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 娘たちを後部座席に乗せ美奈の家に向かった。敢て自分の車ではなく営業用のバンを選んだ。公私混同だが、これなら目立たたない。
 地中海風の意匠を凝らした美奈の家にはすぐに着いた。家の前に停車した。
「美奈ちゃん、どう?」
「まだだと思う。カーテン開いてない」
「どうするだ。家の中で待つ?」
 由梨はシートから身を乗り出して尋ねた。
「いや。親御さんがお留守の家に勝手に上がることは出来ない。俺に考えがあるんだ。外で待とう」
 そのまま家の前を通り過ぎ、五十メートルほど走って雑草の生い茂った休耕田の傍に車を停めバックミラーで家を監視した。タクシーで帰ってくるのかも知れないが、運が良ければ相手の男を確認できるかもしれない。
「なんかさ、刑事ドラマの張り込みみたいじゃね?」
 由梨は妙に興奮していた。
「おい。あまり動くな」
 平日の午前中。人の姿も見えない。農作業に向かう軽トラックが一台通り過ぎただけだ。運転する老人が怪訝そうにジロジロとこちらを見ていた。三人は無言でやり過ごした。
 じりじりと時間が経った。
 九時半を回った頃、低いエンジン音が響いてきた。サイドミラーに視線を移した。黒い車高の低いスポーツ車がみるみる近づいて来るのが見えた。
「来たか」
 娘たちは身を屈め、目だけシートの上に出して後ろを見た。車は美奈の家の前で停まった。治夫も振り向いた。運転席と助手席の人物がはっきりと見えた。向かって右側の助手席の女が運転席に身を乗り出して男性の顔に重なった。
「あちゃー・・・」
 由梨が目を覆った。美奈は無言のまましっかりとそれを見ていた。頬がわなわなと震えていた。唇を、血の出るほどきつく噛んでいた。
 その後女はドアを開けて車を降りた。
「よし。お前ら、行くぞ」
 三人は車を降りた。バンバン。大きな音を立ててドアを閉めた。まるで犯人宅前で張り込みしていた刑事のように、大股で美奈の家に向かって歩き出した。黒い車は治夫たちに気付いて猛スピードで走り去った。
 手を振りながら車を見送ろうとしていた美奈の母はたちまち硬直した。
「ママ!」
 美奈が叫んだ。
「奥さん。お早うございます。いや、もう、こんにちは、ですかね」
 崩れかけた濃い化粧。髪はセットが乱れ首には派手なネックレスがジャラジャラとぶら下がり薄地の紫色の短いワンピースの裾は乱れてガーターベルトで留めるストッキングの上端が見えていた。到底仕事に赴くためのものとは言えなかった。治夫と同年代、四十周辺の中年女性として惨めとしか言いようのない姿だった。
「奥さん。今の車の方、ご主人じゃありませんでしたね」
 美奈の母親は付け睫毛が片方取れた瞼を忙しく瞬かせながら「え、えっ」と動揺するばかりだった。
「何度も電話していたんですが」
「あ、あれです。パートの、懇親会で。つい飲み過ぎちゃって。他の女性の同僚さんたちと一緒で。今会社の方に順番で送ってもらってて・・・」
 特に「女性の」を強調しながら、彼女は聞いてもいないことを早口で捲し立てた。
「ほーお、そうですかあ。でもあの車、ツーシーターでしたね。他の同僚さん方は屋根とかトランクにでも乗ってたんでしょうか。映画みたいですね。それに平日の午前中まで飲んで騒げるなんていい会社ですね。アレですか。奥さんの会社は社員とパートさんとの間でよくキスなさるんですか。この子たち、バッチリ見てましたけど」
「えっ、えっ、違うんですよ。やだ・・・」
 これは、酷い・・・。
 ある程度予想はしていたが、美奈の母が完全に浮気相手に呆けているのは間違いない。その風体だけでも既に犯行は覆い難い。もうまともな判断もできないのだろう。現実に状況を目の当たりにすると戦慄を禁じ得ない。他人がそう思うくらいだから、さぞかし美奈には酷だろう。
「奥さん、もういいです。美奈ちゃん全部知ってます。そんなことより、今日金曜日ですよね。学校がありますよね。それなのに何故ここにあなたのお嬢さんとうちの娘がいるのか、気にならないんですか。ご報告することがあってお邪魔したんです。上がらせていただいていいですか?」
 母親は焦って何度かカギを取り落とした。ドアを開き三人を招き入れた。
 小奇麗な外観とは裏腹に、玄関は女物の靴で散乱し、三和土と廊下の隅にはうっすらと埃が溜まっていた。家の奥からは生ゴミの匂いさえ漂ってきた。
 慌てて家の中に駆け込む母親を追って美奈が、由梨が続き、その後について入った。
 カーテンが閉じられたままの薄暗い室内。床には母親の物だろう衣類が脱ぎ散らかされていた。黒や原色の肌着まであるのには思わず目を背けた。母親が必死になってそれらを拾い集め、ぽろぽろ取り落とすのを美奈は冷たく見下ろしていた。
 大きなプラズマTVセットのあるリビングに通され、勧められるままソファーに座った。お茶を用意しようとしているらしい。慌てているらしく何度も大きな物音がした。
 治夫は怒鳴った。
「奥さん、お構いなく。こちらへお願いします。事は急を要するんです!」
 ハイッと甲高い悲鳴のような返事があり、飛んできて治夫の前の絨毯に膝を着いた。
 美奈は母親の横で膝を抱えた。並んだのではなく、母親の顔が見える斜め前に陣取った。母親は落ち着かなげにワンピースの裾を気にしたりベルトを弄ったりしながら、いやだ、まあ、違うんです、などと繰り返していた。
 偶然とはいえ、奇妙なものだ。
 かつて自分がされた不倫の情景が目の前の現実にオーバーラップした。
 律子が美奈の母親と重なり、ともすると感情的になって彼女を不必要に攻撃してしまいたくなる衝動を抑えかねた。だが目的は美奈の救済にある。親の裏切りの最大の犠牲者は子供なのだ。それは治夫が一番よく知っていた。逸る自分を諫めた。
「奥さん。私はあなたの乱れた私生活を糾弾するために来たんじゃありません」
 治夫の一言でそれまで悪事を暴かれて動揺していた彼女の態度が、急変した。
「乱れてるですって。突然来ておいて失礼じゃありませんか。どうして私ばっかり責めるんですか。何年も主人に放って置かれて。うちはまるで母子家庭です。たまに息抜きするのに何故他人のあなたから非難されなくちゃいけないんですかっ!」
 狂ったように捲し立てる美奈の母を蔑むように見下ろした。
「落ち着いて下さい。今日伺ったのは美奈ちゃんに重大な事態が起こったのでその御報告をするためなのです」
 漸く母親は静かになった。
「美奈の? 美奈が何か・・・」
 治夫は何も加えず何も伏せず、知り得たことを理路整然と話した。
 
 由梨は恐ろしくなった。これは自分が思っていた以上に深刻で重大な事件だったのだ。それは美奈も同じだったようだ。彼女は自分や治夫に打ち明けた時のように膝に頭を埋め震えてさえいた。席を立って美奈に寄り添い、背中を撫でてやった。
「以上が私が美奈ちゃんと娘から聞いた全てです。美奈ちゃんのスマートフォンを預かっています。彼女の話はこれで確認できました」
 さっきまで蒼白だった母親は、今度は頬を紅潮させて怒鳴り始めた。
「何てこと・・・。何てことしたの美奈! どうして? こっち向きなさい、恥ずかしい!」
 怒りを爆発させ娘の髪を掴もうとする母親の前に由梨は立ちふさがった。彼女の腕を掴んで捩じ上げた。
「痛い! 痛いじゃないの。ちょっと、何するの!」
 由梨は傲然と言い放った。
「やめなよ、おばさん! 全部おばさんのせいじゃんね。恥ずかしいのはおばさんの方じゃん!」
「松任さん。お宅はどういう教育なさってるんですかっ! この子何とかして下さい」
 治夫は珍しいものでも見るような目で母親を見下ろした。
「どういうも何も・・・、ウチの娘は何も間違ってませんよ。言っていることも、今していることも。一つも間違ってない。私の自慢の娘です」
 自慢の娘。
 そう、父は言った。
 そうだ。誰が何と言おうと自分はこの父の、松任治夫の娘だ。由梨はそう胸に刻み込んだ。ジンと熱くなった。そしてこの一年余りの不孝を心の中で詫びた。
「奥さん、まだわからないんですか。奥さんじゃ話にならない。ご主人にすぐ電話して下さい。先ほども言った通り、事は一刻を争うんですよ」
「なんで主人に? 主人に私のことを云いつけるつもりですかっ!」
 ダメだ、こりゃ。
 美奈のママは下らない大人だ。
 この期に及んでも自己保身にしか気の向かない美奈の母親に、由梨は心底軽蔑を感じ、落胆した。
「由梨、もういい。放してあげなさい」
 父は由梨を制すると、こう続けた。
「奥さん、いいですか? あなたが今するべきことはまず第一に一刻も早く美奈ちゃんを婦人科なりに連れて行って検査を受けさせることです。メール履歴など見ましたが少なくとも十四五人の不特定の男性と性交渉をしているんです。しかも相手の男性たちも常習的にそうした行為をしていると思われます。美奈ちゃんが性病や、もっと酷い感染症に罹っている可能性があります。
第二に、写真を撮られている可能性を否定できません。このスマートフォンを解析して弁護士を雇うなりして出来る限り相手を特定して個別に交渉し、流出などの収拾不可能な重大事になる前にしかるべく対応する必要があります。
そして第三に、これが最も重要ですが、美奈ちゃんは今、深い心の傷を負っているんです」
 父は優しく美奈を見下ろし、なおも続けた。
「将来にも大きく影響しかねないものです。心療内科なりに診せるべきですが、まずあなた方ご夫婦がすぐに不埒を止め、普通の家庭に戻して美奈ちゃんをケアしてあげなくては。
 それなのに、自分のことは棚に上げて美奈ちゃんを責めるなんて筋違いも甚だしい。由梨の言う通り、あなた方ご夫婦が美奈ちゃんをここまで追い込んだんですよ。少しは恥を知りなさい!」
「でも・・・。主人に・・・、主人に話せば私たちはもう終わりです。離婚です。そうなったら・・・」
 母親は蹲って肩を震わせた。
 治夫はしばらくじっと母親を見下ろしていたが、やがて立ち上がり彼女の前に膝をついた。
「奥さん。じゃあこうしましょう。
 私たちに美奈ちゃんを下さい」
 母親は驚いて顔を上げた。
「何を言ってるんです。そんなバカな事・・・」
「今、私の妻は不妊治療を受けています。由梨が一人じゃかわいそうだ、何とかもう一人と。もう治療を始めて十年近く経ちます。ご存知かどうかわかりませんが、この治療は苦しいものです。気丈な質ですが、それでも妻は時々辛くて泣いています。それでも、どうしても子供が、由梨の兄弟が欲しくて耐えているんです。もし美奈ちゃんがウチに来てくれると知れば妻は大喜びすると思います。
 娘の苦境を知っても自分の事で精一杯。ただ怒るだけで助けようともしない。そんなの、親じゃないでしょう。私たちなら十分この問題に対応できます。由梨に注いできたのと同じ愛情で立派に美奈ちゃんをケアし育て上げてみせます。美奈ちゃんを由梨と共に世界一幸せにします。あなたはどうぞさっきの浮気相手さんと好きなだけ遊んでてください。
 さ、話は決った。美奈ちゃん、由梨、帰るぞ」
 治夫は立ち上がった。その足に美奈の母が縋りついた。
「待って下さい!」
 母親は泣いていた。紫の爪で治夫のスラックスに掴り放そうとしなかった。
 気が動転しているのだろう。冷静になれば赤の他人である治夫がそう易々と自分の子供を連れ去れるわけがないことぐらいわかるはずだ。気の毒に感じはしたが、ここは一気に畳み込むしかない。縋る母親にわざと冷たい視線を浴びせ続けた。
「そんなことしたらウチの家族はバラバラになるじゃないですか!」
「もう既にバラバラでしょう。人として、人の親として、美奈ちゃんをこのままにしておくことはできません。連れて帰ります。
 美奈。お前は今日からウチの娘だ。一緒に来なさい」
 そして美奈の手を取った。まるで白雪姫に求婚する王子様みたいだった。美奈も逆らわず立ち上がった。
 マジ? ホントに? 見ている由梨のほうがハラハラした。
「やめて! 娘を連れて行かないで! 美奈はうちの、私の娘ですっ!」
 マスカラが溶け落ち、半狂乱になりながらなおも母親は治夫に取り付いた。
「おじさん・・・」
 それまで黙っていた美奈が初めて口を開いた。
「どうした、美奈」
 美奈の肩に手を置いた。美奈はその手に愛おしそうに頬を寄せた。
「嬉しかった。今まで生きてて一番。嬉しくてドキドキしてるくらいだもん。あたしずっと由梨が羨ましかったから。もし生まれ変わったらおじさんちの子になりたいなってずっと思ってたから」
「美奈!」
 その言葉に驚いた母親がぐちゃぐちゃの顔で娘を見上げた。
「でもね、こんな人でも、あたしにはたった一人のママなんだ。もしあたしがおじさんちの子になっちゃったら、多分ママ駄目んなる。それは、なんか、イヤなんだ」
 治夫は温かく美奈を見守った。
「パパにはあたしが電話する。全部話す。だからお願い。この人を、ママを許してあげて」
「うわあああああんっ!」
 美奈の母はその場に頽れ、文字通り号泣した。娘はそっと母に寄り添い、その肩を抱いた。
 訳がわからない。
 由梨もまたその場にへたり込んだ。そして父を見上げた。父は不思議な微笑みを浮かべて美奈を見下ろしていた。美奈も、それまでに見た事もないような熱い眼差しで父を見上げていた。
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