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本編
〈一〉
しおりを挟むじわじーわ、つくつくほーしつく、じーわじょりじょりじょり。
扉を開けて
「う……」
私は思いっきり顔を顰めた。
あっちでこっちでけたたましく蝉が鳴いている。鳴きまくっている。
「あっつーーーい」
口にして後悔した。ますます暑い。東京は大連続晴天でからっから、今日も朝っぱらからフルスロットルで太陽がじりじり照りつける。蝉どもめ。おのれら、そんなに女がほしいか。七年だか十三年だか知らないけれど土の中でじっと待ちつづけやっとこさっとこ地上に出たんだからっていいたいんだろうがだからってじゃんじゃん鳴きまくれば恋人できるって蝉の世界はどんだけイージーなのか。そうか言いがかりか。すまないな、こちとら昨夜フラれたばっかりじゃい。蝉時雨に溺れているみたいに気分がどんよりしている。
今日を乗り切れば、夏休み。
そう唱えて私はアパートの敷地から外へと一歩、足を踏み出した。
ぬ。
影が差す。ぎょっとして見上げると
「真籠さん?」
隣の課の強面エース、篠原さんが立っていた。
「おはようございます。お住まい、このあたりなんですか?」
「おはよう。最寄り駅はKなんだけど、電車が止まってしまって。T駅に向かっているところなんだ」
なるほど。K駅ならば路線は違うが徒歩圏だ。連れ立って歩き始めた。
篠原さんは大きい。百八十五センチは軽く越えているであろう長身に分厚い胸板、彫りの深い仏頂面という威圧的外見で女子社員の中にはあからさまに怖がる子もいる。私はといえば、特に篠原さんを怖いとは思わない。単に接点がないともいう。隣の課だから毎日のように顔は合わせる。けれど同じオフィス、同じフロアでもシマが違えば仕事でかかわることもない。威圧的な見た目でも篠原さんは常に穏やかで物腰がやわらかい。エアなジェットコースターにでも乗ってるのかよ、といいたくなるくらいご機嫌アップダウンの激しい輩も社内にはいるので、篠原さんはだいぶ印象がいい。
ふだん言葉少なな篠原さんの声を意識して聞いたことがなかった。だから驚いた。なんといえばいいんだろう。いい声だ。巨漢といえばがらがら野太く大きい声だと思いこんでいたけれど、意識してちゃんと聞いてみればこの人の声はやわらかく穏やかで、少し高めのトーンだった。
「朝から災難ですね」
「まいったよ。――真籠さんは」
こてん、と篠原さんが首を傾げた。ちょっとかわいい。強面だけど。
「元気ないね」
「そんなこと、ないですよ」
たはは、と苦笑いを返す。篠原さんの眉間の皺が深まった。
そういうとこだぞ? 女子社員に怯えられるのって。
しかし文脈上、怒っているのではなく気遣ってくれているのだと判断した。よっぽど調子悪そうに見えるんだな、今日の私は。
「体調に問題はありません。ちょっとその、失恋しちゃって。あはは」
肩を竦めると、篠原さんの足取りが乱れた。がくっとなっちゃうような話なの、後輩女子社員の失恋話って。見上げると、篠原さんが目を丸くしている。眉間に皺を寄せた仏頂面がデフォルトなのでだいぶレアな表情だ。
「それは……たいへんだったね」
「あはは」
アラサーが失恋なんて世間では別に珍しい話でもない。しかしそこら中に転がっている恋バナバッドエンドのひとつであろうと私の中では重い。どんよりと溜め息をついた。
「朝から、すみません」
「俺はかまわないんだけど、……今日は無理しないようにね」
「ありがとうございます」
意外だな。篠原さんの一人称、俺なんだ。
このときは長閑且つ呑気だった。知らなかった。この日の私は運がなかった。そして不運が失恋ひとつではすまないことを後でさんざん思い知ることになる。
電車はめちゃくちゃに混んでいた。東京都内の平日朝八時に空いている電車などあろうはずもないがそれにしてもいつもに増して混雑している。激混みで有名な別路線の振替輸送の煽りをもろに喰らっているからだ。
ふだんさして汗をかく体質でないから今もさして発汗しているわけではない。しかし私は今、心の冷や汗をだらっだらかいている。
「……」
たいへん困った事態に陥っていた。
同じ電車に乗って先輩社員が隣に立つ、くらいは何てことはない。ぎゅうぎゅう詰めの電車で体が密着! というのもどえらく困るが仕方ない。だわわわ、と電車の奥に押しこまれ篠原さんにしがみついているみたいな体勢になってしまっているのも申し訳ないのだが困ったことに私の右手が篠原さんのあらぬところにタッチしてしまっている。社会人になって五年、満員電車など日常茶飯事だが男性の股間にお触りという事態は初めてだ。
「すみません……っ」
しかもなんでこうなった、掌があたっている。篠原さんの篠原さんに。どうしてそれが分かるかというと反応しておいでだからである。なぜ反応しあそばしているかというと、事態をどうにかしよう、あたっちゃうならせめて掌でなく手の甲側をと私がもぞもぞ手を動かしてしまったからである。刺激が与えられれば反応するのは仕方ない。そういうブツだ。篠原さんが悪いんじゃない。どう考えても私が悪い。満員電車で先輩社員に手コキとかどんな痴女AVだ。知りたいと思ったことは誓って一度もなかったが知ってしまった。篠原さんの篠原さんは体格に見合ってご立派なサイズだった。
もうやだ、泣きたい。死んで詫びたい。
篠原さんの腕が背中にまわった。ぽんぽん、と撫でられる。
「だいじょうぶだから。その……俺のほうこそ、ごめん……」
耳もとで囁かれた。
きゅ。
胸の奥が痛むようなわななくような、不思議な感じがする。申し訳なくて心臓ばくばくで具合が悪くなりそうだ。篠原さんは顔は恐いがいい人だ。朝からどえらい目に遭わせてしまっているのに私を責めない。
「ほんとに、すみません……」
涙目で見上げたとき、電車が急に揺れた。よろけそうになる私を、背中にまわった腕が支える。
ごくり。
音が聞こえそうに大きく、喉仏が上下する。それがとても近くに見えることではじめて私は、篠原さんと抱き合っていることに思いが至った。びくり、と体が震える。その震えを伝えた掌にあたる剛直がサイズアップした。篠原さんの手にぎゅっ、と力がこもる。
困った。
もちろん第一は迷惑をかけていることだ。密着プラス股間お触りだけでない。篠原さんはただ同じフロアで働いているというだけの間柄の女が倒れないようしっかりと支えてくれている。
申し訳ない。そして困っている。
何が困るって、厭じゃないことだ。むしろ気持ちいい。
満員電車はとにかく不快で、早く目的駅に着けばいいのに、なんなら満員電車などなくなっちまえばいいのにと本気で祈っているし願っているし念じてもいる。それはいつもの朝と変わらない。それなのに篠原さんの腕の中にいる今、抱きしめられているみたいで気持ちいい。細切れに呼吸しないとへんな声が出てしまいそうで困る。
認めたくないけれど、自分は発情している。
こんなこと、初めてだ。
今まで篠原さんを男の人として意識したことなどなかったのに。元カレと別れたから。だからって昨日の今日で一日も経ってないのに。別れた男に遠慮など必要ない。でも失恋したからほい次、と電車を乗り換えるみたいに軽々しくはできない。まるで――ふしだらな女みたいで。
篠原さんは私をそういう相手として考えたことなど一度もないに違いない。今このときもそうだ。意識するだけでも迷惑になってしまう。自重しなければ。
十五分間、強面先輩社員に苦行を強いたのち、地下鉄に乗り換えた。空いてはいないが先ほどよりだいぶましだ。隣に立つ篠原さんはジャケットを脱いで鞄と一緒に持っている。さっきまでお触りしていたくだんのそれがまだ苦しいのだと思うと申し訳なくて消えてしまいたくなる。
「すみませんでした……」
「真籠さんが謝ることはない。ほんとにだいじょうぶだから。気にしないで」
篠原さんの眉間に深々と皺が刻まれている。げっそり疲れ果てたといった風情だ。申し訳ない気持ちでいっぱいのまま、ほとんど言葉を交わすことなく連れ立って出勤した。気まずい。
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