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ローグラン侯爵
(38)レモンとドレス
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「それで、あの男、私が完熟のレモンを知らないと正直に言ったら、いきなり笑ったのよ! ここは王都よ! そんな南の産物のこと、知らなくても当たり前でしょう!」
「……うん、まあ、そうだよね」
「ただ笑っただけでなくて、一度味わってほしいからと言い出して、完熟レモンを取り寄せるという話になったのよ!」
「あ、なるほど。それで我が家に真ん丸な完熟レモンが届けられたんだね」
「よりによって昨日届くなんて! 今夜、あの男と顔を合わせてしまったら、完熟レモンジュースの感想を言わなければいけないじゃない!」
「えっと、無理に感想を言わなくてもいいんじゃないかな?」
「私は恩知らずな人間ではないわ!」
「まあ、姉さんってけっこう律儀な性格だよね。それにあのジュース、姉さんは美味しい美味しいって言いながら、たくさん飲んでいたね」
「……っ!」
シリルの冷静な指摘に、フィオナは少し顔を赤くして言葉に詰まる。でもすぐに目を逸らして反論した。
「そ、それは、シリルもそうだったでしょう?」
「実際にとても美味しかったよ。ぼくたちが知っているレモンとは別物みたいだった」
「そう、別物だったわ! 酸味はあるけれど、他の柑橘類のような甘さもあって! だからとても飲みやすくて、つい飲んでしまったのよ!」
昨日のジュースの味を思い出したのか、フィオナは目を輝かせた。
表面的な微笑みに隠れた薄い表情だから、チラチラとカーバイン公爵家の姉弟を気にしている人々も、扇子を緩やかに動かす令嬢がジュースの話題で嬉しそうな顔をしているとは思わないだろう。
(というか、そもそも、夜会に来てまでする話じゃないよね……?)
美しいドレスを着て、銀色の髪をサラリと華奢な背に流し、細い首に目の色と同じエメラルドのネックレスを輝かせるフィオナは、完璧なほど美しい。
当初は出席の予定のなかったくらい主催者とは縁の薄い夜会だから、意外な姿に驚いている人々も多い。
だが、侯爵家の姉弟が夜会の会場に入った途端、何気なく振り返った人々は動きを止めた。意外な姿に物珍しそうに見ていた人々も、無意識のうちに感嘆のため息をついている。
それも当然だ。今夜のフィオナは、間違いなく誰よりも美しいから。
……ただ、シリルはずっと気になっていた。
今夜のドレスが、淡く澄み切った黄色なのはなぜなのだろう、と。
(いや、さすがに姉さんも、そこまで安易なドレスの選び方はしないはず……だよね?!)
シリルが心の中で必死に否定しようとしていると、大袈裟なほど明るい声が聞こえた。
「これは、フィオナ嬢! あなたがこの夜会に来ると聞いて、飛んできてしまいましたよ! それに素晴らしいレモンイエローのドレスですね! 爽やかで明るくて、気分が浮き立ちますよ!」
「あら、ダーシル男爵。ごきげんよう」
「麗しきフィオナ嬢。私のことは、どうかエリオットと呼んでください。あなたのおかげで、私は初めて恋を得ることができたのですから」
ダーシル男爵エリオットは、少しだけ真摯な顔をする。その素顔はすぐに気取った笑顔で隠してしまい、芝居がかった仕草でフィオナの手を取って恭しく手の甲に口付けをするふりをする。
気の抜けたような微笑みを浮かべたシリルは、はぁっとため息をついた。
エリオットという男は、いつも絶妙のタイミングでシリルを脱力させる。
ドレスの色について、そんなはずはないと必死で否定しようとしていた努力を、たった一言で粉砕してしまった。
だが、エリオットに悪意はない。
そっと首を振ったシリルは、顔をあげた。
エリオットは満面の笑顔だったが、よく見ると以前より距離を詰めようとはしていない。シリルの視線に気付くと、フィオナからさらに一歩離れて軽く手を上げた。
「シリルはずいぶんと辛気臭い顔だな。今度はどんなつまらない悩みなんだ?」
「つまらないとは限らないだろう」
「有益な悪巧みしている時の君は、もっと楽しそうにしている。だから、今は恐ろしく平凡でつまらないことを考えていたはずだ。違うかい?」
「……まあ、平凡なことではある」
シリルは渋々認めた。
姉のドレスがレモン色に見えるとか、まさか昨日のレモンジュースの影響ではないかとか、確かにつまらない悩みだ。
ただし。
弟が姉のことで悩むのは平凡でも、ドレスがレモンの色からきたのかどうか、という悩みは間が抜けすぎていて平凡ではない。
ようやくそう思い至り、シリルは自己嫌悪気味にため息をついた。
だが周囲の目のことは忘れていない。すぐに笑顔を取り戻した。
「今夜は、エリオットも出席する予定だったとは知らなかったよ」
「フィオナ嬢が出席すると聞いたから、急遽予定を変更したんだよ! ……という冗談はともかく、少し変わった噂を聞いてしまったからね。一応、同じ場にいたものとして、興味深く……いや心配になったんだ」
余計な本音まで聴こえてしまったが、エリオットの顔は本当に心配そうだ。
こっそりため息をついたシリルが、表面上は穏やかな笑顔のまま答えようとした時、周囲に騒めきが起こる。
それに気付いたシリルは、慌てて振り返った。
「シリル! フィオナ! 急に誘ったから本当に来てくれるかと心配だったけれど、こうして会えて嬉しいよ!」
「……なんだ、ロフロス殿下か」
「おいおい、なんだとはひどいな。いくら噂の待ち人でないからと言って、冷たすぎるだろう」
口では拗ねたような言葉を言いつつ、やってくる足取りは軽く、笑顔はもっと軽い。
王弟ヴォードの長男ロフロスだった。
年齢はシリルと同じ十九歳。王族らしい魅力的な若い貴公子だ。
フィオナがヴォードの婚約者だった頃、ロフロスは手に負えない悪戯小僧だった。婚約が解消されて十一年が過ぎ、渾身の悪戯をシリルに潰されていた子供は、今は立派な青年に成長している。
王族として確たる地位を与えられた人物は、シリルにいつも親しげに話しかけるし、フィオナには熱心すぎるほどの笑顔を向けてくる。
開催日の直前になって、急に今夜の夜会に熱心に誘ってきた人物でもある。
明るい黄色のドレスを着ているフィオナに笑顔を向け、情感たっぷりに切なげなため息をついてみせた。
「そのドレスのせいかな。今夜のフィオナはとても可愛らしく見える。ちょっとぐっときたから、口説いていいかい?」
「ふふ、ロフロス様ったら、顔立ちはヴォード様に似ていらっしゃるのに、遊び人みたいなことを言うのね」
「――――あれ? 相変わらず全然通じないね? シリル、フィオナは恋を知って美しくなったのじゃなかったのか?」
「……念のために伺いますが、どういう噂を聞いたんです?」
「え? それはもちろん、長年想い続けた男を色仕掛けで落としたという恋物語だよ」
「色仕掛け?! なんだよそれっ!!」
「あ、やっぱり違うんだ。さり気なく悪意を含んでいるし、いろいろ突飛だから全ては信じていなかったんだがね。フィオナがその様子ということは……」
目を剥くシリルにコソコソと囁いたロフロスは、しばらくフィオナを見つめる。それから、にやりと笑った。
「つまり、まだ私にも勝機はあると言うことかな?」
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