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第9巻 想いを繋ぐ 異国の紳士・サイア 前編
しおりを挟む尚樹『さあ、行こうか。』
ノアール『……』
尚子『ノアールちゃん、前の時から一年だから、我慢しないと駄目よ。』
ノアールはまもなく二歳になる。人間と同じで猫にもワクチン接種という物があり、彼女が最後に接種してから一年が経った。子猫は生後二か月~三カ月以内に一度ずつ接種する。その後、暫くは一カ月毎の摂取になるらしい。成長するにしたがって段々と間隔が長くなり、生後一年を経過すると一年毎の摂取になる。外出しない家猫の場合は三年に一度でもいいらしいが、彼女は頻繁に外を出歩き多くの猫と接する。今日はノアールがワクチン接種の予約を入れた日だ。
家を出る時も車に乗ってもノアールは無言のまま、かなりご機嫌斜めの雰囲気だった。彼女は病院が大嫌いだ。ワクチン接種や擦り傷などで何度かは、主治医の動物病院に通院しているがいつもこんな感じだった。しかし…ノアールも医者の重要性や有難みはわかっている。ワクチン接種が外で調査する彼女に、必要な事も充分理解している。ノアールは渋々だが文句も言わずに不機嫌な顔で、車に乗り病院にやってくる。
尚子『着いたね。さあ、早く済ませて帰ろうね。』
ノアール『………』
受付を済ませ待合室の椅子に座って待った。ノアールはどっちの先生になるのか、気にしながら黙って尚子の膝の上にいた。神宮寺動物病院には医師が二人いる。六十歳を越えた優しい男性の院長先生と、三十歳位の女医、院長の娘だ。院長は神宮寺進、女医は神宮寺樹里という名前だった。ノアールはどうも娘の方が苦手なようだ。ノアールが言うには…院長は優しく丁寧だが樹里はガサツで扱いが荒いそうだ。一応、希望として院長の診察をお願いしてあった。
待合室で待っていると、診察室の中から声が聞こえてきた。女医、神宮司樹里の声と患者の飼い主の声だ。なんだか飼い主が困った感じで訴えている、樹里は冷静に答えている感じだ。医師としての腕は院長よりも樹里の方が上だ。最新の医療知識や心療的な事も勉強している。ただ…荒くてガサツなのだそうだ。診察室の扉が開き、飼い主に抱かれたメス猫と樹里が出てきた。
樹里『どこも悪い所はないんですけどね。何か心の問題かしらね。』
飼主『先生、ご飯もあまり食べないし、動きも悪いし。本当に大丈夫でしょうか?』
樹里『ええ、悪い所はないですから。あら、ノアールちゃん来たのね。院長はまだ診察中だから、私がワクチン接種しましょうか。』
ノアールは嫌な顔をして尚子の膝の中に顔を伏せて、樹里の声など聞こえないといった感じで見ようともしなかった。そこに樹里が存在しないとでも言いたそうだ。ノアールは何とか樹里から逃れて、院長に接種して貰おうと思っていた。《冗談じゃないわ…》早く院長先生が来ないか…ノアールは頑なに尚子の膝に顔を伏せていた。
樹里と飼い主が話している時に、飼主に抱かれたメス猫がノアールに気づいた。突然、大きな声で鳴き出し飼主の胸から抜け出すと、ノアールの近くに寄ってきた。必死に話しかけるメス猫…ノアールは《全く…》とぼやきながら、尚子の膝から顔を上げメス猫の方を振り返ってみた。この先は猫語を日本語に訳して進める。
メス猫『姫神様、お願いします。相談に乗ってください。』
ノアール『なあに…私も取り込み中なのよ…まあ、いいわ。何か悩みがあるの?』
メス猫『はい、実は…』
メス猫はノアールに抱えている悩みを打ち明けた。足元にひれ伏し救いを乞うような姿勢で、ノアールの前で小さな声で話し続けた。ノアールは黙ってメス猫の話を聞いていた。飼い主は二匹が話す不思議な光景を見て、無言で立ち尽くしていた。神宮寺樹里はノアールが有名な、黒猫のノアールという事は知っていた。しかし…ノアールが探偵業で活躍する姿を見た事はない。樹里にしてみればノアールは普通の可愛い黒猫ちゃんだった。目の前にいるノアールは病院で見る彼女とは違っていた。樹里はノアールに威厳と風格を感じた。五分間ほどメス猫の話を聞くと、尚樹に意識を送り詳細を伝えた。メス猫は飼い主の元に戻り、胸の中に抱かれていた。
ノアール『ミャ』
尚樹『はい、わかりました。所長の話を伝えますね。その子はどうやら片思いの猫がいるようです。キジトラの雄、画像を見るに五歳位の大きなネコです。野良猫ではないですね、首輪をしていますから。近所で飼われていると思います。最近、キジトラの姿が見えなくて心配なんだそうです。』
飼主『え?この子が黒猫ちゃんに言った?え?』
尚子『心当たりはないですか?キジトラの猫ちゃん』
飼主『え?ええ、あります。ご近所というか、少し離れていますけど、飼い猫でいますよ。たまに家の前でみかけていたかも』
尚樹『最近、見てないでしょう。もし、飼い主が知り合いなら聞いてみてください。出来ればその子も連れて行って。』
飼主『は、はい。わかりました…先生、どういう事なんでしょう。』
樹里『多分、本当の事だと思います。だって、この黒猫ちゃん。探偵社・黒猫のノアールの所長ですからね。』
飼主『ええ!あの黒猫のノアールですか。有難う御座います、早速、訪ねてみます。』
飼主とメス猫は礼を言うと、足早に病院を出ていった。恐らくその足でキジトラの家に向かうのだろう。メス猫は安堵の表情を浮かべていた。飼主の去った待合室では、樹里とノアールの駆け引きが始まっていた。樹里が診察室にノアール達を招くが、ノアールは一向に応じようとはしない。尚樹も尚子も所長の意思を軽んじる訳にもいかず、椅子から立つ事も出来ないでいた。尚子が仕方なく立ち上がり、樹里の耳元で事情を説明した。
尚子『樹里先生、実はね……』
樹里『え~、そんなに荒っぽかったかしら。そっか、御免なさい。ノアール様、丁寧に致しますのでお入り頂けますか?』
ノアール『…ミャ~…』
ほんとう~?疑う様な瞳で樹里を見上げ、下を向いて溜息をつくと、ノアールは尚樹を促し診察室に入った。樹里は丁寧に丁重にノアールに接した。後ろ脚の前回接種した箇所とは違う個所に、そっと優しく注射針を打ち込んだ。針が刺さった時、一瞬ビクッとしたが痛みは殆どなかった。ノアールは満足気味に樹里を見つめた。
ノアール『ミャ!』
尚樹『今日の応対は良かったと言っていますよ。』
樹里『そう!良かったわ~。ノアール様、これからは気をつけますから嫌いにならないでね。さっきの待合室での事は驚いたわ、本当に黒猫のノアールって凄いのね。』
院長『やっと診察が終わったよ。ノアール嬢、お待たせしちゃったね。ワクチン打とうか。』
樹里『もう私が打ったわよ。』
院長『ええ?おかしいな…樹里の事は嫌がっていたはずなんだけどな。』
別の診察を終え診察室に入ってきた院長に、樹里が事の次第を説明している。樹里が患者の相談を受けて話を聞くノアールの姿に、尊厳の気持ちを抱いた事を院長に話していた。ノアールは注射された箇所を気にして、二人の話には関心がないようだ。尚子も二人の会話に交じって、笑いながらノアールが病院に来るまでの事を話した。
院長『そうか、そんな事があったのか。樹里、ノアール嬢は凄いだろう。』
樹里『ええ、驚いたわ。これからはノアール様とお呼びしますよ。尚樹さんも尚子さんも凄いね。猫ちゃんと話せて猫ちゃんの気持ちがわかるなんてさ。私なんか猫ちゃんの心療医の勉強をしているけど、わからならい事ばかりで困る事ばかりよ。』
尚子『ネコちゃんと話せるのは尚樹さんだけよ。私はノアールちゃんとは意思の疎通が何とか出来るけど、それ以外のニャンコちゃんとは無理だもん。私は本来の探偵スキルと格闘術がメインかな~』
尚樹『僕も全部の猫さんとは難しいですよ。人に近い進化した猫ちゃんだけですよ。それ以外の猫さんはノアール嬢が聞いてから伝えて貰っています。』
樹里『三人三様なのね。いいトリオね。』
院長『そうだ、樹里。あそこの施設の事を相談したら?』
樹里『あそこの?あ~、保護ネコの事ね。そっか、黒猫のノアールなら何とかしてくれそう。』
神宮寺樹里は病院での診療の傍ら、保護ネコ施設のボランティアもやっている。保護された猫達の治療や健康相談、心理面の相談を担当していた。保護ネコ施設はNPО法人が運営しており、主に支援者の会費や募金で賄っている。保護ネコの譲渡にも注力し、人と猫を繋ぐ事も法人の大きな役割になっていた。近年では飼えなくなって施設に持ち込まれたり、飼い主が亡くなり施設に来る猫も多い。飼い主の高齢化と猫の寿命が伸びている事が要因だろう。
保護ネコ施設の名称は《ニャンコの住処》住宅街から少し離れた場所にある、倉庫のような建物を保護ネコ施設に改装した。外観は倉庫だが中に入ると猫が寛げる広い空間がある。寝転んだりじゃれたり遊んだり…猫達は自由に過ごして引き取り手を待っていた。広い空間の裏にも幾つか狭い空間があり、猫ゲージがあり夜間はそこで過ごす。怪我や病気の猫には、隔離された部屋も用意された。その中に一匹、気になる猫がいるそうだ。
樹里『シャムネコの雄でなん歳になのかは不明なんだけど、十歳以上だと思う子がいるの。心を開かないというか…いつも一人で外を見ているわ。他の猫とも交わろうとしないし…もう、施設に来て三カ月になるのに。』
尚子『捨て猫なの?』
樹里『違うみたい。飼えなくなったとかで持ち込まれたそうよ。後姿に哀愁がただよっていて、凄く気になるのよ。』
樹里は施設には週に一度、病院の休診日の木曜日に行っていた。月に一度の譲渡会がある時は、開催される日曜日にも顔を出していた。神宮寺動物病院の休診日は、毎週木曜日と日曜日の二日間だ。神宮寺樹里は休日の半分以上を、保護猫施設のボランティアに費やす…猫が大好きな優しい女性の様だ。ガサツで荒っぽいのも確かだが…。樹里は悲しそうな瞳の中に甘えるような色を出しながら、ノアールをみつめ保護施設の話をしていた。
ノアール『…ミャ~…ミャ』
ノアールは『仕方ないわね』と言うと、樹里の中にあるシャムネコの情報を辿った。スラっとした体形、大きな瞳…かなり美形の雄猫だ。毛艶も良く大事に育てられた感じがした。大きな瞳の中に悲しみと愁いを感じる。まるで世捨て人…いや…世捨て猫のような哀愁を帯びていた。ノアールもシャムネコの事が気になり始めていた。
尚樹『行くそうですよ。いつにしますか?』
樹里『ほんと!ノアールちゃん有難う。』
次の週の木曜日、尚樹と尚子とノアールは、樹里の車で保護施設に向かっていた。施設は探偵社から十五分ほどで、神宮寺動物病院からも同じくらいだ。探偵社に迎えに来た樹里は、病院にいる時とは違って見えた。白衣を着ていない事もあるが、仕事の時の厳しい表情がない。ノアール的には荒々しさが無い…ということなのだろうか。
樹里『ノアールちゃん…うん?何か変かしら…』
ノアール『ニャ、ミャア~』
尚子『病院の時とは雰囲気が変わるわね…所長も驚いているみたい。』
ノアールは驚いていたわけではない…ガサツさや乱暴さを表面的にはわからなくする…人の女性は服装や髪形、化粧で化ける…野獣の気配を隠す尚子をずっとみてきたノアールは…人の女性の変身の速さに呆れていいただけだ。保護施設には十一時に着いた。簡素な建物で外から見ただけでは、猫の保護施設とは思わないだろう。正面玄関に掲げられた看板には《ニャンコの住処》と書いてあるだけだ。
尚子『これじゃ施設の目的もわからなわいね。何かもっとさ…ニャンコちゃんをアピールする感じにした方がいいよ。』
樹里『アピールって?』
尚子『壁にネコの絵を描くとか、写真を貼るとか…引き取り手を探すだけじゃなくニャンコの良さや可愛らしさを、たくさんの人に知って貰えば飼いたいっていう人も増えるよ。』
樹里『そうね、確かに。猫カフェとかも流行っているみたいだし。ねえ、尚子ちゃん。後で運営責任者と話してみるから同席してよ。』
建物の中に入ると網のゲートがあり、その中が保護猫達の遊ぶスペースになっていた。外で暮らした猫は隙があれば、部屋から逃げ出してしまう。その為に玄関に入った脇の、猫のスペースに入る場所に網のゲートを造った。右側は事務机が幾つか並んだ事務所兼受付になっていた。事務所にはボランティアの女性が二名と、理事長の草薙春奈(くさなぎはるな)の三人が施設運営に関わっていた。
草薙春奈。今年三十九歳になる高校一年生と、中学一年生の娘を持つ女性だ。夫は草薙俊美(としみ)という人で、今年四十二歳…厄年だ…になるサラリーマンだ。俊美はペットグッズやフードの販売会社で働いており、春奈も同じ会社で働いていた。お互いに動物が…特に猫が好きだった事で意気投合し、やがて恋に落ちて付き合う事になった。その後二年の交際期間を経て、春奈が二十三歳の時に結婚した。
春奈は二十五歳の時に、長女の出産を機に退職している。会社は春奈を慰留したが子育てと仕事の両立は、自分に向かないし両方とも疎かになると思ったそうだ。自宅でも二匹の猫と一緒に暮らし、二人の娘と二匹の猫に囲まれて、幸せな生活を送っていた。現在、夫の俊美は仙台市に単身赴任中で、市川の家で娘二人と暮らしている。
地域猫活動や保護猫活動は、次女が小学校に上がった七年前から始めた。周辺の野良猫の保護活動を仲間を集めて始め、四年前にNPО法人を立ち上げ、猫の保護、譲渡活動や飼育相談等も行っている。二人の娘も時間があれば施設に出向き、母の手助けをしていた。ペットフード類は夫の会社でもあり、自分の勤めていた会社でもある販売会社から、消費期限間近の物を無償で提供してもらっていた。猫のペット数が増えれば、会社にとってもプラスになる。俊美の会社は支店所在地で、同じ様な施設への支援も行っている。
樹里『こんにちは。春奈さん、猫ちゃん達の様子はどう?』
春奈『樹里先生!ちょうど良かったわ、茶トラの子猫の調子がね、ちょっと診てくれる。』
樹里『了解。その前に紹介するわね。えっと、ノアール所長と副所長の本条さんと野上さんよ。』
春奈『ノアール所長??…え!まさかあの黒猫のノアール?』
ノアール『ミャッ』
樹里『あの子の…シャムネコの相談をしたの。私は茶トラを診察して来るから、ノアール嬢、お願いしますね。春奈さん、案内をお願いできますか。』
春奈は目を丸くして、黒いノアールをみつめていた。ノアールが急かすように鳴くと、我に返りゲートを開けて中に案内してくれた。ゲートの中には八匹の猫が遊んでいた。ノアールが部屋の中に入ると猫達に、緊張感が走ったような感じを春奈は受けた。八匹の猫は床に座り動かずに、ノアールが部屋に入るのを出迎えているようだ。
春奈『猫ちゃん達にはわかるのね…こんな光景は初めて見るわ。』
問題のシャムネコは部屋の奥にある、窓のへりの上に横たわり窓の外をじっと視ていた。ノアールがそっと近づき窓のへりに乗り、シャムネコの隣に座った。シャムネコもノアールに気が付き、横に向き直して二匹は眼を合わせた。尚樹は窓の近くで二匹を見守り、尚子は春奈と少し離れた所から視ていた。シャムネコにノアールが話しかけた。ここからは猫語を日本語に訳して進める。
ノアール『随分、寂しそうな眼をしているのね。お名前は?』
サイア『私の名はサイア、もう十七年も生きている。君が噂の姫神様か。ここの子達が話しているのを聞いたよ。』
ノアール『サイア、何か事情がありそうね。どうして、ここに来たの?』
サイア『…話したところでどうにもならないだろう。しかし…君は不思議なオーラを放つね…聞いて貰うか…』
サイアが静かに語り始めた。彼はイギリスのロンドンで産まれたそうだ。イギリス人の男性と日本人の女性の夫婦の家で産まれた。サイアの両親もこの夫婦と一緒に暮らしていた。夫の名はレオ、妻の名は麗子。十二年前当時のイギリスは六十五歳が民間企業の定年だった。二千六年にレオが定年を迎え、二人は日本で暮らす事を決めた。元々レオは日本が好きで、何度も日本に来て妻の麗子と知り合った。日本に来た時レオは六十五歳、麗子は六十三歳だった。
レオと麗子とサイアは麗子の故郷でもあり、二人が出会った街でもある古都、鎌倉に居を構え暮らし始めた。夫婦には長女と長男の二人の子供がいる。二人の子はロンドンに居住し、年に一度くらいのペースで日本に来ては、鎌倉の両親と会っていたそうだ。二年前にレオが亡くった時、二人の子供は麗子にロンドンに戻るように勧めたが、夫の愛した鎌倉の地を麗子が離れる事は無かった。
夫の過ごした最後の地でレオとの想い出に浸りながら、一緒に散歩した小路を歩くのが麗子の日課になっていった。サイアは常に麗子に寄り添い、レオの分まで麗子を支えていた。麗子もサイアにレオの面影をみていたようだ。レオが亡くなった事は悲しかったが、麗子にとって死は終わりではない。ロンドンで二人はスピリチュアリズムを信じ、そういった協会に所属し交霊会にも参加した。霊魂は不滅であり死後の世界を信じていた。
麗子『サイア、レオは傍にいないの?貴方には視えているんじゃない?』
麗子は時折、サイアにレオの存在を尋ねたりしていた。鎌倉で暮らす麗子は常にレオの影を感じていた。自分の背中を背後から優しく見つめる視線を感じていた。しかしその視線はサイアの視線だった。レオは臨終の時にサイアに麗子の事を託していた。サイアはレオとの約束を守り麗子が楽しく暮らせるように、レオの分まで全身全霊をかけて見守っていた。ロンドンに来るように誘っていた子供達も、鎌倉で穏やかに過ごす母の顔を見て、日本での暮らしを認めるしかなかった。
四カ月前、玄関で麗子が躓き転んでしまったそうだ。サイアがほんの少し目を離した時だった。痛がる麗子の傍に付き添い、手や頬を舐め乍ら大きな声で助けを呼んだ。幸い近所に住む方がサイアの声に気づき、倒れている麗子をみて駆け寄ってくれた。そのまま救急車が呼ばれ麗子は病院に入院した。七十五歳になった麗子の怪我は、足首と手首の骨折だった。骨も若い人と比べれば脆くなっている、手を付いた時に手首も折ってしまったようだ。
連絡を受けたロンドンの子供達は、驚いてすぐに日本に駆け付けた。麗子が怪我をして二日後、病院の一室で子供達はベッドに横たわる麗子をみた。穏やかな表情だったが包帯とギプスが痛々しい母の姿は、子供達の心を動揺させた。医者と面談した際、骨折した足首と手首が完治しても、年齢の影響で今まで通りの生活は難しいだろうと伝えられた。
サイア『レオと麗子の子供達は立派な優しい人だ。両親想いでな。だから仕方ないんだよ。』
二人の子供達は麗子をロンドンに連れ帰る事にした。まだ傷の癒えない麗子には告げてはいないが、家の片づけや身の回りの整理を始める事にした。二人の子供が鎌倉の家に行くと、心配そうに待つサイアの姿があった。サイアは二人の子供が結婚し、家を出た後に生まれている。二人の子供達との接点は、彼らが実家に来た時に限られていた。しかしサイアとレオ、麗子の関係性を子供達は理解していた。当然、サイアも連れて帰るつもりでいた。
動物の海外渡航の手続きは、非常に困難で面倒な手続きが多い。予防接種やらが数カ月に及びその上で出国する日本の検疫と、入国するイギリスの検疫を通らなければならない。ワクチン接種後の抗体確認だけで三カ月はかかってしまう。その時間のかかる面倒な手続きの為、最初にサイアの掛かりつけ医に事情を話し、ワクチン接種をお願いした。病院の先生は少し曇った表情で、子供達にこう告げた。
先生『お気持ちはよくわかります。しかし…サイアちゃんは十七歳です、人間なら八十歳を越えた高齢者なんですよ。飛行機での移動なんて出来ませんし、船でも…お勧めできませんね。』
レオと麗子が日本に渡航する時、サイアを抱いて船に乗り込む二人を子供達は見送っていた。子供達は両親は日本に行くついでに、船で世界中を巡るのだと思っていた。しかしそれは違っていた。二人はサイアの事を思って猫の身体に一番負担の少ない方法を選んでいたのだ。飛行機での移動となると動物は《荷物扱い》になる。尚樹と尚子が地方の調査にノアールを連れていく時、電車や車を使い飛行機は絶対に使わないのもそれが理由だ。
獣医の言葉に子供達は困ってしまった。母・麗子にとってサイアは自分達以上に大切な存在に思えていた。長女が嫉妬するほど麗子とレオはサイアを信頼していた。サイアを置いて行く事を麗子は納得するだろうか…いや、絶対にしないだろう。家に戻った子供達は今後の事を話し合った。
長男『姉さん、どうしよう…母さんは絶対に駄目だって言うよ。』
長女『でも今の母さんを日本に置いていけない…。』
サイアは鎌倉の家で病院にいる麗子の事を思いやっていた。入院してすでに二週間、こんなにも会えない日が続くのは初めての事だった。家の中で話し合う長男の電話に着信があった。電話を掛けてきたのは麗子の入院する病院の看護師だった。麗子の容態に変化がありすぐに病院に来るようにとの電話だった。二人が病院に駆けつけ病室に入ると、看護師と医者が麗子の手を取っていた。
長女『何かあったんですか?』
医者『意識が薄らいでいるのです。目は覚めているんですが…反応が鈍い感じですね。』
長男『どういう意味ですか?』
医者『怪我の影響なのかはわかりません。認知症気味になっているという事です。意識はあると思いますが…何かを認識するのも話すのも難しいかもしれません。』
麗子はぼんやりと前をみつめるだけだった。子供達は涙目で麗子の姿を視て、すぐにロンドンに連れ帰る事を決断した。今の麗子にサイアの事を相談しても、きっとわからないだろう。ロンドンに連れ帰った後、麗子の状態が改善したらサイアの事を話せばいい。その時に母に何を言われても、今は母の身体が心配だった。子供達は渡航の準備を始めた。
年老いたサイアを残していくのは忍びなかった。誰か大事にしてくれる新しい飼い主はいないか、役所や近所の人、病院やペットショップなどにも相談した。しかし十七歳の年老いたサイアを、引き取ってくれる相手は中々みつからなかった。そんな時にたまたま鎌倉のペットショップを訪れた、草薙春奈の同僚だった社員が耳にして春奈にこの事を伝えた。事情があって飼えなくなった年老いた猫がいる…春奈にはその言葉だけで引き取るには充分だった。三カ月前、サイアは市川にやってきた。
サイア『僕は人の話す言葉を理解は出来ないが、どうやら麗子さんの状態はかなり悪かったようだ。子供達が国に連れ帰ったのだろう、僕にイギリスへの旅は無理だ。麗子さんの為だ、仕方ないよ。』
ノアール『そんな事があったの。会いたいわよね。』
サイア『ああ、とってもね。しかし今はここから麗子さんを見守るよ。』
ノアール『…レオもそう思っているかしら…』
サイア『…え?』
ノアールはサイアが気づかない、レオの気を感じていた。レオの気は麗子とサイアを、引き離す事を望んではいないようだ。この気の感じは霊魂でも残留思念でもない。レオの想いをサイアが引継ぎ、レオの感じる思いと意思を伝えようとしている感じだ。こんな感じの気をノアールも初めて感じた。尚樹はサイアに纏わる気を、まるでノアールの黒い毛のように感じていた。亡くなった麗子の夫、レオが意思を伝える為に、ノアールの黒い毛のようにサイアに忍ばせている感じを受けた。
ノアール『気になるわね。サイア、少し調べてみるわ。それまではここでみんなの面倒を見ていて。そんな顔をしていたら麗子母さんも悲しむわよ。』
サイア『わかったよ…姫神様か、君は不思議な女の子だね。』
ノアールが振り返り床に付す猫達に、少し大きめの声で鳴き声を上げた。サイアが床に降りると周りの猫達がサイアの周りに集まってきた。その様子を満足気に眺めたあとノアールは床に降り、尚樹と尚子と共にゲートの外に出ていった。春奈は驚いた顔のまま慌てて、一匹と二人の後を追った。受付に戻ると樹里が茶トラの子猫を抱きかかえて撫でていた。
樹里『春奈さん、この子は少し疲れたのね。温度変化が大きいから、身体がついていかなかったのよ。もう大丈夫よ、そっちはどうだった?』
春奈『なにか…凄いものを見た感じはするんだけど…よくわからないわ。あの~、どうだったんですか?』
ノアール『ミャミャ…ミャ~』
尚子『わかったみたいね、尚樹さん、通訳して。』
尚樹『はいはい。えっと…サイアは麗子さんの事が心残りなんだね。』
春奈『あの子の名前は教えていないのに…凄いわ。麗子さん??サイアちゃんの母親もいるの?』
尚樹『説明しますね。』
尚樹がノアールから聞いた話を、日本語で春奈と樹里、尚子に説明した。ロンドンでの事、レオと麗子の事、そして鎌倉に移り住んだ後の幸せな日々。サイアが施設に来た理由を説明した。春奈には初耳だったことが多く、すっかりノアールの虜になってしまった。樹里も驚いている。尚樹の話す事もそうだが、あれだけ周りとの関係を断っていたサイアが、今は施設の猫達の真ん中で優しく面倒をみている。信じられない光景だった。
春奈『そんな事情だったんですか。十七歳の猫に海外渡航は無理ですね。可哀相だけど獣医さんの判断は正しいわ。サイアちゃんにはここで、幸せに過ごして貰うように努力します。』
ノアール『ミャ~~~』
尚樹『まだみたいです。僕も感じたんだけど…麗子さんの夫、レオさんの気がサイアに纏っているんですよ。調査が必要だとノアール所長も言っていますし、少し調べてみます。春奈さん、鎌倉に行ってみます。住んでいた場所はサイアに聞いてありますから。』
樹里『ねえ、私も着いて行っていい?明後日の日曜が病院の休診日だから、その日にしてくれないかしら。』
春奈『あの~私も着いて行っていい?』
春奈は探偵社・黒猫のノアールの調査がみたいという、ミーハー的な感じだが樹里の眼は真剣な感じだ。樹里は獣医として外科や内科の腕も磨き、心療内科的な分野も研究している。動物にも心的要因で変調をきたす事はある。ノアールの見えない何かを掴む行動が、自分の目指す獣医の役に立つように感じた。すでに樹里はノアールを恩師のような目で視ている。その視線を感じたノアールは…嫌そうな顔をしていた。
神宮寺病院の副院長、神宮寺樹里がサポートする施設での出会い。探偵社・黒猫のノアール一行は鎌倉の地に向かう事になった。イギリスの紳士サイアの想いは…麗子の容態は…そしてレオはサイアに何を託しているのか…。探偵社は夫婦とサイアの深い愛情を感じる事になる。
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