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過去
27 過去
しおりを挟む驚き、混乱し、戦慄した。
話の間、首筋の痣がチリチリと痛み、奥底から沸き上がる不快な蠢きを抑えるのに苦労した。だがそれを露わにすれば子供たちを余計に動揺させる。途中から目を閉じた。悟られないよう最後まで黙って目を瞑り耳を傾けた。
話し終わりホッとしたのだろう、空腹を訴える二人を風呂にいれ、お粥を作って食べさせた。二人はほどなく眠った。
多恵子へメールを送った。眠れなかったのだろう、すぐに電話してきた。簡潔に状況だけを話した。
「ありがとう。・・・よかった・・・」
妻は深い安堵の溜息を洩らした。
「二人とも、大丈夫なのね。・・・そう。美奈ちゃんの家、そんなになってたんだ」
「俺も驚いた。でも、何とかしてやらないと」
「そうだね。美奈ちゃんのこと頼みます。何も出来なくてごめんね。でも、信じて正解だったら? 由梨はあなたの娘だもの」
結果論ではある。が、大事にしなくて良かった。警察などに連絡していたら由梨はともかく、美奈の心は回復不能の傷を負っていたかもしれない。母親とは偉大なものだ。
「落ち着いたら、由梨を来させて」と妻は言った。
「もう切るね。あんまり病室出て歩くと看護婦さんに叱られちゃうから。あなた、ありがとう。おやすみなさい」
由梨は大きく口を開けてソファーの背に凭れ、美奈は由梨の肩に頭を載せ腕にしっかりとつかまっていた。娘たちの寝顔を眺め、毛布を掛けた。
矢継ぎ早に必要な電話を掛け、メールをした。学校へも適当に作り話をした。体調を崩してしまっているので今日は休ませたいと言った。もちろん美奈の事には触れなかった。
ミヨシさんにも電話をした。
彼女は受話器の向こうで大きく溜息をつき、お大事にと言ってくれた。
「良かったっけやあ。もう孫みたいなもんだでさあ・・・」
美奈の自宅にも何度目かの電話をした。やはりまだ母親は帰宅していなかった。
治夫の中の沸々と沸き上がる不快な蠢きは激しい憤怒に変わっていた。わずか十三歳の少女をここまで貶めた罪を憎んだ。眠っている少女にかつての自分を重ね深い憐れみと同情を禁じえなかった。
そこでふと、ある疑問が治夫を捉えた。
多恵子や今の美奈のような境遇に遭遇する度に治夫の痣は感応し、疼き、痛んだ。
ところが、由梨には痣や奥底の蠢きを感じたことが一度もない。
これは一体どうしたことなのだろう。
自分は何か禍々しいものを放出しながら生きて来たのではないか。長い間、そんな思いを抱え続けて来た。いつもどこかに負い目を、引け目を感じていた。
物心ついてから、最初の結婚が破綻し故郷を捨てて静岡に来るまでのこと。父と弟を失い、最初の妻と息子を失い、母に死なれた。
一方、由梨と多恵子、三人で共に暮らして来たこの年月とを顧みた。再婚して早々に義父を失ったが、それまでの時間とは比べようもないほど満たされたのは事実だ。
もしかすると由梨は、治夫にとってある種の吸収材や防護材のような役割を果たしているのではないだろうか。電磁波を吸収するコンクリートや鉛のように、原子炉の中の核燃料から放出される中性子を減速し核反応を制御する水のように。どうも、理系一筋に生きて来たからか、我ながら色気のない想像だと思う。だがしかし、そう考えると何もかもがしっくりと整合する。
もちろん、由梨はそんなことは知らない。
由梨の口の端から涎が流れているのを手の甲で拭ってやった。娘は可愛く鼻を鳴らした。熱い思いが止めどもなく溢れ出た。
親友の危機に矢も楯もたまらずに駆け出して行った娘。不埒を憎む心を持ち、事の重大さに怯みかけても耐え、自分を親として頼ってくれた。心の奥底で信頼してくれていた。
もし由梨に出会わなければどうなっていたろう。他人と無用の軋轢を繰り返し疲れ果てていたかもしれないし、そもそも多恵子と結婚することもなかったかも知れない。
あえて仮説の立証はしない。この温かな疑問は死ぬまで持ち続けたい。遠からず、いつか由梨は自分の足で世に出て行くだろう。その時疑問は自ずから明らかになるはずだ。そして、たとえ離れても由梨の持つその「効果」は維持されてゆくだろうという気がした。その日が来るのが怖いような、嬉しいような、不思議な感情が湧いた。
美奈から預かったスマートフォンを確認していると、セットしておいたアラームが鳴った。八時半だ。うまい具合に美奈が先に目を覚ました。子供らしくむずがって大きな伸びをし、周りを見回して目が合った。
「あ」
眠気眼を擦る美奈と目が合った。
「おはよう。体、どう? 眠れたかい」
カーテンを開けた。既に高く上がった日差しが目を射た。美奈も目を瞬かせ、まだ少し湿り気の残る長い髪を手でかき上げながら覚醒までの過程を踏んでいた。
再びキッチンに立ち二人のために牛乳を注いだ。前夜までの記憶を反芻したのか、美奈は片手を額に当てて呟くように言った。
「ごめんなさい。あたし・・・」
「美奈ちゃん」
治夫は静かに強く呼びかけた。
「もう、止めるんだ。謝らなくていい。美奈ちゃんはちっとも悪くない」
美奈の傍に座り、カップをその手に持たせた。彼女は促されるまま一口飲んだ。カップを受け取り、そのまだ幼い白い手を握った。
「いいかい?」
頼りなげに瞳を潤ませている美奈の手を擦りながら、続けた。
「美奈ちゃんは強い子だ。でも、強い子過ぎて今まで誰にも打ち明けられずに、心の中に溜め込んでいたんだね。苦しかったろうね。本当に辛かったね。でももう頑張らなくていい。全部おじさんに任せなさい。いいね?」
少女は素直に頷き、掌で涙を拭いた。
「よし。じゃあ、これからのことを説明するよ。本当に辛かったね。だけどこれを解決するにはどうしてももう一度美奈ちゃんのお母さんに話して聞かせる必要がある。わかるね。おじさんだけがお母さんに会って話してもいいんだけど、その席に美奈ちゃんがいるほうがお母さん、話を聞いてくれると思うんだ。一緒に行ってもらえるかな」
それでどうなるかは正直言って治夫にもわからない。美奈の話が本当なら、不倫に狂っている母親が美奈の話にどの程度関心を持つのかまったく予想はつかなかった。それでも、このプロセスを抜いては前に進まない。
「大丈夫です。あたしもママに言いたい。あたしから、話したい」
健気な子だ。美奈の真直ぐな瞳を見て安堵した。
「おじさん。いっこだけ、お願いがあるんだけど・・・」
「何かな。遠慮しないで言ってごらん」
「ギュッとして。さっき、由梨にしてたみたいに。そうすれば、もっと元気出る」
目頭が熱くなった。
「おいで」
まだ寝ている由梨を気にしてから美奈は治夫に抱きついた。
この、まだ大人になりきっていないか細い体のどこにそんな力があるのか。そう思うほどの少女の強い抱擁がまたも痣を疼かせた。
この子にも由梨と同じ幸せを受ける権利はある。美奈の頭を撫でながら、治夫はそう思わざるを得ない。
「元気出た。ありがと。おじさん、大好き」
そう言って、美少女は僅かにはにかんだ。
世間一般で言う何の変哲もない中年男だ。まだ十台の美少女からそんな言葉を吐かれれば動揺するか、舞い上がるか、娘の友達だから娘と同様に好ましく思うか、自分の立場を気にしてヤバいと引くか。
治夫はそのどれでもあり、どれでもなかった。
それはなぜだろう。
「さあ、早速支度しよう。顔洗っておいで」
由梨はまだ寝ていた。幸せな娘だ。幸せな娘でいてくれることに感謝した。
「おい、起きろ。作戦開始だ」
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