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23 母の手紙 地獄の淵に立った母

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 純君のことと、二番目の子供のこともあっておじいちゃんとの間が気まずくなり、おばあちゃんの入院する病院へ行くことも無くなり、あなたは四年生になって午後の授業が延びた分バレーの練習から帰るのが遅くなり、お父さんも家に帰ってくる間隔が長くなっていって、独りでいる時間がさらに増えてゆきました。

 そんなとき、高校の同窓会の通知が届きました。
 通知は毎年来ていました。その度に欠に丸を書き返信していました。今回もそうするつもりでボールペンで丸を書き、冷蔵庫の扉に留めて置きました。
 またしばらくしてある級友から電話がありました。中高一貫の学校生活の中でも一番同じクラスになることが多かった子でした。例の同窓会の件で、今回は出てよという誘いの電話でした。
 すでに書いた通り、私は同性の友達を作ることも許されない青春時代を送りました。ですから友達と言える子もいません。まず私のことを覚えている人がいたことに驚きました。そしてあまり他の子と話すこともなく、一緒に遊んだこともない私に声をかけてくれたことへのお礼をし、忙しくてと今回も断るつもりで話をしていました。
「皆そうだよ」
 と、その子は言いました。
「でもお互いもう三十路だし、あなたの旦那様の事興味ある子もいるのよ。たまには会おうよ」
 お父さんのことを持ち出され自尊心を擽られた私は何とか都合を合わせてみると返事をしていました。
 当日、あなたを学校に送り出し、掃除、洗濯、あなたのおやつ、万が一遅れた時のための夕ご飯の惣菜の下準備。それらをした後、晩御飯の支度までにはと四時に帰ることをメモし、台所のテーブルの上に置きました。玄関の姿見に写る自分を見ました。俯いて本ばかり読んでいた無口な私より数段大人びて綺麗になった女がいました。

 ホテルの最上階、展望ラウンジを借り切ってのパーティーは家庭の中に籠りっぱなしだった私を恍惚とさせました。
 受付を終えた私は数人の、辛うじて顔を覚えているかつてのクラスメートに囲まれました。クラス中で一番先に結婚し子供を設けた私に興味があったのか、それともたまにTVに映ることもあるお父さんとのことに興味があるのか。
「変わったね」
「旦那さんていくつ?」
「カッコイイよね」
 そんな質問を矢継ぎ早に浴びせられ瞬間的にのぼせてしまいました。
 ほとんど誰とも口を利かず教室の隅で目立たなかった私が、こんなにも持て囃されることになるなんて思ってもみませんでした。
 一方で、そんな私を会場の一角から遠目で無表情に見ている人たちもいました。
 私が通っていた学校はかなり授業料が高く、いわゆるお嬢様女子大の付属学校で、その大部分がエスカレーター式に大学に進んでいきました。ですから、高等部を卒業してすぐ結婚した私などは少数派中の少数派でした。
 彼女たちからすれば、私は本来軽蔑の対象となるはずでした。
 高卒で就職もせず親の言いなりで結婚し子供を設け専業主婦にどっぷり浸かった私などは、高学歴でキャリアもある人たちから見れば、相手にするだけの価値もない対象でした。
 ですが、同窓会に誘ってくれた同級生が言ったように、私たちはもう、30台に入っていました。
 今でこそ「女性の自立」などと言いますが、当時はまだ、三十路を迎えた独身の女性が奇異の目で見られることもある時代でした。大学を出てハクを着け親のご縁でハイソな家に嫁ぐか、いい会社に入って筋の良い出世しそうな男を捕まえて結婚、というのが彼女たちの理想とする未来だったのです。
 私を遠目に見ていたまだ独身の子たちは年齢が自分の女を焦らせるようになっていたのでしょう。私への視線は軽蔑ではなく嫉妬になっていたのです。
 愚かな私はそこでも小さな優越感を得て気分が高まっていました。
 座が早くも二次会の話題に切り替わり、行くつもりのなかった私は飲み物をお代わりするのを理由にその場を離れ、カウンターに並んだパンチのボウルを選んでいました。
「久しぶり」
 と、声をかけられました。
 愛子でした。
 華やかなカクテルスーツの花の中で彼女だけがグレーのタイトなパンツスーツを着こなし一際目立っていました。彼女は放課後の教室で私にキスして来た時と同じ目をしてそこに立っていました。
「しばらくだね。キレイになった。見違えたよ」
 まるで男性が女性を口説くような言葉で、彼女は私を褒めました。あまり気持ちはよくありませんでした。飲み物を取りそこから立ち去ろうとしたとき、
「待って」と呼び止められました。
「久しぶりに会ったのに、つれないじゃない」
 そうして苦笑いしながら近寄って来たのです。
「ちょっとぐらい話そうよ、『先輩』」
「やめてよ。同級生なんだから」
 愛子は笑いながら私の肩に手を置いてきました。
「あたし、洋子がそんなに早く結婚しちゃうなんて思わなかったよ。子供さんも、もう大きいんでしょう。そういう世間話くらい、いいでしょ? そんな怖い顔しないで。ね?」
 そして私の袖を引き丁度空いていた壁際の椅子に誘いました。
「つまんないパーティーだけど、もしかしたらと思って毎年顔だけは出してたの。あんたに会えるかも、って。ちっとも出て来なかったから寂しかったよ。
 また会えるなんてね。あの時のこと、謝りたかったし」
「そんな・・・。もう過ぎたことだし・・・」
「見てごらんよ」と彼女は言いました。
 甲高い女同士の笑い声が交錯している様は、十数年前の休み時間の教室とどこか似ていました。
「あの子達、全然変わってない。バカばっかり。昔は若さ。今はチャラチャラした洋服や宝石や旦那のステイタスで自分を惹きたてているだけ。それを取ったら何にも残らないことに気付いてない。いつも自分と他人を比べて、小さな器の中の自分の位置を確認することだけに精を出してる。でもね、」
 彼女はその鋭い目で私に掴みかかりました。まるで小動物を狙う鷹のような、獲物を狩るような目で。
「あんたは違ったから。だから、あんたに惹かれたの」
 私の顔は引きつっていたのだと思います。
「あ、でもね、あたしだってもう結婚したしさ。何て言うの、旧交を温めるってやつよ」
 愛子は慌ててそう付け加え、作り笑いを浮かべました。

 あの放課後の教室で、私は突然キスして来た愛子を突き飛ばして逃げました。
 でももう違います。私は、愛子が言った言葉の意味が解る女になっていました。
 私は夫のある身で若い男性と同衾し彼を自殺に追いやった女でした。なんとなくかつてほどは彼女が苦手ではなくなっていたのです。雰囲気でしょうか、波長というものでしょうか、彼女の匂いというものなのでしょうか。愛子があの日言ったように私たちが同類だからなのでしょうか。
 私は愛子に昔より違和感を感じていない自分に驚いて、黙っていました。
「そうだ、洋子。どうせ二次会なんて出ないでしょ? この後少し時間あるかな。いいもの見せてあげる」
「でも、四時には家に帰っていたいの。子供が学校から帰って来るし」
「すぐ済むよ。先に行ってて。二人でエスケープするとヘンに思われるから」
 化粧室に行く風を装い、エレベーターホールで待っていると、愛子がやってきて公衆電話を掛けていました。受話器を耳に当てずに持ったまま、ボタンを何度も押していました。電話番号にしては多すぎる回数でした。私は知りませんでしたが当時ディスプレイ型のポケットベルというものがあって、相手の端末のディスプレイに数字を送ることが出来ました。当時の高校生たちはこれを使って「0840(おはよう)」「88951(早く来い)」とか「114106(愛してる)」などと数字の語呂合わせで仲間同士コミュニケーションをとったりしていたのです。愛子がやっていたのはそれだったのでしょう。
「何してんの。エレベーター呼んでよ」
 何を見せたいのか、どこに行くのか。
 質問しても内緒、とか、行けばわかると言うだけで話してくれないのです。

 ホテルから十分ほどのところにあるマンションの前でタクシーを降り、愛子はつかつかエントランスに立ってテンキーを操作しました。
「ここ、あなたのお家なの?」
「まさか」
 愛子は豪快に笑いました。
「こんな単身者用の部屋になんて住めないよ。ここはダンナの会社の名義なの。時々使ってるの」
 使う?
 エレベーターを降り、愛子は長い外廊下の中ほどにある表札もないドアの一つを開け、私を中にいれました。
 使った様子の無い電気コンロが一つだけの簡単なユニットキッチンとバスルームがあるだけの、一間十畳ほどの木の床の部屋でした。アパート、というと畳の部屋のイメージしかなかったので奇異な感じがしました。部屋の中にはベッドと簡素なデスクと椅子がそれぞれ一つずつあり、ベランダに面した窓には青く分厚いカーテンが掛かっている他は何もない、白い壁の素っ気ない空間でした。
 愛子は適当に座っていてと言い、バスルームに入ってお湯を張り、用を足し、洗面台に向かってイヤリングを外しているのが見えました。
「今から男が来るから」
 バスルームから出てそう言うと、ユニットキッチンの下の小さな扉を開け、冷蔵庫になっているそこからビールを出して栓を抜き、瓶から直に一口飲んで私にくれました。
「あたしがしてるとこ、見てて欲しいの」
 愛子は、衝撃的な言葉をさらりと吐きました。
 この部屋に来た時から、何か非日常的なことになるのかなという予感はありましたが、彼女の言葉は私の予想を超えていました。
 ビールを置いて立ち上がり、さよなら。もう、行かなくちゃとドアに向かいました。
 これ以上彼女といると抜き差しならない状況に追い込まれそうな気がしたのです。
 ドアホンが鳴り、愛子がさっと私を追い越して狭い玄関を塞ぎました。ドアを開けてグレーのスーツの男性を中にいれました。
「ん、もうっ! 遅いよ」
 愛子は叩きつけるようにその男性を詰りました。彼は、ゴメンゴメンと言いながら靴を脱ぎました。
 彼はごく普通のビジネスマン風の人でした。
 二三度見ても後から思い返すことが難しそうな、特徴のない顔をしていました。雑踏の中にいたらすぐ周囲に溶け込んで探せなくなるような、あたかも風景のような人でした。彼は柔和な表情で「天野です」と名乗りました。私の前を通り過ぎ冷蔵庫からビールを出しベッドに腰掛けて喉を鳴らしました。
「彼女、時間が無いって。落ち着いたら、パッパッとやっちゃってよ」
「そんなに急かすなよ。これでも急いで来たんだから」
 なんと、天野さんは愛子の旦那さん公認の愛人でした。大学からのお付き合いで、今は旦那さんの会社に勤めているのだそうです。
「旦那は稼ぎはいいけどあっちの方が駄目なの。それで交渉したの、今付き合ってる男の人と続けていいなら結婚するって」
 彼は愛子の相手をすることが仕事なのでした。愛子がしたいときに彼はやってくるのです。
「彼はこっちのほうはいいんだけど甲斐性無しだから」
 そういって彼女は小さく笑いました。それからスーツのジャケットを脱いで放り投げ、彼の横に座りました。
「立ってないで、座りなよ。もう、始めるから」
 天野さんはふーっと息を吐いて愛子をみつめ、キスしました。
 恋人同士のというよりはセックスそのものような、快感を貪るキス。愛子がうっとりして唇を放し彼を見つめていると、天野さんは表情も変えずに、いきなり彼女の頬を張りました。
 パンッ!
「何をしてる早く脱げよ」
「・・・はい」
 それまで高圧的だった愛子は急に大人しくなり、彼に従って次々と着ているものを脱ぎました。愛子に詰られていたはずの天野さんのほうが逆に支配的に振舞い始め、ジャケットを脱ぎネクタイを抜いてそれで愛子の両腕を縛り、彼の前に跪かせました。ズボンを脱ぎ、ホラ早くしろよとまた愛子の頬を張りました。
 それは私が今までお父さんにしてもらったのとは全く違う種類のセックスでした。
 主人のように振る舞っていた愛子は一転して奴隷のように天野さんに傅き奉仕していました。
 天野さんは愛子に奉仕させながら言葉で責めました。
 まず、自分を甲斐性無しと言ったことを詰りました。
「ドスケベで淫乱なお前に合わせてやってるだけだろうが、ああん? 言ってみろ。あたしは淫乱でドスケベな女ですっ、て」
「・・・あたしは、淫乱でドスケベな女です。もっと、イジめてください・・・」
 それから天野さんは、お前みたいな女にはお仕置きしなくてはなと愛子をベッドに腹ばいにさせ、平手で何度もお尻を叩きました。愛子が苦痛の悲鳴を上げると口に彼女が脱いだ下着を押し込んで今度はベルトで彼女を打ち続けました。愛子のお尻が真っ赤に染まり涙を流して呻いても天野さんはやめませんでした。愛子は打たれながら私を見ました。苦痛に喘ぐ愛子の目と視線が合ったとき、私はやっと自分を意識し、戦慄してその場にへたり込みました。

 それは、かつての私の姿だったのです。
 私の中で愛子の苦しげな顔が自分の顔に変わってゆきました。目の前で行われている光景はそっくり、幼年期から思春期に私に対して父がした折檻と同じだったのです。

 父は何度も私を打ちました。それは私の肌が赤くなって血が滲むまで続きました。その後、父はいつもきまって私のお尻を撫で回すのです。散々叩かれて感覚が無くなった肌に、竹の棒で打たれた痛さとは別の、むず痒いような切ないような痛みが広がりました。
「洋子、痛かったか。お前はかわいいな。絶対に他の男には渡さん。お前はいつまでも俺の側にいるんだ。いいな」
 父は私の着ていた服を全て剥ぎ取り、性器への挿入以外のあらゆる性技を試み、私を犬か猫のように扱い、父に奉仕するように教え込んでいったのです。お父さんとの床の中で「変わったな」と言われた私の性は、実はかつて幼いころに教え込まれ、隠していたものだったのです。
 私は少女のころに無理矢理女を開花させられ、しかも開かずの間に幽閉し、父の必要とする時だけ連れ出して凌辱されるという日々を繰り返されていたのです。
 幽閉されて悪魔に変わった私の中の「女」が、「妻」や「母親」と上手くやっていけるわけがありませんでした。悪魔は自由を得て、私という家を乗っ取るために、妻である私と母親である私に襲い掛かりました。
 体の奥の深い所から何かが昇ってくるのがわかりました。初めて父に逆らったときに感じたサイダーの気泡のようなものとは違い、清涼感とは全く逆の、熱いドロドロしたマグマのようなものが弾けながら昇って来て異質な音を伴って頭の中を突き抜け、吹き出しました。
 それは私の中の開かずの間の扉が消滅する音でした。閉じ込められていた悪魔のような女はさらに変質して一匹の邪悪な蛇になっていました。
 自由になった蛇はするすると這い出ると家の隙間の暗闇に消えてゆきました。もう、「妻」や「母親」にはどうすることも出来ません。
 こうして私という「家」は、私の中の「悪魔」に乗っ取られてしまったのです。

 いつの間にかスカートの中に手を入れ慰めていました。
 二人がやがてベッドに移り事が終わるまでそうしていました。
 全て愛子に見られていました。私は見られているのを承知で、していたのです。
 彼女は上気して汗ばんだ裸のままベッドを降り、私の手を取り、私の女で汚れた指先を舐めました。
「あの日、あんたはあたしから逃げたけど、これで判ったでしょ?
 あんたとあたしは同類なんだって」
 裸のまま、愛子はテーブルの上のメモ用紙を取り、何かを走り書きして私に突きだしました。私が黙っていると勝手にバッグを開けてメモを押し込みました。
「これから一緒に楽しもうよ」
 そう言って愛子は私にキスをしました。私はそれを拒みませんでした。彼女の舌が私の唇をこじあけて入ってきて、私はそれに応えてしまっていました。背中を、身体中を、ゾクゾクと甘美な快楽が這い上ってゆくのがわかりました。まるで、邪悪な蛇のように、快楽のどす黒い泡粒は私の身体を侵してゆきました。
「電話、待ってるから」
 愛子がもう一度私に口づけする背後で、天野さんは、部屋に入ってきた時とは別人のような、不敵な微笑みを浮かべていました。

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