誰何の夢から覚める時

多摩翔子

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序章

4. 記憶と認識、洗い出し

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彼はまず僕に、すごくシンプルな問いかけをした。


「まず、名前は?」

 そして、今の僕はこんな簡単な質問もそれなりの難問と化していた。

「僕は、すいか。苗字は、分からない……」

 すいか、という名前の漢字すら分からないような状態だ。名前だけは確信を持てるが苗字はいくら頭を捻ってもさっぱりで、そもそも日本人なのかと問われても自信が持てない。
 僕が答えられなかったことを、彼は微塵も気にせず問いを再び投げかける。ラフな態度だ。


「そうか、じゃあお前の職業は?」


 頭の中にいくつか単語が浮かぶ。
 
 オカルトマニア
 画家
 Youtuber 
 マスター

 ――余計な情報が混じったような気がするが、迷いなく正解を口にする。

 
「〇〇県◇◇市美珠町の、喫茶まほろばの“マスター”だと、思う。」


 これはバイクに乗っている最中、名前とは別に最初に思い出したことだ。特に疑問に思うこともないし、現状その喫茶店が存在することからも間違いはないと思われる。

「じゃあお前が知ってた美珠町ってのはどんな町だ?」

 バイクに乗って、美珠町のことを思い返している時は、田舎、都会……いや、どちらでもない、と判断したはずだ。

 ──誰が?僕が?
 
 疑問に思う前に口を開いた。

 
「“人口一万人程度、都市部から車で二、三時間程度の地方都市。海と温泉があるから観光も出来る”」


 ここまでが、今まで思い出したことだ。しかし彼はまだ話せと言わんばかりに黙っている。なんとか、それからと言葉を続けようとして、脳の中の“認識”が更新された。

 
「近くに始願高校っていう中高一貫校があって、少しさびれた商店街で買い出しもしてる、と思う。」


 それが自分の記憶なのかは分からないが、ちょうど店の前の通りで、制服を着た子供が歩いている景色が思い出された。 

 続いてそれが近所にある『始願高等学校』であることも分かる。その道を歩いていくと、あまり活気のない商店街もあったはずだ。

 
「その商店街買い物をした記憶は?」

「ない、ね。でもそうなんじゃないかって、“認識”してる」


 上手く言えないけれど、それは確かだった。空っぽだと思っていた脳の記憶領域に、リアルタイムで認識が植え付けられていく。
 脳に響く声が自分のものでないような違和感は、一旦黙殺することにした。
 

「五番街交差点を曲がってすぐの店の名前は?」


 これも、答えられる。


「グローサリー佐東。店長の名前は塩見」


 質問は続く。

 
「ここから最寄りの駅まで行く最短ルートは?」


 同様、

 
「玄関を右に出て、直ぐの分かれ道を左、その後右に行くとバス停がある。“美30”の美珠駅行きに乗れば、十五分ほどで“美珠駅”着く」


 美珠駅、というのもあるのか。話しながらぽんぽんと情報が頭に浮かんでいく。
 

「自分がバスに乗った記憶は?」 

「……分からない、あるような、ないような」


 間違ったことを言ってしまうかもしれないが、嘘は言わないように、心の内に正直に話した。なるほど、と彼は頷く。


「そもそも、自分がマスターとして働いていた記憶はあるか?ないならなぜそう思う」


 そこで僕は口籠った、最初の疑問の通り、僕はここで働いた記憶はない。でもここのマスターであるという認識でいられる矛盾に答えられない。

 
 

 脳裏に響く⬛︎⬛︎の声、自分のような、そうではないような、不思議な声。
 

「……ない、でも自分がこの店のマスターだっていうはわかる。そういう“認識”がある」


 記憶はないが、ここに居たような知識はある。全く見知らぬ場所のはずなのに既視感のようなものが渦巻いている。みたことがないはずの様々な調理器具の使い方を知っていて、それらは僕の手に馴染む。


「いまいち要領を得ないな。お前にとっての“認識”ってなんだ?“記憶”とどう分けている」

「“認識”とは、物事をはっきりと見分け、判断すること。そういうふうにして物事を知る、心の働き。また、その知った事柄。哲学では──」

「Wikipediaの読み上げか?自分の言葉で話せ」


 この男も大概失礼じゃないか?ムッとしたが、確かに的を射ていた。
 僕は少なくとも、一般常識に当たる部分に関しては、常人より遥かに知識を持っている。
 

「……見慣れないはずのミルもコーヒーフィルターも使い方を“認識”していて、“まほろばコーヒー”を提供する時に使うと決めている水色のマグの場所も分かってた。」


 そんな人間Wikipediaの僕にとって、自分の言葉を選ぶというのが現状最も難しい事だった(なんせ自分のことを忘れているのだから!)

 ここからの言葉が続かず困っていたが、彼は知ったことではないと言わんばかりに続きを促す。僕は息を吸いながら言葉を探した。


「……でも僕に、コーヒーを淹れた“記憶”はないし、マグを見たのも初めてだ。

君のバイクに乗ってから、今こうして話すまで、全て初めてのことのはずなのに、やり方を全て“認識”している。

 ──本来認識は、それを得るまでの過程、つまり記憶が必要なはずなのに、それが丸ごとすっ飛ばされて、結果だけが“認識”として残ってる。
僕の記憶喪失は、今に至るまでの過程がなくて、でも今現在の状況は“認識”として残ってる……そんな感じ」


 そんな自分の苦労など知らんとばかりにまた質問がやってくる。

 
「コーヒーを提供する時に水色のマグを使うと決めたのはお前自身か?
そしてそれは“記憶”しているか?
それとも“認識”か?」

 
 
 
 脳裏に浮かんだこの言葉は、“記憶”なのか“認識”の為の自問自答なのか判別が付かなかった。

 
「……分からない。でも、コーヒーは水色のマグに入れるべき、だと僕は思っている」


「ふむ、おおよそ把握した。」


 気味が悪いほど、記憶の外側にあたる部分だけ覚えている。
 なのに、僕という存在がどう生きていたかの記憶が丸々抜け落ちている。パーソナリティが全く見えてこないのが不気味だ。


「記憶障害じゃメジャーな症状だ。記憶喪失になっても言語能力は失われないし、シャーペンの使い方も覚えてるだろ?」

 唇を噛み締め俯く。視線が潮さんから外れていたから、一体どんな顔をしていたかは分からない。
 けれど、降りかかってきた言葉は意外にも柔らかかった。僕が顔を上げずにいると、さらに付け足すようなことを言い始める。

「自分がピアニストだって忘れた女がピアノの弾き方は覚えている、なんてざらにある。エピソードを忘れても根幹に眠る記憶は存外残ってるものだ。
だから、そう珍しいことではないさ。」

 もしかして、気を遣っているのだろうか。


「うん、その知識はある。」

「なら落ち込むな。まだ質問はある。」


 ……やっぱり気のせいだったかもしれない。
 僕が顔を上げると彼はもう別のことを考えているようだった。

 
「常識問題だ、日本の首都と地方の名前を全部言ってくれ」


 質問の方向がガラッと変わった。日本、と言われてそういや自分が使っている言語は日本語で、ここが日本だと認識する。そのままするすると答えが口から出た。

 
「T京、地方は北からH海道、T北、K東、C部、K畿、C国、S国、K州」

「それらのどこかに心当たりのある地方はあるか?」


 心当たり、と聞かれてまたも言葉が途切れる。

 
「……C部、くらいかな。美珠町があるからだけど」


 特に心惹かれるところがあれば地元や出身地かもしれないと考えたのだろうが、相変わらず空白が広がっていただけだった。


「ではまた常識問題だ。日本の首都は?」
「T都」

 
 彼はそこで質問をやめ、残っていたコーヒーを一気に煽った。喉を一つ鳴らす。

 
「OK、今までの答えから一般的な知識は把握してるが、自分が経験した実感はない、ここに住んでいた痕跡と実感はあるが、そうしたという確実な記憶がない、ということになるな」

「……そういうことになるかしら」


 ここに自分が住んでいた、ような気がするのは正解だ。いつの期間までは分からないがここに縁があったのだろう。
 

 ここでようやく、彼からの質問が途切れた。それなりに時間が経ち、いつのまにか冷めてしまったコーヒーを煽る。生ぬるいコーヒーの酸味が口の中を満たしていく。
それをごくんと飲み込んで、今度は僕から話を切り出した。


「僕ばかり話しているし、そろそろ君のことを教えて。
君と僕はどういう関係で、どういういきさつで僕を拾ってあそこを走っていたのかな」


 同じくマグを空にした彼は含みのある笑みを浮かべた。

 
「関係、ねぇ……オトモダチだってお前が言ってたが」

「……そうだったらいいなとは思ってるけど、多分違うんでしょ?」


 今の自分を見て、今更バイクでの態度を引き合いに出されても困る、と眉を顰めると彼は大袈裟なまでに肩をすくめた。

 
「違う違う、悪かった。反応が面白くてつい、な。
 俺だって、お前のことをそこまで知っているわけではないが、話せるところまでは話すさ。
 ……だがその前に、おかわりを頂こうか。なんでも好きなやつでいい」



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