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本編
(8)初めての朝
しおりを挟むぱしゃり、と音が聞こえました。
小さな音でしたが、私はうっすらと目を開けました。
見慣れない天蓋。見慣れない天井。暗い部屋の中はいい香りがしていて、枕元には三色のリボンがありました。
外から、かすかにニワトリの声が聞こえました。
まだ早い時間のようです。鎧戸を開ければ、空がほんのり白くなったのが見えるくらいでしょうか。
また、ぱしゃりと音がしました。
水の音に似ています。
まだぼんやりしている私は、横たわったまま顔だけを動かしました。
寝台から少し離れた台の前に、背の高い人影が見えました。一瞬びっくりしましたが、その人は洗面器に移した水で顔を洗っているようです。
一つだけ灯っている明かりのおかげで、その人物の髪が黒いこともわかりました。
……思い出しました。
ここは私の部屋ではありません。お姉様夫婦のために特別に調度を揃えた南側の客間です。
そして、顔を洗っている人はグロイン侯爵様。
昨夜の主役の一人で……私の夫……!
眠気が一気に飛び、がばりと起き上がりました。
その音に、グロイン侯爵様が濡れた顔を拭きながら振り返りました。
「起こしてしまったか」
「い、いえ、あの、その、……おはようございますっ!」
「ああ、おはよう」
グロイン侯爵様は僅かに眉を動かしましたが、私に朝の挨拶を返してくれました。
そのことに少しホッとして、でもすぐに色々思い出して慌てました。
「わ、私、先に眠ってしまって……その、こちらにおいでになったのに少しも気付きませんでした。申し訳ありません!」
「……気にするな。明け方近くまで飲んでいたから」
その言葉に、寝台に目を戻しました。
私が眠っていたのは寝台の半分。残りの半分はきれいに整ったままです。誰かが横たわったような痕跡はありません。
改めて室内を見回すと、テーブルの前の椅子に軽く畳まれた男物の上着がかかっています。グロイン侯爵様はあの椅子に座っていたのでしょうか。
使用済みのコップがあるのは、水を飲んだからでしょう。
そんなことを考えていたら、グロイン侯爵様が部屋のすみにある棚から丁寧にたたまれた衣服を無造作に取り出し、手早く着替え始めます。
私が慌てて目を逸らす前に、着替えは終わってしまいました。
「エレナ殿、だったか」
「あ、はい!」
突然声をかけられ、慌てて背筋を伸ばしました。まだ寝台の上にいることを思い出して下りましたが、立ち上がると大きすぎる寝間着の肩が半分するりと落ちました。
お姉様サイズの寝間着は、やはり大きいです。
慌てて肩を戻した私に、侯爵様はテーブルの上にあった肩掛けをかけてくれました。
「まだあなたが起きるには早い時間だ。もう一眠りするといい」
「でも、侯爵様はもう起きていらっしゃいます」
「……任務がある」
そう言うと、侯爵様は椅子に立てかけていた剣を腰に帯びました。
装飾のない実用的な剣です。
髪をやや乱暴に手櫛でかきあげると、昨日は隠れていた額の傷があらわになりました。
思わず凝視してしまった私に、侯爵様は少し慌てたように額を隠す様に前髪をおろしました。
「見苦しいものを見せしてしまったな。今後は気をつけよう」
「いえ、あの……」
少し驚いただけで、不快に思ったわけではありません。
そう言おうとしましたが、侯爵様はマントを羽織ろうとしています。どうやらすぐにお出掛けになるようです。
慌てた私は、もっと優先すべきことを質問してみました。
「これから王宮へ行かれるのでしょうか。今日のお戻りは遅くなりますか?」
今私たちがいるのは、メリオス伯爵家の屋敷です。
この屋敷は広くて庭もきれいで、客間も十分にあるのですが、王都の中心部からは遠くて、王宮に赴くとなると少々不便です。
出仕のために日の出前の時間から出掛けるということは、帰りにも時間がかかると言うことです。お忙しさによっては、すっかり暗くなってしまうでしょう。
そう思って伺ったのですが。
「こちらには戻らない」
いきなりそう言われてしまいました。
驚いていると、侯爵様は一瞬眉を動かしましたが、すぐに何事もなかったように続けました。
「良い部屋を整えていただいたのには感謝している。だが、しばらくここに来ることはないだろう」
「では、侯爵様のお屋敷にお戻りになるのですか?」
「……いや、王宮の騎士兵舎に部屋を持っていて、いつもそこに泊まっている」
「そ、そうでしたか」
なんとか頷きましたが、寝起きのせいもあって、頭が話についていけません。
そんな私に呆れてしまったのでしょう。侯爵様は私に背を向けて、鏡を覗き込んで身支度の確認を始めました。
「今後のことはすでに確認済みだったと思うが、エレナ殿は聞いていないのか?」
「それは、その…いろいろと、ゴタゴタしていましたので……」
「……まあ、いい。私はそれなりに忙しい。だから、エレナ殿はご実家でゆっくりしていてくれ」
それだけ言うと、グロイン侯爵様は扉へと向かいました。
特に慌ただしい動きではないのですが、侯爵様は歩調の大きな男性。
姿勢のいいお姿は、あっという間に消えてしまいました。
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