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ローグラン侯爵
(37)噂の人
しおりを挟むフィオナは普通の令嬢とちょっと違う。
そのどこか冷めたところのせいで、ますます人形じみた表情につながっていた。そんな美しくも聡明な令嬢が、可愛らしく恋をしたら……シリルが他人だったら、きっと無責任に面白がるだろう。
(あー……そうか。それで『恋仲』の噂がどんどん広がるのか。聡明すぎるのも不幸なんだなぁ)
そんなことを考えている間に、ローグラン侯爵がフィオナの前に立った。
あからさまに睨まれているのに、先ほど浮かんだ微笑みはまだ消えていない。むしろますます楽しそうにしている。
思い返すと、いつもそうだった。
ローグラン侯爵が、年若い女性に睨みつけられて悦ぶ人……という可能性はおそらくない。
今まで拾い集めてきた艶聞に、そういう要素はなかったし、どちらかといえば、女性たちがいかに貪られたかを誇っていた気がする。話を盛っていることを差し引いても、女性たちが必死で繋ぎ止めようとする気配があった。
周囲の女性たちが頬を染めながら見入っている。
この侯爵には、実戦に長く身をおいた武人特有の獰猛な気が漂っている。それが平和に慣れた女性たちには危険な色香に見えるらしい。
(……だめだ。この人は手に余る。もう全面戦争をやる方が楽な気がしてきたよ……!)
いささか持て余し気味で虚ろな目になったシリルの前で、ローグラン侯爵は丁寧な礼をした。
「今夜もお会いできて光栄ですよ。フィオナ嬢」
「私はお会いしたくありませんでしたわ。あなたがいると、私の影が薄れてしまいますもの」
「ご謙遜を。フィオナ嬢は私如きが何をしようと、誰よりもお美しいのに」
「まあ、ローグラン侯爵は口がお上手なのね」
フィオナは艶やかに笑った。
いつもの薄すぎる微笑みでもなく、シリルの助言で身につけた美しい作り笑いでもない。
表情が薄いせいで「人形令嬢」と呼ばれたことが思い出せないほど妖艶で、とろりとした毒がある。
一瞬、周囲の人々はフィオナに見入ってしまった。
そんな空気を気にすることなく、フィオナは右手をスッと低く差し出した。
当たり前のように手の甲への接吻を強要する動きだ。ローグラン侯爵はその美しい姿を見つめ、それから身を深く屈めながらゆっくりと手を取って、いつかのように恭しく手の甲に口付けの形をとった。
密やかな騒めきが、じわりと広がる。
それはローグラン侯爵がフィオナの手を取ったまま、椅子へとエスコートする間も続く。
フィオナは壁際の椅子に座り、ローグラン侯爵がその横に立って話しかけていた。
周囲の雰囲気的にすぐにそばへ行くことをためらったシリルは、ひやひやしながら見守る。しかし、意外に会話は続いているようだ。
そのせいか、二人とも身分が高く、影響力も大きく、それゆえにいつも誰かが売り込みのために話しかけようとするのに、近付く者すらいない。
(ははは……こんなに素直に空気を読む貴族なんて初めて見たよ。そこまで遠慮する?!)
シリルが恐れていた展開だ。
しかも悪女のように微笑むフィオナは、気のせいでなければ楽しそうに見えなくもない。
ぽんぽんと何をぶつけても、すぐに言葉を返ってくるのだ。カーバイン公爵父子を出し抜いた男の機転は、フィオナのような聡明な女性には心地よいだろう。
でも、それはフィオナが「噂」を知らないからだ。
そろそろ「恋仲」の噂を教えるべきかもしれない。知ってしまえば、あんなに会話を続けることはなくなるだろうから、噂はやがて消滅するはずだ。
周囲の反応を探ろうと、さり気なく周囲を見る。
興味本位の貴族たちが多い中、若い男女たちが深刻そうな顔でじっと二人を見ていた。
フィオナの信奉者たちは会話を邪魔しに割り込むことはない。かといって、噂の二人の様子を娯楽として楽しんでもいない。
息を呑んで見守っているような、親身で真剣で、それでいて好奇心旺盛な雰囲気だ。
シリルも、状況をもっと見定めたい気持ちはある。
(でも、父上に姉さんの見張りを頼まれているからな……)
これ以上、おかしな噂を冗長させるつもりはない。
姉思いの弟としてシリルはため息をつき、姉たちの会話に割って入る覚悟を決めた。
しかし、いざ足を向けようとすると、二人をちらちらと気にしていた令嬢たちが恐る恐るシリルを呼び止めた。
「あの、シリル様! 私たちと少しお話してくれませんか!」
「悪いけど、後でいいかな」
「シリル様! こちらで今、新種のリンゴの情報を交換しています! ご一緒にいかがですか!」
「え、新種リンゴ? ……面白そうだけど、また後で」
令嬢たちを笑顔でやり過ごしたシリルは、すぐに別の青年にも誘われた。それには一瞬心惹かれたが、余裕の笑顔でかわす。
そのまま歩くと、さらに次々と声をかけられた。
普段なら、カーバイン公爵家の後継者であるシリルが、こんなに若い男女に積極的に声をかけられることはない。
なんだか必死な気配がある。
もちろん、その意図がわからないシリルではない。
彼らは全員がフィオナの熱狂的な信奉者。尊敬すべきフィオナが想い人との時間を楽しんでいるなら、邪魔をするべきではない……とでも考えているのだろう。
しかし、シリルにも父カーバイン公爵から与えられた役目がある。
それに……噂を知ってしまった時の姉の反応が怖い。
姉フィオナに「一応止めたんだよ?」と涼しい顔で言い訳ができるように、シリルは周囲の必死な誘いや目配せやあからさまな咳払いなどを、全て笑顔で振り切った。
やがて、不自然に出来上がった空白地帯に至る。
その半ばまで進めば、遠巻きにしている人々からは聴こえないであろう姉フィオナの声も聞こえてきた。
まだ会話は続いているようだ。
いったいどんな話題なのだろう。シリルは急に興味がわいた。
当たり障りのない天気の話か、会場を飾る花のことか、あるいはローグラン侯爵自身のことを聞き出そうとしているのか。
そんな予想をしたシリルは、しかし聞こえた単語に一瞬足を止めそうになった。
「……なぜ、レモン……?」
聞き間違いでなければ、フィオナは「レモン」と言った。ローグラン侯爵も、口元に薄い笑みをたたえたまま「レモン」と言った。
どうやら姉は、また深い意味のない突飛な話題選択をしたようだ。ローグラン侯爵がそれに乗ってくれたのなら……意外にいい人だ。
驚きながら呆れたシリルは、侯爵の元婚約者たちの好意的な反応を思い出していた。
だが、その間にも会話は進んでいる。
フィオナは相変わらず冷ややかに男を睨んでいた。それを平然と受けていた黒髪の武人貴族は、ふと表情を緩めて楽しそうに笑った。さらに込み上げる笑いを堪えるように、額に落ちてくる髪をかきあげながら床へと視線を落としている。
当然、その笑いがフィオナには不快だったようだ。
何が短く呟いて、ふいと顔を背けた。
何かよくわからないけど、姉が怒った。
完全に機嫌を損ねたようで、もうローグラン侯爵を見ていない。
これは空気を読まずに突入するべきだと判断し、シリルは止まりそうになった自分の足を叱咤した。
シリルが足を速めた時、ローグラン侯爵が一瞬、少し慌てたような顔をした。また足が緩むほど珍しい表情は、しかしすぐに消え、侯爵は違う話題を持ちかける。……聞き間違いでなければ「葡萄」だった。
「……そんなに小さな葡萄でも甘いの?」
「見かけは野生種そのものだがね。色も赤みが強いから、ルビーの名前を冠しているのだよ」
「赤い葡萄というと、粒が大きいものしか知らないわ」
「私は大きいものの方が馴染みがないな。カーバイン領の産物なのかな?」
「あら、あなたでも知らないものがあるのね! カーバインではなく、スービルですのよ」
相変わらず顔を背けているものの、フィオナは誇らしげに葡萄について話している。
見事なほどフィオナの好みを突いた話題だった。
(ははは……姉さんは可愛いなぁ……臍を曲げてもいつも通りの姉さんだよ。……ローグラン侯爵に性格を完全に把握されてるよっ!)
シリルは、今度こそ足を止めたくなった。そのまま背を向けて走っていきたい衝動に駆られる。
一瞬緩んだ足を、シリルは父カーバイン公爵の顔を思い出して意志の力で元の歩調に戻す。そしてちょうど通りかかった給仕を呼び寄せた。
「姉さん、喉が渇いたでしょう。葡萄酒はいかがですか!」
酒杯を手に、笑顔で二人の会話の中へ突入した。
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