とし、新たに借りた2階を仕事用とした。もちろん彼女専用の仕事部屋もある。


「なぁ」
 3階建ての最上階で朝食のパンをかじりながら彼女に話しかける。
「何ですか?」

「もし私が昔のようにひげを生やしたいって言ったら君はどう思う?」
「止めはしませんよ。似合うかどうかは別問題ですが。でも、キスする時に邪魔になったり痛かったりするようならやめてほしいかも」

 そして彼女は珈琲を一口飲んでから言った。

「ああ、それから昔のように『おじさん』ってうっかり呼ぶかもしれませんね」

 私はひげを断念した。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

仮の彼女

詩織
恋愛
恋人に振られ仕事一本で必死に頑張ったら33歳だった。 周りも結婚してて、完全に乗り遅れてしまった。

一目惚れ

詩織
恋愛
恋も長くしてない私に突然現れた彼。 でも彼は全く私に興味なかった

大人な軍人の許嫁に、抱き上げられています

真風月花
恋愛
大正浪漫の恋物語。婚約者に子ども扱いされてしまうわたしは、大人びた格好で彼との逢引きに出かけました。今日こそは、手を繋ぐのだと固い決意を胸に。

振られた私

詩織
恋愛
告白をして振られた。 そして再会。 毎日が気まづい。

社長室の蜜月

ゆる
恋愛
内容紹介: 若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。 一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。 仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

台本どおりに恋をする

中田カナ
恋愛
見合いの打診を退けるために恋人役を探すことにした。(全5話) ※小説家になろう、カクヨムでも投稿しています。

ダイヤモンドは語らない

中田カナ
恋愛
声を出せない私は魔道具とともに当たり前の日常を生きていく。(全6話) ※ 小説家になろう、カクヨムでも掲載しています

雇われ妻の求めるものは

中田カナ
恋愛
若き雇われ妻は領地繁栄のため今日も奮闘する。(全7話) ※小説家になろう/カクヨムでも投稿しています。

処理中です...