溺れる私が掴んだ藁は

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本編

〈六〉

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 気がつくと、レースのカーテンを透かして射し込む日差しが傾いている。夕方になっていた。

「ごめんなさい、長々とお邪魔してしまって」
「いっこうにかまわない」

 篠原さんはいつも厳しく見える表情を気持ち緩め微笑んだ。
 きゅ。
 痛むようなわななくような、不思議な感覚が胸の奥をざわめかせる。ゆっくりと顔が近づいて唇が重なった。

「……」

 なめらかで熟れた甘みがあって――さっき飲んだコーヒーのようだ。
 キスが深まる前に離れた唇は私の頬に二度触れ耳へやってきて

「このままではまた無理をさせてしまいそうだ。――送るよ」

 囁いた。



 篠原さんと連れ立って歩く。澄んで淡いよいの空が刻々と濃藍こいあいに染まっていく。鳥がねぐらへ戻り人の行き来が絶えて住宅街は静まり返っているが、それでも蝉だけはじんじんじゃんじゃんやかましく鳴き立てていた。

「夕飯も食べてもらえばよかったな」
「そんな、申し訳ないです」
「かしこまってもらうほどのたいそうなものは作れないよ。焼くとか煮るとか、炒めるくらいで」
「だいたいのもの、作れるじゃないですか。すごいですよ」
「そうかな?」

 他愛ない会話の合間に視線が絡む。せっかく篠原さんが逃げ道をつくってくれているのに、私はどんどん奥へ奥へと進んでしまっている。
 また、会いたい。
 勇み足だと分かっていてもそう思う心を止められない。
 あーあ、スマホ置いてきちゃえばよかったな。「きゃ、忘れ物しちゃった、明日とりにうかがってもいいですかあ」とあざとくアポむしりとるくらいやらかしちゃえばよかった。しかしスマホは私のぺらい布トートバッグの中で書店のレジ袋といっしょにぱりぱり音を立てていて、――あれ?

「ん?」
「どうした」
「すすすすみすみすみません、買った本、置いてきちゃったみたいで……」

 かああ、と赤面して私はうつむいた。
 なんてあざといんだ。あざとすぎる。篠原さんのマンションを出てすぐならまだしも、角を曲がればうちのアパートというところまで来ておいて「忘れ物しちゃった、てへ」はない。でも決してわざとではない。わざとじゃないんだがそもそも昼間、K駅前の本屋へ繰り出したあたりから狙っていたとしか思えないわざとらしさ度合いでもう自分で自分が厭になる。恥ずかしい。

「明日もおいで」
「でも」

 篠原さんの大きな手がそっと左頬を包んだ。武骨な親指が唇を撫でる。

「会いたい。ほんとうはこのままいっしょに引き返したいくらいだ。――ん?」

 眉間にびしり、と険しく皺が寄った。

「あそこ、――きみの部屋の前に誰かいる」
「え?」

 篠原さんの巨体越しにのぞくと確かに、ドアの前に男が立っている。半年以上会っていないががっちり見覚えがある。

「――元カレです」
「約束してた?」
「まさか。だって他の人と結婚するっていってましたし、――いったいなんでここにいるんでしょう?」
「なんでだろうね」

 篠原さんは考えこんだ。

「彼の事情をここで推測したところで当たろうが外れようがさして意味はない。――行こう」
「行こうって、でも」

 頭の中がはてなだらけの私は手を引かれるまま、篠原さんといっしょにアパートへ向かった。



「十和、何してたんだよ」

 部屋の前で腕組みをしていた元カレが不機嫌に私をにらんだ。

「何回も電話したんだけど」
「約束してないし」
「会いに来てやったんじゃないか、わざわざ」
「なんで? 秋に地元の子と結婚するって、いってたよね」

 頭の中のはてなが爆発的勢いで増殖する。

「それとこれとは別問題だろ? 十和が『夏休みだけど、どうする?』っていうからこっちは都合つけて来てやったわけ。ずっと待ってて疲れたんだよね。さっさと鍵開けて」
「いやいや。結婚するから今後は会わないんじゃなかったの?」
「そうはいってないだろ? 結婚するからってだけで」
「え?」

 どういうこと? 意味が分からない。

「今までどおりでいいだろ? こうしてたまに会いに来るし、おまえもオレの地元にくればいいし」
「いや、いやいやいや、何いってるの?」
「はい、そこどいて」

 私の手からす、とキーホルダーをとった篠原さんがずい、と前に出た。巨体の圧で元カレがよろめくように場所を空ける。

「おい十和、この人誰だよ」
「その――」
「先に入っていて」

 ドアの鍵を開けると篠原さんは私を部屋の中へ押しこんだ。どうしてよいか分からず、私はアパートのせせこましい三和土たたきに立ち尽くした。ドア越しに元カレが篠原さんに噛みついている声が聞こえる。

「あんた、誰だよ」
「俺が何者だろうと、きみには関係ない」
「は? ――ああ、なるほど。寝たのか、十和と」
「……」
「否定しねえの。――そうか、そうか。身持ちの堅い女かと思ってたけど、見込み違いだったな」

 へっ、と元カレが吐き捨てるようにわらった。
 こういう物言いをする人だったんだ。知らなかった。気の合う者同士で集まってわいわい食べて飲んで遊んで、長いつきあいだったからいろいろあった。楽しいことだけじゃなかったはずなのに思い出すのは楽しかったことだけだった。いつも開けっぴろげで、屈託なく明るく笑う人だった。

「押しに弱いふしだらな女だから、簡単だったってわけだ。どう? 人から女奪って気分いい?」

 誰もが心のひだに弱さや卑しさを隠している。私はもちろんそうだし、きっと篠原さんもそう。知らなかった。恋人だった男が、内心こうして私を蔑んでいたなんて知らなかった。きっと私が、恋人と上っ面だけ、楽しいところだけしか見て来なかったから知らなかった。今まで八年間、知ろうともしなかった。
 押しに弱くて、ふしだら。
 そうか、私はそういう人間だったんだ。恋人というかせを失えばふらふらとすぐに次の相手を求めてしまう。だらしない女だったんだ。私は自分のこともろくに知らなかった。

「奪われたと思いたいならそうすればいいが、きみ自身が手放したんだろう。そして誰と交際するか、彼女自身が決める。きみには関係ない」
「……」
「彼女とは会うな。分かったら帰るといい」
「頼まれたって二度と来ねえよ」

 荒い足音が遠ざかっていく。

「――もうだいじょうぶ」
「はい」

 ドアの向こうからやわらかく穏やかで思っていたより少し高めの、私の大好きな声が聞こえてきた。

「ありがとうございます」
「――帰るよ。ゆっくり休んで」
「はい」

 狭い三和土に並んだ靴、――昨日の雨で濡れたパンプスに詰めたペーパータオルの白が潤んだ視界でにじんだ。




 夏休み二日目の翌朝、だらだら寝坊するのにも九時ごろには飽きてしまった。元カレとは八年も続いたのにどうも私は飽きっぽいタイプらしい。新しい発見だ。まだまだ私は私自身を知らない。

「忘れてた……」

 スマートフォンの電源を入れた。待ち構えていたかのように、電話が鳴る。

「なーんか、さあ、すごい話聞いたんだけど!」

 学生時代の友人のひとりだった。ノリがいい者と顔面が整った者、どちらかというと前者で、生来のノリの良さで顔面が整った男子を早々に捕まえたコミュニケーション能力にけた子だ。日曜の朝っぱらからやかましい。その明るさは魅力的なのだがさすがにこのタイミングで調子を合わせられるほど元気はない。

「**くんと修羅場ったって?」
「――あの人、何かいってるの?」
「別れてすぐなのに、すんごくゴツくて強面のおっさんお持ち帰りしてたって、――十和ちゃん、すごくない?」
「おっさんじゃないし。お持ち帰りじゃないし。――それに別れてすぐって、**くんが結婚するってことも知らなかったし」
「え? 知らなかったの? うち、式の招待状きたよ?」
「だいたい、既婚者とつきあうわけないよ」
「まだあいつ結婚してないけどね」

 ひとしきりけたけたと笑ったあと、彼女はそれにしても、とつぶやいた。電話の向こうで首を傾げていそうな声色だ。

「聞いてたのと違う」
「そうなの?」
「十和ちゃんって他に彼女とか奥さんがいても平気みたいだよ、って話だったんだけど……」
「さすがに平気ってことはない。知らなかったんだよ。私はふつうにつきあってるつもりだったから」

 疲れる会話を切り上げて、溜め息をついた。
 ふつう、――か。
 どういうおつきあいが普通なんだろう。どういうふうに出会って、どういうふうにアプローチしてされて、どうなるのが普通の幸せなのかな。そもそも男と幸せになるって、私に可能なんだろうか。

 す、と体中の血が冷める。
 もう今までと同じというわけにいかない。足もとの、確固としてあったはずの地面はほんとうは薄氷だった。知らぬ間にもろい氷を踏み抜いてしまっていた。
 とんでもないことをしてしまった。あんなにまじめでいい人と、段階も踏まずおつきあいをはじめる前に寝てしまった。もっと大事にすべき相手だったのに。学生時代の友人たちが陰でいっていたとおり、私は押しに弱くてふしだらだ。

 ぐう。
 こんなときにも腹は鳴る。休み前に忙しかったのと、休みに入ってからのあれやこれやで買い物もろくにしていない。冷蔵庫に残っていた期限切れ間際のヨーグルトをスプーンでかきこむとなんとなく空腹がまぎれた。なんと、拙宅には食糧がない。あるのは調味料だけじゃないか。米どころかカップ麺すら切らしてるのか。何しているんだ、私。

「さて、暑くなる前に買い物しとくか――」

 ぺらい布トートバッグにスマートフォンとハンカチと財布を放りこみ、部屋を出ようとして気づいた。

「鍵……」

 篠原さん、持って帰っちゃった。念のため、ドアポストの中を確かめるがやはり見当たらない。なんとなくだけど、外の郵便ポストには入れない気がする。
 はあ。
 溜め息ひとつつき、スペアの鍵をもって外へ出た。


 じわじーわ、つくつくほーしつく、じーわじょりじょりじょり。
 今日も酷暑だ。
 あっちでこっちでけたたましく蝉が鳴いている。鳴きまくっている。午前中はいくぶんマシだと思っていたが幻想だった。そうだった。私に合わせて蝉が夏休みをとってくれるわけがないんだった。朝っぱらからどえらい勢いで蝉が鳴きまくっているし暑い。
 駅の反対側にあるスーパーまで行くのも面倒だ。歩いている途中で私はエアコンが効いて涼しいに違いないコンビニへふらふらと吸いこまれた。

 朝早くもなく、昼時分にはだいぶ間がある。弁当や惣菜はほとんど売り切れていた。かといってデザートやカップ麺を物色する気分ではない。籠を手にしたまま、私は雑誌コーナーの前にぼんやり立った。
 元カレとはついこの間まで、恋人同士なのだと思いこんでいた。実際には他の人と結婚することも教えてもらえない間柄だったわけだけど。そう考える今このとき、悔しいし悲しくもあるけどどこか遠い場所の出来事のようで怒りが湧かない。元カレがらみの友人関係はぜんぶカットだな。
 そして会社、どうしたもんか。
 篠原さんとは同じフロアでも今まで接点がなかったんだから、これからも同じようにやっていけるだろう。
 ほんとうに、そうだろうか。
 冒険気分でそのとき限りのセックスをしていい相手ではない。ほんとうは少しずつ距離を縮めて心を通わせてから一線を越えるべきだった。――そう後悔するくらい、篠原さんは上等でいい男だった。じゃあ、どうする。
 辞めるか――。
 何もかもリセットしちゃうか。
 転職雑誌と賃貸住宅情報誌をがっさがさ買い込んで帰宅すると部屋の前に、眉間に深々と皺を寄せた強面巨漢が立っていた。


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