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現在

最終話 現在

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「やっぱり、だめだな。場所変えるか」
「いいよ、ここで。もう、いいよ」
 やおら強い風が由梨のフードを飛ばした。穏やかな海風に髪を弄らせながら落ち着いた慈愛に満ちた微笑を浮かべ、目にいっぱいの涙を溜めてそこにいた。あまりにも身近に居すぎてすぐ隣にいるのに気が付かなかった。
 由梨はもうずっと前からこんな目をして治夫を見つめ続けていた。もうずっと前から、惚れた男に向ける目をしてそこにいたのだ。
 由梨は言った。
「実の息子だら? 結婚式、出てやりまい。出てやりゃいいら。何に拘るだ。
 あんなイケメンのお兄さんとめっちゃ美人のお義姉さんができるだよね。お母さん死んでから二人きりだったけど、家族が増えるだもんで。全然いいじゃん」
 袖で顔を拭い鼻を啜った。
「美奈に自慢してやろ。あいつ絶対羨ましがるに。多分ソッコーで大阪から見に来るに。必ずウチも結婚式出るって言ってくるで」
 由梨は口の端を片方だけ引き上げて笑った。その仕草があまりにも多恵子によく似ていた。今、狂おしいほどに多恵子に会いたい。
「もうすぐ命日だね。ウチの誕生日。もう三年になるだね。世の中にどのくらいいるんだろうね、自分の誕生日が母親の命日って人」
 まるで治夫の心の中を読んでいたかのように由梨は言った。
「今でもお母さんを愛してる?」
「バカ野郎。当たり前じゃないか」
 何年経っても照れ臭いものは仕方がない。
「母さん以上の女はいない。むしろ死なれてからどんどん好きになってる。幽霊でもいいから、もう一度母さんに会いたいな。・・・。ったく。何てこと言やがるんだ。たまらなくなっちまったじゃないか。お前がそういうこと言うからだぞ」
「あ、ハルオ。イカンに。ここで泣いちゃかんに。あ、あ~あ」
 スンスンと鼻を鳴らし始めた治夫の傍に折り畳み椅子ごと寄り添い、背中を擦った。
「泣くなよー、もう。いい歳してェ。すっかり泣き虫になっちゃったやあ。ほい。これ使いナイ」
 由梨はジーンズのポケットから取り出したハンカチで治夫の目頭を押さえた。
「ウチ、優しいら。頼りになるら」
「でも、なんかこれ、臭いぞ」
「一か月くらいポケット入れっぱなしだった。ウチの匂い付きだで。嬉しいら」
「お前なあ・・・。俺は匂いフェチかっつうの。ズボラにも限度がある。洗濯物くらい小まめに出せ」
 からから。
 由梨は大きな口を開けて気持ち良さそうに笑った。
 肩の力を抜いた。
 今、この世に由梨と共にある。その幸せに感謝した。
「ゆうべ、言いだしかけて止めたの。覚えてる?」
「ああ。あれ何だ」
「あのね、なんか、ハルオさ、お母さんが死んでから、なんかバカっぽくなったっていうか、アホっぽくなったっていうか・・・」
「なんだ・・・。だらくさ。聞いて損したわ」
「でも今の方がずっといい。アホのハルオの方がずっといい」
 雨が、止んだ。
 由梨は父の首筋の、色が薄れかけた痣を撫でた。

 娘に痣を撫でられながら、一つのことに思い至った。
 これはある種の「対消滅」ではないか。
 この国はものづくりからどんどん遠ざかろうとしている。だが、このまま市場の縮小を座視するわけにはいかない。
 治夫は新たな販路として教育と科学研究の場に目を向けていた。その設備構築に活路を開ければ。そう思い、以前から少しずつ調べていた中に物理研究分野があった。他の分野に比べ研究設備の規模が大きい。そうした巨大な施設の構築に絡むことができれば・・・。
 とりわけ素粒子研究などの分野では直径数十キロにも及ぶ「粒子加速器」がある。異なる性質の粒子同士を光速に近いスピードで衝突させ、もっと小さな「クォーク」を取り出す装置。それを調べてみたことがあった。
 「対消滅」はその過程で知った。
 マイナスの電荷をもつ電子とプラスの陽電子が出会うと大きなエネルギーを発生し、互いに消滅する。宇宙の成り立ちを説明する現象として今世界各国で研究が進んでいる。
 ここで治夫はある仮説を立てた。
 治夫が多恵子の死をきっかけに「アホ」になったとするなら、それはその「対消滅」のようなものが原因だったのではないか。
 由梨が指摘した通り、最愛の妻の死後、痣の疼きはすっかり消えた。
 治夫に憑りついた「黒い塊」が消えてなくなったなら、多恵子にも同じ質量をもった治夫と反対の電荷をもつ「黒い塊」があったのかも知れない。塊同士は消滅し、そしてその爆発による膨大なエネルギーが多恵子を・・・。
 多恵子を喪ってから、心が落ち着くと理不尽にもその生を終わらせられた多恵子のことを納得するために、そんな妄想をよくした。どうも自分は無粋に出来ている。これは生来だから、仕方がない。
 しかし、本来なら共に消滅するはずだった治夫はこうして生きている。この事実をどのように説明したらいいのだろう。
 それにはきっと由梨が関係している。最初から治夫の痣に対して全くの不導体であった由梨が何らかの影響を及ぼしたに違いない。
 まあいい。
 自分の人生があとどのくらい残っているのかは知らないが、ゆっくりと考えてみるとしよう。
 治夫の中に息づいていた黒い塊は跡形もなく消えた。
 少なくとも、治夫に憑りついていた「疫病神」にとって、それは大いなる誤算だったのは確かだろうから。
「これ研究したら、ノーベル賞もらえるかな。そうなっちゃったら、俺、どうしようかな。英語でスピーチしなきゃな。美奈ちゃんに教えてもらおうかな」
「はあ? ノーベル賞? なんで美奈が出てくるだ」
「いや、なんでもない。独り言」
 由梨に言っても仕方がない。どうせ、
「まあったく。相変わらず、なにくっだらないこん考えてるだか・・・」
そう言って呆れられるに決まっている。
それに、この可愛い娘にはそんなこととは無縁の人生を送ってもらいたい。治夫は心からそう願った。
「それはきっと、母さんが、持ってってくれたからじゃないかな」
 何を?
 言わなくても通じていた。言う必要はなかった。
「そうだね。お母さん、持って行ってくれたね。だもんでだら、きっと」
 陽が差してきた。
 ポンチョを捲り上げ腕を広げた。
「おいで」
 由梨は雨具を脱ぎ、いそいそと治夫にくっついた。
「いいら」
「何が」
「娘の温もり。東京行っちゃうとこれ、なくなっちゃうに。いいの?」
「うん・・・。ちょっと寂しいかもな」
「うっわ! エロオヤジ、キンモー」
「お前が言わせたんだろうが」
「冗談じゃん。すぐ怒る。ハルオってば、かわいー」
「親をからかうんじゃないよ、まったく。ホント、女は怖いわ」
 むふう。
 由梨は笑った。
「言って」
「ん?」
「大好きだよって。言うだけならいいら?」
「大好きだよ、由梨」
「棒読みかよ・・・。もう一回。言って・・・。あいしてるよ、って」
 由梨は治夫を見上げた。
「言うだけだに。言うだけ」
 由梨の瞳の奥を覗き込むようにして髪を撫でた。広い額の下の目尻がゆっくりと下がり頬が緩んだ。由梨は蕩けるような笑みを浮かべた。
 二人、やわらかな秋の潮風に包まれていた。
「まあ、いいや」
 遠くの防波堤に打ち付ける波の音。陽の光が優しい。
「『いつまでもずっと、そばにいてくれ』それで妥協してやるわ」
「おい、知ってるか? こっちの方言で『だら』って付けるだろ? あれな、金沢では『ばか』っていう意味なんだぞ。想像すると面白いだろ。全然釣れないばか。もうお昼ばか。もう帰った方がいいばか・・・」
「ツマンネ。オヤジギャグサイテー。何、そのドヤ顔。もうええわ」
 由梨はプイと横を向いた。でもすぐに再び父に向き直った。
「ホラ、晃さん待たせてるだもんで。そーゆー下んないこんばっかゆってないでそろそろ電話してやんナイ」
 そう言いながら、娘は強かに父の背中を叩いた。

                     完
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