溺れる私が掴んだ藁は

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本編

〈四〉

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 篠原さんの住まいは駅近くのマンションだった。そこそこに築年数は経っているようだけど、失礼ながらまだ三十代入りたてのメーカー営業が買える物件ではないように見える。

「ご家族がおいでなのでは……」
「両親は田舎に引っこんだし、姉は結婚して別所帯だし、今は独り暮らし。気にしないで寄っていって」

 エントランスに入る前にスカートのすそを絞るとじょばば、と雨水がしたたった。篠原さんはじろじろ見ないようにしてくれているがびしょ濡れのブラウスにくっきりキャミソールとブラの肩ひもが浮き出ている。居酒屋のビルを一歩出た時点でこれ以上保水できないレベルでびっちょびちょ。

「足もと、気をつけて」

 篠原さんは親切にエスコートしてくれる。静まり返ったエントランスからエレベーター、通路を歩いた。パンプスに入りこんだ水と空気が押し合いへし合いしてぐっちょ、ぶりべっちょ、と幼児用ピヨピヨサンダルを思いっきり下品にした音が響く。そろそろアラサー、いも甘いも噛み分けたとまではいわないがそれでもこんな羞恥まみれの局面にぶち込まれることはなかなかない。半ば自棄やけを起こしてぶりっちょぐっちょと水音を立てたどりついた篠原さんの部屋はほどよく落ち着いたお住まいだった。

「入って。廊下はあとで拭くから今は気にしないで」

 まっすぐ洗面所へ向かう。篠原さんはすぐに出て行った。
 鏡に血の気の失せた女のしょぼしょぼした顔が映っている。私だ。もともと地味女なのに化粧がげて大地をえぐる勢いで地味っぷりに拍車がかかっている。のろのろとびしょ濡れのバッグのファスナーを開き中を確かめる。

「よかった」

 スマホも読みさしの文庫本もミニタオルも財布も無事。幸い、中までは濡れなかったようだ。

「はい、着替え。シャワー浴びて」

 ノックして扉を開けた篠原さんから渡されたのはバスタオルととても大きいサイズのパジャマだった。遠慮や拒否などする気力もなくシャワーを借りた。

「何してんだ、私……」

 シャワー後、リビングルームへお邪魔すると

「コーヒー飲んでて。あと、テーブルの上にあるもの、つかえそうだったらつかって」

 もうしわけないです、ありがとうございます、などと口をはさむ隙も与えず篠原さんはシャワーを使いに行った。
 そうだった。ヤマさんによると仕事の早い人だった。
 テーブルの上にはコンビニエンスストアのドリップコーヒー、スキンケアセットが置いてある。この短時間でここまで用意できるとは。まめだ。仕事ができる男は違う。
 壁一面分、天井までぎっしり本がつまった作り付けの本棚を「ほええ」と眺めつつありがたく気遣いをちょうだいしているとからす行水ぎょうずいレベルの速度でシャワーを終えた篠原さんがリビングルームに戻ってきた。

「服は風呂場で干してる。浴室乾燥機があるからだいぶましになると思う」
「な、何から何まで、すみません」

 まめだ。強面こわもて豪放ごうほう磊落らいらくに見えて気遣いがこまやかだ。朝の時点で社会的ゾンビと化した後輩社員に対してこれだけ親切にできるなんて、篠原さんは菩薩ぼさつか。

「お礼を……」
「いいんだ、ほんとに気にしないで」
「そういうわけにも」

 こうなったらコピーに資料作成に会議準備を……いや、これは普段の私の仕事の一部だった。しかもシマを越境してよその課の仕事はできない。それならば一ヶ月弁当差し入れしてもいいし、ランチ代金を捧げてもいい。押し問答を繰り返していたら篠原さんが

「お願いしても、いいのかな……」

 腕組みしてうつむいた。

「お任せください、どんと来いです」

 あとから思えばちょっと――というかかなり――大きく出てしまったし、これを言質げんちにされたらたいへんなことにもなりかねなかったわけだけど、篠原さんのリクエストは

「だったらその、――甘やかしてほしい」

 というものだった。
 あまやかす、とは? いっぱしの大人を、しかも強面ガチムチ巨漢を甘やかすとは具体的に何をすればいいのだろう。
 篠原さんは家事全般がひととおりできるそうだ。なるほど、きれいに片付いている。男性の独り暮らしらしい殺風景と、長い間家族で暮らした日々の積み重ねとがほどよくミックスされた生活感がリビングルームから見える。てきぱききびきびした様子からひとりで暮らし慣れていることもうかがえる。炊事すいじやら掃除やらの家事労働でもって篠原さんを甘やかすことはできない。つまるところ、家事を得意としないし好みもしない私では役に立てないというわけだ。
 じゃあ、どうする。
 ガチムチ巨漢が、一部女子社員から怯えられる強面をいっそうけわしくさせてもじもじした。

「そのあの、――膝枕をしてほしい」
「ひざまくら」

 仕事は速度も重要だがまず第一に精度、業務を正確に遂行することが求められる。しみついた会社員根性でつい復唱した。
 ひざまくらって膝枕。仕事のできるガチムチ巨漢とあの膝に頭を乗せる行為が脳内で結びつくのに少々時間を喰った。

「駄目かな」

 篠原さんの眉間に厳しげな皺が深く刻まれる。が、頬を染めるようすはかわいらしいといえなくもない。

「いいですよ、膝枕、しましょう」

 どんと来いっていっちゃったし。思い切りよく引き受けちゃったがもしかしたらこのとき、まだ酔いが残っていたかもしれない。


 そんなわけでソファで膝枕をしている。
 座り心地のよいそのソファは大きかった。狭いとはいえないリビングルームなのに明らかにサイズを考慮せず勢いで買っちゃった感じがある。モダンなデザインに年季を感じるのできっと隠居されたというご両親の置き土産なのだろう。

「重くないかな」
「平気ですよ」

 巨漢である。体格が立派ならば頭だって大きい。それなのに不自然に軽い。膝の上の頭を撫でるついでに探ってみたらやっぱり頭がちょっと浮いていた。ぷるぷる強張こわばった首筋を指でなぞるとびくり、と広い背中がおののく。

「これじゃ膝枕にならないでしょう」
「いや、しかし」

 もじもじ背中を丸める篠原さんの頭をぎゅ、と膝におしつけた。

「だいじょうぶですから、膝に頭、あずけてください」
「ありがとう」

 ほう、と深い溜め息とともに膝に重みがかかった。
 窓の外から、微かに電車の通る音が聞こえる。まだ降り続いてはいるけれど、滝のようだった雨の勢いが失われている。しばらくそのまま、雨夜の街の音に耳を傾けた。

「重くない?」
「平気ですったら。――もう、ちゃんと甘えてください」
「分かった」

 篠原さんは寝返りを打ち、こちらへ顔を向けた。目が合う。
 きゅ。
 胸の奥が痛むようなわななくような、不思議な感じがする。電車で密着したときも、会社で電話越しに篠原さんの声を聞いたときも、居酒屋で意外にきれいな箸づかいを目にしたときもこうなった。
 ああ、まずいな。
 学生のころから長くつきあっていた(と思っていた)元恋人はときめきはくれなかったが、ストッパーの役割は果たしていたわけだ。その抑えがなくなって私はふわふわしている。そのことから目を背けたくてそっと、篠原さんの頭を撫でた。短く整えられた髪はあらかた乾いている。

「お疲れさまでした」

 ゆっくりと髪を指で梳く。いつもは鋭い篠原さんの目がとろんとしてきた。

「寝てもいいですよ」
「帰っちゃう?」
「ちゃんと、ここにいます」

 嬉しげに篠原さんが微笑んだ。ぎゅ、と抱きしめられる。
 つきん。
 淡い快楽なのか、痛みなのか、分からない。薄いパジャマの生地のすぐ向こうに熱い唇がある。そう意識すると乳首が頭をもたげた。
 何をしているんだか。
 自分で自分がおかしい。人恋しくなっているんだろう。親切なこの人に甘えすぎてはいけない。常識の範囲からちょっと、というかだいぶ逸脱いつだつしちゃっているけど今ならまだこれまでどおりの会社員生活が営めると信じたい。

 篠原さんの呼吸がだんだんと深くゆっくりになってきた。健やかな寝息と穏やかな雨音に耳を傾け、膝の上の頭を撫でているうちに夜がけていった。


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