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過去
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しおりを挟む去年父と一緒に表の道路を見下ろす庭の縁に白い板塀を作った。その板塀を背に、麦わら帽子を被りTシャツにハーフカットしたジーンズの母がホースで水撒きをしている。芝生の照り返しに眩しそうに目を細めていた。鮮やかな青、白、緑。放たれる水幕が陽光を煌かせ小さな虹を作っていた。朝の涼しい風が開いた掃き出しの窓から吹き込んで水色のカーテンの裾を揺らしていた。
「お父さん起こしたに!」
「ありがとう。あんたも支度終わったのね。美奈ちゃんは?」
「顔洗ってるだら」
なんという夢だろうか・・・。
びっしょりと寝汗をかいていた。大事な出張前には見たくない悪夢だ。おまけにミヨシさんまで出演された。最後に、由梨か・・・。
まいったな・・・。
シャワーを浴びて気分を変えよう。風呂場に行きコックを捻った。熱い湯を浴びながら、ミヨシさんと由梨はともかく、あの記憶とは死ぬまで付き合わなくてはならないのだろうかと憂鬱な気分になった。
何とかリフレッシュして脱衣所へのドアを開けると洗顔中の美奈がいた。
「Good morning おじさん。Hou are you today?」
顔を拭いているタオルの下の美少女の目が笑っていた。
慌てて扉を閉じた。
「おはよう、美奈ちゃん」
由梨の左右にはネクタイを締めた治夫と美奈がいた。由梨と同じ部活のネーム入りのTシャツを着ている。テーブルを挟んで、二人は向かい合ったシルエットになっていた。交わされている言葉は英語。美奈の得意科目だ。治夫も海外出張が多く、電話でやり取りしているのを何度も見ていた。ウィンブルドンの観客のように二人の間で交わされる会話を追うのだが、その内容が半分もわからない。
ムカつく・・・。
「おじさん。おじさんなのに、すごいね」と美奈は言った。
「いや、おじさんのはジャパニーズ・ブロークンだよ。ただ単語を並べてるだけさ。相手も同じアジアの人だし、ほとんど機械関係の専門用語だからそれで充分通じるんだ。美奈ちゃんの方が凄いよ。俺なんか比べものにならない位発音がいい。おい由梨、お前もちょっと見習えよ」
「あ、でも由梨、数学はあたしよりできるもんね」
友達ながら、できた奴だ。でも今この情況でフォローされるのは辛い。それが顔に出たのか、美奈は話題を変えた。
「・・・ところでおじさん、前から気になってたけど、あれ、何か作るの?」
美奈はリビングから見える庭の一角を指した。芝生の片隅にコンクリートブロックが並べられ、囲いができていた。
「ああ、あれね。あれは基礎。うちの奥さんね、ログハウスが欲しいって我儘言うんで作ってんの。業者に頼もうとしたらお金がもったいないって。忙しくてなかなか進まないんだけどねえ」
「面白そうだしウチらも手伝うよ。ね由梨坊」
「ウチはイヤ。手が荒れそう」
由梨は棒読みするように言った。
明らかに、何か、怒っている。
丁度いい。先刻の悪夢を笑い話にしてしまえ。
「いやー、朝方変な夢見てさー」
「なに? どんな夢」
美奈は食い入るように額を寄せて来た。
「ミヨシさんているだろう。そこのお隣の」
「あ、いつもご挨拶してる。優しそうなおばさんだよね」
「そう。ウチの会社で事務をしてもらっててね、由梨なんか赤ちゃんの頃から世話になってるんだけどね。そのミヨシさんが口から火噴いててさ」
「ええーっ?」
「そんでガスボンベが爆発しちゃってさ」
由梨を笑わせたくて話を盛った。もちろん、暗い過去は伏せて。
「俺、ポーンと飛ばされて気が付いたら目の前で牛が草モグモグしてて、見上げたら由梨がフライパン持ってた」
「なに、それー」
美奈は大きく笑った。
ところが、肝心の由梨がむっつりと押し黙ったままだった。
「・・・美奈ちゃん、ログハウス、手伝ってくれる?」
「え、いいの? 絶対やる。毎日手伝うよ」
「ありがとう。じゃあ美奈ちゃんに頼もうかな」
「じゃあやる」
由梨はやっと口を開いた。
「なんだそれ」
「・・・シャワー浴びてくる」
由梨は椅子を蹴って立ち上がり、ドスドスとリビングを立ち去った。
冷たい水が日焼けして火照った肌を冷やした。
去年の秋から、由梨は頻繁にシャワーを浴びるようになった。気持ちの昂ぶりが抑えられなくなる度にシャワーを浴びた。秋が終わり、水の冷たさが肌を刺すようになっても浴び続けた。風呂場に行ったのにボイラーの音がしないことを母に見つかり、
「あんた水浴びてるだ? 何考えてるの。風邪ひいたらどうするだ! 誰に看病させるだ」と叱られた。
それで湯に切り替えた。それなのに今度は、
「ガス代が勿体ないら。何で日に二度も三度もシャワーするだ」と叱られた。
本気でムカついた。それ以来、ずっと水一筋で我を張っていた。母の頑固はじいじ譲りだ、と思った。それならば自分の頑固に関しても亡くなった祖父や多恵子の遺伝のはずだが、それについては都合よく無視した。
父はやはり頭のいい女性が好きなのか。
母はOL時代男性社員に引けを取らないほど仕事ができたそうだ。美人で気の利く女性だ。おっぱいも大きい。美奈も才色兼備。自分を親友と慕ってくれ、さっきみたいにフォローまでしてくれる。出来たやつだ。やはり自分よりはるかにおっぱいが大きい。去年の、あの事件があってから二人の仲が急接近したように思えてならない。
美奈は頻繁に家に来るようになった。由梨との約束がなくても来た。美奈の母が父親の赴任先に行った日は必ず家に泊まるようにもなった。治夫も美奈が家に居ると普段より楽しそうにしているし、美奈の肩を抱いたり頭を撫でたりしているのを見るとその場に居たたまれなくなる。その度にシャワーを浴びて母に叱られる。
惨めだ。限りなく惨めだ・・・。
自分はこれからどうしたらいいのか。もう一年もその答えのない問いを繰り返していた。
美奈は明るく活発になった。学校では以前にも増して積極的に級友に接するようになったし、授業や部活では一際目立っていた。そしてその元気は一体どこから来るのだろうと不思議に思ったが、いつの間にか、由梨は自分が美奈の元気の源を知っていることに気付いていた。
「なんだあれ。あいつ何怒ってんだろうね」
去年のあの事件以来、由梨の思いがわかるようになっていた。しかし治夫としては妻にも美奈にもそう言って嘯いておかざるを得ない。
首にかけたタオルで汗を拭きながら、多恵子が縁側から上がってきた。
「あなた、そろそろじゃない?」
「お、そうだな」
腕時計を見て大袈裟に驚いて見せた。
多恵子が着替えのためにスリッパを鳴らして奥に入っていくと何故だかホッとした。
「そう言えばさ、こないだ美奈ちゃんのママに御挨拶したけど、元気そうだったね。パパとママ仲良くなってよかったな。ママ、今日は帰ってくるんだっけ」
「うん。まあ、前とは違うかな。顔がやらかくなったし、あたしにも優しいし」
美奈の母は夫の赴任先に頻繁に行くようになった。そういう時は美奈を預かる。最初は遠慮がちだった美奈も徐々に打ち解け、治夫や多恵子にもフランクに接することができるようになっていた。
「パパの単身赴任、いつ終わるの?」
美奈は顔を伏せたまま、両手でアイスティーのグラスを弄んでいた。
「それなんだけどね。もう当分の間は大阪から動かないみたい」
あの一件の後も父親の不在は変わっていなかった。氷点下以下だった夫婦の温度も回復基調にあるとはいえ美奈の心のケアまでは行き届いていないのだろう。だから、我が家にいるときぐらいは温かい家庭の情愛で包んでやろうと多恵子と示し合わせて来たのた。
それにあれからなるべく由梨と二人きりにならないように気を付けていた。だから美奈が居てくれる方が治夫にとっても都合がよかった。しかし由梨のために美奈を利用するようで少し気が引けた。
勉強を頑張るのは学校での居場所の確保と親の関心を引くため。相手の言うままに自分の体を易々と与えてしまうのは愛が欲しいから。常に愛情を確認できないと不安になる。
そういう彼女の依存体質のようなものはまだ完全に払拭しきれていないのではないか。恐らくは彼女の幼少期からに起因するのだろう。だから一朝一夕に改まるものではないのかも知れない。
もしかすると今、美奈の依存の対象は自分なのではないか。
あの一件以来、美奈の自分への関わりの濃度のようなものが高まるのを感じていた。それでも人として救いを求める細い手を払うことは出来ない。
治夫はそうしたジレンマの中にいた。
「ねえ、おじさん。さっき由梨が怒った理由、わかんない?」
「もうオジサンだからねえ。由梨や美奈ちゃんみたいな年頃の娘の考えてることはサッパリわからない」
仕方がない。明日出張から帰ったら由梨に何かで埋め合わせをしてやろう。
「お待たせ」
身支度を整えた多恵子が戻ってきた。
「あれ、由梨は?」
「風呂!」
そう吐き捨ててカバンを取った。
「またあ?」
多恵子もお道化た怒り顔を美奈に向けた。
「出掛けに何やってんだろ。美奈ちゃん、あんたたちもそろそろだら? 悪いけど、戸締りと由梨お願いね。美奈ちゃんがしっかりしてるから、美奈ちゃん居てくれるとおばさん安心だわ」
「はい。おじさんおばさん、いってらっしゃい」
「美奈ちゃん、だいぶ落ち着いてきたみたい。良かったじゃん」
最初の信号待ちで、ハンドルを握る多恵子がそう切り出した。冷房が苦手な多恵子のために全開にした窓から流れてくる風に乱れた髪を掻き上げた。
「そうだな」と治夫は応えた。
「あのね・・・、病院の話なんだけど」
「うん? どっちの?」
「赤ちゃんの方。やっぱり、駄目だったみたい」
「・・・そうか」
腫瘍が悪性ではないとわかると多恵子は不妊治療を再開した。
もちろん夫の側にもストレスはある。傍で言うより楽なものではない。それでも多恵子の熱意に絆されて出来うる限りの協力をして来た。
しかしここへきて、多恵子は年齢を重ねて行く焦りよりも疲れの方が上回っているような気がしていた。夫としては妻から言い出さない限り、諦めようとは言わないつもりだった。しかし妻の体を思えばそうも言ってはいられない。医師の管理下のことだから素人の治夫にはわからないが、意地になって続け心を病むようなら、そろそろ自分が説得しなければならない。
多恵子ももう三十八才だ。経産婦だから多少は有利だが、仮に妊娠できたとしても高齢出産のリスクを意識しなければならない歳にもなっていた。それに今は良性だが腫瘍の行方も気にかかる。
「まだ、続ける?」治夫は訊いた。
「あと少し、頑張りたい。ごめんね、出張の前なのに。ここんとこあなた忙しくて夜いなかったし、最近由梨もあなたにベッタリだからなかなか家では言えんかったもんで・・・。知らせるの遅くなっちゃった」
舌を出して無理に笑う妻。できることなら出張などしたくはなかった。切なさを覚えた。
駅で妻の車を見送った。プラットフォームに上がり、治夫と同じく出張に向かうのだろう、スーツの列の後ろに並んだ。
独りになると由梨を想う。
確かに表面的には自然な会話が戻り、笑顔が増えたように見える。普通に怒って駄々をこねたり、部活で疲れて帰って来て治夫や多恵子にあたったりもする。いたって普通の反応を、家族三人の時にはするようになった。
だが治夫からすれば、むしろ由梨はベッタリどころかおどおどしているように見える。あの美奈の一件以来ずっとそれが続いているのだ。多恵子がその場に居ればいいが、二人きりになると身を固くし、振り向いて返事はするものの吃ったり時には急に涙ぐんだりして治夫を困惑させた。
小学生の頃のように無条件に甘えてくることはなくなっていた。ただ、その認識を多恵子と共有することを憚り、口にはしていない。もし口にすれば、多恵子から決定的な言葉が出てしまうのではないか。それを恐れた。
「もしかして、由梨はあなたのことを異性として意識してるんじゃないの?」
それが多恵子のストレスになり不妊の遠因になっているとしたら・・・。
通過するのぞみの爆風と轟音が治夫の心を煽った。
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