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22 母の手紙 母の不倫
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自分の実家にはひと月に一度ほど帰っていました。
私は自分の実家が嫌いでした。
ですが、昔の事です。他家に嫁いだ一人娘としては帰らないわけにも行かなかったのです。ましてや父母にとっては孫となるあなたの顔を見せないではハセガワのおじいちゃんやおばあちゃんにも余計な気を揉ませてしまうことになります。気が進まないながらもその都度、車で三十分ほどの距離を往復していました。
帰れば父の話は決まっています。
「二番目はまだなのか」
それだけです。
里帰りが億劫になっていたのは、子供のころの苦しく忌まわしい記憶の他に、この父のしつこい子作り催促のせいでもあったのです。
それでも、子供のころのような恐ろしさはもう感じなくなっていました。
母は私というたった一人の女の子しか生むことが出来ませんでしたが、私は長谷川の家の跡取りである男の子、あなたを立派に育てていました。母は女性として自分より大きな存在となった娘に遠慮しているようにさえ感じました。今顧みるととても恥ずかしいのですが、私は女性として母に対する優越感さえ覚えていたのです。私は愚かで浅はかで浅ましい女でした。
あなたは私の実家へ行くのが好きでした。父は初孫のあなたを溺愛し、行く度におもちゃを買って与えていました。
何度目かの帰省で、父はあなたに新しく買ったのだろうおもちゃを与えながらこんなことを言いました。
「孝。どうだ? おじいちゃんちの子になるか」
「ウン」
買ってもらったばかりのおもちゃの消防車を抱え、あなたは満面の笑顔でそう答えました。
父は軽い冗談のつもりでそう言っただけだったのでしょう。
でも私はその言葉にゾッとし、全身が総毛立ちました。そして大声でこう叫んでいました。
「やめて! 冗談じゃないわ!」
生まれて初めて父に逆らい、怒鳴っていました。
それは、快感でした。
体の奥からサイダーの粟粒のようなものが昇ってきて、私を満たしました。
私を散々に折檻し暴行し続け、意のままに抑えつけていた父。
その父を何の躊躇もなく怒鳴りつけたことは、私の中の何かを変えました。
それまでまるで奴隷のように虐げていた娘に突然歯向かわれ、怒鳴られたことがショックだったのか、父はしばらく放心し怯えたように私を見上げていました。
その後。気を取り直した父が言った言葉に、私は戦慄を禁じ得ませんでした。
父は言いました。お父さんと結婚した時、長谷川の家との間で取り決めをした、と。
それは、二番目の子が、男の子が生まれたら私の実家に養子に出すということでした。それが本来一人娘であり婿を取って家を継ぐべきである私を嫁に出す条件だった、と。
そのようなことは長谷川のおじいちゃんやお父さんからは一切聞いたことはありませんでした。でも長谷川の家から私の実家に相当な額のお金が融通されたらしいことは薄々判っていました。言葉を換えれば、父はお金と引き換えに私を売ったわけです。
その負い目のせいなのか、成長し父の人間としての弱さを知った私に対する引け目のせいなのか、それとも単に老いたのか、もう父にかつての暴君の面影は無くなっていました。
すでに書いた通り、父はいろいろな会社の役員をしていましたが、私が結婚する前、自分でも事業を起こそうとして失敗し大きな負債を抱えていたのです。その時はまだ高校を卒業したばかりで、私には詳しいことは知らされてはいませんでした。
二番目の子の養子の話を知り、私は怒りで震えました。どうしても、父と母が許せませんでした。
「そんなことは絶対許さない。絶対にさせないから!」
再び大声を上げ、父を怒鳴りつけていました。そしてビックリして泣き出したあなたを抱え、逃げるように実家を後にしました。あなたが貰ったばかりの消防車を落として壊してしまったのにも構わずに。
車を運転しながら興奮していました。
あんな地獄のようなところへだなんて。あんな家のために、ただ自分たちの体面を維持するだけのためになんて、絶対にさせない! 絶対渡さない! 私の子供は一人も渡さない!
そう思いました。
それから婦人科に行き、中に装着するタイプの避妊具を処方してもらうことにしました。もちろんお父さんには言えません。お父さんに内緒でそれから定期的に婦人科へ通いました。そしてそれ以来、実家へあなたを連れて行くことはもう、なくなりました。
そんな事があってしばらく経ったある日のことです。
お父さんが一人の青年を家に連れてきました。
彼は純君といい、以前お父さんのチームでプレイしていた選手でした。
高校生の時から注目された優秀な若者でしたが、事故で怪我をして膝を痛めバレーを諦めざるを得なくなり、卒業後は普通の会社に勤めていました。純君はお父さんより大きな背丈の好青年で、屈託のない笑顔の影にかすかな憂いを感じさせる表情が印象的でした。
「こいつは俺と同じなんだ」
同じく事故で選手生命を絶たれていたお父さんは純君をまるで弟のようにかわいがっていました。彼は私より四つ年下でした。
純君は旺盛な食欲で私のお料理を残らず食べてくれました。お酒も強く、私がお酌をするとすぐグラスをカラにしてしまい、そのためにビールの壜を何度も運びました。
「お前、こんなに酒強かったっけ」
お父さんもビックリするほど底なしに飲むのです。冷蔵庫に冷やしてあったビールが尽き、ウィスキーをそのまま何杯か煽ったかと思うと、彼はトイレに駆け込みました。
お父さんが肩を貸して彼を二階の私たちの部屋の隣に上げ、私は布団を敷いて純君を寝かせました。
「すみません。奥さん」
そういうと、彼は眠りに落ちました。
その夜、お父さんは私を求めませんでした。
「すまんな、洋子。あいつ、まだ引きずってるのかなあ・・・」
純君に付き合っていつもより酒量が多かったお父さんも、ぽつりとそう言い、やがて寝息をたてました。
私は眠るお父さんの横で、あることを思い起こしていました。
純君はお父さんと話している間にもちらちら私を見ていました。
最初は気にもとめていませんでしたが、お父さんが、オイまだ飲み足りないってさ、と私を呼んだり、話のネタにするために本棚の資料を探して後ろを向いたりしているとき、彼は私を熱い目で見ていたのです。お父さんが彼に向き直る前に、純君はサッと視線を戻していましたからお父さんは気が付かなかったでしょう。
お酒を何杯もお代わりする度に私を見つめる目が何かを訴えていました。私は次第にお酌をするたびに純君に近づき、体臭を感じるほど寄り添っていました。男の人は苦手だったはずなのに、その甘い匂いが、私の中の何かを目覚めさせました。
純君がトイレで戻した後、様子を見に行った私の手を彼はギュッと掴みました。
「すみません、奥さん」
どうしていいかわからず、慌てて彼の手を振りほどき、お父さんを呼びました。
「まったく。潰れるまで飲むんじゃないよ」
笑いながら彼を介抱するお父さんの後ろで、私はホッとして胸を撫で下ろしていたのです。
隣にお父さんが寝ているのに純君のことを思い、胸の高鳴りを抑えきれませんでした。そして、自分で慰めました。純君を思いながら、です。その時すでに気持ちの上でお父さんを裏切っていたことには思い至りませんでした。
翌朝、朝の早いおじいちゃんたちの朝食を用意した後、お風呂を沸かして純君を起こしました。シャツが汚れていましたし、下着も洗ってあげるからと、お父さんに買ってあったのをおろして履き替えさせました。お風呂でサッパリして帰りなさいと言いました。
でも本当の理由は別でした。どうしようもなく、純君の着ているものが欲しくなったのです。あの甘い匂いをもう一度感じたかったのです。彼がお風呂から上がり、縁側でおじいちゃんと笑いながら髪を乾かしていると、幼いあなたが起きてきて純君を見つけました。あなたはもう人見知りが無くなり、若い男の人を遊び相手にするために駆け寄っていきました。
下駄を履き、庭であなたと遊ぶ純君、それを縁側に掛けて目を細めて眺めているおじいちゃんとおばあちゃん。脱衣所の隣に置いてある洗濯機を回しながら、小窓から見えるその平和な風景とはまったく別の所業を、私はしていたのです。
私は純君の下着の匂いを嗅ぎながら、自分の下着の中に手を入れ、慰めていたのです。
私の中の悪魔を満足させるために。
悪魔は満足してしまうと急に力を失い、お父さんの妻である私とあなたの母である私に抑えつけられ、また開かずの間に押し込められました。
扉の鍵はもうありませんでした。その鍵は一度使うと消えてしまうらしいのです。開かずの間を再び施錠することはもう誰にもできなくなっていました。押し込めた悪魔が再び外に出ないよう、妻である私と母である私、そして人間である私が総動員でドアを抑えていなければなりませんでした。
お父さんが起きてくる前にと、念入りに手を洗いました。何度も何度も洗いました。それでも、指についた私の淫蕩な女の匂いは消えませんでした。
あなたは大きくなるにつれ、お友達も増えてゆきました。ヒマさえあれば、おじいちゃんと釣りに行ったり、お友達と草野球しに行ったりして、陽のある間はほとんど家にいなくなりました。
お父さんは知り合いの方が運営するバレーボールのスポーツ少年団にあなたを入れました。小学校の授業とバレーとであなたは毎日クタクタになるまで頑張っていました。
私も時々練習を見に行きました。まだ試合には出させてもらえませんでしたが、小さな体で懸命にボールに飛びつくあなたを見ていると、こんなことが出来るようになったのかと嬉しくもあり、誇らしくも感じ、新たな幸せを得たことに感謝していました。
土曜日の午後も日曜日も練習があり、私はせっせとお弁当を作り、その弁当箱が次第に大きくなってくるのが嬉しくてたまりませんでした。あなたの持って帰ってくる弁当箱はいつも空っぽで、明日のおかずは何にしてあげようかと考えるのが楽しい毎日でした。
そんな時、純君が独りで家を訪ねて来ました。
初めて彼が家に来てからひと月ほどが経っていました。
もちろんお父さんはいませんし、あなたも学校です。おばあちゃんは足を悪くしていたので車いすで縁側にいて、おじいちゃんは近所のお年寄りたちの集まりで出かけていました。
私は戸惑いを隠しつつ、近くまで来たもんですからという彼を居間に上げました。そこからなら縁側のおばあちゃんが見えるからです。いくつか当たり障りのない言葉を交換し、あなたのバレーの話題を出せば、後は特に話も無くなり、何事もなくお土産のウィスキーのお礼を言って彼を格子戸の外まで見送りました。
そこで純君が素直に帰ってくれれば何の問題もなかったのです。ところがそうはならなかったのです。
純君は一度立ち去りかけた足を返し、目の前に立ったかと思うといきなり私にキスしたのです。
「洋子さん。僕はあなたが好きです」
白昼堂々と。
人妻である私を、しかも私の家の玄関の前で。
自分の身の上にたった今起った出来事が信じられず、ただ唖然としていました。
どのくらいのあいだそうしていたか、全然覚えていません。覚えているのは彼の唇の熱い感触だけでした。
ようやく自分を取り戻し、誰かに見られなかったか気にしている間に彼は足早に立ち去っていました。大声で呼び止め意図を質すこともできず、走って行って詰問することも出来ずに、です。後から込み上げてくる恐怖に足が竦みました。
まず家に入って落ち着こう。そう思って振り向いたとき、そこにおじいちゃんが立っていました。
死ぬほど驚きました。
そのときのおじいちゃんの私を見る軽蔑の眼差しは今でも覚えています。おじいちゃんは何も言わず、先に格子戸をくぐり家に入ってゆきました。
あなたが宿題をサボって担任の先生が連絡帳でそのことを知らせてきた日、初めてあなたを叩いたのを覚えていますか?
気が付いたら手を挙げていました。胸が潰れそうなほど後悔し、すぐにあなたを抱きしめて泣きました。長い時間、二人で頬をくっつけて泣いたあの日を覚えていますか?
それ以来、あなたが宿題を忘れることは無くなりました。
恐らく、あなたはきっと何かを感じたのでしょう。実は、その日が私が純君に突然唇を奪われ、あろうことかそれをおじいちゃんに見られた日だったのです。
その日までは、母である私と人妻である私、そして人間である私は、ともすると暴れ出そうとする女の私を抑え、それまでの平穏な日々を続けることができていたのです。揺らめきそうなことがあっても、私はなんとか自分を信じることが出来ました。優しいお父さん、おじいちゃんやおばあちゃん、そして元気なあなたに支えられて。
でもその自信は、その日を境にしてぐらぐら揺るぎ出してゆきました。
そんな中、おばあちゃんの具合が悪くなり始めました。
家と病院とを往復することが増えました。おじいちゃんも、入退院を繰り返すおばあちゃんに付き添って、家にいない時間が増えてゆきました。お父さんも度々電話でおばあちゃんの様子を尋ねて来はしましたが、なかなか時間がとれず、週に一度帰宅して病院に様子を見に行くのがやっとでした。家に私とあなただけの夜が増えてゆきました。
あなたが眠ってしまうと、本当に独りきりになりました。そんなとき、私はきまって自分で慰めるようになりました。
病気で苦しんでいるおばあちゃんや看病で疲れているおじいちゃんには申し訳なかったのですが、お父さんが家に帰った夜は、必ずお父さんを求めてしまいました。お父さんも疲れていたはずなのに、何も言わずに応えてくれました。それで安心できました。おじいちゃんはお父さんにまだ何も言っていないのだ。勝手にそう思い込んだ私は、大胆になってゆきました。
結婚してしばらくは普通の、私が下になるやり方しか出来なかったのに、いろいろな仕方をするようになっていました。以前は口でお父さんを悦ばすことなど一切しませんでしたが、何の躊躇もなくそれをするようになった私に、
「お前、変わったな・・・」
お父さんが呟いたとき、私は硬直しました。
お父さんは直ぐに、
「いや、いい意味でだよ。もちろん」と付け加え、
「どんな男だって、女房が魅力的になりゃうれしいよ」
笑いながら言ってくれました。
「放さないで。私を、絶対放さないで」
私はお父さんに縋りました。縋らずにはいられませんでした。お父さんが愛してくれる限り、私の女は完全に妻と母に抑え込まれ、支配の下に置かれる。そう信じていたのです。
「いつも済まないなあ。放ったらかしにして、みんな任せっきりでさ」
そんな言葉さえ掛けてくれ、私を抱いてくれました。
お父さんはいささかの疑いも持たず、むしろ一人で家を切り盛りする私を労いさえしてくれたのです。その優しいお父さんを裏切ってしまいそうな自分に恐れを抱きました。
それからしばらく経ったある日、偶然に純君に会いました。おばあちゃんのお見舞いの帰りにです。少なくとも私は偶然と思いました。ところが、彼にとってはそれは偶然ではありませんでした。
型通りの挨拶でその場をやり過ごそうとしました。
本来なら、お父さんと純君のお付き合いを考えれば、妻という私の立場を考えれば、気軽に「ウチにおいでよ。ご飯でも食べて行きなさいよ」と言うのが自然でしょう。
でも強引に唇を奪われた後でそんな言葉が言えようはずもありません。しかも純君は、
「時々こうして近くまで来ていたんです。奥さんに会えるかも知れないと思って・・・」
せつない顔をしてそんな言葉をかけてくるのです。それを聞いてしまってはなおさらでした。
でも私は、彼の言葉に身体の奥が熱くなっている自分を感じてもいたのです。
前のように家を直接独りで訪ねるのは気が引け、それでも、もしかしたらと私と出会いそうな辺りを彷徨っていたと聞き、身体の芯が熱くなり、キュンと鳴るのがわかりました。
「いつから?」
「洋子さんにキスした次の日から。僕の気持ち、わかってくれてると思ってました」
私は取り返しのつかない、後戻りのできない大きな間違いをしようとしていました。
連れ立って電車に乗り、いくつか離れた駅を選んで降り、ホテルに入りました。
「もう、これきり。もう二度と私の前に現れないって約束できる?」
私は純君を睨み据えました。
「約束します。一目だけ会えればいいと思ってましたから」
「もし、約束破ったら、純君を殺して、私も死ぬ。そういう覚悟、あるのね?」
彼は返事の代わりに私に熱い口づけをしました。
お父さんとする以上に興奮し、燃えました。
お父さんにしてもらう以上に感じ、乱れました。
貪るように、彼の若い肉体を求め、何度も昇りつめました。
極まったときは、お父さんではなく純君の名前を呼びました。
彼にも私の体の隅々まで味わわせ、刻印させました。
愛とか好きという言葉は使いませんでしたし、求めませんでした。ただ、もっと快楽を与えるように求めました。快感の言葉を吐いただけでした。
でも純君は違いました。
「愛してる!」
「洋子さんが好きだ!」
「忘れるなんて出来ない!」
「ずっと一緒に居たい!」
私の身体を求める間中、彼はそう言い続けていました。
「僕、洋子さんに殺されてもいいです」
終わった後、彼はそう呟きました。
「だめ! 絶対そういうこと言っちゃだめ。
お願いだから。かわいい彼女見つけて。幸せになって。もう私の家には来ないで。お願い。もし純君が目の前に現れたら、私、死ぬから!」
漂白されたように横たわって天井を見つめる彼にそう言い置いて先にシャワーを浴びるために彼のそばを離れました。
この時、もっと純君の言葉に注意するべきでした。彼の表情に気を留めるべきでした。でも私は自分の中の女を満足させ、絶対にお父さんやおじいちゃんたち、それにあなたにこの事を知られないように、彼が再び現れないようにすることで頭が一杯でそれに気が付かなかったのです。
次の日の夕方。
お父さんが帰ってきました。
いつも帰ってくることのない時間に、です。何事かと玄関に出迎えると、お父さんは憔悴しきった顔で三和土に立っていました。
「純が、死んだ・・・」
彼は私と出会った駅ビルの屋上から身を投げたのでした。
私は混乱しました。
その事実を受け止め、故人を、純君の死を受け入れ、悼むという普通の手順をする心の余裕を失っていました。それ以外に考えなければならないことがたくさんあったからです。でも考えることなど出来はしませんでした。
ただ混乱し、硬直していました。
せめて嘘でも「どうして」とか「あんなに元気だったのに」という言葉が出るべきでした。その時の私にはもう、そのような小細工をしてとりあえずその場を取り繕おうと考える余裕は全くありませんでした。私にできることは下を向いて黙っていることだけでした。
お父さんは私に一言だけ言いました。
「洋子。俺の目を見て」
それはお父さんに初めて会った日、お見合いの時最初に言われた言葉でした。
びくびくしながら顔を上げました。疲れ果てた顔が目の前にありました。
目だけが異様に見開かれて私を奥底まで見つめていました。もう、見ないで下さい。その言葉が喉元までこみあげて来ました。全部お話しますから、もう許して下さい。そう言ってしまいたいのを必死で堪えていました。
今は思います。純君は人妻である私を一途に想う純粋な人だったと。
最初から私とどうするなどという目当てで来たのでは無かったのだと。お父さんと同じ挫折を経験した若者として、同じ境遇の旦那さんを持つ奥さんなら、僕の気持ちを解ってくれるだろう、慰めて受け入れてくれるだろう、と。そんな希望、その純粋な心だけだったのではないかと。そう思うのです。
それが結果的に私との逢瀬に繋がったとしても、それを拒まれたからといって死を選ぶことは無かったのではないかと思うのです。普通のごく一般的な人妻の立場から、悪いけどあなたの気持ちには応えられないと言えばよかったのです。
私が純君に突然キスされた時に正直にお父さんに話していれば、お父さんはむしろ純君に同情したのではないでしょうか。さらに言えば、お父さんは最初から、俺と同じ目に遭ったヤツを慰めてやってくれ、そういうつもりで純君を連れて来たのではないかと思うのです。
それなのに・・・。
私は純君を自分の女を満足させるための道具として使い、性欲を満たし、満たし終われば自分の保身にのみ汲々とし、彼の心情を思い遣ることさえしなかったのです。純君は私の中のそんな邪な淫蕩な気持ちを嗅ぎつけ、あたかもそれが私の純君への好意であるかのように錯覚してしまったのでしょう。
しかも、自分が愛した女が実は自分の保身しか考えていなかった。
私には純君を憐れと思う気持ちは全くありませんでした。むしろ死んでくれて良かったとさえ思っていました。ただ肉欲を貪るだけだった私は、純君への感情、好意を全く持ち合わせていなかったのです。
さらに、私は自分の密事が純君の死で大事に発展してしまい、怖くなっていました。急に社会や世間の非難を恐れ始め、とにかく密事が露見しないこと、懲罰を受けないこと、それしか考えることが出来なくなっていたのです。幼いころからの父から受けた酷い懲罰がこれでもかとリフレインしてきて、私を恐怖に陥れていました。
彼は、私の中のそうした本心に気づいたのだと思いました。だから、全てに絶望し、死を選んだのだ。
そう思いました。
私という人間を形作っていたのは、例えて言うなら一軒の家のようなものでした。家の中では長い間私の中の「女」と、私の中の「妻」と「母親」との間で戦いがありました。
女であり、妻であり、母親である、人間。
普通の子供を持つ家庭の主婦ならなんの疑問も持たずに成立させているその三つの立場のバランス、その関係が、私の中では常に緊張していたのです。
その戦いに疲れ果てた私の人間がいつの間にかいなくなっていたことに気が付きませんでした。人間性の無い女はいても、人間性の無い母親や妻は社会では非難される。そのことに思い至りませんでした。
私の中の「家」、私の人間性は崩壊しかけていました。
今は思います。この時に何もかもお父さんに話せていれば、その後の悲惨な出来事は起こらなかったかもしれない、と。この時が運命の分かれ目だったのだ、と。でも人の一生とはそんなことの連続なのかもしれません。
「明日が通夜で明後日葬式だ。礼服頼む」
お父さんは疲れ切った顔でそう言っただけでした。
大急ぎで二階の寝室に上がってドアを閉めました。そして声を出さずに泣きました。怖かった。バレなくて良かった。露見することへの恐怖と恐怖からの解放。私が泣いた理由はそれだけでした。
お父さんはまだ私が純君とキスをしたことを知らないのだと思いました。おじいちゃんはまだ、あのことをお父さんに知らせていないと。
おじいちゃんとお父さんは仲が悪いと思っていました。ほとんど話をしているところを見たことが無かったのです。
それなら、大丈夫なのでは。
自分に都合のよいように思い込み、心の平穏をなんとか維持することに精いっぱいだったのです。
でもそれは私の大きな勘違いでした。
おじいちゃんがあのことを言わなかったのは、父親としてのお父さんへの愛情であり、息子に対する同じ男としての思い遣りであり、告げ口などという卑怯への嫌悪であること。それに気付かなかったのです。
それなのに私は、おじいちゃんさえ黙っていてくれれば乗り切れる。蜘蛛の糸にも縋る思いでそう信じ、純君への哀悼を秘めた妻を演じたのです。つまり、お父さんを騙したのです。
階下に降りると、丁度外から帰ったあなたが、お風呂から上がって服を着ているお父さんに頭を撫でられ「しっかり練習しろよ」と言われていました。あなたは頭を撫でられながら私を見てしかめ面をしていました。
この幸せだけは絶対に守らなくては。
頭の中にはそれしかありませんでした。
次の日から入院しているおばあちゃんのお世話はおじいちゃんにお任せすることになりました。おじいちゃんからそう言われたからです。
「あんたは家のことだけやっていてくれ」
この時からおじいちゃんは私を「洋子さん」ではなく「あんた」と呼ぶようになっていました。
私は自分の実家が嫌いでした。
ですが、昔の事です。他家に嫁いだ一人娘としては帰らないわけにも行かなかったのです。ましてや父母にとっては孫となるあなたの顔を見せないではハセガワのおじいちゃんやおばあちゃんにも余計な気を揉ませてしまうことになります。気が進まないながらもその都度、車で三十分ほどの距離を往復していました。
帰れば父の話は決まっています。
「二番目はまだなのか」
それだけです。
里帰りが億劫になっていたのは、子供のころの苦しく忌まわしい記憶の他に、この父のしつこい子作り催促のせいでもあったのです。
それでも、子供のころのような恐ろしさはもう感じなくなっていました。
母は私というたった一人の女の子しか生むことが出来ませんでしたが、私は長谷川の家の跡取りである男の子、あなたを立派に育てていました。母は女性として自分より大きな存在となった娘に遠慮しているようにさえ感じました。今顧みるととても恥ずかしいのですが、私は女性として母に対する優越感さえ覚えていたのです。私は愚かで浅はかで浅ましい女でした。
あなたは私の実家へ行くのが好きでした。父は初孫のあなたを溺愛し、行く度におもちゃを買って与えていました。
何度目かの帰省で、父はあなたに新しく買ったのだろうおもちゃを与えながらこんなことを言いました。
「孝。どうだ? おじいちゃんちの子になるか」
「ウン」
買ってもらったばかりのおもちゃの消防車を抱え、あなたは満面の笑顔でそう答えました。
父は軽い冗談のつもりでそう言っただけだったのでしょう。
でも私はその言葉にゾッとし、全身が総毛立ちました。そして大声でこう叫んでいました。
「やめて! 冗談じゃないわ!」
生まれて初めて父に逆らい、怒鳴っていました。
それは、快感でした。
体の奥からサイダーの粟粒のようなものが昇ってきて、私を満たしました。
私を散々に折檻し暴行し続け、意のままに抑えつけていた父。
その父を何の躊躇もなく怒鳴りつけたことは、私の中の何かを変えました。
それまでまるで奴隷のように虐げていた娘に突然歯向かわれ、怒鳴られたことがショックだったのか、父はしばらく放心し怯えたように私を見上げていました。
その後。気を取り直した父が言った言葉に、私は戦慄を禁じ得ませんでした。
父は言いました。お父さんと結婚した時、長谷川の家との間で取り決めをした、と。
それは、二番目の子が、男の子が生まれたら私の実家に養子に出すということでした。それが本来一人娘であり婿を取って家を継ぐべきである私を嫁に出す条件だった、と。
そのようなことは長谷川のおじいちゃんやお父さんからは一切聞いたことはありませんでした。でも長谷川の家から私の実家に相当な額のお金が融通されたらしいことは薄々判っていました。言葉を換えれば、父はお金と引き換えに私を売ったわけです。
その負い目のせいなのか、成長し父の人間としての弱さを知った私に対する引け目のせいなのか、それとも単に老いたのか、もう父にかつての暴君の面影は無くなっていました。
すでに書いた通り、父はいろいろな会社の役員をしていましたが、私が結婚する前、自分でも事業を起こそうとして失敗し大きな負債を抱えていたのです。その時はまだ高校を卒業したばかりで、私には詳しいことは知らされてはいませんでした。
二番目の子の養子の話を知り、私は怒りで震えました。どうしても、父と母が許せませんでした。
「そんなことは絶対許さない。絶対にさせないから!」
再び大声を上げ、父を怒鳴りつけていました。そしてビックリして泣き出したあなたを抱え、逃げるように実家を後にしました。あなたが貰ったばかりの消防車を落として壊してしまったのにも構わずに。
車を運転しながら興奮していました。
あんな地獄のようなところへだなんて。あんな家のために、ただ自分たちの体面を維持するだけのためになんて、絶対にさせない! 絶対渡さない! 私の子供は一人も渡さない!
そう思いました。
それから婦人科に行き、中に装着するタイプの避妊具を処方してもらうことにしました。もちろんお父さんには言えません。お父さんに内緒でそれから定期的に婦人科へ通いました。そしてそれ以来、実家へあなたを連れて行くことはもう、なくなりました。
そんな事があってしばらく経ったある日のことです。
お父さんが一人の青年を家に連れてきました。
彼は純君といい、以前お父さんのチームでプレイしていた選手でした。
高校生の時から注目された優秀な若者でしたが、事故で怪我をして膝を痛めバレーを諦めざるを得なくなり、卒業後は普通の会社に勤めていました。純君はお父さんより大きな背丈の好青年で、屈託のない笑顔の影にかすかな憂いを感じさせる表情が印象的でした。
「こいつは俺と同じなんだ」
同じく事故で選手生命を絶たれていたお父さんは純君をまるで弟のようにかわいがっていました。彼は私より四つ年下でした。
純君は旺盛な食欲で私のお料理を残らず食べてくれました。お酒も強く、私がお酌をするとすぐグラスをカラにしてしまい、そのためにビールの壜を何度も運びました。
「お前、こんなに酒強かったっけ」
お父さんもビックリするほど底なしに飲むのです。冷蔵庫に冷やしてあったビールが尽き、ウィスキーをそのまま何杯か煽ったかと思うと、彼はトイレに駆け込みました。
お父さんが肩を貸して彼を二階の私たちの部屋の隣に上げ、私は布団を敷いて純君を寝かせました。
「すみません。奥さん」
そういうと、彼は眠りに落ちました。
その夜、お父さんは私を求めませんでした。
「すまんな、洋子。あいつ、まだ引きずってるのかなあ・・・」
純君に付き合っていつもより酒量が多かったお父さんも、ぽつりとそう言い、やがて寝息をたてました。
私は眠るお父さんの横で、あることを思い起こしていました。
純君はお父さんと話している間にもちらちら私を見ていました。
最初は気にもとめていませんでしたが、お父さんが、オイまだ飲み足りないってさ、と私を呼んだり、話のネタにするために本棚の資料を探して後ろを向いたりしているとき、彼は私を熱い目で見ていたのです。お父さんが彼に向き直る前に、純君はサッと視線を戻していましたからお父さんは気が付かなかったでしょう。
お酒を何杯もお代わりする度に私を見つめる目が何かを訴えていました。私は次第にお酌をするたびに純君に近づき、体臭を感じるほど寄り添っていました。男の人は苦手だったはずなのに、その甘い匂いが、私の中の何かを目覚めさせました。
純君がトイレで戻した後、様子を見に行った私の手を彼はギュッと掴みました。
「すみません、奥さん」
どうしていいかわからず、慌てて彼の手を振りほどき、お父さんを呼びました。
「まったく。潰れるまで飲むんじゃないよ」
笑いながら彼を介抱するお父さんの後ろで、私はホッとして胸を撫で下ろしていたのです。
隣にお父さんが寝ているのに純君のことを思い、胸の高鳴りを抑えきれませんでした。そして、自分で慰めました。純君を思いながら、です。その時すでに気持ちの上でお父さんを裏切っていたことには思い至りませんでした。
翌朝、朝の早いおじいちゃんたちの朝食を用意した後、お風呂を沸かして純君を起こしました。シャツが汚れていましたし、下着も洗ってあげるからと、お父さんに買ってあったのをおろして履き替えさせました。お風呂でサッパリして帰りなさいと言いました。
でも本当の理由は別でした。どうしようもなく、純君の着ているものが欲しくなったのです。あの甘い匂いをもう一度感じたかったのです。彼がお風呂から上がり、縁側でおじいちゃんと笑いながら髪を乾かしていると、幼いあなたが起きてきて純君を見つけました。あなたはもう人見知りが無くなり、若い男の人を遊び相手にするために駆け寄っていきました。
下駄を履き、庭であなたと遊ぶ純君、それを縁側に掛けて目を細めて眺めているおじいちゃんとおばあちゃん。脱衣所の隣に置いてある洗濯機を回しながら、小窓から見えるその平和な風景とはまったく別の所業を、私はしていたのです。
私は純君の下着の匂いを嗅ぎながら、自分の下着の中に手を入れ、慰めていたのです。
私の中の悪魔を満足させるために。
悪魔は満足してしまうと急に力を失い、お父さんの妻である私とあなたの母である私に抑えつけられ、また開かずの間に押し込められました。
扉の鍵はもうありませんでした。その鍵は一度使うと消えてしまうらしいのです。開かずの間を再び施錠することはもう誰にもできなくなっていました。押し込めた悪魔が再び外に出ないよう、妻である私と母である私、そして人間である私が総動員でドアを抑えていなければなりませんでした。
お父さんが起きてくる前にと、念入りに手を洗いました。何度も何度も洗いました。それでも、指についた私の淫蕩な女の匂いは消えませんでした。
あなたは大きくなるにつれ、お友達も増えてゆきました。ヒマさえあれば、おじいちゃんと釣りに行ったり、お友達と草野球しに行ったりして、陽のある間はほとんど家にいなくなりました。
お父さんは知り合いの方が運営するバレーボールのスポーツ少年団にあなたを入れました。小学校の授業とバレーとであなたは毎日クタクタになるまで頑張っていました。
私も時々練習を見に行きました。まだ試合には出させてもらえませんでしたが、小さな体で懸命にボールに飛びつくあなたを見ていると、こんなことが出来るようになったのかと嬉しくもあり、誇らしくも感じ、新たな幸せを得たことに感謝していました。
土曜日の午後も日曜日も練習があり、私はせっせとお弁当を作り、その弁当箱が次第に大きくなってくるのが嬉しくてたまりませんでした。あなたの持って帰ってくる弁当箱はいつも空っぽで、明日のおかずは何にしてあげようかと考えるのが楽しい毎日でした。
そんな時、純君が独りで家を訪ねて来ました。
初めて彼が家に来てからひと月ほどが経っていました。
もちろんお父さんはいませんし、あなたも学校です。おばあちゃんは足を悪くしていたので車いすで縁側にいて、おじいちゃんは近所のお年寄りたちの集まりで出かけていました。
私は戸惑いを隠しつつ、近くまで来たもんですからという彼を居間に上げました。そこからなら縁側のおばあちゃんが見えるからです。いくつか当たり障りのない言葉を交換し、あなたのバレーの話題を出せば、後は特に話も無くなり、何事もなくお土産のウィスキーのお礼を言って彼を格子戸の外まで見送りました。
そこで純君が素直に帰ってくれれば何の問題もなかったのです。ところがそうはならなかったのです。
純君は一度立ち去りかけた足を返し、目の前に立ったかと思うといきなり私にキスしたのです。
「洋子さん。僕はあなたが好きです」
白昼堂々と。
人妻である私を、しかも私の家の玄関の前で。
自分の身の上にたった今起った出来事が信じられず、ただ唖然としていました。
どのくらいのあいだそうしていたか、全然覚えていません。覚えているのは彼の唇の熱い感触だけでした。
ようやく自分を取り戻し、誰かに見られなかったか気にしている間に彼は足早に立ち去っていました。大声で呼び止め意図を質すこともできず、走って行って詰問することも出来ずに、です。後から込み上げてくる恐怖に足が竦みました。
まず家に入って落ち着こう。そう思って振り向いたとき、そこにおじいちゃんが立っていました。
死ぬほど驚きました。
そのときのおじいちゃんの私を見る軽蔑の眼差しは今でも覚えています。おじいちゃんは何も言わず、先に格子戸をくぐり家に入ってゆきました。
あなたが宿題をサボって担任の先生が連絡帳でそのことを知らせてきた日、初めてあなたを叩いたのを覚えていますか?
気が付いたら手を挙げていました。胸が潰れそうなほど後悔し、すぐにあなたを抱きしめて泣きました。長い時間、二人で頬をくっつけて泣いたあの日を覚えていますか?
それ以来、あなたが宿題を忘れることは無くなりました。
恐らく、あなたはきっと何かを感じたのでしょう。実は、その日が私が純君に突然唇を奪われ、あろうことかそれをおじいちゃんに見られた日だったのです。
その日までは、母である私と人妻である私、そして人間である私は、ともすると暴れ出そうとする女の私を抑え、それまでの平穏な日々を続けることができていたのです。揺らめきそうなことがあっても、私はなんとか自分を信じることが出来ました。優しいお父さん、おじいちゃんやおばあちゃん、そして元気なあなたに支えられて。
でもその自信は、その日を境にしてぐらぐら揺るぎ出してゆきました。
そんな中、おばあちゃんの具合が悪くなり始めました。
家と病院とを往復することが増えました。おじいちゃんも、入退院を繰り返すおばあちゃんに付き添って、家にいない時間が増えてゆきました。お父さんも度々電話でおばあちゃんの様子を尋ねて来はしましたが、なかなか時間がとれず、週に一度帰宅して病院に様子を見に行くのがやっとでした。家に私とあなただけの夜が増えてゆきました。
あなたが眠ってしまうと、本当に独りきりになりました。そんなとき、私はきまって自分で慰めるようになりました。
病気で苦しんでいるおばあちゃんや看病で疲れているおじいちゃんには申し訳なかったのですが、お父さんが家に帰った夜は、必ずお父さんを求めてしまいました。お父さんも疲れていたはずなのに、何も言わずに応えてくれました。それで安心できました。おじいちゃんはお父さんにまだ何も言っていないのだ。勝手にそう思い込んだ私は、大胆になってゆきました。
結婚してしばらくは普通の、私が下になるやり方しか出来なかったのに、いろいろな仕方をするようになっていました。以前は口でお父さんを悦ばすことなど一切しませんでしたが、何の躊躇もなくそれをするようになった私に、
「お前、変わったな・・・」
お父さんが呟いたとき、私は硬直しました。
お父さんは直ぐに、
「いや、いい意味でだよ。もちろん」と付け加え、
「どんな男だって、女房が魅力的になりゃうれしいよ」
笑いながら言ってくれました。
「放さないで。私を、絶対放さないで」
私はお父さんに縋りました。縋らずにはいられませんでした。お父さんが愛してくれる限り、私の女は完全に妻と母に抑え込まれ、支配の下に置かれる。そう信じていたのです。
「いつも済まないなあ。放ったらかしにして、みんな任せっきりでさ」
そんな言葉さえ掛けてくれ、私を抱いてくれました。
お父さんはいささかの疑いも持たず、むしろ一人で家を切り盛りする私を労いさえしてくれたのです。その優しいお父さんを裏切ってしまいそうな自分に恐れを抱きました。
それからしばらく経ったある日、偶然に純君に会いました。おばあちゃんのお見舞いの帰りにです。少なくとも私は偶然と思いました。ところが、彼にとってはそれは偶然ではありませんでした。
型通りの挨拶でその場をやり過ごそうとしました。
本来なら、お父さんと純君のお付き合いを考えれば、妻という私の立場を考えれば、気軽に「ウチにおいでよ。ご飯でも食べて行きなさいよ」と言うのが自然でしょう。
でも強引に唇を奪われた後でそんな言葉が言えようはずもありません。しかも純君は、
「時々こうして近くまで来ていたんです。奥さんに会えるかも知れないと思って・・・」
せつない顔をしてそんな言葉をかけてくるのです。それを聞いてしまってはなおさらでした。
でも私は、彼の言葉に身体の奥が熱くなっている自分を感じてもいたのです。
前のように家を直接独りで訪ねるのは気が引け、それでも、もしかしたらと私と出会いそうな辺りを彷徨っていたと聞き、身体の芯が熱くなり、キュンと鳴るのがわかりました。
「いつから?」
「洋子さんにキスした次の日から。僕の気持ち、わかってくれてると思ってました」
私は取り返しのつかない、後戻りのできない大きな間違いをしようとしていました。
連れ立って電車に乗り、いくつか離れた駅を選んで降り、ホテルに入りました。
「もう、これきり。もう二度と私の前に現れないって約束できる?」
私は純君を睨み据えました。
「約束します。一目だけ会えればいいと思ってましたから」
「もし、約束破ったら、純君を殺して、私も死ぬ。そういう覚悟、あるのね?」
彼は返事の代わりに私に熱い口づけをしました。
お父さんとする以上に興奮し、燃えました。
お父さんにしてもらう以上に感じ、乱れました。
貪るように、彼の若い肉体を求め、何度も昇りつめました。
極まったときは、お父さんではなく純君の名前を呼びました。
彼にも私の体の隅々まで味わわせ、刻印させました。
愛とか好きという言葉は使いませんでしたし、求めませんでした。ただ、もっと快楽を与えるように求めました。快感の言葉を吐いただけでした。
でも純君は違いました。
「愛してる!」
「洋子さんが好きだ!」
「忘れるなんて出来ない!」
「ずっと一緒に居たい!」
私の身体を求める間中、彼はそう言い続けていました。
「僕、洋子さんに殺されてもいいです」
終わった後、彼はそう呟きました。
「だめ! 絶対そういうこと言っちゃだめ。
お願いだから。かわいい彼女見つけて。幸せになって。もう私の家には来ないで。お願い。もし純君が目の前に現れたら、私、死ぬから!」
漂白されたように横たわって天井を見つめる彼にそう言い置いて先にシャワーを浴びるために彼のそばを離れました。
この時、もっと純君の言葉に注意するべきでした。彼の表情に気を留めるべきでした。でも私は自分の中の女を満足させ、絶対にお父さんやおじいちゃんたち、それにあなたにこの事を知られないように、彼が再び現れないようにすることで頭が一杯でそれに気が付かなかったのです。
次の日の夕方。
お父さんが帰ってきました。
いつも帰ってくることのない時間に、です。何事かと玄関に出迎えると、お父さんは憔悴しきった顔で三和土に立っていました。
「純が、死んだ・・・」
彼は私と出会った駅ビルの屋上から身を投げたのでした。
私は混乱しました。
その事実を受け止め、故人を、純君の死を受け入れ、悼むという普通の手順をする心の余裕を失っていました。それ以外に考えなければならないことがたくさんあったからです。でも考えることなど出来はしませんでした。
ただ混乱し、硬直していました。
せめて嘘でも「どうして」とか「あんなに元気だったのに」という言葉が出るべきでした。その時の私にはもう、そのような小細工をしてとりあえずその場を取り繕おうと考える余裕は全くありませんでした。私にできることは下を向いて黙っていることだけでした。
お父さんは私に一言だけ言いました。
「洋子。俺の目を見て」
それはお父さんに初めて会った日、お見合いの時最初に言われた言葉でした。
びくびくしながら顔を上げました。疲れ果てた顔が目の前にありました。
目だけが異様に見開かれて私を奥底まで見つめていました。もう、見ないで下さい。その言葉が喉元までこみあげて来ました。全部お話しますから、もう許して下さい。そう言ってしまいたいのを必死で堪えていました。
今は思います。純君は人妻である私を一途に想う純粋な人だったと。
最初から私とどうするなどという目当てで来たのでは無かったのだと。お父さんと同じ挫折を経験した若者として、同じ境遇の旦那さんを持つ奥さんなら、僕の気持ちを解ってくれるだろう、慰めて受け入れてくれるだろう、と。そんな希望、その純粋な心だけだったのではないかと。そう思うのです。
それが結果的に私との逢瀬に繋がったとしても、それを拒まれたからといって死を選ぶことは無かったのではないかと思うのです。普通のごく一般的な人妻の立場から、悪いけどあなたの気持ちには応えられないと言えばよかったのです。
私が純君に突然キスされた時に正直にお父さんに話していれば、お父さんはむしろ純君に同情したのではないでしょうか。さらに言えば、お父さんは最初から、俺と同じ目に遭ったヤツを慰めてやってくれ、そういうつもりで純君を連れて来たのではないかと思うのです。
それなのに・・・。
私は純君を自分の女を満足させるための道具として使い、性欲を満たし、満たし終われば自分の保身にのみ汲々とし、彼の心情を思い遣ることさえしなかったのです。純君は私の中のそんな邪な淫蕩な気持ちを嗅ぎつけ、あたかもそれが私の純君への好意であるかのように錯覚してしまったのでしょう。
しかも、自分が愛した女が実は自分の保身しか考えていなかった。
私には純君を憐れと思う気持ちは全くありませんでした。むしろ死んでくれて良かったとさえ思っていました。ただ肉欲を貪るだけだった私は、純君への感情、好意を全く持ち合わせていなかったのです。
さらに、私は自分の密事が純君の死で大事に発展してしまい、怖くなっていました。急に社会や世間の非難を恐れ始め、とにかく密事が露見しないこと、懲罰を受けないこと、それしか考えることが出来なくなっていたのです。幼いころからの父から受けた酷い懲罰がこれでもかとリフレインしてきて、私を恐怖に陥れていました。
彼は、私の中のそうした本心に気づいたのだと思いました。だから、全てに絶望し、死を選んだのだ。
そう思いました。
私という人間を形作っていたのは、例えて言うなら一軒の家のようなものでした。家の中では長い間私の中の「女」と、私の中の「妻」と「母親」との間で戦いがありました。
女であり、妻であり、母親である、人間。
普通の子供を持つ家庭の主婦ならなんの疑問も持たずに成立させているその三つの立場のバランス、その関係が、私の中では常に緊張していたのです。
その戦いに疲れ果てた私の人間がいつの間にかいなくなっていたことに気が付きませんでした。人間性の無い女はいても、人間性の無い母親や妻は社会では非難される。そのことに思い至りませんでした。
私の中の「家」、私の人間性は崩壊しかけていました。
今は思います。この時に何もかもお父さんに話せていれば、その後の悲惨な出来事は起こらなかったかもしれない、と。この時が運命の分かれ目だったのだ、と。でも人の一生とはそんなことの連続なのかもしれません。
「明日が通夜で明後日葬式だ。礼服頼む」
お父さんは疲れ切った顔でそう言っただけでした。
大急ぎで二階の寝室に上がってドアを閉めました。そして声を出さずに泣きました。怖かった。バレなくて良かった。露見することへの恐怖と恐怖からの解放。私が泣いた理由はそれだけでした。
お父さんはまだ私が純君とキスをしたことを知らないのだと思いました。おじいちゃんはまだ、あのことをお父さんに知らせていないと。
おじいちゃんとお父さんは仲が悪いと思っていました。ほとんど話をしているところを見たことが無かったのです。
それなら、大丈夫なのでは。
自分に都合のよいように思い込み、心の平穏をなんとか維持することに精いっぱいだったのです。
でもそれは私の大きな勘違いでした。
おじいちゃんがあのことを言わなかったのは、父親としてのお父さんへの愛情であり、息子に対する同じ男としての思い遣りであり、告げ口などという卑怯への嫌悪であること。それに気付かなかったのです。
それなのに私は、おじいちゃんさえ黙っていてくれれば乗り切れる。蜘蛛の糸にも縋る思いでそう信じ、純君への哀悼を秘めた妻を演じたのです。つまり、お父さんを騙したのです。
階下に降りると、丁度外から帰ったあなたが、お風呂から上がって服を着ているお父さんに頭を撫でられ「しっかり練習しろよ」と言われていました。あなたは頭を撫でられながら私を見てしかめ面をしていました。
この幸せだけは絶対に守らなくては。
頭の中にはそれしかありませんでした。
次の日から入院しているおばあちゃんのお世話はおじいちゃんにお任せすることになりました。おじいちゃんからそう言われたからです。
「あんたは家のことだけやっていてくれ」
この時からおじいちゃんは私を「洋子さん」ではなく「あんた」と呼ぶようになっていました。
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