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32 オヤジの執念
しおりを挟む支度するマユを待つ間、オヤジはケータイで何処かに電話していました。低い囁くような声でしたが口調は丁寧で、威圧感があり、内容はよく聞き取れませんでしたが何かを要求し何かを念押しするような様子が見て取れました。
マユは、落ち着いたグレーのワンピースにきちんとストッキングを履いて降りてきました。俺とオヤジに「お待たせしました」と頭を下げました。
マユの軽自動車に乗り込み、オヤジの案内のまま、まだ真昼の熱気が残る道路へ走り出ました。
「俺が今までお前に母さんのことを話さなかったのは、お前が気掛かりだったからだ」
「俺が何をしでかすか、読めなかったんだろ?」
オヤジは答える代わりに沈黙しました。
信号で止まりました。オヤジは瞬きもせず、俺を見ていました。
幾場面もの修羅場。それを搔い潜って来た者だけが持つ目。もしそんなものがあるとすれば、それはこういう目のことを言うのかと思いました。
「俺はな、お前の母さん、ヨウコに出会うまで、本当にどうしようもない、クズだったのだ。
女とみれば手当たり次第にモノにした。一番愛したのはイチコだったがあいつにも随分辛い思いばかりさせてしまった」
運転する俺の隣で、時折思い出したように缶コーヒーを口に運ぶオヤジは、ゆっくりと澱みなく話し始めました。その場には不似合いでしたが、何故かタキガワのことが想い出されました。
土曜の午後、道は比較的に空いていましたが可能な限り急げと言われ抜け道を選びながら東に向かってスピードを上げて行きました。
「本当にバカだった。
そして、そういうヤツには必ず天罰が下るものだ。
オリンピックの直前、俺はオートバイで事故を起こし選手生命を絶たれた」
と、オヤジは言いました。
「俺は、荒れた。
お前のじいさんにも愛想をつかされて勘当同然になった。
それでも、そんなクズの俺をイチコは見捨てないでいてくれた。結婚したいと、そうまで言ってくれた。
しかし俺の乱行を知っているあいつの親は許してはくれなかった。イチコは見合いで俺の知らないヤツのところへ嫁いでいった。最後まで俺を見放さずに支え続けてくれたイチコまで失い、俺は孤立無援になって絶望しかけた。
しかし、さすがに腑抜けになった俺が気の毒になったのだろう。
じいさんは知り合いの伝手で見合い話を持ってきた。気がすすまなかったが、紹介してくれた人の顔も立てねばならん。渋々見合いの席についた。
そこに母さんが、ヨウコがいた。
一目惚れだった。
そしてヨウコが、腑抜けになったクズの俺を、変えてくれた」
オヤジは遠い眼を前に向けていました。
首都高速も思いのほか空いていました。
車は予想よりも早く、新しく出来た海の底を走るトンネルに差し掛かっていました。いつもなら車に乗った途端にそのデカい口を開けて鼾をかき始めるマユが、緊張した面持ちでオヤジの話を聞いているのがバックミラーに映っていました。
「あの日」
と、オヤジは続けました。
「俺は気になって病院を抜け出して家に戻った。
疲労困憊していた。手紙にあった通り、お前が無事に発見され、命に別状ないと判った途端にそれまでの疲労がどっと出た。
流石の俺も、今ここでぶっ倒れて眠りたい。そこまで疲れ切っていた。そこへ母さんのあの一言だ。
『今日は家に居られるの』ってな。
お前はそれしか頭にないのか!
さすがの俺も、もう忍耐の限界を超えてしまったんだ。玄関先で大人げなく母さんを無視した。
それが急に気になりだしていたんだ。だから、急いで家に戻った。
だが、母さんはもう、居なかった。
すぐにでも追いかけて探していれば良かったんだが、お前のことがあったからなあ。
じいさんにホームから戻ってもらってお前の面倒を頼んだり、捜索に協力してもらった人たちに挨拶して回ったりして、母さんの行方を捜し始めたのは居なくなってから一週間も経ってからだった。
どうせさして金も持っていない、資格と言えば介護関係の等級も低いものだけ。あいつの実家の両親を頼ることもあり得ないし、他に身寄と言えるものもない。友達もいない・・・。
そんな三十過ぎの女がそうそう身を落ち着かせるところなんてありはしない。最初はそうタカをくくっていた。
だが、コトはそう簡単にはいかなかったんだ」
と、オヤジは言いました。
「心当たりは全て当たった。
しかし、ひと月しても二か月経ってもまるで手掛かりがない。もちろん警察へも届けをだした。しかし、三月、半年経っても状況はまったく進展しなかった。
そこで俺はもう一度事実を整理して最初に建てた方針を改めた。
母さんがまともかそうでないかは別として、何か仕事で生計を立てていることを前提にしていたが、それはどうも疑わしくなった。所謂色町で働いていることも可能性は薄いだろうと思った。
意外に思うかもしれないが、ああいうところで働くというのは、スキだからできるというものでもない。ある程度自分を制御できないヤツはすぐに辞めちまうもんなんだ」
トンネルに入った途端渋滞に捕まりました。瓢箪型の細長い湾を横断する形で建設された海底トンネルと海上道路との中間接点、その島の上に設けられたパーキングエリアに立ち寄ろうとするブームは、開通三年目にしてまだ続いていました。オヤジは入り込んでくる排気ガスを嫌って窓を閉めました。
「もし、母さんが自殺などをせず生きていて、その業界にはいないと仮定した場合、どうなるか。
あの際限のない性欲を制御しつつ生きていくためには何が必要か、と考えた。
それはごく単純なことだと気が付いた。俺が母さんにそれまでしてきたことを継続的にできる第三者がいれば可能なのだ、と」
渋滞はトンネルの出口に近づくと徐々に流れ始め、車が陽の光が降り注ぐ海上に出るや解消しました。
夏の終わりの内海は凪いでいました。マユが両側の窓を開けたので俺も倣いました。潮風が心地よく狭い車内を抜けて行きました。
「そういう好事家が、まあ二号さんを囲うようにして養っているなら、少なくともある程度の社会的地位のある人間だろうと見当をつけた。母さんも一生外の空気を吸えないところに隔離されているわけではなかろう。だからその地域社会に多少なりとも露出しているんじゃないか。そう考えた。警察は当てにならん。無論高額だが興信所も使った。内々にそういう類の秘密クラブのようなところも当たってみた」
その長い海の上の橋を渡り終え、オヤジの指示で高速を降り車を一般道に出しました。
そこで、俺が運転を替わる、と言うオヤジにハンドルを任せ、車は一路南を目指し山の中に入ってゆきました。
「スポーツ界というのは昔から政治の世界や財界との関係が深い。いろんな競技の団体の理事長だとか名誉顧問だとかに元大臣とか元首相だとか企業の会長だとかが就いているのは珍しくもないからな。
俺も学生時代からいろんな政治家と一緒の写真を撮らされたし、コーチになってからはあらゆるところに顔を出して寄付金集めに奔走していたからあちこちに知己がいる。ヤクザの知り合いだって何人かいる。何故か政治家と付き合うとそういう連中と顔を合わせることが多かった。
『探索射撃』という言葉を知っているか?」
「たんさくしゃげき?」
マユが問い返しました。
オヤジは後ろの座席を顧みてうむ、と頷きました。
「俺は戦争に行っていないから本当のことは知らん。知り合いの経営者がフィリピンからの復員者でなあ。ジャングルで米軍や地元のゲリラとドンパチやってたらしい。そのオヤジから聞いた話だ。
見通しのいいところなら必要ないが、前後左右密林に囲まれた中で迂闊に歩き回れば狙撃される危険がある。そういう時、二三発適当にブッシュの中に打ち込む。相手が肝の据わった奴なら駄目だが、そうでない場合、発見されたと思って打ち返してくる。そこに敵がいる、と判るわけだ。俺がやったのは、それだ。ただし、撃てば自分の位置も知れてしまう。だから迂闊にやることはできなかった。
政財界やヤクザの中の気心の知れた何人かにそれとなく探りを入れてみたりした。実は嫁が突然いなくなった。行方を捜しているんだが一向にわからない。本人の意に反して囚われている可能性もある。事情が事情なので、警察にも相談できなくて、困っている。そういう意味のことを触れ回り、その都度母さんの顔写真を配った。
そんなふうにして一年が過ぎた。探偵も全く手掛かりを掴めなかった。ところが、思いもよらない処から接触があった」
「それって・・・」
焦れたマユが先を促しました。
「神様の代理人だ」
「神父さん?」
「そうだ」
とオヤジは言いました。
「さっきたー君が教えてくれた」
オヤジがほう、という顔をして俺を一瞥しました。
「ある教会の神父から手紙が来てな。神を騙って女性たちを囲って働かせて上前を撥ね、挙句の果てに慰み者にしているヤツがいる、と。そこから逃げ出して来た女性を助けたことがあるってな。半信半疑で会いに行ったんだ。
親切な神父さんでな。いろいろ教えてくれた。キリスト教だから地獄に仏ってのもおかしいが、お陰でずいぶん助かった。
その神父さんが言うには、ソイツは数名の女性たちを引き攣れてあちこち小さな町を転々としながら生活しているということだった。囲った女たちをその街の色街やらで働かせ上前を撥ねていると。俺が知りたかったのは母さんとソイツ等が『今』どこにいるか、だ。その逃げて来た女性に会いたいと言ったが断られた。その人は今本当に神様のしもべとなってお仕えしていて一切外界の人間と接触できないところにいるってことだった。修道院だな。だが、あなたが奥様の消息を尋ねてきたことは伝えましょう。そう言ってくれた。結果としてそれが突破口になった」
車は鬱蒼と茂った森の中の道をどんどん分け入り、山を登ってゆきました。
オヤジは勝手知ったようにハンドルを捌いてゆきました。もうマユは座席のあいだから顔を出す勢いで身を乗り出していました。
「それからしばらくして神父さんから連絡があってもう一度その教会へ行った。
驚いたことにその男の顔写真と大きな情報をくれた。恐らくこの辺りに居るだろうという情報だ。だがそこまで知っていて何故ヤツを警察に届けないのか。現に逃げて来た人もいるじゃないか。そう思ったから尋ねた。神父さんはこう答えた。
私は法律のことには詳しくありませんが、その男性がしていることが何かの罪になるのですか、と。
確かに数人の、中にはヨウコのように他人の妻でもあり、まだ学生らしい年齢のお嬢さんもいる。そういう女性たちと婚姻関係も結ばずに集団で生活し、自分は何もせず、女性たちをしばしば如何わしいところで働かせている。そういう人であることは知っています。だが彼女たちは自らの意思でそうしている。決して意に反して強制されているわけではない。
俺はなおも食い下がった。でもそんな生活が、生き方が幸せだと言えますか、と。
私にはわかりません。と、神父さんは言った。
私にできることは苦しんでいる方に神の言葉をお伝えし魂を導く御助けをし、その方々が心の安寧を得られるように祈ることです、と。
その男性が神の名を騙っていることは残念ですが、彼がしていることは結果的に私と同じなのではありませんか、と。その女性たちが不幸に見えるとしたら、彼女たちが自ら望んでそうした生き方を選ばざるを得なくしたのは、彼女たちをそこまで追い込んだのは何なのか、と。
俺はそれ以上何も言えなかった。
逃げ出して来た女性は母さんのことを知っていた。神父さんはこう付け加えた。
『もう一度会えたとしても、奥さんを責めないであげて下さい』と。
写真と情報をくれた女性からそう、言付かっている、と。
神父さんに礼を言い、俺は『探索射撃』を再開した。
教えてもらったその街で、大々的にな。使えるものは何でも使った。地元の新聞社にも行って金を積んで広告も出した。
ソイツは肝の据わった奴では無かったんだろう。すぐに動きがあった」
オヤジは得意になっているわけではありませんでした。口調は落ち着いて淡々としていて澱みがありませんでした。
「一軒一軒、虱潰しに飲み屋街を回っていた時、俺は突然襲われた」
「えっ、それでどうしたの」
「どうしたもないさ」
と後ろを振り返って応え、オヤジはこう続けました。
「ジャージ姿の変な奴だった。突然ナイフを振り回して来てな。
だが、こっちはこれでも元はスポーツマンだ。それに相手は素人過ぎた。身を躱して逆に腕を捩じ上げてやった。
そして被っていた野球帽を取ると、なんと女だった。母さんよりも年上だったなあ。スゴイ形相で何かに憑りつかれたみたいに歯をむき出して狂ったように喚き散らしていた。繁華街のど真ん中で、大立ち回りだ。当然、酔客たちの注目を浴びた。なりふり構わぬ、と言う感じでな。洗脳というヤツだったのかも知れん。
それを見て怒りが湧いたな。その女にではなく、自分は出て来ずに女性にこんな危険なことをさせるなんて、神父さんが何と言おうが見下げ果てたクソ野郎だとな」
何故普通の一般市民であるオヤジがナイフを持ち歩いていたのか。やっと俺にも合点がいきました。
「もちろん、警察に突き出したんでしょ?」
マユが後ろから問いかけました。
「バカを言え。そんなことするわけないさ」
オヤジは手を振りました。
「なんで?」
「考えてもみろ。千載一遇のチャンスが向こうから転がり込んできたんだぞ。向こうはこれで最初で最後の切り札を切ってしまったわけだ。
だからその女にこう言ってやった。
いいかよく聞けお前の飼い主に伝えろ、と。それまでに集めた証拠全てを挙げて取引を持ち掛けた」
「取引?」
「そうだ」
と、オヤジは言いました。
「一度だけでいい。俺が満足するまでヨウコに会わせろ。それが受け入れられないなら、こいつをすべてマスコミにバラす。警察にも行く。どの町に逃げようが大騒ぎして暮らせなくしてやる。どこまで逃げても必ず暴き出して地獄まで追い詰めてやるぞ、と。
そう言って泊っているホテルを教えてやった。
そしたら翌日、俺を襲ってきた当の女性が部屋を訪ねて来た。きちんとした服を着た落ち着いた上品な女性だったよ。襲って来た時とは別人かと思ったなあ。
昨日は大変申し訳ございませんでしたって、頭下げられた。
クソ野郎の命令っていうより、そっちの方が本来のその人の佇まいだったんだろうな。やっぱり、洗脳ってヤツだったのかなあ。
まあとにかく、そうして、俺は再び母さんに会うことが出来た。
探し始めてから六年経っていた。お前がインターハイに行ってエイヤアやってたあたりのころだ」
とオヤジは俺に言いました。
山道のカーブ毎にスルメや桃を売る出店が出ていました。観光客が立ち寄りそうなそれらの出店は次々と店じまいに入っていました。そんな出店を横目に、車は峠を超えて下りに入りました。
「ここからのことはお前にはショックかも知れんが、聞きたいか」
「構わない。全て、教えてくれ」
それまでオヤジが体を張って食い止めて来たものは全部知らなければならない。
そう思いました。
「次の日に教えられた家に行った。ごく普通の住宅街の一角だ。庭先で水遣りしてるおばあさんや犬の散歩をしてるお父さんがいてピアノの音が流れてきそうな、どの地方にもあるベッドタウンの、ごく普通の二階屋がその家だった。
インターホンを押して待っていたら、ドアを開けて出て来たのは、母さんだった」
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