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しおりを挟む広がる青い稲穂の海が夏の日差しを浴びてキラキラと輝いていた。その海を割るように伸びる通学路を由梨は美奈と並んで自転車を押して歩いた。何台か、中学校の体操着を着た生徒の自転車が由梨たちを追い越して行った。それを見送って美奈が口を開いた。
「由梨坊。あのさー、ウチちょっとおじさんに相談したいことあるんだー」
「え?」
「いいかね?」
咄嗟に言葉が出なかった。
「わざわざ言わんだって。もう、ウチに住んでるみたいんなもんじゃん。お父さんの携番もメアドも知ってるしさ・・・」
「ちょっとね。家の事なんだ」
美奈は恥ずかしそうに顔を伏せた。
「もしかしてそれってウチには言えないこんなの?」
「言えないわけじゃないんだ。大人の男の人の意見を聞きたいんだよ。おばさんと由梨には、ちょっと恥ずかしくて・・・。出来ればおじさんと二人がいいんだ」
大人の、男の人・・・。
由梨の傍を自転車が猛スピードで通り過ぎた。野球部のオリジナルTシャツに通学用ヘルメットを被った達也が追い抜きざまに振り返った。以前なら、
「邪魔だ! ケツデカ女」などと悪態をついていたものだ。傍にいた美奈を気にしているのか。どことなく不自然に見える。
彼は由梨を睨みつけて去っていった。近所ではあるがクラスも別だし今は接点もない。あの時以来直接話したこともなかった。
あれから達也は一年生の途中ながら野球部に入って周りを驚かせた。
「どうしちゃっただ、アイツ」
「イマサラけ? どうせすぐ辞めるら」
無遠慮な周囲の声を尻目に、中途入部者に課せられた厳しい練習にもよく耐えているという。
あの、去年の祭の練習の日。
達也は無知な由梨を嘲笑うつもりだったのだろう。でもその彼の告白が無かったら美奈の苦境を知ることはなかったし、助けることも出来なかった。
それなのに。
彼を悪者にして彼の犠牲の上に美奈のプライドを保っている。それが事実だった。
いつかは一言でいい、お礼が言いたい。
由梨はずっとそう思い続けていた。もちろん、そんなことは美奈には言えない。
離れて行く達也の自転車を見送りながら、美奈は由梨の内心を察してこう言った。
「由梨坊。言いたいこんあったらなんでも言ってね。友達だから」
「ゆってるら、普通に。いいら、気にしんで言やあ。でもお父さんここんとこ忙しそうだけんね。とりあえずメールしてみてご」
もう父と会って欲しくない。本音はそう言いたかった。
でも美奈には絶対に言えない。
美奈の弱さを知ってしまったから。
一見強そうに見えるものの実は常に誰かに支えられなくてはいられない女の子だったのを知ってしまった。未だ異性と恋愛感情を伴った付き合いをしたことが無い由梨にはショックが大きかった。そのせいでちょっとのあいだ美奈と自然な会話が出来なかった。
由梨の態度の変化は美奈を悲しませた。
「ウチの事嫌いにならないでね」
全てにおいて自分より秀でた優等生が自分に泣きながら縋りつく姿に彼女を警戒したことを後悔した。今はわかる。わかるから、美奈の想いが治夫に向かっているのを知っても、何もできないでいた。
「ウチ、もう大丈夫だからね。思ってることはちゃんと言ってね。由梨なら、ウチ、何言われても構わないから。あんま気にされると逆に辛いよ。避けられてると思っちゃう」
「んなこんするわけないって。気にしすぎー」
無理矢理に笑って見せた。
「苦しいんだよ。どうしても、おじさんに聞いてもらいたいんだ。それを由梨にもわかって欲しかったんだ」
会議の後、いつも誘ってくる松谷が珍しく「今日はちょっとヤボ用でな」とまだ陽のあるうちから真夏の繁華街に消えた。
どうやら彼は現地妻との約束があるらしい。お盛んなことだ。急な案件もない。泊りの心算で出てきたが日帰りできることになって幾分ホッとした。
営業本部に顔を出した。丁度顔馴染みの女性社員がいて雑談がてら最近の年頃の女の子が好みそうなものは何か尋ねた。すると即座に、
「松任所長、浮気はダメですよ」などと揶揄われた。
「オイオイ。違うよ。人聞きの悪いこと言うなよ。娘にだよ」
「あーわかった。アレでしょう、所長もお父さんウザイ、クサイ、キモイとか言われてるクチでしょう」
「酷い言われ方だなあ。でもまあそんなとこだよ。何か小娘が喜びそうな気の利いたものないかね」
律儀な彼女は付箋に女子中高生の間で流行っているらしいいくつかのアイテムを書きだしてくれ、駅ビルのアンテナショップでも売っていると教えてくれた。
「いろいろ種類も出てるし、ネットでも見れますよ。帰りの新幹線で調べてみたら」
品川駅からこだまに飛び乗った。
平日の自由席車両。二人掛けには全て先客がいた。手近の三人掛けの窓際で夕陽に照らされた富士山を眺めた。
結局駅ビルには寄らなかった。今の由梨はきっとどんなものをプレゼントしようと、何処に連れて行こうとあまり気乗りしないだろう。それは治夫が一番判っていた。
西日が射し始めた窓にシェードを下ろしスマートフォンを取り出した。待ち受け画面は去年の夏三人で撮った入学記念の写真だ。満面の笑みを浮かべる由梨と対照的に、ちょっと困ったような、怒っているような、口元だけで微笑している多恵子の表情が気に入っていた。
夫として父親として、この二人を幸せにしたい。その思いだけは一片の曇りもない。
由梨と、多恵子を、心から愛している。
手にしたスマートフォンが突然震えた。驚いたのを周りに見られなかったのは幸いだった。
薄暮、東遠州駅に着いた。
待ち合わせの北口広場に出ると美奈はもう来ていた。昼間の熱気で熱くなったアスファルト。立ち昇る陽炎の向こうに中学生らしい涼し気なチェックのワンピースを着た美少女が立っていた。小さな白いポーチが似合っていた。治夫の姿を認めるやポニーテールを揺らし白いサンダルを軽やかに鳴らして駆け寄ってきた。
「やあ」
「忙しいのに、ごめんね」
清らかな息を整えながら美奈は微笑んだ。
「メール見てちょっと驚いた。今朝まで家にいたのにさ。何かあったのかと思ったよ」
「うん。ビックリさせちゃったかな。あのね・・・どうしてもおじさんだけに話を聞いてもらいたかったんだ」
「ふむ」
由梨や多恵子を憚ること。美奈にとっては言いにくい事柄。
そこまでわかれば予想はついた。だが、ここでも鈍感な中年男を演じねば。それでいて、この子を包むように接することを心掛けた。次第に演技が得意になって行く自分にいささかの困惑を覚えはした。
「お母さん、もう帰って来てるんだろ? 何て言って来たの」
「まんまだよ。おじさんに会って来るって」
「そうか」と治夫は言った。
多恵子には美奈との話が終わった後に電話すればいい。
「お腹は空いてる? イタ飯って好きかな。そこ行こうか」
「うん」
嬉しそうに髪を揺らす美奈をエスコートし、駅からほど近い緑の板壁に白い窓枠とドアが印象的なイタリアンレストランへ向かった。店先に綺麗にカラーリングされた本物のレーシングオートバイがディスプレイしてある。オーナーの趣味なのだろう。
「うわー。初めてきたよ。おしゃれなところだね」
「そう言えば美奈ちゃん連れてくるの初めてだっけな。由梨がね、ここのカルボナーラ大好きなんだよね」
「ふーん・・・」
料理を選んで注文した後、美奈が手洗いに立った。店の外に出て美奈の母親に電話した。
「お忙しい所済みません。どうしてもって聞かないものですから。お手数を掛けて申し訳ありませんが娘をよろしくお願いします」
去年不倫に狂っていた時とは別人のようだった。彼女の声音は穏やかで優しげな色をしていた。事件の直後は痛々しく見えたこともあったが、ここ最近は会う度に落ち着いた印象を受けていた。あの時、金切り声で泣き喚いていたのがまるで嘘のようだ。憑き物が落ちたというのはこういうことを言うのだろう。
電話を終え席に戻ると、不安げな表情で椅子に座っていた美奈が安堵の吐息を漏らし治夫を詰った。
「んもうっ! 帰っちゃったかと思ったよお・・・」
「ああ、ごめん。美奈ちゃんのママに電話してたんだ。人様のお嬢さんと食事するわけだからね。大人の常識なんだよ」
「『人様』なんて。なんか、他人みたいだよ。もう何回もおじさんちに泊まってるのに」
「あのね、礼儀とかケジメってのは大人の世界では大切なものなんだよ」
ワザと治夫は大人を強調して言った。聡明な美奈ならわかってくれるだろう。そう期待を込めた。
「ところで相談て何かな」
本題を促したとたん、美奈の瞳が憂いを帯び、沈んだ。右手の親指をテーブルの上に立てた。
「久々に握ってみる?」と言った。
美少女の口元が綻んだ。涼やかな目元が緩む。
「おじさん。ここじゃマズいでしょ」
「そうだな。折角来たのに出入り禁止になっちゃうしな」
美奈はクスクス笑って水を一口飲み、店内のインテリアを眺めながら話の糸口を探しているように見えた。広い額。高い鼻梁。長い睫毛が同じ間隔を置いて瞬いていた。
昨年、極限まで追い詰められ今にも折れそうに見えた美奈だったが、物腰も柔らかくなり、心なしか顔だちも体つきもふっくらして落ち着いて日々を送っているように見える。家庭の安定と確かな居場所の確保がそうさせたのだろう。由梨と一緒に釣りやスノーボード、キャンプや海水浴にも連れて行くうちに、いつの間にか本当の娘のように何の遠慮もしなくなっていった。あらためて今目の前にいる娘を見ると、精神的な安定がもたらしているのだろうその果実に、治夫は心から喜びを覚えた。
「あのね、おじさん・・・」
美奈が言いかけると注文した料理が来た。お腹が鳴るのが聞こえた。中学二年生の美少女は顔を赤らめた。
「さ、まずは食べな。食べながらでも、食べてからでもいいからさ」
驚いたことに、シーフードドリアを平らげた美奈はスパゲッティのお代わりをし、治夫が軽く摘まむつもりで頼んだモッツァレラチーズのハーフピッツアも半分以上平らげた。
「お腹、空いてたんだね」
由梨も大喰らいだが体格の大きな娘に比べてスマートな美奈の体のどこにそれだけの食物が入るのかと不思議に思った。
「だって、おいしいんだもん。なんか、家で食べるのよりめっちゃウマい」
「そうかい。やっぱ雰囲気かな」
治夫がそう言うと美奈は表情を曇らせた。
「家で、あんま食べられないんだ」と美奈は言った。
「なるべく食べるようにはしてるけど。どうしても喉を通らないこともあるんだ。おじさんが作ってくれたカレーとか、おばさんのお料理ならめっちゃ食べちゃうんだけどね」
美奈は紙ナプキンで口元を拭いオレンジジュースを一口飲んでグラスを置いた。それから真直ぐに治夫を見た。
「由梨にはまだ話してないんだけど・・・。あのね、あたし転校することになったんだ」
「そうかあ。由梨も寂しくなるだろうなあ。でもそれが自然だよな。美奈ちゃんにとっては」
父親の赴任先に家族で引っ越す。その話は何度か母親から聞いていた。
「でね、ここからが相談」
目の前の皿を脇へ押しやり、美奈はその広い額を突き出すようにして詰め寄って来た。
「出来れば高校終わるまでここで暮らしたいんだ。おじさんちで暮らしたい。ダメ?」
いつになく積極的な美奈の押しにたじろいだ。言葉は慎重に選ばねば。そう思った。
「ダメってことはないよ、もちろん」と治夫は答えた。
「でもね、いずれ引っ越すなら中学生のうちに慣れたほうがいいと考えてのことなんじゃないかなあ。ある程度のランクの大学を目指すなら、こんな田舎よりも大都会のほうがいろんな意味で・・・」
「あたし、行きたくないんだ」
眼差しが険しかった。
「せめて中学終わるまでおじさんちで暮らしたい。あの人達と一緒に暮らしたくないんだよ」
あの人達。と美奈は言った。
「だってさ、無理してるんだもん、あの人たち。無理して仲良く見せようとしてるのバレバレなんだもん。そういうの、辛いんだよ」
美奈はその美しい顔を苦悶に歪ませた。
「おじさん、言ってくれたよね、『ウチの子になれ』って。ホントに子供にしてくれなくてもいいから」
その時、気が付いた。
この子がこれほどはっきり自分の意志を主張するのは初めてだ。それは願いと言うよりは悲鳴のように、心の叫びのように治夫には聞こえた。
「そうか・・・。そりゃあ、あんな状態だったわけだから。多少のギクシャクはあるだろう。でも美奈ちゃんのママ、とても穏やかになったし一生懸命やり直そうとしてるように見・・・」
「あたし、おじさんちで暮らしたい。おじさんと一緒にいたいんだよ!」
思わず周囲を見回した。
「この一年間、とても楽しかった。おじさんとおばさんと由梨と。一緒に居られるだけで嬉しかった。いろんなとこ連れってってもらった。花火とかハロウィンとかクリスマスとかお正月とか、家族皆で一緒に楽しんだのも生まれて初めてだったんだ。家ってこんなに温かいものなんだって。これが本当の家族なんだって・・・」
「お父さんなんかいらない」
実の息子にそんな言葉を吐かれた男にとっては感無量な言葉だった。
よし、わかった。美奈ちゃんのママを説得してみよう・・・。
その言葉が喉まで出掛った。
だが、相手はおもちゃを欲しがる五歳の幼児ではなく、早くも人生の辛酸を嘗めて苦しんだ一四歳の中学生だ。そして帰るべき家がある他人の娘だ。
「あのね、美奈ちゃん」
真剣な眼差しを受けとめながらゆっくりと言葉を区切って話した。
「よく聞いて。あの時言ったことは、ウソじゃないよ。美奈ちゃんのパパとママが変わらないなら、本気で美奈ちゃんをウチの子にしてもいいと思った。でもね、あれから二人とも変わった。美奈ちゃんを放っておいたことを・・・」
美奈は治夫の言葉を聞いているようで聞いていないかも知れない。
それ、言うと思った。
そう、美奈の顔に書いてあった。
「・・・寂しいんだよ」
美奈はテーブルの上に目を落とし、ジュースのグラスに付いた水滴を細い指先で掻いた。
「あたし、あの家にいない方がいいんじゃないかって。あたしがいるからあの人たち無理しなきゃいけないんだって。もしかするとあたし、生まれて来ない方がよかったのかな、なんて。そう思うと、堪らなく寂しくなるんだよ。
あの人達、あたしが高校出たら多分離婚すると思う」
美少女の歪んだ笑顔に胸が痛んだ。
治夫の首筋の痣が、疼いた。
「今はあたしがいるから我慢してるだけなんだよ。あたしのせいで我慢しなきゃいけないなら、いっそ今から別れた方がいいよ。そんな家族に価値ないよ。そんな家族なら、もういらないよ」
深奥の黒い塊が蠢くのを感じた。それはまるで美奈の言葉に呼応し共鳴するかのように脈動した。新たな触手を伸ばし、その先端を美奈の心に潜り込ませようとしているのか。新たな塊を美奈の心の中に宿そうというのだろうか。
「もしかしておじさんはあたしが汚れてるからイヤなの? おじさんは、本当はあたしのこと嫌いなの?」
「バカなことを!」
思わず叩いたテーブルの、グラスの水が揺れて零れた。周りを見回して、治夫は続けた。
「そんなことこれっぽっちも思ってるもんか。美奈ちゃん。美奈ちゃんは絶対に汚れてなんかない。もう二度とそんなこと言っちゃダメだ」
大の大人がまだ中学生の美少女相手にムキになっている。周りからはそう見えるのを承知の上で、いささか興奮気味にそんな言葉を吐いていた。
「美奈ちゃんは由梨の大切な友達だ。俺やウチの奥さんにもだ。大切な存在なんだ。さっきも言ったろ? 娘に欲しいとさえ思ったぐらい・・・」
「あたしね、あたし、おじさんが・・・」
ふいに店内の一角で若いグループの大きな歓声が響き渡った。そのせいで聞き取れなかったことにしたかった。しかし、口の動きでその熱い言葉がわかってしまった。
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