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受付で清算を済ませ、薄暗い待合室のソファーで一人、窓際のカラフルなオイルタイマーの不思議に流動する動きを見ていた。
「ありがとうございました」
診察室のドアの灯りが廊下に射した。多恵子が春色のウィンドブレーカーを羽織りながら出てきて診察室の中に向かって頭を下げていた。
「紹介状もらっちゃった」
治夫は無言で妻の背中に手を添えその小さな内科医院を出た。二人の退出を待っていたかのように、背後で待合室の灯りが消えた。
「由梨は?」
助手席に乗り込むや多恵子が口を開いた。
「カレー作って来た。食うかどうか、わからんけど」
ヘッドライトを曳いて走る車をニ三台見送り公道へ出た。もう七時を回っていたが、空はまだ薄明るく、帰り道のはるか向こうに南アルプスの稜線が見えた。
「まったく。頑固だよ、由梨も、お前も。そっくりだ」
「ごめんなさい」
「頑固で、意地っ張りでさ・・・」
治夫の出張中に何度か気分が悪くなり微熱も出た。事務所でも貧血を起こしかけたという。出張から帰って来てはじめてそれを聞き、急いで医者に見せた。
胃癌の疑いがある。先刻、多恵子と一緒に診察の結果を聞き眩暈がした。数年前に義父をやはり癌で喪っていた。
事務所の他の二人に口止めまでしていた。そのことで二人には謝られた。絶対に言わないでって言われたもんで。ミヨシさんは気の毒なほどに弁解し、幸恵は涙ぐんでさえいた。
「ミヨシさんやさっちゃんにも気を遣わせてさ。謝っといたけどさ。とにかく、」
赤信号で止まった。フロントグラスに細かな水滴が落ちて来た。ワイパーで払うと街の灯りが滲んだ。
「もう由梨にも話さなきゃな。これ以上内緒にはできない。検査入院だって、立派な入院なんだから。いろいろ、しばらくお預けだな。とりあえずは検査の結果が出るまで大人しくしてるしかないだろ」
「いろいろって、仕事と子作り?」
「当たり前だろ! それ以外に何がある。状況考えろよ」
自分の仕事に支障をきたしてはと考えての事だろう。あまり責めるのも可哀そうだ。そう思ってはいてもつい、口調が荒くなるのを抑えかねた。
「・・・ごめんなさい」
信号が青になった。
「でも、嬉しかった」と多恵子は言った。
「あなたがそんなに怒るの、初めてだもん」
「お義父さんに約束したんだ。必ず多恵子と由梨を幸せにしますって」
「ありがとう。あなた」。
死の床でわざわざ多恵子を遠ざけて言われた義父のその言葉だけは死ぬまで多恵子に言うつもりはなかった。
「こんな傷物の娘を・・・。申し訳ないが、どうか、頼みます」
あの弱弱しい涙ながらの義父の言葉が治夫の心に残っていた。
夏休みに入ると祭りの準備が始まる。
夕方になると小学生が近所の公民館に集まって踊りや太鼓の練習をする。祭り当日は屋台と呼ばれる山車を曳き、それに乗って太鼓を叩いて練り歩き、辻々で踊りを披露するのだ。昔に比べ子供が少なくなっているから中学生にも出番がある。由梨は小さい頃から年に一度のこの祭りが大好きだった。
一つ気がかりなのは、同じ地区だから達也とも顔を合わせることだった。仕方がない。面倒だが、美奈から言われた通り無視するに限る。
部活が終わり、その足で公民館に寄った。
とんとことんとん、とんとことんとん・・・。
「屋台下」と呼ばれる山車を曳き回す時のスタンダードのフレーズ。その太鼓の音が聞こえて来た。既に小学生達が太鼓の練習を始めているのだ。由梨たちもかつて小学生の時にこれを叩いた。これを聞くといよいよお祭りだと子供たちは浮き立つ。
駐輪場に自転車を停め玄関に入ると土間は子供たちの靴で埋め尽くされていた。その隙間を見つけて靴を脱ぎかけた。聞き覚えのある声で呼びかけられた。
「よお、由梨」
派手で卑猥ですらある柄もののTシャツに中学の青いジャージを穿いた達也は先に来ていた。
「おう」
面倒だが、一応挨拶は返しておいた。
「・・・相変わらず、ブスだなあ」
「お前にだけは言われたくねえよ」
口なんか利きたくなかったが、急に先日の美奈の話が気になった。ここは釘を刺しておくかと向き直った。
「お前さあ、誰彼かまわず声かけるんじゃねえよ」
「あ?」
「美奈だよ。あの子ちゃんと彼氏いるだもんで。チョッカイかけんなっつうだ」
「はあ? 何言ってるだ、お前」
向かって来られてたじろいだ。ちょっと前までは由梨よりも背が低かったのに。それがいつの間にか目の高さが拮抗していた。加えていかにも女慣れした迫力に気圧された。自分と同じ、まだ中学一年生なのに。伊達に年上の、高校生の女の小間使いをしているわけではなさそうだった。
「ちょっと来い」
他の子供や祭りの世話役の青年たちの目を憚り達也を外に連れ出した。公民館の裏の川に面した桜並木の陰へ引き込んだ。
「あたしの親友をヤンキーの世界に引き込むなっつってるだよ」
しつこい藪蚊を追い払いながら由梨は口火を切った。
「親友か・・・」
鼻で笑う達也。ムカついた。
「お前、親友っていうわりに美奈のことなんも知らんだな」
「何だよ」
彼はジャージのポケットに手を突っ込み、薄笑いを浮かべてこう言った。
「先週、美奈部活休んだら」
「あの子毎週木曜日塾だもんで」
「あーなるほど。そういうことかあ」
思わせぶりな態度にイライラした。
「お前、美奈に騙されてるに」
「はあ? 何言ってんの。わけわかんないこと言ってるとぶっとばすに!」
由梨が昂奮するのが面白いらしく、達也はさらに続けた。
「お前、アイツがエンジョしてんの、知らんだら」
「エンジョ?」
はあ?
どういう意味だ。
「ありがとうございました」
診察室のドアの灯りが廊下に射した。多恵子が春色のウィンドブレーカーを羽織りながら出てきて診察室の中に向かって頭を下げていた。
「紹介状もらっちゃった」
治夫は無言で妻の背中に手を添えその小さな内科医院を出た。二人の退出を待っていたかのように、背後で待合室の灯りが消えた。
「由梨は?」
助手席に乗り込むや多恵子が口を開いた。
「カレー作って来た。食うかどうか、わからんけど」
ヘッドライトを曳いて走る車をニ三台見送り公道へ出た。もう七時を回っていたが、空はまだ薄明るく、帰り道のはるか向こうに南アルプスの稜線が見えた。
「まったく。頑固だよ、由梨も、お前も。そっくりだ」
「ごめんなさい」
「頑固で、意地っ張りでさ・・・」
治夫の出張中に何度か気分が悪くなり微熱も出た。事務所でも貧血を起こしかけたという。出張から帰って来てはじめてそれを聞き、急いで医者に見せた。
胃癌の疑いがある。先刻、多恵子と一緒に診察の結果を聞き眩暈がした。数年前に義父をやはり癌で喪っていた。
事務所の他の二人に口止めまでしていた。そのことで二人には謝られた。絶対に言わないでって言われたもんで。ミヨシさんは気の毒なほどに弁解し、幸恵は涙ぐんでさえいた。
「ミヨシさんやさっちゃんにも気を遣わせてさ。謝っといたけどさ。とにかく、」
赤信号で止まった。フロントグラスに細かな水滴が落ちて来た。ワイパーで払うと街の灯りが滲んだ。
「もう由梨にも話さなきゃな。これ以上内緒にはできない。検査入院だって、立派な入院なんだから。いろいろ、しばらくお預けだな。とりあえずは検査の結果が出るまで大人しくしてるしかないだろ」
「いろいろって、仕事と子作り?」
「当たり前だろ! それ以外に何がある。状況考えろよ」
自分の仕事に支障をきたしてはと考えての事だろう。あまり責めるのも可哀そうだ。そう思ってはいてもつい、口調が荒くなるのを抑えかねた。
「・・・ごめんなさい」
信号が青になった。
「でも、嬉しかった」と多恵子は言った。
「あなたがそんなに怒るの、初めてだもん」
「お義父さんに約束したんだ。必ず多恵子と由梨を幸せにしますって」
「ありがとう。あなた」。
死の床でわざわざ多恵子を遠ざけて言われた義父のその言葉だけは死ぬまで多恵子に言うつもりはなかった。
「こんな傷物の娘を・・・。申し訳ないが、どうか、頼みます」
あの弱弱しい涙ながらの義父の言葉が治夫の心に残っていた。
夏休みに入ると祭りの準備が始まる。
夕方になると小学生が近所の公民館に集まって踊りや太鼓の練習をする。祭り当日は屋台と呼ばれる山車を曳き、それに乗って太鼓を叩いて練り歩き、辻々で踊りを披露するのだ。昔に比べ子供が少なくなっているから中学生にも出番がある。由梨は小さい頃から年に一度のこの祭りが大好きだった。
一つ気がかりなのは、同じ地区だから達也とも顔を合わせることだった。仕方がない。面倒だが、美奈から言われた通り無視するに限る。
部活が終わり、その足で公民館に寄った。
とんとことんとん、とんとことんとん・・・。
「屋台下」と呼ばれる山車を曳き回す時のスタンダードのフレーズ。その太鼓の音が聞こえて来た。既に小学生達が太鼓の練習を始めているのだ。由梨たちもかつて小学生の時にこれを叩いた。これを聞くといよいよお祭りだと子供たちは浮き立つ。
駐輪場に自転車を停め玄関に入ると土間は子供たちの靴で埋め尽くされていた。その隙間を見つけて靴を脱ぎかけた。聞き覚えのある声で呼びかけられた。
「よお、由梨」
派手で卑猥ですらある柄もののTシャツに中学の青いジャージを穿いた達也は先に来ていた。
「おう」
面倒だが、一応挨拶は返しておいた。
「・・・相変わらず、ブスだなあ」
「お前にだけは言われたくねえよ」
口なんか利きたくなかったが、急に先日の美奈の話が気になった。ここは釘を刺しておくかと向き直った。
「お前さあ、誰彼かまわず声かけるんじゃねえよ」
「あ?」
「美奈だよ。あの子ちゃんと彼氏いるだもんで。チョッカイかけんなっつうだ」
「はあ? 何言ってるだ、お前」
向かって来られてたじろいだ。ちょっと前までは由梨よりも背が低かったのに。それがいつの間にか目の高さが拮抗していた。加えていかにも女慣れした迫力に気圧された。自分と同じ、まだ中学一年生なのに。伊達に年上の、高校生の女の小間使いをしているわけではなさそうだった。
「ちょっと来い」
他の子供や祭りの世話役の青年たちの目を憚り達也を外に連れ出した。公民館の裏の川に面した桜並木の陰へ引き込んだ。
「あたしの親友をヤンキーの世界に引き込むなっつってるだよ」
しつこい藪蚊を追い払いながら由梨は口火を切った。
「親友か・・・」
鼻で笑う達也。ムカついた。
「お前、親友っていうわりに美奈のことなんも知らんだな」
「何だよ」
彼はジャージのポケットに手を突っ込み、薄笑いを浮かべてこう言った。
「先週、美奈部活休んだら」
「あの子毎週木曜日塾だもんで」
「あーなるほど。そういうことかあ」
思わせぶりな態度にイライラした。
「お前、美奈に騙されてるに」
「はあ? 何言ってんの。わけわかんないこと言ってるとぶっとばすに!」
由梨が昂奮するのが面白いらしく、達也はさらに続けた。
「お前、アイツがエンジョしてんの、知らんだら」
「エンジョ?」
はあ?
どういう意味だ。
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