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序章
3. 初めての喫茶業
しおりを挟む外装も大概だったが、内装はますますかわいらしいデザインだった。
目につくのはターコイズと白を基調にしたストライプの壁紙、そこに調和するようなヘーゼル色の木の床板だ。丸い木製のテーブルが四つに、赤と白の椅子が行儀よく並べられている。右奥には古ぼけたピアノが一台、そして反対側にはレジとキッチンがある。
「ったく、濡れたな。」
彼は流れるように羽織っていたコートを脱ぎ、乱雑に髪を拭く。
そうすれば自分も寒くなくなると気が付いて、僕も彼の行動を真似した。紺色のコートの下に来ていた刺繍入りのブラウスには幸いなことに雨水が染みてはいなかった。
その間潮は不躾な視線を店内に撒き散らしていた。顎に手を当て、一通り考え事をした後、彼はぽんと手を打った。
「よし、なんか一杯くれ。せっかく来たんだしな。」
「……どうして?」
今何時なのかこの男は把握しているんだろうか。手元に時計はないがとっぷりと日が落ちてそこそこ時間が経っていることくらい分かりそうなものなのに、閉店時間の喫茶店で注文をしようとでもいうのか。
そんな僕の態度に勘付いたらしい。
「ここまでの運転の手間賃、ガソリン代、そもそも山中での救助代」
「……」
「これらをコーヒーでチャラにしようって話だ、分かるだろ?」
……それを言われると何も反論できなかった。雨で体も冷えているだろうし、温かい飲み物を快く出すくらいは、“人間”としてやるべきなんじゃないだろうか。
「つまり……いまからこの店の“お客様”になるってことかしら?」
「バイク走らせて疲れたから、雨宿りついでに少し椅子に座って休みたいってだけだ。飲み物は別にいいさ。」
彼は了承も取らず手前のテーブル席に座った。肘をつき、緩やかに目を閉じる様子から疲れているのは本当らしいとすぐに分かった。
(言い回しがさっきから遠回しじゃないか。分かりづらい……)
また、脳裏に誰かが囁く。それは自分の声のようでどこか違うような気もした。
“————マスターは“喫茶まほろば”に来たお客様に、きちんとおもてなしをする”
雨に濡れ、寒がっているお客に対してするべきおもてなしなんて、決まっている。
それは誰かの指示なのか、それとも自分の認識なのか。判断をする前に自然と口が開いていた。
「少々お待ちください、すぐに疲れの取れる一杯をお出ししますね」
そう彼に言い残し、僕は奥のキッチンへと向かった。壁際の戸棚に、⬛︎⬛︎がブレンドしたとっておきの豆があることを僕は知っている。そう“認識”している。
(……⬛︎⬛︎?)
「お前正気か?」
それが誰だったかを思い出そうとしたが、潮の声に思考を散らされる。
コーヒーミルとフィルター、ポットにコーヒーを出す時に使うと決めている水色のマグ、必要だと思ったものが、キチンとそこにある。最後に、一番の懸念点だった水道の蛇口を捻る。すると、問題なく水は流れ出た。
「当然です、喫茶まほろばへご来店ありがとうございます」
よかった、今夜も“喫茶まほろば”を開店できる。喫茶店を営む者として、今日もお客さんにコーヒーを淹れなくちゃ。
とりあえず、淹れるのは”まほろば珈琲”。異なる産地の豆を黄金比で配合した看板メニューだ。(レシピは内緒である)
柔らかな舌触りと優しい風味、そしてそれを支えるコクを兼ね備えた、子供にも飲みやすい初心者向けのコーヒーだと自負している。
……誰がそう思っているかは分からないが。
ケトルに水をいれ、コンロに火をつけた。ガスも問題なく機能しているようだ。ガス台の熱で手先の血流がぽかぽかと戻っていくのを感じる。
(……どくどくしてる、生きてる。)
そんな感傷に浸りながら、ガラス製のドリッパーにコーヒーフィルター、そしてサーバーを取りだす。そしたらその間に手挽きのミルにコーヒー豆を入れてしっかりと挽く。
金属の取手は使い古されていて鈍い色を放っている。ごり、ごりと強い力が必要になるけど、僕の手は不慣れな様子を見せることなく手際良く動いていた。
「……」
席に座った潮は、時折訝しげに視線をこちらに投げている。自分がコーヒーを淹れる姿がそんなに物珍しいだろうか。居心地の悪さに視線が曲線を描く。気にしてはいけない。
ごり、ごり、ごり、一定の間隔で強く手応えを返す豆は少しずつ、少しずつ磨耗し、粉となっていく。
「……そんなに気になりますか?」
「大体の人間はインスタントの粉で作るからな、こういったプロセスを間近で見る機会がないから物珍しく感じるというわけだ」
「つまり、平たくいえば興味津々ってことですよね。」
彼はむすっとして返事をしなかった。
やがて、納得のいく粗さに豆を砕いた後、ケトルからもくもくと水蒸気が湧いてきた。笛の鳴らないタイプだったようだ。すぐにケトルを火から下ろし、ドリッパーにフィルターをセットして、サーバーに付ける。
そしてゆっくりとお湯をフィルターに少しだけ掛けた。
「何故お湯を入れるんだ?」
何故、と思う前に口が勝手に動いた。
「先に湯通ししておくとフィルター、紙の臭いが取れるんです。
サーバーを温める意味合いもあります。」
こういった知識は普通に揃っているらしい。なんの苦労もなく口から出た。
彼は納得したのかしていないのか、返答ともうめき声ともつかぬ声で引き下がった。
サーバーに残ったお湯を捨て、再びドリッパーをセットする。先ほど挽いた豆を溢さぬよう丁寧に入れて、ゆっくりとお湯を回しかけた。全体が濡れたら一旦ケトルを置いて、スプーンで粉を混ぜる。
「それは?」
完全に興味をそそられたのか、潮はこちらに注視してるいることを隠しもしなくなった。席こそ離れていないが椅子をこちらに向けている。
「……粉をムラなく蒸らすために混ぜるんです。こうすることで雑味が減ります。」
「ムラなく蒸らすんだな。」
「何が言いたいんですか。意味が分かりません。」
「……お前もしかしてワザとか?」
言葉選びをずっと間違えているが、率直な言葉をついつい吐き出してしまう。上手く説明できないが、彼にはそうさせる何かがある。
「そっちこそ、そのワザとらしい遠回しな言い方は癖なんですか。」
そんな軽口を叩きながら約30秒、ゆるゆると少しずつケトルの残りのお湯を注いでいく。
ガラス製のサーバーに少し茶色がかった黒い液体が揺れる、照明の光が少し透けて綺麗な影を作る、上々だ。
ぽた、ぽた、とドリップから最後の一滴までしたたり、ほう、と息を吐いた。とても、楽しい。この一連の動作にすっかり夢中になっていた。
(結構、時間がかかってしまった)
でも、これだけは忘れちゃあいけない。
————コーヒーには“水色のマグ”を、紅茶には“白いティーカップ”を、それ以外のドリンクは“ガラスのコップ”で。
⬛︎⬛︎はそう決めた、そうだった。
(……だれだっけ。)
その事を考えようとすると、ぼんやりと思考が曇っていく。やがて何を考えていたのかを思い出せなくなった。
間違いなく水色のマグにコーヒーを注ぎ、彼の元へと急いだ。木製の床板をこつこつと鳴らして歩く。
「お待たせしました。“まほろば珈琲”になります」
こと、と固い音を立ててマグをテーブルに置く。一礼してキッチンへと戻ろうとしたところで、おい、と呼び止められた。
「お前もここに座れよ。話したいことだってあるだろう。」
話したいこと、と彼に指摘されてそういや記憶が困った状態だったことを思い出した、いや忘れていたわけではなかったが“目の前の客をもてなす”事に頭が優先されていた。
「……ご一緒してもよろしいのですか?」
「お前の店なんだから好きにすればいいだろ、キッチンで立って飲まれるのも嫌だしな」
その言葉に逆らう必要性も感じなかったので、おとなしく僕は奥のキッチンから自分用に入れたコーヒーのマグを取ってくることにした。
(相変わらず、いいかダメで言ってくれないなこの人……)
少しだけ放置されたそのコーヒーは未だ白みがかった湯気を発している。
「いただきます」
向かいに座って改めてマグを見れば、中のコーヒーは香ばしい匂いを発している。早速一口、息を吹きかけて飲み込めば、芳醇な豆の香りと甘さが口の中に広がって、するりと喉へと流れていった。
甘みと控えめな苦味、酸味が特徴の飲みやすさを重視した珈琲、それがまほろば珈琲だ。
(ブレンドした記憶はないけど……)
脳裏の声は沈黙している。が、一気に体に染みわたり、ぽかぽかと内側から熱を灯した。
「ずいぶん美味しそうに飲むんだな。」
ほう、と息を吐きもう一口貰おうとした時そんな言葉を投げかけられた。
別に鉄扉面でもなく、笑ったり戸惑ったりする割に、彼の感情は微妙に読み辛い。今も、自分がコーヒーを飲む姿をまじめくさった顔で見ているが、真意が全く掴めない。
「……上手く出来ましたから。」
ウソはつきたくないので、端的に思ったことを少ない単語数で発した。
ふと見れば、彼のマグのコーヒーは少しも減っていない。味に問題はないと思うけれど、と視線を投げ掛ければ男は仕方ないと言った顔でようやく取っ手に手をつけた。
コーヒーの水面の揺らぎをじっと見つめた後、意を決したように一口、ごくと飲む。
すると、彼の緑の瞳が少しだけ驚いたように見開かれた。
「……旨い、な」
それは素朴な感嘆、遠回しな表現ばかりする彼が、初めて、素の言葉を発したような気がした。
「お口にあったようで何よりです。当店の特別製ですから。」
ここで働いていた“認識”はあっても、働いていた“記憶”はないから、実質初めてのお客様な訳で、僕はふわふわと心が浮ついた。
一口、またもう一口、彼がコーヒーを飲んでいく姿がとにかく嬉しくて、僕はぼーっと彼の顔を眺めていた。先程の質問からそこまでコーヒーに明るい人ではないんだろうけど、浅黒い肌に真っ黒な髪はコーヒーの広告塔でもやらせたらとても映えそうな見た目をしている。今だってただ座ってコーヒーを飲んでいるだけなのに、僕よりずっと様になっているようだ。
「……そんなに見られると飲み辛い。」
そして当然のことだが、気づかれて呆れられた、ぱっと視線を外し、降参するように手を挙げる。
「大変失礼しました、お客様がお寛ぎになるのを邪魔する意図はございません!」
「お前さっきからなんだよ喋り方。」
慌てて謝罪すると、彼はなんとも言えない微妙な顔をした。敬語のことを揶揄されているのだと、一拍遅れて気がついた。視線よりそちらの方が気になるとは思わなかった。
「お客様に敬語を使うのは当然です。先程まで失礼しました。」
口調では誤魔化しきれない程の無礼を働いたような気もするが、一応最後の砦である。
「あー……皮肉はお前に通じないからはっきり言うぞ。やめろ。」
「でも……」
「さっき礼儀知らずとか言った奴が今更口調を気にするなよ。」
“お客様には最大限のおもてなしを、喫茶まほろばで楽しんでもらえるように”
脳内に囁く声の通りにするべきだと口を開こうとしたが、それを手で制された。
「“オトモダチ”なんだろ?水臭いのはやめにしよう、なぁ、すいか?」
歯を見せてにこりと笑いかけられた。とても眩しい笑顔だが、その表情の奥に、有無を言わせぬ圧を感じる。この人、さっきまで感情が読めないと思ってたけど、案外そんなことはないかもしれない。
真意を掴み取るのは難しいが、取り繕うこと自体は普通に下手だ。
「わかり……わかったよ。静寂さん。」
結局、僕は折れた。口馴染みのないしじま、という言葉を発すると彼はさらに不満げに言葉を続けた。
「名前でいい。俺もお前をすいかと呼んでいる。」
「じゃあ……潮さん、で。
名前を呼び捨てにできるほどの仲なのか判断が付かないのでとりあえず中間択を選ぶ。お気に召したのかそれ以上呼び方につっかかってこなかった。こと、とコーヒーを置き、彼は足を組んでまじまじとこちらをみた。
「それはさておき、話をしよう。」
それはこれから大事な話を切り出す一区切りのようでもあった。
「色々聞きたいことがあるんじゃないか?
ふわふわしてるどころか記憶がないんだろ。」
……バイクのやり取りの時点で取り繕えているとは思っていなかったが、ぴたりと記憶がないことを当てられて、僕はドキリとした。
「君の言うとおり、なんだけどね。
分からないことが多すぎて、何から聞けばいいのか分からない……」
語尾がどんどん弱々しくなり、半端なところで言葉が途切れる。話しているうちに何を話せばいいか分からなくなってしまったのだ。そもそも記憶がないことを積極的に言い出せなかった理由は、結局のところ友達だと言った途端笑い出した目の前の男をどのくらい信用できるか分からないからなのだ。
しかし彼はそんな自分に遠慮をする気はないようだ。
「そうか、なら現状把握をして、そこから分からないところを埋めてやればいい。質問をするから、正直に答えてみろ。」
その態度からとことん付き合ってやろうという気概が垣間見えた。
(まぁ……僕をここまで送ってくれたし……悪い人では、ない、かなぁ……
親しみやすいのに、ペースがつかめなくて、ちょっと、こわい。でも、怖がる根拠がない。)
煮え切らない気持ちを振り切るように、こくりと僕は頷いて、ふわふわと固まり切らない記憶を少しずつ引き出すことにした。
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