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「尊が熱出すなんて、今日は雪でも降るのかしら」

 ノックもなしに俺の部屋に入ってきた姉ちゃんがあきれ顔で言った。

 そう、昨日の放課後、あいつにキスをされた俺は、翌朝熱を出して寝込んでしまった。人間、予想外の出来事が起こると体に不調をきたすんだな、と身をもって体感したのだった。

「うぅ……、姉ちゃん、俺死ぬかも……」
「なぁにバカなこと言ってんのよ、ちゃんと食べて寝れば明日にはピンピンしてるって」

 俺の悲痛な嘆きを笑って返し、姉ちゃんは学校へと向かった。

「はぁ……」

 静まり返った部屋で、俺は嫌でもアレを思い出す。というより、昨日からずっと忘れられないんだ。そりゃそうだよ、俺のファーストキスだったんだから。

 キス……、気持ちよかったな……。

 って、そうじゃない!

 リフレインされた柔らかな感触と熱を消し去るように俺は顔をぶんぶんと横に振った。そしたら、ぼうっとしていた頭がさらに重たくなった。

「やめやめ。今はとにかく寝て休もう」

 目を瞑れば、俺はそのまま眠りに落ちた。



 昼に母さんが持ってきてくれたご飯を食べて、ごろごろとよこになって微睡んでいた俺は、ふと額に感触を感じてぱちりと目を覚ました。

「…………」

 寝ぼけまなこにうつるのは、精緻な彫刻のごとく端正な美顔。額には、前髪をかき分ける指のさらりとした感触。
 ここに居るはずのない人物を見て、夢か、と結論付けた俺は再度瞼を閉じようとする。

 しかし、その直前、俺の耳に「あ、起こしちゃった?」とイケボが飛び込んできた。


「うわっ! な、な、なんでっ」

 なんで、中条が俺の部屋に⁉
 訳が分からず、俺は布団を目深に引き上げて隠れた。寝巻で顔も洗ってない無防備な自分をさらけ出すのには、いささか抵抗がある。

「おばさんに入れてもらった。尊は母親似なんだなぁ、目元とかそっくり」

 にへら、と笑う目の前のこいつは、全くもって今まで通りで、なんだか無性に腹が立った。

 俺はあんなに、こんなに、悩んでもんもんとして挙句の果てに熱まで出したって言うのに……。しかもそれもこれも全部こいつのせいだと言うのに……。

「てか、ホントに風邪だったんだ。てっきり仮病かと思った」

 ぶすっとだんまりを決め込んでいれば、中条はつらつらと話し出す。

「ラインしても全然返事ないし」

 スマホはノーチェックだっただけだ。

「てか、まだ熱あるの?」

 中条の大きな手が額に乗せられる。ひんやりと冷たいそれに、俺は目を閉じた。
 中条に触れられるのは、嫌いじゃない。それどころか、心地よいと思ってしまうんだ。なんならこのままずっと触れててほしいと思うくらい。

「熱はなさそうだな。しんどい?」
「……だいじょうぶ」
「やっと喋った」

 破顔するヤツを見た瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。心臓を鷲づかみされたような苦しさに目を閉じる。

 なんで、キスしたんだよ。

 もっとほかに言うことないのかよ。

 俺のファーストキス返せこの野郎。

「なぁ……怒ってる……?」

 ぽつりと投げられた言葉に俺は考える。

 俺は、怒ってるのか?

 突然のことに驚いて……、ファーストキスを男に奪われるという予想外の出来事にショックを受けてはいたけど……。

「別に……怒ってない……」

 目を閉じたままそう返せば、ふぅと息を吐く音が聞こえる。
 それよりも、キスする前となんら変わらないこいつの態度にイラっとする。でも、それも、俺の独りよがりな悔しさからなだけで……。
 正直、気持ちの整理ができていないだけなんだ。

 もんもんと一人で考えていれば、ベッドがかすかに揺れる。
 同時にふわりと香った、あの、甘い匂いに目を開けると、目の前に中条がいた。ベッドに置いた両腕に顔を乗せて、俺を見つめていた。

 ち、近い。

 ドクドクと心臓が速さを増す。

「肌白いな」

 中条は、顔半分までかかっていた布団を下げると、左手で俺の頬をすりすりとさすり始めた。

「鼻はちっちぇーし」

 親指が鼻梁を行ったり来たり。

「くすぐったいよ」
「だって、触りたいじゃん」

 なんだそれ。じゃん、とか言われても、知らねぇよ。

 思わず笑えば、親指が唇に触れた。輪郭をなぞるようにゆっくりと移動する。中条は、ふにふにと唇を押して、固まる俺を観察するようにじっと見つめている。

「キス、やだった?」
「――っ」

 ぶわっと体から熱が溢れだし、俺はとっさに上半身を起こして距離をとった。
 中条もベッドから体を離して、こっちを見上げる。普段見上げる側の俺が、中条を見下ろしている。
 少し上目遣いになったイケメンは、かわいさ増し増しだ。

「な、なんで、そ、そんなこと聞くんだよっ」
「なんでって……、尊の嫌がることはしたくないから」

 そ、それって……、裏を返せば、嫌じゃないならするってことなのか……?

 え、え、どういうこと?

 そもそも、なんでキスしたの?

 わからないでいる俺は、ギシリ、と音を立ててベッドが軋んだことにも気づかないくらい、思考が完全に停止していた。

「尊」

 すぐ近くで名前を呼ばれ、ハッとする。
 いつの間にかベッドに腰かけていた中条が、顔を寄せてこちらを覗き込んでいた。その伏せがちな瞳は、いつだって俺を虜にするんだ。長いまつ毛に縁どられた奥にきらきらと揺れる虹彩に吸い込まれそうになった。

「嫌なら、突き飛ばして」
「え……」

 中条が俺の手を持ち上げて自身の胸に当てる。

「でも」
「で、でも……?」

 でも、なんなのだろう。俺は不安でいっぱいになる。
 見つめられたまま、中条の綺麗な顔がゆっくりと近づいてきた。

「拒絶しないなら、やめないよ」

 鼻先が触れ合い、中条の顔は焦点が合わないくらいすぐそこに見える。

 俺は、時間が止まったかのように、動けなかった。

 ――否、動かなかった。

 心の奥底で、中条に触れられたいと希う自分がいたのを、俺は認めざるを得ない。

 そして、唇が重なる。
 甘く柔らかな感触によって沸き起こる喜びに体が震え、堪え切れずに目を閉じた。


「……ん……」

 最初は、ふに、と触れるだけのキスをして。つぎに、唇を何度もついばまれた。

 頬に添えられていた手が、髪を梳きながら後頭部にまわされる。その感覚に、全身に鳥肌が立ったような、寒気のような、体がぞくりと震えた。

「ふ……ぅん」

 昨日の急性な荒っぽいキスじゃなくて、穏やかなキスに、とろとろに溶かされてしまいそうだ。

「尊」

 熱を帯びた中条の声に、まるで自分が中条にとって大切ななにかなんじゃないかと勘違いしそうになった。

「口、開けて」
「へっ? ……んんっ」

 舌が中条のそれに絡め取られ、ジンジンと痺れに似た快感が体中を駆け巡った。

 あ、これ……、ダメだ……。

 座っているのに、崩れ落ちそうな感覚に襲われて俺はとっさにヤツの胸に手を伸ばす。

 熱い。
 中条と触れ合っているすべてが、熱い。

「んぅ……はぁ……」

 鼻から抜ける声が、自分のものとは思えないほどいやらしくて耳を塞ぎたくなる。

 こんなの、いけないのに。

 俺たちは友だちで、男同士で、こいつはひよりが好きで、ひよりはこいつが好きなのに。

 なのに、もたらされる快感に抗えなかった。






「――尊にこんなイケメンのお友達がいたなんてねぇ! 来るってわかってたら美味しいもの用意しておいたのに」

 好き放題、俺にキスをした中条は、母さんにつかまって夕飯を食べていくことになった。
 なんつーベタな展開だ。

 家に友達を連れてきたことのない俺の見舞いがきて、しかもそれがこんなイケメンだったものだから、舞い上がっているらしい。今日の夕飯はいつもより3品も多かった。

「佑太朗くん、後でちょっと採寸させて? いいデザイン思いついちゃって」

 姉ちゃんは中条を見て目を輝かせている。リンスタで、また中条を見たいというコメントが寄せられているからとせっせと新作を考えているらしい。

 中条が加わった食卓は、いつも以上に賑やかで楽しい時間となった。
 どこに隠していたのか、食後にハーゲンダッツを出してきた母さんを、俺と姉ちゃんは冷めた目で眺めてたっけ。

 採寸を終えて、俺は家の外まで中条を見送りに出てきていた。外は夜のとばりが降りて月の明かりが柔らかに街を照らしている。

 俺は、さっきまでの中条とのアレが頭から離れなくて、なかなか目を合わせられずにいた。これ幸いに姉ちゃんや母ちゃんに構われてたおかげで気まずくはならずに済んだが……。

 甘く柔らかな感覚に体がずっと支配されているようだった。

「長々と引き留めて悪かったな」

 背中にそう投げかければ、イケメンは振り返って極上の笑みを向ける。

「全然。楽しかったよ、ありがとう」
「こ、こっちこそ、見舞いに来てくれてサンキューな」

 俺はと言えば、熱もすっかり下がって元通り。母さんと姉ちゃんからは「どうせ知恵熱だと思ってたわよ」と言われた。あんまりだ。

「なぁ……、その……な、なんでキスしたんだよ」

 ずっと聞きたかったことを俺はようやく中条にぶつけることができた。キスって単語を口にするのだけでも恥ずかしいのに。俺の心臓はばっくんばっくんで口から出てきそうだ。

 なのに中条は、口の端を挙げてニヤリと不敵な笑みを俺に向ける。

「理由、気になる?」

 これだからイケメンは!
 そんな嫌味な顔ですら、かっこよく様になるんだからむかつくぜ。

「き、気になるから聞いてるんだろ!」

 むきになって言えば、「まぁ、そうだよな」なんて呟いて。うーんと唸ったかと思えば、パッと思いついたように言った。

「だって、尊は俺の彼女じゃん」
「は?」

 あ、それまだ有効だったんだ?

 と、いつぞやの「お願い」を遅れて思い出した。

「え、……だから?」
「そう、だから。彼女ならキスしてもおかしくないでしょ」
「いや、俺、今日miccoじゃなかったよね?」
「miccoも尊も俺にとっては同じだけど?」

 ん? どういうこと?

 いや、待てよ?
 彼女って、たまにデートすればそれでいいって言ってなかった?
 あれ? 俺の記憶違いか?

 処理しきれない疑問がつぎからつぎへと生成されてはそのまま消えていく。

「それに」

 ずい、と影が俺に覆いかぶさる。月明かりが遮られ視界が一気に暗さを増した。

「――よかったでしょ? キス。俺はめちゃめちゃ気持ちよかったけど」

 ぞわり、とまたあの感覚。体の芯がうずく。

 いつの間にか、顎にかけられた指に上を向かされて、俺の視界は国宝級イケメンだけとなった。

「ほら、嫌ならよけないと」

 期待に震え、今にもくずおれそうな体をなんとか保ちながら、その時を待っているどうしようもない俺の願望。

 柔らかな唇を受け止めながら、理性というのはこんなにも役に立たないのか、と俺は初めて知った。

 ――あぁ、ダメだ。気持ちよすぎる。

 ごめん、ひより……。

 ひよりの顔が一瞬浮かび、消えていった。

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