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しおりを挟む寝過ごした。
考えすぎてなかなか寝付けなかったせいだ。慌てて飛び起き急いで身支度を整えた。朝食の支度と弁当を二人分作りながら大声で娘を呼んだ。
「お~い! いつまで寝てるんだ。朝練間に合わんぞ。たまには起きて手伝いぐらいしろ!」
何とか間に合わせワイシャツのボタンをはめながら階段を駆け上った。途中で踏み外して由梨に蹴られた向う脛をまた痛めた。脛を摩りながら由梨の部屋のドアの前でさらに声を張り上げた。
「おい、クソ娘! 遅れるぞ。起きたのか?」
ゆっくりとドアが開き、パジャマのままで眠そうに目を瞬かせた由梨が枕を抱いて立っていた。明らかに朝寝を邪魔されて怒っていた。
「誰がクソ娘じゃ」
「朝練! 学校! いつまで寝てんだアホ」
「・・・今日、土曜日なんだけど」
「へ?」
「部活もないよって、昨日言ったと思うんだけど」
目の前でドアが閉まった。
そうだった。
昨日あまりにもいろいろなことがありすぎて混乱したせいだ。そうに違いない。すごすごと階下へ降りた。
独りで朝食を摂りながら、さて、じゃあ何をするかと思案した。ああ、あの返事をしなくては、と思い出した。晃に結婚式の件の返事をしなければならない。康雄にも電話をしてやらねば・・・。
途端に憂鬱な気分に襲われた。
そうだ!
こんな時は釣りにでも行って気分を変えるか。釣果を期待するには時間が遅かったがそれはどうでも良い。独りで考える時間が欲しかった。
車に道具とクーラーボックスを積み込み、釣り用の支度を整え、玄関口で叫んだ。
「ちょっと、釣り行ってくる。昼飯はテーブルの上におにぎり握っといたからな。後は冷蔵庫からテキトーに出して食え」
ドアを開けて家を出た。
「お早うございます」
玄関先に昨日と同じ寸分の隙も無い出で立ちの晃と婚約者の倫子が立っていた。
「え?」
完全に失念していた。
弁解のしようがなかった。
土曜であることも由梨の予定も忘れていた。由梨が部活で不在だと思ったから今日自宅で会う約束をしたのだった。まさか、わざわざ来てくれた相手に予定を勘違いしていたとも言えない。もうこうなってはどうしようもない。とりあえずは家に上げねば。
リビングで、かつての息子とその婚約者に再び向かい合った。スーツ姿の二人に、草臥れたジーンズとウインドブレーカーのままではあまりにも失礼だったが致し方ない。
「度々しつこくて済みません」と、晃は頭を下げた。
「とんでもない。折角遠いところを来てくれたのに何度も済まなかったね」
「なんだか急かすみたいになってしまいまして」
治夫が恐縮するほどに相手も緊張していた。
「でも、できれば今日中に戻って彼女の父親に報告したいんです。こちらの都合を押し付けて、申し訳ないんですが・・・」
「いや、構わないさ。仕事している以上当然だ」
他人行儀なやり取りが続いた。
十五年という月日を思った。極力落ち着いて、穏やかに長い別離を蒙った息子を労わらなければ。自分の顔が引きつっていないかどうかが気になった。
康夫の電話を受け一晩眠った今、その願いを叶えるまでの間に数えきれないほどのステップがあるのを認めざるを得なかった。式に出るということは晃は再び自分の息子となり、由梨の兄となるのだ。さらに義理の娘も、それになんと孫までできてしまうのだ。さらに、空白の十五年間の間に晃とその周囲に何があったのか。そのサルベージが必要だ。それに由梨に何と言えばいいのだ。
あまりにも処理せねばならない問題が多すぎた。
そして何よりも、治夫の心の中に晃を受け入れ難い何かがあった。積極的に晃のその願いを叶えようとする意志がどうにも湧かなかった。
しかし、遠路はるばるやって来てくれたかつての息子を手ぶらで帰すのはどうにも忍びない。晃が悪いのではない。それは判っているのだ。だがどうしても感情が伴ってくれない。そんな態度で目の前の青年に対するのはあまりにも無礼だ。治夫の逡巡にもかかわらず、目の前の晃と倫子はソファーにきちんと座ったまま依然返事を待っていた。その痛々しいほどの姿に同情を禁じえなかった。
階段をどかどか降りて来る足音がした。
マズいヤツが来た。
「わお・・・」
階段の途中でリビングの異変に気付いたのだろう。多分さっきのパジャマ姿のままだったに違いない。そそくさと自分の部屋に逃げ帰っていった。
バカ娘が!
しかしこうしてバレてしまったからには致し方ない。
「あれ、娘。しつけが悪くてお恥ずかしい。うっかりして予定を伝えてなかったもんだから・・・」
「いいえ・・・」と晃は言った。
仕立てのいいスーツ。態度も立派だ。美しい婚約者と並んでいると眩しいくらいの存在感があった。ただ、終始落ち着いた表情の倫子に比べ、晃は焦りのような色を浮かべている。
「昨夜康雄から電話が来た。経緯は聞いたよ」
「ああ。おじさんが・・・」
再び由梨が降りてきた。今度はジーンズにトレーナー姿ではあったが、いつものドカドカではなく、爪先立ちで楚々としてリビングの前を通り、一礼して洗面所へ消えた。由梨なりに気を遣っているつもりらしかった。
倫子が穏やかに微笑んだ。晃はさらに顔を強張らせ、気のせいか額にうっすらと汗が滲み出ているようにも見えた。自分の出席が結婚の条件なのだろう。治夫から否を突き付けられれば諦めざるを得ない。だから焦っているのだと察せられた。追い詰められている。そう思った。自分のせいで息子を追い詰めていることに罪悪感を覚えた。
今後の事はともかく、式だけは末席で出させてもらうか。そうでなくては晃があまりにも不憫だ。
そんなことを考えていると、殊勝にも由梨が茶を載せたトレーを捧げてリビングに入って来た。
腹が立っていた。
何でお客さんが来るのを黙っていたのか。
洗面所で入念に顔をチェックした。とりあえず茶ぐらい出さなければ。客は二人だ。若いカップルだ。治夫とどんな関係の人なんだろう。
そんなことを考えながらトレーを捧げてリビングに入りテーブルの傍で膝をついて驚いた。
「カッコいい・・・」
見上げて思わず不躾な言葉が口をついて出そうになり、慌てて手で押えた。
絵にかいたような好青年と雑誌のモデルのような美しい女性。共にかっちりしたスーツを着込んだ二人が並んでいると、いつものリビングが映画かTVの撮影スタジオと見紛いそうだった。
めちゃくちゃイケてんじゃん・・・。
あまりちらちら見るのは失礼とはわかっているのに、どうしても目が離せない。
何故だろう。
特に男性のほう。めちゃくちゃイケてるだけじゃない。このイケメンが醸し出すある雰囲気が由梨を惹きつけて止まないのだ。
考えていると、あるポイントに気付いた。顔のパーツがビミョーに似ている。このかっこいい青年はまるで治夫のパーツを材料にして造作を華麗に作り替えたように見えた。
ああ、この人、治夫の息子さんだ。
由梨はやっと正解に辿り着いた。
はは~ん・・・。
このせいだったのか。昨日から治夫の様子がおかしかったのは。
傍らで俯いている治夫を睨みつけた。
「初めまして。青柳晃といいます」
そのイケメンは名乗った。
「どうも。娘の由梨です」
「朝早くすみません」
由梨は傍らの美しい女性とも会釈を交わした。
このクソ親父が!
こんな重大なことを自分に話さずに黙っていたとは・・・。
更なる怒りを感じたが、俯いたままの治夫を見ると何も言えなかった。多分言い出しかねて悩んでいたのだろう。まったく、世話の焼ける親父だと思った。
「松任さん、申し訳ありません」
倫子の女性らしい柔らかな明るい声が硬い空気を破った。
「ねえ、晃。出直そうよ。元々いきなり押しかけて重い話ぶつけてる私たちが悪いんだから。本当は、こういう話はきちんと段階を踏んでするべきだったんだよ」
それまで閉じられていた美しい婚約者の口元がなめらかに滑り出した。
「ほら。由梨ちゃんもびっくりしてるし。それに由梨ちゃんにも関係のある話なんだし。ご家族で一度話をしてもらって、それでもし今日結論が出なくても仕方ないよ」
パートナーを優しく包みながらしっかりと前を見据え、正しい道に導く芯の強い女性。
そんな風に治夫には見えた。
「あの、松任さん。こうしませんか。私たちも性急でした。無理を申し上げているのは承知しています。だからご返事がどんなものでも、頂けなくとも、今日は納得して帰ります。でも私たち思いは同じです。できれば松任さんに、晃の実のお父さんに祝福されて結婚したいんです。
ちょっと東遠州の街を散策してお昼食べてきます。後から連絡取り合いませんか。由梨ちゃん、良かったらLINE交換しない?」
倫子に促されるままスマートフォンを向け合いながら、こんな人がお姉さんだったらなあと由梨は思った。
二人を表まで見送りに出る時、伏せたはずのサイドボードの上の写真立てが何故か立ててあった。治夫のヤツ。由梨は再びさりげなくそれを伏せた。
去り際に晃はこんなことを言った。
「お父さんは、まだ母を恨んでいますか? あなたは母を、愛していましたか?」
「晃」
倫子が晃を窘めた。
そして治夫に一礼した。
「では後程またご連絡いたします。由梨ちゃん?」
運転席に乗り込む直前、倫子は由梨にこう言った。
「あのサイドボードの上の写真、とっても素敵だね。楽しそう。由梨ちゃん、お父さんと仲いいんだね。」
やべ・・・。
二人の車を見送りながら、由梨はそっと呟いた。
治夫のバカ。誰にも言うなよとか言ってるくせに!
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