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 どうして打たれたんだろう。
 何が悪かったんだろう。
 ベッドの上で膝を抱え張られた頬を撫でた。今までの父との時間と先刻の事件とを比べた。考えれば考えるほど頭が混乱した。
 ずっと仲良しだった。父が家にいるときはいつも一緒に風呂に入ってくれた。自分の部屋を当てがわれてからは少なくなったが、それでも時々は一緒に眠ってくれもした。頬ずりしたり、頬にチューをしたり、抱きついたりはしょっちゅうだった。さっきのことも同じだ。そう思っていた。
 指先で唇に触れた。
 美奈も彼氏とあんなことをしているのだろうか。
 もう片方の手で自分の胸を抱いた。治夫に抱きしめられた感触を思い出そうとした。
 きっと今までとは何かが違ったのだ。今まであんなビリビリは無かった。あんなお腹の奥に響くような、気持ち良さとも重さとも痛みともつかない不思議な感覚を覚えたことは無かった。
 あれは、何かイケナイことだったのか。どこまでが良くて、どこからが駄目だったのだろう。
 お腹の奥が急に重くなった。粗相をしていることに今頃気付いた。慌てて立ち上がりスカートに手を入れて下着を脱いだ。チョコレート色の小さなシミがついていた。
 何だ、これ?
 ああ。あれだ・・・。
 タンスの引き出しを開けて替えを取ろうとした時、ドアがノックされた。
「由梨? ちょっと、いいかな」
 母の声に慌てて下着を穿き、汚れた下着をゴミ箱に投げ入れ、ベッドに飛び乗って膝を抱えた。心配そうに戸口に立っている母を見て目を背けた。母は静かに由梨の隣に座った。
「一体どうしたの」
 何を言えばいいのかわからなかった。黙っているしかなかった。
「黙ってちゃわからんに。お母さんを見て」
 何も言えずにいると母の溜息が聞こえた。
「・・・お父さんから聞いたよ」
「じゃあ、もういいじゃん」
「良くないよ。あんなに仲良しだったのに」
「わかんないよ。・・・お父さんあたしのこと嫌いになったんじゃないだ?」
 何故だか自分の言葉に涙が出た。
「嫌いになった」という自分の言葉に傷ついてしまった。もう父の気持ちは自分に無いのか。喪失感が大き過ぎて感情が抑えきれなかった。
「だって、いつもみたいにしてただけなんだもん。それなのに急に突き飛ばして打つんだもん。お父さんがあんなに怒るなんて、思わなかったもん!」
 唇が震えた。
「そうじゃないに」
 と、母は言った
「お父さん、ビックリしただけだに」
 母は由梨の肩を抱き寄せ、背中を摩りながら優しく娘に語りかけた。
「お父さん、お母さんと由梨を間違えたんだって」
「口にチューしちゃダメなの? お母さんだっていつもしてるじゃん。お母さんはよくてあたしは駄目なの? お父さんはお母さんが一番であたしは二番なの?」
「お父さんにとって由梨は大切な娘だから。だからだよ」
「全然わかんないよ」
 またあの感覚が来た。今度ははっきりと痛みの顔をしていた。
「どうしたの」
「お腹が痛い」
 母の手のひらがおでこに触れた。
「どういう風に痛いの? ちょっと熱がある。体温計持ってくるから横になってな」
 母は由梨を寝かせて上掛けを被せてくれた。戸口に行きかけ、思いついたようにゴミ箱を掴んだ。由梨は焦った。どうして母親というのはこんなにスルドイんだろう。
「あら? 由梨! あんたってばどうしてこういう・・・」

 多恵子の助言に従い努めて普通に接することを心掛けた。
「ごめんな。さっきは痛かったか?」
 夕食に降りて来た由梨にさり気なく声をかけた。娘は何も言わず俯いたままだった。食卓でもTVや近所のことなど当たり障りのない話題を多恵子が提供してくれた。初潮のことには触れなかった。そのまま夜までいつも通り普通に過ごした。
「私にも責任があると思う」
 床の中で多恵子は言った。
「今何を言ってもダメだら。時間かけて見守ってくのが一番いいんじゃないかな」
 ベッドにはいると多恵子は子作りを誘った。治夫の掌にキスをしながら訴えた。
「今日は一番良い日なの。欲しいの、あなたとの証が。どうしても、欲しいの」

 しばらく家の中のぎこちないやりとりが続いた。それでも仕事に家庭の齟齬を持ち込むわけにはいかない。事務所ではいつものように振舞った。
「郵便だに~」
 気晴らしにサチエが置いていった封筒の束を整理した。請求書の類は既に抜かれている。ダイレクトメールや展示会の案内の類は次々に隣のミヨシさんの机に放り投げて行く。
 最後に白い私信の封筒が残った。
 裏を返した。「青柳律子」とあった。差出人は、かつての妻だった。
 何を今更と半ば憤りながら封を開いた。形ばかりの治夫の様子への気遣いや、かつて一緒に過ごした日々への郷愁も書かれてはいた。しかし便箋三枚程に綴られていたその記述のほとんどは、メガバンクに勤める夫の栄達と晃の私立中学入学と自分の充実した日々の披瀝で占められていた。律子と息子がいかに幸せな生活を営んでいるか。その自慢ばかりだった。
 なんで今更。こんなことをわざわざ。
 手の震えを隠すのに苦労した。それを悟られないよう早々に事務所を出た。全て燃やそうかと作業場の焼却炉に向かいかけたが止めた。そのまま内ポケットに手紙を仕舞い、車に乗った。


 いつもなら寝たら朝が来ていた。夜中に起きることなんてなかった。
 でも、その夜は寝苦しく、何度もシーツの冷たい場所を探していた。階下から物音が聞こえた。廊下かリビングなのかはわからない。その音はフローリングの床に何かを打ち付けるように由梨には聞こえた。ふと、父が大工仕事をしている姿を想像した。でも、こんな夜中に? そんなバカなと思いながら、もしそうならそっと近づいて脅かしてやろうと考えた。なぜかその音が父だと直感していた。
 あのことがあってから、父と気まずかった。その沈滞した空気を持て余していた。なんでもいい。なにかきっかけが欲しかった。やっぱり、父が好きだ。
 部屋を抜け出した。ゆっくりと暗い階段を降りて行った。突然背後の灯りが点いて驚いた。咄嗟に階段の下に隠れた。母がスリッパを鳴らしながら降りて来た。慌てて身を伏せた。やり過ごしてから身を乗り出した。廊下の奥の洗面所から灯りが漏れていた。母が「あなた」と声をかけていた。
 音はしなくなった。その代わりに父の低くすすり泣く声が聞こえてきた。どうやら大工仕事などではなさそうだった。
 父に何かあったのだ。どうしても知りたくて、裸足のままひたひたと洗面所の戸口まで行った。蹲って震えている父に母が覆い被さるようにして背中を摩っていた。
「また、来ただね」と母は言った。
 流しの縁に血が付いていた。灯りに照らされた鮮やかな赤色と排水口に溜まった嘔吐物の茶色が由梨の目を射た。

 寝苦しさにキッチンで麦茶を飲もうとグラスを取り冷蔵庫を開けた瞬間、十年近くも前の記憶が彼を襲った。グラスを取り落とし、破片が床に散った。
「あれ、どうしてお父さんが来るの? 今日はパパが来る日なんだよ」
 あの日、予定より早く出張から帰宅して耳にした晃の無邪気な一言から律子を問い詰め初めて妻の不貞を知った。
冷蔵庫の麦茶を飲んだ時、律子と晃と見知らぬ男が楽しそうに遊ぶ光景が目の前に浮かんだ。高校時代からずっと一緒だった妻。その妻が男の体の上で歓喜の声を上げる姿を見た。実際に目撃したわけではない、独り取り残された夜に妄想した幻影だった。その過去の幻影が治夫を再び襲った。
 既に過去にのものになった記憶のはずだった。今は多恵子と由梨、幸せな時間の中に生きている。それなのににどうして・・・。
 こんなにも自分に尽くしてくれる良き妻がありながら、前の妻に囚われているとは。酷い罪悪感に襲われた。
 破片を片付けようとして手を切り、指先から流れる血を見て吐き気がした。多恵子がいつもきれいに使っているキッチンを汚すのが忍びなく、洗面所に行って全て吐いた。
 どうしたらこの記憶を完全に消すことが出来るのだろう。流しの縁に頭を打ちつけた。何度も打ちつけた。打ち付けていると痛みが記憶を凌駕し、心が安らぐのを覚えた。多恵子に止められるまで、それを続けていた。
 リビングで傷口の手当てを受けた。
「ここのところ出なくなってたのにねえ・・・」
 多恵子のお陰で全うな人生の道に戻って来れた。由梨という宝物をくれ、再び父としての喜びと誇りも味合わせてくれた。それでもまだ足りないのだろうかと失望されても仕方ないかもしれない。せめて多恵子に非は一切ないことを納得してもらわねば。
「今日、こんなものが来た」
 吊るしてある作業服の内ポケットから手紙を取り出し、多恵子に示した。
「別れたあいつだ。何故今になってこんなもの送って来るのかわからない。忘れようと努力したのに。こんなもの・・・。つい読んでしまって、動揺してしまった。
 心配かけてごめんよ。俺にはもうお前がいて、由梨もいてくれてる。自分をこんなに心配してくれる家族がいる。幸せだ。心からそう思っている。その気持ちに嘘はないんだ。お前や由梨には本当に感謝しているんだ。愛している。それなのになあ・・・」
 もしかすると自分は心の奥底で多恵子を信じ切れていないのではないだろうか。多恵子や由梨を愛していると思っているが、その片隅で、いつかは自分を捨てて出てゆくのではと疑い続けているのではないだろうか。もう傷つきたくないから、裏切りに備えるため、無意識に心の底にネットを張っているのではないだろうか。だから無条件に信頼できず、未だに少しの揺らぎで大きく動揺してしまうのではないのだろうか・・・。
 自己嫌悪に陥っていた。自分が嫌でたまらなかった。自分を嫌うのにも疲れた。これ以上苦しみたくない。また独りに戻ればいいのか。そうすれば・・・。
「お前と由梨に出会った時、絶対に幸せにすると約束した。それなのに・・・。俺はお前たちを苦しめるために一緒になったんじゃないんだ。ただでさえ血が繫がっていないのに、俺がこんなじゃ由梨にもいい影響を与えない。お前を傷つけたくない。苦しめたくない。お前だって嫌だろう。信用していないのかと思うだろう。もう嫌だろう、こんな男は・・・」
 別れようか。
 ふと、何の気なしに、苦し紛れにか、その言葉の向こう側に苦痛から逃れる術が見つかるような気がして、口にしてしまった。
「何を言うだっ!」
 怒気一杯の一喝を浴びた。
「そんなのわかってた。こんなことぐらいで、何? この程度のことで別れるなら、最初からあなたと結婚なんかしてないに!
 絶対別れてなんかやらないでね。私と由梨はあなたに救われた。あなたの優しさに。
 ちょっと待って」
 胸が締め付けられた。一体自分は何を言ったのだろう。何をしているんだろう。
 多恵子は書斎からコピー用紙と鉛筆を持って戻って来た。
「描いて」
 目の前に置いた。治夫が戸惑っていると負い被せるようにこう言った。
「描いて。前の奥さん。あなた絵上手なんだから描けるら。描いてや」
「何でこんな時に」
「いいから! つべこべ言わない。描いて」
 あまりの気迫に鉛筆をとったが、一本の線も描けなかった。描けるわけがなかった。鉛筆を投げ出した。
「何でわざわざ苦痛の元凶を描かなきゃいけないんだ」
 多恵子は抗議する治夫を物ともせず、睨みつけたまま、言った。
「描きたくないんじゃなくて、描けないんだら。忘れちゃっただら、前の奥さんの顔。私だって前の旦那の顔、もうはっきり思い出せないもの。もしあなたが今でも前の奥さんに想いがあれば忘れんら。
 満たされてないんだよ、その人、今。満たされて幸せいっぱいの人ならわざわざ別れた亭主にこんなもの送って来ないもん。
 あなたが拘ってるのはもう体面だけのことじゃないの? いいじゃない、前の奥さんが幸せだって。息子さんが幸せだって。私だって由梨だって、負けないぐらい幸せだに。あなたが私と由梨にくれたのはお金じゃ買えない幸せなんだよ。私はあなたが出世してお金持ちになるよりも、いつも傍にいてくれるほうが嬉しいし、いつも一緒に歳をとって行きたい。それが私の幸せなの。あなたは十分に叶えてくれてる。
 そんな下らんこんで落ち込まんで。目を覚まして。もう絶対言わんで。絶対別れるなんて言わんって約束して。約束してくれんと、許さんに!」
 自分はなんという果報者だろうか。
 自分には過ぎた妻を娶ったことに、感謝した。
 ふいに多恵子が体を離した。妻の視線の先、治夫の背後の戸口に、大きな目を見開いて由梨が立っていた。
「由梨」
 思わず声を掛けた。
「『お前と由梨に出会った時』ってなに? 『血が繋がってない』って、なに?」
「由梨。ちょっとこっちにおいで」
 多恵子が立ち上がろうとすると、由梨は叫んだ。
「何それ!」
 娘は二階に駆けあがり、それきり部屋に籠ってしまった。


 ベッドに寝転がって天井を見上げていた。ドアがノックされた。無視して応えなかった。
「ねえ、由梨。話を聞いて」
「入って来ないで!」
 机の上のファイルを取った。幼いころから描きためた、父に似せたキャラ画だった。そのすべてが陳腐で疎ましいものに思えた。ページをビリビリ破き、次々にゴミ箱に放り込んだ。
 血だらけでゲロ吐いてカッコ悪かった。頭をぶつけてメソメソ泣いてた。母に叱られて泣いてた。今まで持っていた父への思慕が跡形もなく消えていた。
 心にぽっかりと穴が開いた。その穴の底に思いも掛けなかった言葉が落ちていた。
 血が繋がっていない? 
 じゃあ、自分は何なんだ。どうして自分はここにいるんだ。あのメソメソ泣いていた男は一体誰なんだ。自分の本当の父親は誰なんだ。父と母は二人して自分を騙していたのか。
 ページを裂くたびに心のどこかが悲鳴を上げた。その痛みさえ心地よいものに思われた。
 父だと思っていた男が汚らわしい汚物にしか見えなくなった。同じ洗面所を使うのも同じ洗濯機を使うのもイヤだ。あの人が入った後の風呂には入りたくなかった。同じ家の中で同じ空気を吸うのさえイヤだ。吐き気さえする。長い間由梨を騙し今もあの男を庇う母だって同罪だ。
 みんな、大嫌いだ!


「由梨、ちょっと落ち着いて話さないか」
「由梨、お父さんに返事しなさい」
 必要最低限しか喋らなくなった。朝晩の食事時だけは一緒にテーブルに着いたが、何を話しかけてきても一切喋らず、テレビを見ていても父や母が来ると自室に引き上げた。自分の衣類は自分で洗って干すようになった。母が家族の物と一緒に洗おうとすると烈火のごとく怒った。車に乗るのも、家族での旅行も、一緒に出歩くことさえなくなった。休日は自室に籠り、美奈の家か図書館で過ごすことが増えた。家族の団らんも消えた。顔を見合わせる父と母が余計に由梨を苛立たせた。
 学校ではいつも通り友達と接した。時として明るすぎるぐらいに。でも時々見せる極端な一面が親友の美奈をさえ困惑させた。
 掃除当番で達也と一緒の班になった。今までの生涯で一番嫌いなヤツなのに、結局六年間同じクラスだった。ウンザリだ。相変わらず不真面目なヤツだった。箒をマイク代わりにして歌手の真似事をしてサボっている。バカじゃないだろうか。
 達也が最近中学生の女と付き合っていると誰かから聞いた。地区の子供会で集まった時、今は中学に上がったエミさんという先輩にプロレス技を掛けられたりしてイジられて喜んでいたのは知っていた。どうも相手はそのエミさんらしい。何故だか癪に障るヤツだった。
「おい、タツヤ! いい加減に黒板やれよ」
 教卓の上を雑巾掛けしていた由梨が見かねて怒鳴り上げた。
「ハイハイ。わかりましたよ~ん」
 不貞腐れたように箒を投げ出した達也は、ワザと由梨にぶち当たるようにして黒板消しを取った。そのついでに「あ、手が滑った」と言いながら黒板消しを由梨に向かって投げつけた。ジーンズに白い粉が塗された。
「タツヤひどーい」
「やりすぎだら」
 掃除班の女子達から次々に非難が上がった。
 由梨は無言で腿を叩き粉を払った。静かに黒板消しを拾い上げた。そして達也に歩み寄り、胸ぐらを掴んでその顔に何度も叩きつけた。達也の顔はまたたく間に京の舞妓さんのように白くなった。
 その騒動を遠巻きにしている輪の中に美奈を見つけた。以前の由梨ならこんな風に執拗にやり返すようなことはなかった。美奈の顔にそんな言葉が浮かんでいた。
 呆れているのだろうな。美奈の視線が辛かった。
 でも、自分にもどうしたらいいのかわからないのだ。知るか! どうにでもなれ。
 掃除が終わりランドセルを背負って昇降口へ向かった。登下校に慣れた一年生の面倒はもう見なくてよかった。いつの間にか美奈が隣に立っていて一緒にスニーカーを土間に揃えた。無言のまま並んで校門まで歩いた。そこを出ると由梨は右、美奈は左に別れる。下校途中に友達の家に寄ったりしてはいけない。そういう学校の決まりがあるから、いつもはそこで別れる。
「じゃあね」
 俯いたまま右に折れようとすると、ランドセルが後ろに引かれコケそうになった。
「来なよ」と美奈は言った。
 美奈の家に着くとダイニングテーブルに座らされた。目の前にプリンやチョコやグミやポテトチップスが山と積まれた。
「食べなよ」
 言われるまま、黙々と食べ始めた。
「食べたら、話して」

 その年の五月の運動会。紅組は開校以来の歴史的な敗北を喫した。
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