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 店を出た。真夏の熱気が冷めやらぬ通りを駅まで歩きタクシーに乗り込んだ。
 掛ける言葉が見つからなかった。
 不自然な沈黙が流れ、やがて美奈の手が治夫の右手を取り指を絡め強く握ってきた。
 そこに憂いを帯びて潤む瞳と薄く開いた唇があった。慌てて顔を背け反対側の車窓を眺め続けた。
 そうだった。この子はもう・・・。
 後を引き摺らぬように締めてしまわねばならない。まだ家には遠いが車を降りた。タクシーが走り去っても美奈はまだ何か言いたそうに佇んでいた。
「美奈ちゃん」
 美奈に伸びかけた目に見えない触手を引き千切るように強い調子で呼びかけた。
「もう一回、手を繋ごう」
 わざと左手を差し出した。美奈は戸惑いつつ治夫の手を取った。
 車が行き交う大通りを外れ、ところどころを街灯で照らされただけの側道を歩き始めた。市街を抜けると、道の両側に転々と立ち並ぶ民家の他は月明りに浮かぶ水田が広がっているだけだ。あとひと月もすれば稲刈りを迎える稲穂が夜風に揺れていた。
 美奈の冷たく湿った指が戸惑いながら治夫の指輪をなぞっている。田圃の中に立ち並ぶ住宅地が見えて来た。少し歩調を落とした。
「あのね、美奈ちゃん。それって一時の気の迷いじゃないかな」
 治夫は言った。
「おじさん、少し出しゃばり過ぎた。
でもね、マトモな大人なら誰だって同じことする。あの時、美奈ちゃんのパパもママもどうかしてた。マトモじゃなかった。マトモじゃないなかでマトモなことすれば良く見えるのは当たり前だよ」
 美奈は立ち止まった。繋いでいた手を振り解いた。
「ひどい!」
 蛙の声が止んだ。稲穂を薙いで風が吹き抜けた。
「おじさんだけだった。本気であたしのことを心配してくれたのは・・・。
 パパなんかよりおじさんのほうがずっとあたしを見てくれた。ママなんかよりずっと。おじさんと一緒にいるだけで心の底から安心できたんだよ。
 ひどいよ。気の迷いだなんて。ホントに好きなのに。おじさんのこと好きなのに。ずっと好きだった。やっとその気持ちに気付いたんだ。こんな気持ち、初めてなんだよ。おじさんにだけなんだよ!」
 あまりの激しさにたじろいだ。
「・・・ごめん」
 謝るよりほかに思いつかなかった。
 美奈はなおも執拗に治夫を責めた。
「おじさんだけはあたしの気持ちわかってくれると思ったのに。だから相談したのに。ひどいよ!」
 美奈はその場で蹲って動かなくなった。治夫は腰を落とし再び美奈の両手を取った。
「ごめんよ、美奈ちゃん。言葉が悪かった。謝るよ」
「だったら、チューして。ホントに悪いと思うなら、今すぐチューして。それぐらい、いいでしょ」
 途方に暮れ思わず夜空を仰いた。


「お父さん、今日も遅いだ?」
 由梨は傍らでアイロンがけをしている母に尋ねた。
 夕飯の後、リビングのカーペットに寝転がってTVを見ていた。が、朝聞いた美奈の話が気になって内容なんかさっぱり頭に入ってこなかった。
 もう父にメールしたんだろうか。もしかして今、二人で会っているんだろうか。会って何を話しているんだろう。いやな想像ばかりが胸を掻き乱した。
 母はウンザリしたように応えた。
「話聞いちゃいんもんで。今日は泊まり。朝お父さん言ってたじゃん。今頃エライ人とお酒飲んでるじゃないだ」
「怒んなくてもいいじゃん。ただ訊いただけだし」
「怒っちゃいんよ」
「怒ってるし」
「怒ってません!」
 まずい。
 不用意に母のボルテージを上げてしまった。この後に続くセリフは大体予想がつく。
 だいたいあんたいつまでTV見てるだ、そんなんでいいだ? もう夏休み終わるに、二年生の終わりごろにはもう決まっちゃうだよ、内申は三年生になってからじゃ遅いもんでね、私立は駄目だでね、授業料高いし定期代もったいないし・・・。
 ところが、いつまで経ってもその予想された小言はなかった。
「丁度いいわ。ちょっとTV消しなさい」
 何が丁度いいのかよくわからなかったが、逆らうと煩いので言う通りにした。母は続けた。
「あのね由梨、ひとつ訊いていい?」
「なに?」
 のそのそと寝返った。
「あんた、お父さんのこん、どう思ってる?」
 直球かよ・・・。
 アイロンがけの手は止まっていなかった。何も答えられず、目も合わせられなかった。ここのところ母がイラついている理由はそれか。薄々感づいているとは思っていた。だが、さすがに真正面から訊かれるとは思わなかった。
「どうって?」
「誤魔化さんでいいで。ホントの気持ち言ってご」
 母はアイロンを掛け終えると洗濯物の山に取り掛かりながら無言の尋問を続けた。耐えられなくなって、立ち上がった。
「どこ行くだ」
「ちょっと、シャワー・・・」
 由梨はバツが悪そうにそう言ってみた。
「いいから。ここ座りな」
 もう体格では母を超えている。それなのに何故か逆らえない。仕方なくローテーブルを挟んで膝を抱えた。
「こっち。何でお母さんから離れようとするだ。たまには手伝いな」
 母は傍らのカーペットをポンポン叩いた。仕方なく、母の隣に座った。途端に母はTシャツにショートパンツ姿の由梨の尻を叩いた。
「あんたね、いくら家の中だからって、そんなの穿いて胡坐なんかかくんじゃない。女の子だら? 一応!」
 仕方なく、正座をした。母の苛立ちに怯えるのも癪だったから、ワザとのろのろと目の前のタオルを取り上げ、膝に乗せて畳み始めた。
「もっと、きちんと。心を込めて。・・・あんた、お父さんのこん、好きだら」
 いきなりのストレート。
 動揺で洗濯物を畳む手が止まる。動かない。何と答えていいのかわからない。躊躇しているうちに母の次の一言が由梨の顎に炸裂した。
「好き嫌いの好きじゃなくて、男の人として好きなんだら」
 ノックアウトだ。TKOだ。
 母が手際よくシャツやタオルや下着を畳み、積み重ねて行く様は全くいつも通りで、どこにも特別な風がなかった。洗濯物の山はみるみる小さくなり、最後に残った父のトランクスに由梨が戸惑っていると母の白い手がさっと伸びて持って行ってしまった。
「怒ってるだ?」
「怒っちゃいんて。・・・でも、困ってる」
 全てを畳み終え、母は息をついた。
「由梨。お母さん、お茶飲みたい」
 キッチンにたち母のお気に入りの湯呑にお茶を淹れてやった。トレーを捧げてリビングに戻ると、母は畳んだ衣類を片付け終わり、再びカーペットに膝を揃えていた。由梨が置いた湯呑を、ありがとうと受け取るとしばらく両手の中で弄んで一口飲んだ。
「あんた、淹れ方上手になったね。美味しいよ」
 由梨のお母さんて若くて美人だよね。
 よく友達からそう言われた。それが自慢でもあった。でも最近急に老けたような気がした。病気のせいだろうか。そんなときに自分は母を困らせているのか。
 怒ってはいないが、困っている。
 そう言われると余計に辛かった。思っているだけなのに。思うことが態度に現れ、それが母を傷つけ困らせているのだろうか。思うのをやめるなんてできるのだろうか。
 と、ふいに母は由梨のTシャツの背中を捲り上げ、下着をずらした。
「やっぱり。ブラきつくなってるんじゃないの? ほら。痕ついてるじゃん。何で言わんの」
「だって、・・・この前買ってもらったばかりだったもんで」
「成長期なんだから気にしなくていいだよ。明日買いに行きまい。ごめんね。本当はお母さんが気付いてやらんといかんかったね。なんやかやでバタバタしてて、あんたのこん、ちゃんとかまってあげられへんかった。大きくなったねえ・・・」
 母はそう言って目を細め、肩まで伸びつつある由梨の髪を撫でた。
 去年病室で母に抱かれた。母の胸は温かくて柔らかくて懐かしい匂いがした。本当は今も母の胸に抱かれたいのに、なんとなく引け目を感じてしまっていた。
 髪を撫でられているだけで緊張していた心がとけてゆく。本当は誰かに思いのたけを打ち明けたい。美奈には言えなかった。出来れば母に受け入れてもらいたい。でも、それも出来ない。
「あんたにね、とっておきのお父さんの武勇伝、教えてあげる」
 何それ?
 戸惑う由梨にお構いなしに母は続けた。
「ほんとはね、去年あんたが荒れてた時、よっぽど教えてやらっかと思っただよ。あんた、お父さんの本当の子供じゃないの知っちゃったしね。
 でもあんたお母さんに似て頑固だし。どうせ意固地になって聞きゃーへんらと思ってさ。それにお父さんのこん嫌いな人に聞かせるのもったいないし。それぐらいとっておきの話。この家にね、強盗が押し入ってきたこんがあるだよ」
「強盗?!」
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