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クロエ (六)
しおりを挟むクロエとて、今回ばかりは逃げられないと分かっている。
「だからってラーシュまで、移民船に乗れなんて……」
涙声にラーシュがはっとして視線を時計台からクロエに戻す。向かい合うふたりを「混んでるんだから立ち止まるなよなあ」「邪魔だよ」と人々が追い越していく。流れに押されるまま駅前広場に入り、ふたりは軌道エレベータの塔が突き刺さった古びた駅舎近くの物陰へ身を寄せた。
「どうして……」
見上げる先で、ラーシュの目が悲しく曇る。
「引き留めてくれないの」
「もう、最後なんだ。宇宙に旅立つかどうかを自由に決められるのは」
クロエを抱き締め、ラーシュは囁いた。
年々寒さが厳しくなっている。食糧だけでなく、枯渇気味の鉱物資源の採取そのものもままならなくなってきた。時間と資源の残りとを勘案し、地球行政府は全人類を他の居住可能惑星へ移住させると決定した。宇宙船建造資材に寒冷地で生きるための燃料。決めたからといって枯渇気味の資源がどこかから湧いてくるわけもない。
軌道エレベータも宇宙港もかたちばかりとはいえ民営だったのが明日付で行政府に接収される予定だという。
「これからは金があろうとなかろうと自由に旅立つことはできなくなる」
「じゃあ」
クロエはハンカチを握りしめ、ひたと恋人を見上げた。今日までは金でなんとかなるのならばどれだけ払ってもいい。なんなら、祖父に払わせてもいい。
「いっしょに行こう」
「俺は――」
言い淀みはしたが目に迷いは見えない。ラーシュは思慮深い男だ。でまかせや思いつきで続きを口にしているのではない。
「駄目だ。いっしょには行けない」
かつて海だった荒れ野を渡ってきた冷たい風がクロエの髪をかき乱した。信じたくない思いと諦めとが心の中で綱引きをする。
パーティで出会ってから何度も逢瀬を重ねた。互いに初めての恋ではなかった。でもそれまでの恋とは違う。――少なくともクロエはそう思っていた。
始まりのときの情熱が冷めたと感じたことは一度もない。
今このときも、ラーシュは光の源だった。
砂色がかった金色の髪。青みを帯びた灰色の目。淡い色合いで少し冷たく見られるようだけれど初めて出会ったときからずっと、ラーシュは誰よりも濃く熱く輝いていて目を離せない。
クロエの独り善がりではなかったはずだ。ぎゅう、と男の手を握る。
ラーシュの目に翻意の色は見えない。出会いのときと変わらない情熱に悲しみが濃く重なっている。
目を閉じると、ついさっき後にした展望台からの眺めが瞼の裏によみがえる。
崖下に散らばるたくさんの鍵。フェンスに南京錠を取りつけ互いの愛情をロックする儀式ののち恋人たちが投げ捨てたものだ。目移りなどしない。生涯、相手を思い続ける。そう誓って。新しい鍵はまだきらきらと陽光を反射し、古いものは土埃にまみれ錆びついている。
クロエもラーシュとともにこのフェンスに南京錠を取りつけ、鍵を投げ捨てた。愛の誓いを立てて。
勝ち気な目から涙とともに力が脱けていく。
出会いから変わらず恋い焦がれ、愛し続けていたのはクロエだけだった。
背を向けて自分と向き合っていても、ラーシュの心には駅前広場に集まる人々――名も知らぬ大勢の人々を助けたい気持ちが強く、つよくある。社会基盤の比較的整った低緯度地域の都市へ移住を促すために辺境をめぐっていた医師時代も、地球残留派思想団体の代表となった今も。
それが、利益の上で反発するとしても祖父アーサーの事業と背中合わせであることも分かっている。
大義を前にして自分が選ばれないことも分かっていた。そんなところも愛している。
分かっていても、つらい。
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