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 顧客の訪問を終え、道の駅に駐めた営業車の中でPCを開き携帯を繋いだ。部下たちの状況が営業所のページにアップされている。多恵子が基本を作ったシステムはさらに改良を加えられそのころ既に統一されたツールとして全社に定着していた。
 パッドを撫でていると恒例の松谷からの電話が入った。本部のトップと出先の一営業所所長の間だから直接の関りはない。だから用件は決っている。ひとつには本部のグチ。もう一つは情報交換。そしていつも最後にはいつ本部に来るんだ、で終わる。そういう順序で話が進む。
「おう、元気か」
「まあ、ボチボチです」
 異例特例づくめの処遇を受けているとはいえ、十年近くも一地方の営業所長を務めている間に社内外の環境は大きく変わりつつあった。
 製造業の流出と廃業による企業数の減少、いわゆる産業の空洞化は加速し、必死に支えている治夫自身も限界を感じ始めているところだった。特に昨年浜松から大手の自動車メーカーの工場が下請けまで引き連れてごっそり移転していったのが大きく響いていた。
「まあ、持って三四年か。それ以上は無理だな。大都市圏だけに機能を残して、後は全て撤収するしかなくなるかもしれんな」
 と松谷は言った。
「もう海外しかないんでしょうかね」
 その場合もう治夫のポストは国内にはなくなる。そう考えるのが自然だ。
「いいや」
 松谷は言下に否定した。
「お前には本部に来てもらって人材育成と海外ブランチの統括運営を手伝ってもらう。もっとも、本部そのものをシンガポールかジャカルタへ移転させる案も出ているがな。本社機能もいずれ財務と人事だけになるかもしれんな。ホールディングスってやつだ。モノづくりをしない国にいつまでもしがみついてても意味ないからな。しかしなあ、モノづくりをやめて一体この国はこれからどうするんだろうなあ」
 今はまだ『よそ者の矜持』を大切に保持しながら松谷と対面している。が、それもいずれは時間と共に価値が目減りしてゆくだろう。
「じゃあ、辞めます」
 そんな手が通用するほど、治夫はもう若くはなかった。松谷もそれを判っている。だから取締役営業本部長となった今では、以前より当たりの柔らかな口調になっていた。
 もう、お前にはそれしかないだろ。
 彼が言外に語りかけているのが治夫にはわかった。飛ぶ鳥落とす勢いの松谷にくっついて本社への転勤を受け入れていれば、今頃本社営業本部か開発本部の少壮部長の一人ぐらいにはなっていたかもしれない。それを蹴って今の地位に甘んじている治夫に不満はなかった。しかしいつまでもそれが許されるとも思っていなかった。
 
 事務所に電話を入れた。幸恵が出た。
「何かあるかな」
「決済あるけん、明日でもいいに」
「そう、じゃあ直帰していいかな。流石に徹夜が二日続くと持たんわ。トシかな」
「いいじゃないだ」と幸恵は言った。
「あのね、さっき多恵子さんにも言ったけん、二十八日でどうかね。大安だでさ」
 今週から多恵子が事務所に出てくれていた。いよいよ両家の顔合わせが決まったようだ。仲人としての最初の務めだった。
「いいよ。いまうちの奥さんいる?」
「あ、銀行に行ってもらってる」
「先帰るって伝えておいて。じゃ、おつかれ」


 四時間目はホームルームだった。
 最初に学級委員として美奈と大人しそうな男子が選ばれ、司会で前に出ていた。
「女子は安藤美奈さんが良いと思いまーす。いいら? みんな!」
 真っ先に由梨が提案し、ほぼ全員が「イエーイ」と拍手した。達也だけが不満げにポケットに手を突っ込んでふくれていた。
 次々に役員が選出されてゆき、最後に春の運動会の応援団員を決めることになった。美奈が隣の男子に図り、
「立候補したい人はいませんか」と発言を促した。
 窓際に腕組みをして立っているジャージ姿の女狐が補足した。
「みんな。わかってると思うけど六年生の応援団員は紅組の応援団長になりますからね」
 由梨の通う小学校は一学年二クラスずつ。毎年その二クラスが学年ごとに紅組白組にランダムに分かれ運動会を盛り上げる習わしだった。美奈が手を挙げた。
「先生、司会も発言していいですか」
「どうぞ」
「私は応援団長に松任由梨さんを推薦したいと思います。理由は松任さんはスポーツ万能だし女子からも男子からも人気のある人だからです」
 教室のあちこちから「さんせー」という声や拍手が起こった。
「他に意見がありますか」
 大人しそうな男子の学級委員がそう言い、採決が行われた。やはり達也を除く全員が賛成した。
「では六年一組の応援団員と紅組応援団長は松任由梨さんに決定します。松任さん、いいですか」
 美奈は壇上からにっこりと微笑んだ。
 顔を赤くしてモジモジしていた由梨だったが周りから一言言ってや、などと囃されやっと立ち上がった。
「んじゃ、挨拶とか苦手なんで、応援のヤツやるもんで皆もゆって」
 フレー、フレー、あ・か・ぐ・み!
 三階の窓から大きなシュプレヒコールと拍手が響き渡った。
 初夏の陽が降り注ぐ校庭。徒競走の練習をしている赤白帽の小さな子供たちが校舎の窓を見上げた。

 校舎のチャイムが鳴り、防災放送がお昼のジングル「こいのぼり」を奏で始めた。
 新緑の桜の木が影を作る昇降口から次々と吐き出されてくる子供たちの群れ。その中で、由梨と美奈は頭一つ分以上飛び出して見えた。
 由梨は登校旗を振りかざした。一緒に下校する下級生たちを整列させながら、隣の列で同じように旗を掲げる美奈に訊いた。
「今日遊べる?」
「ごめん、今日塾だ。明日はいいよ」
 彼と会うんだろうな。
「じゃあ、夜電話するね」
「あたしからするよ」と美奈は言った。
 新一年生がふざけて車道に出たりしないよう声掛けはするものの、頭の中は美奈と彼氏の妄想で一杯になっていた。
 家に帰ると縁側で父がごろ寝していた。
 珍しいと思った。こんなに早い時間に父が家にいることは滅多になかった。顔の上に被せた新聞がカーテンを揺らして流れてきたそよ風で捲れた。
 戸棚や冷蔵庫をバタバタ開けて中を漁り簡単に小腹を満足させた。その気配にも父は目を覚まさなかった。
 疲れているんだろうな。
 新聞紙を剥がして畳み、以前よくしていたように父に添い寝した。口の周りに着いたチョコアイスを嘗めとりながら横顔を目でなぞった。
 友達の父親と比べると比較的若く見える。けっしてイケメンとは言えないが人を構えさせない穏やかな顔だ。そんな父の顔が由梨は好きだった。指で鼻をつついても治夫は起きなかった。ふと思いついて、顔を寄せた。そのまま唇でそっと触れた。背中に何かが走った。
 今のは何だろう。
 不快ではない。むしろ気持ちのいいその感覚に興味を持った。
 今度はもっと大胆に、触れるか触れないかの感触を楽しむように唇で唇をなぞった。ドキドキして体が熱くなった。自分の息遣いに昂奮した。それでも治夫は起きなかった。
 もちろん生きている。規則的に胸が上下している。深い眠りだ。さらに治夫の腕を上げて体に身を寄せ、片手を胸の上に置いた。安心感に満たされた。父の顔を傾けて口づけをし、もう一度あの感覚を楽しもうとした。
 すると、父はうーんと唸り由梨の体を抱き締めた。体の奥のほうがキュンと鳴いた。治夫の唇が由梨の口を強引に塞いでさらに力強く抱きしめられたとき、軽く気を失いそうになった。
「うーん、多恵・・・」

 気付いた時には由梨を跳ね除け、頬を張ってしまっていた。
 てっきり帰宅した多恵子がいつものように悪戯していると思った。
 同じシャンプーとリンスを使っているし、全く違和感を感じなかった。それでいつものように応えようとした。それが、娘だったとは・・・。
 跳ね除けられて打たれた娘の方も茫然としていた。
 なんという、不覚・・・。
「一体何をしているんだ!」
 今まで、一度だって娘に手を上げたことなどない。怒鳴ったことさえなかった。
 大切に、愛情をこめて育ててきた。家族の時間を意識し妻にも娘にも誠心誠意心を砕いてきたつもりだった。いつも頭の片隅にあの過去の悪夢があった。その失敗を教訓にこの幸せを築いてきた。
 それなのに・・・。
 こんな些細なことで脅かされてしまうのだろうか。得も言われぬ恐怖が治夫を襲った。
「ただいまー」
 多恵子が帰って来た。
 由梨は帰宅したばかりの母を押しのけるようにして二階の自室へ駆け上がっていった。
 多恵子に説明しなければならない。
 自分の話を信じてくれるのか。今由梨にどう対応するべきか、そして今後由梨とどう付き合えばいいのか・・・。不安を覚えつつ一通り顛末を話した。
「そういうことか・・・」
 妻は天井を見上げた。
 無力な自分を知った。仕事のことなら絶対の自信がある。が、こと家庭と子育てとなるとまるきりの木偶の坊だ。自分が情けなかった。
「あのさあ、何ビクビクしてんの。しっかりしてよ、お父さん!」
 背中を叩かれた。由梨を追って二階に上がる妻をただ見送った。しかしとりあえず張り詰めていたものは無くなった。気が抜けて再び仰向けにぶっ倒れた。
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