誰何の夢から覚める時

多摩翔子

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序章

1.目覚め、裏山にて

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 柔らかく肌にまとわりつく雨の音

 生暖かい風

 ぐったりと疲れていて思うように動かない体

 体の底から冷え込む喪失感


──それが僕が鮮明に覚えている最初の記憶

 

 
 風を切る音をうっすら聞きながら僕は薄目を開けた。誰かの腰を掴んでいる。
ぼやけた視界と意識が段々明瞭になり、自分達がバイクの後部席に座っている事に気が付いた。
 見知らぬ男の背にしがみついていた、らしい。流れる夜風と雨音、濡れた服が肌にまとわり付いて気持ちが悪い。
 酷く疲れている。

 (え……)

 生々しい感覚に襲われながら、ぼんやりとまどろんでいる脳を必死に叩き起こした。いや、眠っていたわけではない、と思う。少なくとも眠りながら人のバイクの背にしがみ付き続けるのは不可能なはずだ。だというのに、今までの自分が何をしていたのか、ちっとも思い出せない。
 
 いや、それだけじゃない、僕、僕は一体なんなんだ?

「起きたか?」

 掴んだ背が震え、バイクと雨音からすり抜けるように声がした。


「……は、い」

 
 真夏の炎天下に放り出され時のように喉はカラカラで、アスファルトにへばりついたガムのような声が漏れた。その声も、自分の声のはずなのに全く聞き覚えがない。
 
 ふと、バイクのサイドミラーが目に入る。

 
 暗くて分かりにくいが、見知らぬ青年が映っていた。暗闇でもバイクのライトで銀色の髪が光っている。対照的に、目の色は暗い。

 少し遅れて、これが自分の姿である、と認識した。これが僕の顔らしいが、驚くほど全く身に覚えがない。
 

「記憶がぼんやりしてるだろ」

 と、そこで前の男に意識を向けた。彼の顔はミラー越しではよく見えない。けれど、自分より一回り大柄な男性であろうことは察された。しかし、声を聞いたところで誰なのかさっぱり分からない。
 

「………誰、ですか?」

「誰だと思う?」

 
 声は笑いを含んだもので、その柔らかな態度に緊張が緩んだ。悪い人では無さそうだ。改めて周囲をよく観察する。
 
 時刻は夜、辺りは森、舗装された山道のようなところをバイクで下っている。

 そして僕らはこんな危ない山道だというのに、揃ってヘルメットを被っておらず、雨が降っているというのにレインコートなどの対策もしていない。

 相乗りしている男の黒々とした髪は雨でぐっしょり濡れていて、かろうじて見えるうなじは日焼けで浅黒い。自分の容姿を完全に把握しているわけではないが、おおよそ自分とは正反対な気がした。


「……友達、かしら?」


 仕事仲間でもなければ血縁関係もない、共通しているのは歳の近さ(それも目測に過ぎないが)となると、僕に出せる結論はそのくらいだった。そもそもバイクの二人乗りが許される関係となると友人程度には仲が良くないと難しい気がする。

 割と大真面目だったのだけど、その言葉を発した途端、彼が体を震わせて笑った。掴んだ腰から振動が伝わる。


「……僕は大真面目だよ」

「いや、悪い。そうだよな。そうだよ、オトモダチだ」


 なんだか奇妙な感覚に襲われ続けている。ぐっしょり濡れた雨水が肌を伝う感覚だとか、すっかり冷え切った彼の生ぬるい体温だとか、まるで真夏の昼のようにカラカラになって声を出すのも一苦労の喉だとか、そのどれもが生々しくて脳が戸惑っている。


「自分の名前、言えるか?」


 ひとしきり笑った彼が、再び短い問いかけをする。


 “———すいか。”
 
「すいか」


 誰かの声が聞こえた気がした。
 分からない、と思ったはずなのに口について出たのは3文字の言葉だった。そして後から脳が遅れてそれが自分の名前だと“認識”する。


(なに、それ……そんなの、変だ。)


 体に再び緊張が走る、自分の身に起きている異常事態に寒気とは違う震えが襲い、身を強張らせる

 が、そんな僕の動揺に気づく様子のない男は再び問いかける。


「そうだよな。お前はすいかだ。帰る家は分かるか?」

“──〇〇県、◇◇市”
 
「……〇〇県、◇◇市」


 また、だ。霞掛かった空っぽの脳から“認識”が溢れ出す。まるで脳内に隠されていたビデオを初めて視聴するかのように。そしてそれを元に口が勝手に声を発する。

 “──美珠町、喫茶まほろばのマスター”
 

「美珠町、喫茶まほろば」


 そこまで話した頃には『自分の名前はすいかである』『自分は美珠町にある喫茶店、まほろばのマスターである』という“認識”がすっかり頭の中に染み付いていた。先程まで真っ白だったのが信じられないくらいに。


「了解、おおよそ把握した。」


 とすると、この男のことも思い出せるのだはないだろうかと脳に呼びかけてみるが、脳は答える様子はない。泥の中を泳ぐような疲労感に苛まれるだけだ。


「無理しなくていい、下手に喋ると舌を噛むぞ」


 それもそうか、と納得して無理に開いた口を閉じた。けれど、もう二度と記憶を失いたくは無かったから、出来るだけ意識を集中して、今この瞬間を刻みつけるように、ただ世界を観ていた。

 降り頻る雨と山道の景色
 荒々しいバイクのエンジンの音
 アスファルトを通過するタイヤの振動
 濡れた身体から感じる寒気
 掴んだ腰から伝わる人のにおい

 そんな何気ない記憶を、どうしても忘れたくないと強く思った。

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