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28 母の手紙 嫉妬の権化
しおりを挟む「みんな、殺してやる」
あなたがそう呟いたとき、私は思わず両手を広げていました。
私は明確に理解したのです。
それこそ、私が長い間待ち望んでいたものだったのだ、と。
最愛のあなたはやっと私を見てくれました。
あなたが殺意を伴っていたのは皮肉でしたが、それでも構いませんでした。
あなたに殺されたい。そう思いました。
むしろ、この世で一番大切なあなたに殺されるなら本望とも思いました。死ねば、これ以上あなたやお父さんやおじいちゃんを苦しめずに済みます。
あなたを殺人者にしてしまうことへの顧慮はありませんでした。その時の私は、包丁を構えるあなたをこの胸に受け入れることしか考えていなかったのです。
そこでお父さんが割って入らなければ、私はあなたの一生を台無しにしてしまっていたところでした。
お父さんがあなたに飛びつき、揉み合いになりました。あなたが勢い余って振り上げた包丁がお父さんの肩に当たりました。肌がぱっくり割れて、血が流れ出しました。それを見て動顛したあなたは、わめきながら外へ飛び出していきました。
お父さんは冷静でした。
流しで血を洗い流した後、手拭で止血しながら、私を抱きしめてくれました。私が落ち着くまでそのまま抱いていてくれました。放っておくと何をするかわからないと思ったのでしょう。私に服を着せて水を口移しで飲ませてくれました。
「孝、あなた孝を・・・」
人心地ついた私はようやく事態の重大さに気づき、そう言いました。
「大丈夫か」
お父さんは私の目を凝視して暗示をかけるようにこう言いました。
「孝はちょっとした親子喧嘩が原因で家を飛び出した。そういうことにする。
俺はこれから孝を追いかける。お前は家を離れるな。朝まで待って、状況が変わらないなら警察に届けを出す。いいな? くれぐれも絶対に家から出るなよ」
何度も私に念を押し、近くに刃物があるのが不安だったのでしょう、家の中にあったすべての刃物と紐のたぐいをかき集めてバッグに入れて車に積み込み、あなたを探しに出掛けました。
あなたにもしものことがあったら・・・。
私も一緒に探しに行きたかった。
そう思うと居ても立ってもいられなかったのですが。
お父さんの判断は正しかったと思います。もし私もあなたを探しに外へ出せば、私の精神状態や状況からしてもっと収拾不可能なことになっていたかも知れません。
家で独り悶々と自分を責め、自分の性癖を恨み、淫蕩な体を呪う時間は苦痛でした。
明け方近くなってお父さんから電話が入りました。私の状況を確認した後、市子さんに連絡して来てもらうように頼んだと言いました。これから警察に届けを出して、近所の人たちにも協力してもらう。そう言って電話は切れました。
お父さんは私に家に居ろと言い渡しただけでは不安だったのでしょう。
市子さんなら私の事情も知っています。陽が昇ってすぐに市子さんが大きな包みを抱えてやってきました。
「全部聞いたよ」
市子さんはそう言って私を抱きしめてくれました。
あなた何も食べてないでしょう。孝君は大丈夫だから、ちゃんと食べて気をしっかり持って。そう言って励ましてくれました。
「まだお店が開いてないから家にあるものを掻き集めてきたよ」
市子さんは台所に立ち、ポタージュスープと饂飩を手早く拵えてテーブルに並べました。これなら喉を通るでしょ、食べて。丼から揚がる湯気が頬を撫でました。涙が出ました。市子さんは私が泣き止むまで肩を抱き、背中を擦ってくれました。
逐一入る電話には市子さんが応対してくれました。やがて、町内会の方が西のダム湖のほとりであなたの自転車を見つけて下さったとの連絡が入りました。長谷川の山を管理して頂いている関係で懇意の森林組合の方々と消防団の協力を仰ぎ、付近の山の捜索をすることになりました。
「手掛りが見つかったみたい。もうすぐ孝君に会えるよ」
彼女のお陰でようやく自分を取り戻していた私は、市子さんのお家のことを案じました。
「私の家のことは大丈夫」
そして、こんな時に言うことじゃないけどと前置きし、市子さんは私の手を取りました。
「正直に言うね。長谷川君のことは今でも好き。だから、ちょっと辛かったけど彼とあなたに協力した。
あの夜。私、長谷川君に抱いてもらった。だから、わかったの。彼の心には私はいないって。
私ね、彼とあなたのこと見てて、決心したことがあるの。私、主人と別れることにした。ずっと前から考えてたの。素直に自分のしたいことを言えるあなたを見て、勇気が湧いたの。洋子さん、あなたのお陰で決心がついたのよ。ありがとう。
私、疚しいところあったの。もし長谷川君がお家の事とか何かで義務感であなたと居るのなら、取り返しちゃおうと思ったの。だって普通あんなこと頼まないでしょ? 昔の彼女に今の奥さんとしてるとこ見ててくれだなんて。彼、そういう残酷なこと、さらっと言えちゃう人なの。昔からそうだった。女心全然わからない人だった。
初めて会った時なんか酷かったよ。
『オイ、やらせろよ。いいだろ?』
これだけだよ。もっとひどいのは、
『オイ、俺、アイツとヤリたいからよぉ、お前段取りしてくれよ。その後でタップリだいてやるからよ。いいだろ?』
何、それって思ったよ。あたしは長谷川君の何なんだろうって思った。物凄く傷ついたよ。でも、慣れちゃった。好きだったから逆らえなかったの。だからね、今までの彼への恨みがあるから、彼に怒る代わりにあなたから彼を獲っちゃおうと思ったの。
でもね、洋子さん。彼、あなたと結婚して変わった。今、彼の心の中にはあなたしかいないのよ。あなたたちを見て、それがはっきりわかったの。だから、私も自分に正直になることにしたの」
私は市子さんが何とか私を元気づけようとワザと妬きもちを妬かせるように、私を怒らせて発奮させようと、絶対に絶望して自殺なんかさせないようにしようとしていた配慮に思い至りませんでした。
やっぱりそうだったんだ。
そう、思ってしまったのです。
市子さんはお父さんが好きなんだ。忘れられないんだ。だから残酷な頼みでも断れなかったんだ。むしろ、お父さんと縁りを戻すことになればとも思っていたんだ・・・。
そう、思いこんでしまったのです。
「私はもう大丈夫です。ご心配頂き、ありがとうございました」
努めて内心を表情に出さないようにしたつもりでしたが、聡明な市子さんは察して、
「あのね、洋子さん。今は違うのよ。私はもう、長谷川君とは・・・」
「市子さん。ありがとう。もう、一人で大丈夫です」
せっかく私を心配して来てくれたのに、私から厳しく言われれば市子さんは帰らざるを得ません。それでも彼女はこう言って私に付き添おうとしました。
「長谷川君からあなたを見張るように言われたの。だからあなたに何かあったら彼に申し訳が立たないわ。洋子さん、お願い。彼が戻るまでここにいさせて」
「もういいんです。ありがとうございました。帰って下さい」
私たちはずっと黙って向かい合っていました。
長い沈黙のあと、市子さんは帰って行きました。
私は市子さんの話の真意に気を留めず、彼女が私の知らないお父さんを知っていること。今でもお父さんを愛していること、私からお父さんを奪うことを考えていたこと、ご主人と離婚すること、そればかりが残り、彼女にお父さんを盗られたくない思いを募らせてしまっていました。不安でどうしようもなく、今すぐにお父さんに抱かれたい、繰り返しそれを呪文のように繰り返していました。あなたがまだ見つかっておらず、お父さんも必死になってあなたを探しているのにも拘わらず。
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