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風が冷たかった。
玄関前のカーポートにある車に乗り込みエンジンをかけた。夜中ではあったが風の音であまり目立たない。隣家は伸ばした腕の手のひらくらいにみえるほど離れているので不都合は無い。康雄は電話の前で待っていたらしくすぐに出た。
「びっくりしたやろ」
事もなげに彼は言った。
「でかなったなあ」
治夫は内心の葛藤を悟られないよう、殊更大袈裟に実の息子に会った感想を言った。
「立派な男になっとったじー。様子もじまんらしーなったがいに。あの時、まだ幼稚園児やった」
沈黙で過ぎ去った一五年間を回想した。
「まず、一応謝っておく。晃の事、姉貴の事、黙っとってかんにん。でもな、多恵子さんと由梨ちゃんと幸せに暮らしてる義兄さんに知らせるんは辛かったんや。かんにんな」
「お前の事やからいろいろ考えてくれての事やと思うとった」
治夫としてはそう言わざるを得ない。
「けど、正直、ショックやったがや。突然現れたことも、その話の内容も、お前が俺に黙っていたことも。教えてくれるのやろ? どうも今日は面喰ってしまったさけ、頭が混乱しとるがや」
「ほりゃー、ほーやわな」
謝るだけ謝ってしまうと、康夫はもう以前の厚顔不遜な彼に戻り他人事のようにそう言った。
康雄の話はこうだった。
東北で大震災があった日、男の親戚の法事のために夫婦で仙台へ車で出かけ、遭難した。晃は同行しなかった。それが運命を分けた。遺体は一ヶ月ほどして車と共に見つかった。葬儀は他の犠牲者と合同で行ったが青柳の親族は元々不倫の末に律子と一緒になった男に冷淡だった。それでも男の遺骨は引き取ったが、律子の遺骨と晃を引き取ることに難色を示したので康雄が晃を金沢へ連れ帰った。
晃は当初グレた。手の付けられないほどに荒れた。康夫も持てあますほどだったというが、辛抱強く接し無事に高校に入学させることができた。それから晃は徐々に康雄に心を開くようになっていった。治夫の存在も認識していた。律子が治夫との離婚について事実を曲げて伝えていたこともわかった。母は治夫の浮気で離婚し自分は本当の父から捨てられた。なかなか帰ってこなかったのはママよりも好きな女の人の所へ行っているからだ。
そう教えられていた。
康雄は思い切って晃に真実を伝えた。
治夫と律子の仲介役だった康雄は、当時の治夫や律子からの手紙を保管していた。それらの証拠を示しながら、康雄は、いかに治夫が律子と晃を愛していたかを説いた。全てを、何一つ加えず何一つ隠すことなく伝えた。心を鬼にして晃の母を、自分の姉を糾弾した。
「それであの子は、晃はどういう反応をしたのや」
治夫はそれが一番聞きたい。
「意外や冷静だったわいね。父や母の日頃の態度から薄々わかってました、本当のことを言ってくれなかったから気に入らなかったんですみたいなこと言っとったさけ。
義兄さんの息子は、はつめいな子やな。旦那もあまり晃を構ってなかったようやさけ。再婚してからは忙しかったらしてなあ。エリート銀行マンいうんもだいばらやな。小さいころこそ、玩具買ってやったり遊園地連れてってやったりしたそうやが、それは懐柔するためやったんや。旦那にとっては姉貴が全てで、そのコブについてはどうでもよかったのやろな。それも計画通りに義兄さんと離婚が成立するまでの話。実際に引き取ってからは素っ気なかったのやろ。姉貴もそれ判ってて見て見ぬふりをしていたようやさけな。どっちもどっちや。因果応報やな」
康雄の毒舌は健在だった。あっさりした溜息がアルプスを越えて冷たく流れて来た。
「俺は言ったんや『今からでも、本当のお父さんのところに戻るか?』て。そしたらあの子は『いえ。叔父さんさえ良ければこのまま』って。ほう言いよったさけ。
なんでやわかるか、義兄さん。改めて本当のこと知ったんが一つ。それからな、姉貴結局また浮気しよったのや」
思わず目を閉じた。
「晃にしてみりゃそりゃ恥ずかしわ。物心つかん歳やったとはいえ自分自身が実の父親である義兄さんを捨ててパパを選んで、さらにまたママが別の男と浮気しとったんやさけ。今更どの面下げて、て思いやったのやろ。義兄さんには絶対言わんでくれと泣きよった。そやさけ晃のことは黙っとった。かんにんに、義兄さん」
蔑みを込めた晃の眼差しと、両親を失いさらに母親の嘘と度重なる不貞を知らされて失意に沈む青年の姿との整合がどうしても出来なかった。十五年という年月の間に晃が歩んだ苦悩。可哀そうとか不憫だとかいう普通の言葉では表せぬほどの思いが胸を刺した。治夫は鼻を啜った。
「康雄・・・」
まさに青天の霹靂でまだ気持ちの整理がつかなかったが、ひとまずは実の息子を長期にわたって養育してくれたことへの礼を尽くさねばならない。
「そんな重い荷物を背負わせてしまっていたんやな。こっちこそかんにん。あんやとな、康夫」
「なーんも。気にせんでええわいね」
康雄は鼻で笑った。
「そんなこと言ってもらうために電話したのやないのやさけ。金もかかっとらん。姉貴達多少金持っとったさけ、住んどったマンションの残債やら生命保険やら整理して、今までの学費やら何やら差し引いてちゃんと信託にしてあるさけな。子供はいらんが銭寄こせ言いよった仙台の旦那の親戚も弁護士入れて黙らした。そやさけなーんも後腐れ残っとらん」
そこで康雄は声をあらためて続けた。
「で、どうや? 結婚式、出てくれるけ」
「それなんやが・・・、今日聞いたばかりでまだ・・・」
「晃から彼女とのいきさつは聞いたけ?」
「いや、まだ」
「要するにな、『できちゃった』がや」
康雄は言い切った。
「子供け?」
「そこまで言わんかったけ? 今四か月目や言うとった。
彼女、いいとこのお嬢さんでな。俺も一緒に挨拶に行って頭下げてきたんや。この父親いうのが関東一円で手広く不動産会社経営してる御仁でなあ、叩き上げのカタブツみたいな人やった。最初は婚前交渉をえらい怒っとったんやが、そのうち晃の素性を知ったら大学休んでうちで働けて。しばらく様子見て判断するて言われたそうながや。そしたら、晃の奴、さっさとそのオヤジさんの会社で働きだしてなあ。オヤジさんから結婚のOKもらったのがつい先週の話でな。『逆玉』いうヤツやな」
「それで?」
「条件としては、子供が生まれて落ち着くまで仕事を続け、それから復学して必ず卒業すること。卒業したら仕事に戻ってゆくゆく経営者になるための勉強をすること。もう一つが義兄さんのことや。是非式に出てもらいなさいと。晃、しばらく悩んでたようやけど、今朝急に電話がきて『今東遠州についた』て。もう、俺も何やあいつのペースについていけんわ」
康雄は嬉しそうに笑った。
過去の経緯はともかく、自分の血を引いた息子が大きな幸せを自らの手で掴もうとしていることを素直に喜んだ。意に反して手放した息子だったが、立派に筋を通して独り立ちしていこうとしていることに安堵と誇りと慰めをもらった思いがした。
それはいい。
しかし、それだけに自分がのこのこ出て行っていいものか。
息子の成長に何ら寄与も無い生みの親。それに、康雄には言えないが自分という『疫病神』が関わるとうまく行くものもダメになるのではないか。そう思えてならなかった。
それに最も腑に落ちないのは、晃が未だに「青柳」姓を名乗っていることだ。自分を蔑ろにしたという継父の家の姓を何故守っているのか。そして意固地なようだが、その情況で「松任」である自分が親としてしゃしゃり出るのは簡単に甘受できるものではなかった。
そして最大の難関は、今は亡き最愛の妻、多恵子が遺した由梨の存在だった。
今、由梨に治夫の実の息子がいることを知らせてしまうのはあまりにも冒険に過ぎた。ここ三年、母の死を乗り越えてやっと父と娘の生活が落ち着きを見せてきたところだった。それに治夫の転勤も控えている。さっきもそれで一悶着したばかりだ。それだけでも動揺が予想されるのにさらに不確定要素を抱え込む気にはなれなかった。
これは、難しい・・・。
治夫が先に沈黙の圧力に負けた。康夫の誠意に応えるにも、ここはできるだけ率直に話すべきだと思った。
「うん・・・。やけどな、実質的に晃をそこまで育ててくれたんはお前や。そのお前を差し置いて一五年も放っておいた俺が父親面して出ていくのはどうも・・・」
「やっぱりな・・・。ほんなら風に言う思とったわいね」
「かんにん。アレなら、お相手の親父さんに会って頭を下げて説明させてもらう。俺は、表に出ない方がいい」
「俺にとってはどっちでもええわいね」と康雄は言った。
「ただな、義兄さんはあいつにとって唯一の、人の血の繋がった親や。相手の親御さんも晃も望んでる。あいつの幸せを思うなら、出てやるのが筋やし、実の子ォへのせめてもの愛情や。違うか」
そこで治夫は今日晃と再会してからずっと抱いてきた疑問を康雄にぶつけた。
「・・・本心なのやろか」
「え?」
「あの子は本心から俺にもう一度父親をやれ言うとんのやろか。結婚の条件だから仕方なくそう言うとんのや、ないやろか・・・」
アルプスを沈黙が越えてきた。
「ほうか・・・」と康雄は言った。
「ほりゃー・・・、晃から直に聞くしかないわいなあ・・・」
あまりにも意固地だと思われたことだろう。だが問わずには居られなかった。このまま何も問うことなく両手を広げて晃を受け入れる気にはどうしてもなれない。卑しい自分に嫌気がさしたが、それが偽らざるところだった。
康雄にはもう一日だけ考えさせてくれと言って電話を切った。晃ともう一度じっくり話しをする前に、自分自身に問い直さなければ。由梨に知られないように。
車を出た途端、厳しい風が治夫を責めた。思わず首をすくめ早々に温かい家に入ろうと玄関のドアに手をかけた。鍵が掛かっていた。
「あら?」
すぐ戻る心算だったから車のキーしか持っていない。
由梨のヤツだな。
高校生にもなってこんな下らない悪戯をするようでは。ここは父親としての威厳を示してビシッと言ってやらねばならない。インターフォンを押し、カメラを睨みつけた。間もなくドアの錠が開く音がした。が、ドアにはチェーンが掛けられている。隙間の向こうに猜疑心に満ちた目がヌッと現れた。
「どちらさんですか」
「由梨!」
ガツンと言ってやるのだ!。
自分に言い聞かせた。一際強い風が治夫のジャンパーの裾を殴り、襟を引いた。
寒さに、負けた。
「・・・お願い。開けて」
「・・・ふん!」
娘は哀れな父を鼻で笑いチェーンを外した。パジャマの上に綿入れを着て懐手をし、上がり框の上から治夫を胡散臭そうに見下ろしている。前にも羽目を外し過ぎて連絡もせずに午前様になったことがあった。その時も由梨に締め出され、懇願して家に入れてもらっていた。あれはいつだった? 今年の新年会だったか・・・。
「何時だと思ってるだ? 車の中でコソコソ。誰と電話してただ?」
娘はさらに疑わし気な目を向けていた。
「美奈じゃないなら、どっかの女だら」
「違うよ。ほら、金沢の康夫だよ。毎年年賀状来るだろう」
「見して」
空手の型のように、由梨の突き出してきた手が空を切った。
スマートフォンの画面に康雄との送信履歴を出して示した。そうしておいて由梨を避けるようにして家に上がった。フーンと言いながら依然疑いの目でキッチンまで追いかけて来る娘。何故これほどまでにしつこいのだろう。一体誰に似たんだと思いながら、それでも何とか言い訳を試みた。
「康夫の係累で俺も知ってる人のお子さんが今度結婚することになったの! 式に出てくれっていう、そういう電話だったの。久しぶりに話したから懐かしくてつい昔話に花が咲いちゃったの。金沢弁で。だから長電話になったの。ただそれだけなの!」
「じゃあ、家の中で話せばいいじゃん」
「お前が寝てるから気を使っただけやないか。何疑っとるんや。だらくさー」
「何語、それ」
ついさっきまで故郷訛りで喋っていたせいか、馬鹿々々しいという意味の言葉が出てしまった。言いながら仁王立ちの由梨をすり抜けて寝支度をするべく洗面所に向かった。その後をまだしつこくついてくる。まったく。この態度はどうだろう。まるで古女房が夫の浮気を疑っているみたいだ。半ば苦笑し半ば畏怖した。
「・・・やっぱ、美奈なんだ」
洗面所の鏡越しに目を細めてなおも不信の眼差しを送ってくる。頭を抱えた。
「ウチ、絶対認めんでね。美奈のこん、『お母さん』なんて呼べんで」
「お前さ、全然人の話聞いてないだろ」
「寝るし」
言いたいだけ言って、娘は自室に上がっていった。
勘弁してくれよ・・・。
治夫は鏡の中の自分に助けを求めた。
まったく。一体、なんていう日なんだろう。
由梨は部屋で机に向かった。
何も頭に入って来ない。集中力を全く欠いていた。課題だけは何とか終わらせたものの、もうすぐ始まる期末テストの準備が全く手に付かない。
スマートフォンを取り出してLINEにログインし美奈のIDを呼び出した。放課後からのメッセージは全て未読のままだ。舌打ちをした。あいつ、何してんだよ。彼氏とイチャイチャかよ。通話もできない。最近何人目かの彼氏と交際が始まったばかりでお盛んなのだ。
引き出しを開けて小さな平たい銀色の小箱を開けた。蠍座を示すシンボルマークがあしらわれたペンダントを取り出し身に着けた。指先でペンダントを弄った。
校則でアクセサリーが禁止されているために学校には着けていけない。由梨のお気に入りのこのペンダントを身に着けるのは寝るときと休みの日だけ。それを知っているのは親友の美奈だけだ。
何やってんだよ、話したいのに。
あーもう今日は止めだ。
机の長引き出しを開けた。入っている幾冊かのノートを取り除け底板を引き上げると、ケント紙の束と硬度の異なる何種類かの鉛筆、Gペンやインク壺が現れた。
椅子を少し引き、底板を引き出しと机の縁に斜めに寝かせると即席の作画台になった。
鉛筆を取って描きかけのマンガの続きを描き始めた。
由梨の密かな夢。それはマンガ家になることだった。
慣れた運筆でキャラクターを描いてゆく。二頭身で大幅にデフォルメされてはいるがモデルの特徴は余すところなく描かれている。一枚の原稿のそこかしこに既に吹き出しが描かれ文字が書かれている。ネームと呼ばれる工程に続き、作画に入っていた。
二頭身のキャラはちょこまかと動き回り、シリアスな場面では急に八頭身のイケメンに変わる。ネームにはこう書かれていた。
「大好きだよ、由梨」
「由梨がそばにいてくれないと、俺、悲しくなっちゃうよ」
二頭身も八頭身も、見る人が見れば一発で誰がモデルなのかわかる。
なにやってんだ、あたし。
バカらしくなって道具を片付け、羽織っていた綿入れを脱ぐとベッドに潜り込んだ。
脳裏に先刻の治夫の姿が浮かんだ。不安になった。
あれは、「ボー」だ。母が言っていた「ボー」だ。間違いない。
問題は何の「ボー」なのか、だ。治夫の言う通り、女ではないだろう。
「あーっ、もう!」
布団の中に小さく吐き出した。イライラする。
何で言ってくれないのか。自分じゃ頼りにならないのか。まだ前の奥さんとの離婚の事引き摺ってるのか。それとも・・・。
もう、いい。寝る。
目を閉じた。いつものように治夫の顔を思い浮かべ幸せな気持ちで寝に就こうとした。だが、そういう日に限ってなかなか睡魔がやってこないのだった。
「チクショウ! ハルオのやつ・・・。ばーか、ばーか、ばーか!」
布団の中で父を詰る。そうすると何故か気が晴れ、ほんわかした気持ちに包まれる。父との真実を知った日から、由梨はそのようにして自分を保っていた。
玄関前のカーポートにある車に乗り込みエンジンをかけた。夜中ではあったが風の音であまり目立たない。隣家は伸ばした腕の手のひらくらいにみえるほど離れているので不都合は無い。康雄は電話の前で待っていたらしくすぐに出た。
「びっくりしたやろ」
事もなげに彼は言った。
「でかなったなあ」
治夫は内心の葛藤を悟られないよう、殊更大袈裟に実の息子に会った感想を言った。
「立派な男になっとったじー。様子もじまんらしーなったがいに。あの時、まだ幼稚園児やった」
沈黙で過ぎ去った一五年間を回想した。
「まず、一応謝っておく。晃の事、姉貴の事、黙っとってかんにん。でもな、多恵子さんと由梨ちゃんと幸せに暮らしてる義兄さんに知らせるんは辛かったんや。かんにんな」
「お前の事やからいろいろ考えてくれての事やと思うとった」
治夫としてはそう言わざるを得ない。
「けど、正直、ショックやったがや。突然現れたことも、その話の内容も、お前が俺に黙っていたことも。教えてくれるのやろ? どうも今日は面喰ってしまったさけ、頭が混乱しとるがや」
「ほりゃー、ほーやわな」
謝るだけ謝ってしまうと、康夫はもう以前の厚顔不遜な彼に戻り他人事のようにそう言った。
康雄の話はこうだった。
東北で大震災があった日、男の親戚の法事のために夫婦で仙台へ車で出かけ、遭難した。晃は同行しなかった。それが運命を分けた。遺体は一ヶ月ほどして車と共に見つかった。葬儀は他の犠牲者と合同で行ったが青柳の親族は元々不倫の末に律子と一緒になった男に冷淡だった。それでも男の遺骨は引き取ったが、律子の遺骨と晃を引き取ることに難色を示したので康雄が晃を金沢へ連れ帰った。
晃は当初グレた。手の付けられないほどに荒れた。康夫も持てあますほどだったというが、辛抱強く接し無事に高校に入学させることができた。それから晃は徐々に康雄に心を開くようになっていった。治夫の存在も認識していた。律子が治夫との離婚について事実を曲げて伝えていたこともわかった。母は治夫の浮気で離婚し自分は本当の父から捨てられた。なかなか帰ってこなかったのはママよりも好きな女の人の所へ行っているからだ。
そう教えられていた。
康雄は思い切って晃に真実を伝えた。
治夫と律子の仲介役だった康雄は、当時の治夫や律子からの手紙を保管していた。それらの証拠を示しながら、康雄は、いかに治夫が律子と晃を愛していたかを説いた。全てを、何一つ加えず何一つ隠すことなく伝えた。心を鬼にして晃の母を、自分の姉を糾弾した。
「それであの子は、晃はどういう反応をしたのや」
治夫はそれが一番聞きたい。
「意外や冷静だったわいね。父や母の日頃の態度から薄々わかってました、本当のことを言ってくれなかったから気に入らなかったんですみたいなこと言っとったさけ。
義兄さんの息子は、はつめいな子やな。旦那もあまり晃を構ってなかったようやさけ。再婚してからは忙しかったらしてなあ。エリート銀行マンいうんもだいばらやな。小さいころこそ、玩具買ってやったり遊園地連れてってやったりしたそうやが、それは懐柔するためやったんや。旦那にとっては姉貴が全てで、そのコブについてはどうでもよかったのやろな。それも計画通りに義兄さんと離婚が成立するまでの話。実際に引き取ってからは素っ気なかったのやろ。姉貴もそれ判ってて見て見ぬふりをしていたようやさけな。どっちもどっちや。因果応報やな」
康雄の毒舌は健在だった。あっさりした溜息がアルプスを越えて冷たく流れて来た。
「俺は言ったんや『今からでも、本当のお父さんのところに戻るか?』て。そしたらあの子は『いえ。叔父さんさえ良ければこのまま』って。ほう言いよったさけ。
なんでやわかるか、義兄さん。改めて本当のこと知ったんが一つ。それからな、姉貴結局また浮気しよったのや」
思わず目を閉じた。
「晃にしてみりゃそりゃ恥ずかしわ。物心つかん歳やったとはいえ自分自身が実の父親である義兄さんを捨ててパパを選んで、さらにまたママが別の男と浮気しとったんやさけ。今更どの面下げて、て思いやったのやろ。義兄さんには絶対言わんでくれと泣きよった。そやさけ晃のことは黙っとった。かんにんに、義兄さん」
蔑みを込めた晃の眼差しと、両親を失いさらに母親の嘘と度重なる不貞を知らされて失意に沈む青年の姿との整合がどうしても出来なかった。十五年という年月の間に晃が歩んだ苦悩。可哀そうとか不憫だとかいう普通の言葉では表せぬほどの思いが胸を刺した。治夫は鼻を啜った。
「康雄・・・」
まさに青天の霹靂でまだ気持ちの整理がつかなかったが、ひとまずは実の息子を長期にわたって養育してくれたことへの礼を尽くさねばならない。
「そんな重い荷物を背負わせてしまっていたんやな。こっちこそかんにん。あんやとな、康夫」
「なーんも。気にせんでええわいね」
康雄は鼻で笑った。
「そんなこと言ってもらうために電話したのやないのやさけ。金もかかっとらん。姉貴達多少金持っとったさけ、住んどったマンションの残債やら生命保険やら整理して、今までの学費やら何やら差し引いてちゃんと信託にしてあるさけな。子供はいらんが銭寄こせ言いよった仙台の旦那の親戚も弁護士入れて黙らした。そやさけなーんも後腐れ残っとらん」
そこで康雄は声をあらためて続けた。
「で、どうや? 結婚式、出てくれるけ」
「それなんやが・・・、今日聞いたばかりでまだ・・・」
「晃から彼女とのいきさつは聞いたけ?」
「いや、まだ」
「要するにな、『できちゃった』がや」
康雄は言い切った。
「子供け?」
「そこまで言わんかったけ? 今四か月目や言うとった。
彼女、いいとこのお嬢さんでな。俺も一緒に挨拶に行って頭下げてきたんや。この父親いうのが関東一円で手広く不動産会社経営してる御仁でなあ、叩き上げのカタブツみたいな人やった。最初は婚前交渉をえらい怒っとったんやが、そのうち晃の素性を知ったら大学休んでうちで働けて。しばらく様子見て判断するて言われたそうながや。そしたら、晃の奴、さっさとそのオヤジさんの会社で働きだしてなあ。オヤジさんから結婚のOKもらったのがつい先週の話でな。『逆玉』いうヤツやな」
「それで?」
「条件としては、子供が生まれて落ち着くまで仕事を続け、それから復学して必ず卒業すること。卒業したら仕事に戻ってゆくゆく経営者になるための勉強をすること。もう一つが義兄さんのことや。是非式に出てもらいなさいと。晃、しばらく悩んでたようやけど、今朝急に電話がきて『今東遠州についた』て。もう、俺も何やあいつのペースについていけんわ」
康雄は嬉しそうに笑った。
過去の経緯はともかく、自分の血を引いた息子が大きな幸せを自らの手で掴もうとしていることを素直に喜んだ。意に反して手放した息子だったが、立派に筋を通して独り立ちしていこうとしていることに安堵と誇りと慰めをもらった思いがした。
それはいい。
しかし、それだけに自分がのこのこ出て行っていいものか。
息子の成長に何ら寄与も無い生みの親。それに、康雄には言えないが自分という『疫病神』が関わるとうまく行くものもダメになるのではないか。そう思えてならなかった。
それに最も腑に落ちないのは、晃が未だに「青柳」姓を名乗っていることだ。自分を蔑ろにしたという継父の家の姓を何故守っているのか。そして意固地なようだが、その情況で「松任」である自分が親としてしゃしゃり出るのは簡単に甘受できるものではなかった。
そして最大の難関は、今は亡き最愛の妻、多恵子が遺した由梨の存在だった。
今、由梨に治夫の実の息子がいることを知らせてしまうのはあまりにも冒険に過ぎた。ここ三年、母の死を乗り越えてやっと父と娘の生活が落ち着きを見せてきたところだった。それに治夫の転勤も控えている。さっきもそれで一悶着したばかりだ。それだけでも動揺が予想されるのにさらに不確定要素を抱え込む気にはなれなかった。
これは、難しい・・・。
治夫が先に沈黙の圧力に負けた。康夫の誠意に応えるにも、ここはできるだけ率直に話すべきだと思った。
「うん・・・。やけどな、実質的に晃をそこまで育ててくれたんはお前や。そのお前を差し置いて一五年も放っておいた俺が父親面して出ていくのはどうも・・・」
「やっぱりな・・・。ほんなら風に言う思とったわいね」
「かんにん。アレなら、お相手の親父さんに会って頭を下げて説明させてもらう。俺は、表に出ない方がいい」
「俺にとってはどっちでもええわいね」と康雄は言った。
「ただな、義兄さんはあいつにとって唯一の、人の血の繋がった親や。相手の親御さんも晃も望んでる。あいつの幸せを思うなら、出てやるのが筋やし、実の子ォへのせめてもの愛情や。違うか」
そこで治夫は今日晃と再会してからずっと抱いてきた疑問を康雄にぶつけた。
「・・・本心なのやろか」
「え?」
「あの子は本心から俺にもう一度父親をやれ言うとんのやろか。結婚の条件だから仕方なくそう言うとんのや、ないやろか・・・」
アルプスを沈黙が越えてきた。
「ほうか・・・」と康雄は言った。
「ほりゃー・・・、晃から直に聞くしかないわいなあ・・・」
あまりにも意固地だと思われたことだろう。だが問わずには居られなかった。このまま何も問うことなく両手を広げて晃を受け入れる気にはどうしてもなれない。卑しい自分に嫌気がさしたが、それが偽らざるところだった。
康雄にはもう一日だけ考えさせてくれと言って電話を切った。晃ともう一度じっくり話しをする前に、自分自身に問い直さなければ。由梨に知られないように。
車を出た途端、厳しい風が治夫を責めた。思わず首をすくめ早々に温かい家に入ろうと玄関のドアに手をかけた。鍵が掛かっていた。
「あら?」
すぐ戻る心算だったから車のキーしか持っていない。
由梨のヤツだな。
高校生にもなってこんな下らない悪戯をするようでは。ここは父親としての威厳を示してビシッと言ってやらねばならない。インターフォンを押し、カメラを睨みつけた。間もなくドアの錠が開く音がした。が、ドアにはチェーンが掛けられている。隙間の向こうに猜疑心に満ちた目がヌッと現れた。
「どちらさんですか」
「由梨!」
ガツンと言ってやるのだ!。
自分に言い聞かせた。一際強い風が治夫のジャンパーの裾を殴り、襟を引いた。
寒さに、負けた。
「・・・お願い。開けて」
「・・・ふん!」
娘は哀れな父を鼻で笑いチェーンを外した。パジャマの上に綿入れを着て懐手をし、上がり框の上から治夫を胡散臭そうに見下ろしている。前にも羽目を外し過ぎて連絡もせずに午前様になったことがあった。その時も由梨に締め出され、懇願して家に入れてもらっていた。あれはいつだった? 今年の新年会だったか・・・。
「何時だと思ってるだ? 車の中でコソコソ。誰と電話してただ?」
娘はさらに疑わし気な目を向けていた。
「美奈じゃないなら、どっかの女だら」
「違うよ。ほら、金沢の康夫だよ。毎年年賀状来るだろう」
「見して」
空手の型のように、由梨の突き出してきた手が空を切った。
スマートフォンの画面に康雄との送信履歴を出して示した。そうしておいて由梨を避けるようにして家に上がった。フーンと言いながら依然疑いの目でキッチンまで追いかけて来る娘。何故これほどまでにしつこいのだろう。一体誰に似たんだと思いながら、それでも何とか言い訳を試みた。
「康夫の係累で俺も知ってる人のお子さんが今度結婚することになったの! 式に出てくれっていう、そういう電話だったの。久しぶりに話したから懐かしくてつい昔話に花が咲いちゃったの。金沢弁で。だから長電話になったの。ただそれだけなの!」
「じゃあ、家の中で話せばいいじゃん」
「お前が寝てるから気を使っただけやないか。何疑っとるんや。だらくさー」
「何語、それ」
ついさっきまで故郷訛りで喋っていたせいか、馬鹿々々しいという意味の言葉が出てしまった。言いながら仁王立ちの由梨をすり抜けて寝支度をするべく洗面所に向かった。その後をまだしつこくついてくる。まったく。この態度はどうだろう。まるで古女房が夫の浮気を疑っているみたいだ。半ば苦笑し半ば畏怖した。
「・・・やっぱ、美奈なんだ」
洗面所の鏡越しに目を細めてなおも不信の眼差しを送ってくる。頭を抱えた。
「ウチ、絶対認めんでね。美奈のこん、『お母さん』なんて呼べんで」
「お前さ、全然人の話聞いてないだろ」
「寝るし」
言いたいだけ言って、娘は自室に上がっていった。
勘弁してくれよ・・・。
治夫は鏡の中の自分に助けを求めた。
まったく。一体、なんていう日なんだろう。
由梨は部屋で机に向かった。
何も頭に入って来ない。集中力を全く欠いていた。課題だけは何とか終わらせたものの、もうすぐ始まる期末テストの準備が全く手に付かない。
スマートフォンを取り出してLINEにログインし美奈のIDを呼び出した。放課後からのメッセージは全て未読のままだ。舌打ちをした。あいつ、何してんだよ。彼氏とイチャイチャかよ。通話もできない。最近何人目かの彼氏と交際が始まったばかりでお盛んなのだ。
引き出しを開けて小さな平たい銀色の小箱を開けた。蠍座を示すシンボルマークがあしらわれたペンダントを取り出し身に着けた。指先でペンダントを弄った。
校則でアクセサリーが禁止されているために学校には着けていけない。由梨のお気に入りのこのペンダントを身に着けるのは寝るときと休みの日だけ。それを知っているのは親友の美奈だけだ。
何やってんだよ、話したいのに。
あーもう今日は止めだ。
机の長引き出しを開けた。入っている幾冊かのノートを取り除け底板を引き上げると、ケント紙の束と硬度の異なる何種類かの鉛筆、Gペンやインク壺が現れた。
椅子を少し引き、底板を引き出しと机の縁に斜めに寝かせると即席の作画台になった。
鉛筆を取って描きかけのマンガの続きを描き始めた。
由梨の密かな夢。それはマンガ家になることだった。
慣れた運筆でキャラクターを描いてゆく。二頭身で大幅にデフォルメされてはいるがモデルの特徴は余すところなく描かれている。一枚の原稿のそこかしこに既に吹き出しが描かれ文字が書かれている。ネームと呼ばれる工程に続き、作画に入っていた。
二頭身のキャラはちょこまかと動き回り、シリアスな場面では急に八頭身のイケメンに変わる。ネームにはこう書かれていた。
「大好きだよ、由梨」
「由梨がそばにいてくれないと、俺、悲しくなっちゃうよ」
二頭身も八頭身も、見る人が見れば一発で誰がモデルなのかわかる。
なにやってんだ、あたし。
バカらしくなって道具を片付け、羽織っていた綿入れを脱ぐとベッドに潜り込んだ。
脳裏に先刻の治夫の姿が浮かんだ。不安になった。
あれは、「ボー」だ。母が言っていた「ボー」だ。間違いない。
問題は何の「ボー」なのか、だ。治夫の言う通り、女ではないだろう。
「あーっ、もう!」
布団の中に小さく吐き出した。イライラする。
何で言ってくれないのか。自分じゃ頼りにならないのか。まだ前の奥さんとの離婚の事引き摺ってるのか。それとも・・・。
もう、いい。寝る。
目を閉じた。いつものように治夫の顔を思い浮かべ幸せな気持ちで寝に就こうとした。だが、そういう日に限ってなかなか睡魔がやってこないのだった。
「チクショウ! ハルオのやつ・・・。ばーか、ばーか、ばーか!」
布団の中で父を詰る。そうすると何故か気が晴れ、ほんわかした気持ちに包まれる。父との真実を知った日から、由梨はそのようにして自分を保っていた。
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