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最終話 パートナー
しおりを挟む「今だから白状しますけど、療養所で働く人達は不必要に入所者に話しかけてはいけないという暗黙のルールがあったんです」
ようやく泣き止んだ彼女は、私が差し出したホットミルクを飲みながらぽつりぽつりと話し出す。
「もちろん声をかけられれば話し相手にはなりますし、何か話したそうにしていたら察してこちらから声をかけることもありますけど。だけど先生にはそのルールを破って私から声をかけたんです。覚えてますか?」
そう、療養所で最初にまだ幼かった彼女から声をかけられた。それまで子供と接する機会がなかったので、とまどったことをよく覚えている。
「もちろん覚えてるよ。だが、どうして?」
「療養所に来たばかりの頃の先生は、なんだかすぐにでも消えてしまいそうだったから」
あの頃の私は親友と恋人の裏切りで人間不信に陥り、生きる気力も欠けていたと思う。彼女がそう感じたのもわからなくはない。
「あの療養所は、いろんな人が来ては去っていきました。ほとんどは無言の帰宅でしたけどね」
今まで考えもしなかったが、彼女は幼い頃からあの療養所でたくさんの死や別れを見つめてきたのだろう。そしてそれが彼女の作品の根底にあるのかもしれない。
「でも、先生は先がある人だから、少しでも前を向いて欲しかった。お医者さんが声を出したり話したりするのがいいって言ってたのを聞いてたから、私から話しかけたり本の朗読をせがんだりしたんです」
そうだったのか。
あの頃の私は小さな主治医がいたおかげで早く立ち直れたのかもしれない。
「本を読んでくれる先生の声が好きでした。頭をなでてくれる温かくて大きな手が好きでした。もちろん今も大好きですよ」
泣き止んで私に向けた彼女の笑顔はとても愛おしかった。
彼女が使用人から人生のパートナーとなり、書類の上でも正式にパートナーとなった頃。
下の階の弁護士事務所がもっと広いところへ移ることになったので、その後を私が借りることにした。そろそろ仕事の資料が収まりきらなくなってきたからだ。
3階建ての最上階は今までどおり住居とし、新たに借りた2階を仕事用とした。もちろん彼女専用の仕事部屋もある。
「なぁ」
3階建ての最上階で朝食のパンをかじりながら彼女に話しかける。
「何ですか?」
「もし私が昔のようにひげを生やしたいって言ったら君はどう思う?」
「止めはしませんよ。似合うかどうかは別問題ですが。でも、キスする時に邪魔になったり痛かったりするようならやめてほしいかも」
そして彼女は珈琲を一口飲んでから言った。
「ああ、それから昔のように『おじさん』ってうっかり呼ぶかもしれませんね」
私はひげを断念した。
ようやく泣き止んだ彼女は、私が差し出したホットミルクを飲みながらぽつりぽつりと話し出す。
「もちろん声をかけられれば話し相手にはなりますし、何か話したそうにしていたら察してこちらから声をかけることもありますけど。だけど先生にはそのルールを破って私から声をかけたんです。覚えてますか?」
そう、療養所で最初にまだ幼かった彼女から声をかけられた。それまで子供と接する機会がなかったので、とまどったことをよく覚えている。
「もちろん覚えてるよ。だが、どうして?」
「療養所に来たばかりの頃の先生は、なんだかすぐにでも消えてしまいそうだったから」
あの頃の私は親友と恋人の裏切りで人間不信に陥り、生きる気力も欠けていたと思う。彼女がそう感じたのもわからなくはない。
「あの療養所は、いろんな人が来ては去っていきました。ほとんどは無言の帰宅でしたけどね」
今まで考えもしなかったが、彼女は幼い頃からあの療養所でたくさんの死や別れを見つめてきたのだろう。そしてそれが彼女の作品の根底にあるのかもしれない。
「でも、先生は先がある人だから、少しでも前を向いて欲しかった。お医者さんが声を出したり話したりするのがいいって言ってたのを聞いてたから、私から話しかけたり本の朗読をせがんだりしたんです」
そうだったのか。
あの頃の私は小さな主治医がいたおかげで早く立ち直れたのかもしれない。
「本を読んでくれる先生の声が好きでした。頭をなでてくれる温かくて大きな手が好きでした。もちろん今も大好きですよ」
泣き止んで私に向けた彼女の笑顔はとても愛おしかった。
彼女が使用人から人生のパートナーとなり、書類の上でも正式にパートナーとなった頃。
下の階の弁護士事務所がもっと広いところへ移ることになったので、その後を私が借りることにした。そろそろ仕事の資料が収まりきらなくなってきたからだ。
3階建ての最上階は今までどおり住居とし、新たに借りた2階を仕事用とした。もちろん彼女専用の仕事部屋もある。
「なぁ」
3階建ての最上階で朝食のパンをかじりながら彼女に話しかける。
「何ですか?」
「もし私が昔のようにひげを生やしたいって言ったら君はどう思う?」
「止めはしませんよ。似合うかどうかは別問題ですが。でも、キスする時に邪魔になったり痛かったりするようならやめてほしいかも」
そして彼女は珈琲を一口飲んでから言った。
「ああ、それから昔のように『おじさん』ってうっかり呼ぶかもしれませんね」
私はひげを断念した。
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