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 由梨を自宅に連れ帰った。少し話をしたかったが何も言わずに部屋に逃げ込まれてしまった。もう一度きちんと褒めてやりたかった。が、仕方がない。
 出社していくつかの業務をこなした後、その足でもうひとつの後始末をした。
 長距離トラックの運転手をしている達也の父親は運良く在宅していた。同じ区内で祭りや自治会でよく顔を合わせていたから知っていた。
 玄関に出て来た父親に、娘から聞いたのだがと浜松でのことを話した。由梨がショックを受けていたので美奈と両親に確認したところ、一緒にいた男性は美奈の叔父で外出も親公認だったことがわかった。達也君もそんな遅い時間に繁華街にいたことが学校に知れれば問題になるし、しかも確たる証拠も無く、事実無根の話を広めたりするとなれば民事では済まない可能性もあることを遠回しに言い含めた。
 達也の父親はすぐに息子を呼んで質した。達也は素直に認めた。
 達也の告白が事実であることを知っていたから多少の良心の呵責はあった。しかし達也の方も美奈の口止めに乗ろうとしている時点で非はある。これで相殺だと自分を納得させた。これで美奈の事も達也の非行も表沙汰になることはないだろう。大事なのは事実の追求ではなく事態の鎮静化なのだ。子供達の大切な将来を守ることなのだ。
 ひとまずは落着、と帰宅した。
 由梨は変わらず部屋に籠ったままだった。少し落胆したが、無理もないかもしれないと思いそっとしておいた。
 その夜遅く、美奈の父親の訪問を受けた。赴任先から急遽帰宅したという。あの派手な化粧を落として憔悴しきった母親を伴っていた。
 父親は手数への礼と謝罪、美奈を病院へ連れて行き検査を受けさせたこと、今後の法的な対応などを治夫に伝えた。治夫もまた差し出がましいことをと頭を下げた。これで美奈の方も収まるだろう。とりあえずはほっと胸を撫で下ろした。
 明くる土曜日も、部活にこそ出掛けていったものの、由梨は口を利いてはくれなかった。昼過ぎに一度自宅に戻るとやはり自室に籠ったままだった。美奈の家でのやりとり以来、一度も話をしていない。食事も一緒に摂ってはくれなかった。
 雪解けはまだ遠かったのだろうか。それとも、親友の行為がよほどショックだったのだろうか。
「由梨」
 二階に上がりドア越しに呼びかけた。返事はなかった。沈黙に無力感を覚えた。多恵子に病院に来させてと言われていたのを思い出し、そう付け加えた。やはり返事はなかった。


 電車とバスを乗り継いで一人で母の病室を訪ねた。母に会うのは気が重かった。
 母は二人部屋の手前のベッドで本を読んでいた。由梨を認めるや穏やかな笑顔を浮かべ、お昼は? と訊きながら傍らの椅子を勧めてくれた。持って来た寝巻の入った紙袋を母に渡した。
「家でテキトーに食べてきた」と由梨は答えた。
「わざわざ、ありがとね。ちょうど良かった。さっき検査終わったの。最近の病院って土曜も検査してくれるんだよ。由梨は、大丈夫?」
 そう言いながら母はサイドテーブルの中から湯呑を取り出した。
 隣のベッドの人は談話室にでも行っているのだろう。土曜の午後なのに病棟は意外に静かだった。電熱ポットから流れ出すお湯の音が強張った気持ちを和ませた。
「大変だったね。美奈ちゃん、もう落ち着いただかね」
 アルミの小さな急須から茶を注ぎ、母は小さくそういった。
「でも、お父さん、由梨のこと褒めてたよ。さすが俺の娘だって」
 母の明るい声に、うんと頷いただけで何も言わずにいると湯のみを渡され、ねえ由梨と悪戯そうな目で呼びかけられた。
「お父さん、どうだった?」
「どうって?」俯いたままで訊き返した。
「美奈ちゃんちで、どうだった? お父さん、肝心な事教えてくれへんもんで」
「別に。普通」
 少し熱いお茶を冷ましながら由梨は素っ気なく答えた。
 父は立派な頼れる大人の男だった。
 親友の危機に途方に暮れていた由梨を助けてくれた。嬉しかった。
 本当は素直にそう伝えたいのに、言えなかった。
 二人の見つめ合う姿。あの絡みつくような艶めかしい視線。あんな目をする美奈を由梨は初めて見た。エッチをするとああいう目になるのだろうか。本来なら傷ついた親友を思うべきなのに。気が狂いそうになっている自分が嫌だった。こういうのを「嫉妬」というのだろうか。
 そうなのだ。
 由梨は気付いてしまっていた。
 家族として、肉親としてではなく、父を気になる異性として見ている自分に。だからまともに父の顔が見られない。話が出来なかったのだ。目の前の母にも、気が咎めていた。
「そう・・・。見たかったやあ。あのお父さんがねえ。
 でも、あれねえ。美奈ちゃん、しっかりした子だねえ。子は鎹って言うけど」
「こわかすがい?」
 笑いながら、もっと近くに来なさいと母は言った。渋々椅子をベッドに寄せた。母は由梨の手を取り頭を撫でた。久しぶりに触れた母の手は柔らかくて温かくて、少し小さくなったような気がした。このところ何となく距離を置いていた母に身を寄せ、小さなころのように甘えた。
 やはり美奈のこの事件は自分には刺激が強すぎたのだ。それをわかって優しくしてくれているのだ。母の気持ちが嬉しかった。素直に母に抱かれた。
「ねえ、由梨。お母さん、お父さんと会えて、結婚できて、本当に良かったと思ってる。お父さんはあんたを全力で守ってくれる。何があっても。お父さんね、お母さんと由梨のこん大好きなの。これでよくわかったら?
 それだけは絶対に変わらない。どんなことがあっても。お父さんは由梨を絶対に裏切らない。あんたのお父さんは世界で一番立派な男だもんでね」
「どうしただ? 何突然」
 突然の母の言葉に気恥ずかしさを装った。
 廊下を夕餉の配膳カートが通り過ぎた。甘い香りがひととき、薬品の匂いの染みついた病院という冷たい空間に和みをもたらした。
「由梨、あのね・・・」
 なに、と顔を上げて先を促した。そこへ丁度隣のベッドの初老の女性が戻ってきた。彼女の会釈に多恵子も返した。
「やっぱり、いいわ。また今度話しよ。あんたの顔見てお母さんも安心したし」
「なに、気になるじゃん。言ってや」
「どうせ明後日退院するから。それから家でゆっくり話せばいいし。ね?」
 誤魔化されたように病室を追い出された。
 でも本当はホッとしていた。
 帰りの電車。向かいのベンチシートには幸せそうなカップルが座っていた。土曜の夕方だ。浜松あたりでデートを楽しんで来た帰りなのだろう。慌ててカップルから目を背けた。
 美奈のこの一件で初めて自分の本当の気持ちを知った。父に強く抱きしめられて、体中の力が抜けた。もう一度、いやできることなら毎日、父に思い切り抱きしめられたい。治夫の胸の中で抱きしめられて眠りたい。
 それはもはやはっきりとある一つの形を作っていた。この気持ちを、人は「愛している」というのだろうか。父親にこんな感情を持っていることが悪い事だというのはわかっていた。それでもどうしても止めることができない。治夫と顔を合わせるのが辛い。
 これから自分はどうしたらいいのだろう。


 金曜日の余波で休日出勤を余儀なくされた。客先から直接病室に寄るつもりだった。午前中で終わるはずが長引き、おまけに東名が事故で渋滞になり浜松の手前で面会時間が過ぎてしまった。仕方なくサービスエリアに入りメールを入れた。電話はすぐに掛かって来た。
「ごめん。今日は無理だわ」
「お疲れ様。いいよ、無理しなくても。検査も終わったし。多分予定通り月曜日退院できるよ」
「そうか。それは良かった」
「昼間由梨も来たしね。元気そうで安心したよ。いろいろ大変だったら。ありがとうね」
「そうか・・・うん、まあ。検査もしんどいのに心配かけちまったな」
 妻の声を聴いて少し気分が和んだ。
「由梨はね、大丈夫だに」と多恵子は言った。
「あの子ネンネだもんでショックだっただけだら。親御さんがそんなんで、友達が中学一年生で、だもんねえ。美奈ちゃんち、ご夫婦で来ただって?」
「おう。ビックリしたんだろうよきっと。奥さんと娘がそんなになってたなんて知ればなあ」
「やり直すんだよね」
「揃って頭下げてたからやり直すだろ、勿論。美奈ちゃんがいるしな。で一応、こっちも頭下げといたよ。出過ぎた真似でした、失礼申し上げました、ってさ」
「よくできました」
 電話の向こうから拍手が聞こえた。
「美奈ちゃんの様子、どうだった?」
「うん。やっぱり相当飢えてたんだと思うよ、愛情に。『ギュッとしてもらっていいですか』なんて、言われちまった」
「それで?」
「抱っこしてやったさ、もちろん」
「ふ~ん・・・」
「おいおい。変な意味じゃないぞ。父親代わりって言うかさ」
「当たり前でしょ。何動揺してんの。そうじゃなくて、その時由梨はどうしてただ?」
「寝てた」とありのままを言った。
「う~ん」
 多恵子がしばし沈黙してしまったことで、治夫は妻の言わんとするところが判った。そういう話なら、これ以上その話題に深入りしたくない。
「あのさー、前から思ってただけど、あの子のアレは反抗期ってだけじゃないんじゃないかや」
 妻の言葉が終わらないうちに口を開いた。
「わかってるよ。本当は甘えたいんだ、俺に」
「・・・うん?」
「俺も甘えたい」
 多恵子は小さく反応しもう一度「うん」と応えた。こんな小細工じみた演技ができる自分に驚いた。俺はいつの間にこんなに小狡くなったのだ。
 サービスエリアを出た。渋滞は解消していた。
 昨日の朝、戻ってきた娘を抱き締めた時、それが電光のように治夫の体を駆け抜けた。その頼りなげで切なさそうな瞳に、多恵子と初めて結ばれた夜と同様の、いや、それ以上の感情を持ってしまっているのを知った。
 しかし、その思いは胸の奥深くに封印し忘却せねばならない。ハンドルを握る両手に力を込めた。
 ガレージに車を収め、重い足取りで玄関のドアを開けると治夫の好きなビーフシチューの匂いがホールまで漂っていた。
「お父さんお帰り。先、お風呂にするだ?」
 Tシャツにエプロン姿の由梨に出迎えられた。朝方無表情に部活に出かけて行ったときとは別人のような、以前のような快活で愛くるしい笑顔に戻っていた。
 しかし、何かが引っかかっていた。ニコニコ笑う娘の手料理を前にしても、それが何か、どうしても思い至らなかった。
 数日ぶりに家族三人がそろった朝、由梨に誘われて玄関の前に立った。
「えーっ、美容院にも行ってないし。どうせなら入学式で着たスーツ着て撮りたいよ」
「いいのいいの。ホラ、お父さんも」
 治夫も出勤前の作業着のまま強引にTシャツにジーンズ姿の多恵子と並ばされた。デジタルカメラのタイマーをセットした由梨が前に立ち、自分の体の前に二人の手を引き寄せて押さえた。半年遅れの入学記念の写真。もちろん、由梨のセーラー服は夏服だった。
「はい。これでよしと。お父さん、あのさ、今度の休みさ、また釣り連れてってや」と由梨は言った。
 やっと気がついた。
 ほぼ一年ぶりに「お父さん」と呼ばれていた。
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