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過去
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しおりを挟むどのくらいの時間が経っただろう。車のエンジンの音とヘッドライトの光を感じた。コツコツとアスファルトを叩くヒールの音が近づいてくるのがわかった。急に足音が止まり、一呼吸おいて駆け足で近づいてきた。
「所長代理?」
土屋の冷たい手が腫れて熱を帯びた頬や首筋に触れた。痛みに思わず顔を顰めた。
「どうしたんですか? 何があったんです」
「ああ。心配ない。大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょう! 大怪我ですよ」
「あなたこそ、こんな時間にどうしたんです」
多恵子はそれには答えずに治夫のネクタイを緩め、首の後ろに手を入れて自分のバッグを押し込んだ。携帯電話を取り出し電話し始めた。
「おい、どこに電話するんだ。やめろ。大事になる」
彼女を止めようとしたが、背中から腕に激痛が走り痺れて動けなかった。
「もう、なってます! 一体何があったんですか」
彼女は着ていたジャケットを脱いで掛けてくれた。怒っているように見えた。灯りが点いてガラスのドア越しに傷ついた治夫を照らした。冷たい濡れタオルが治夫の顔を拭った。
「念のために警察も呼びます」
「止めてくれ。本当に、何でもないんだ」
「これだけの怪我です。救急車呼べばどうせいろいろ聞かれてそうなります。入ったばかりですけど、所長代理がどういうお立場か少しは判るつもりです」
美しい奥二重が瞬きを忙しくしながら治夫を見下ろしていた。後で束ねた長い髪、おくれ毛が微風に揺れていた。小さくて柔らかな掌が頬に置かれた。リンスとファウンデーションとデオドラントの香りに重なって微かな柔らかい女の匂いが鼻腔をくすぐった。
治夫は、気を失った。
診察とレントゲン撮影に続き警察の事情聴取を受けた。第一発見者である多恵子が現場検証のために一度事務所に戻っていった。治夫も、治夫の意図を察した多恵子も、心当たりについてはわからないで押し通した。警察もそれ以上追及せず、退院したら署まで来て下さいと言って帰っていった。医師からは、打撲は酷いが脳波にも骨にも異常はない事、明日か明後日には退院できるとの説明を受けた。
病室は個室だった。担ぎ込まれた時間が遅かったからだろう。頭上の白色灯に照らされた白い壁と日焼けしたアイボリーのカーテンだけの部屋がよそよそしい静寂をくれた。
灯りが眩しかった。明るさを落とそうと首を巡らせてそれらしきコントローラーを探そうとしたが背中と腕の激痛に断念した。蹴られていた間も痛かったが、時間と共に持続性の痛みが大きくなっていた。痛み止めの注射はさっぱり効いていないようだ。
日本海から静岡まで流れてきて、他人の言うままにただひたすら機械のように動き回り、挙句身動きも出来ず病院のベッドにただ寝かされているとは。
俺は一体何をやっているのだろう。
病室のドアがノックされた。血相を変えた松谷が多恵子を伴って入ってきた。
「松任君! いやいや、大変だったなあ・・・」
松谷はベッド際の椅子にどっかりと腰を下ろした。
「ご迷惑をお掛けしました」
体を起こそうとしたが、やはり無理だった。寝巻から露出している部分は全て包帯や湿布だらけになっていた。
「あ! おい、じっとしてなくちゃいかん!」
多恵子はレジ袋を下げていて、治夫の足元にあるベッドテーブルの上に中身を出して一つひとつ包装を剥がしていった。
「まだ痛むのか」
松谷は大きく息を付いた。
「今当直の医者にも会ってきた。大事なさそうで良かった。仕事の事は心配するな。明日は俺が一日東遠州に居るようにする」
「はあ・・・。いろいろすみません。明後日には退院させてくれるみたいですので、甘えさせていただきます」
「まあ、いい。焦らずゆっくり養生することだ。・・・ところで」
松谷は身を乗り出して来て声を落とした。
「やったのはまさかウチの連中じゃないだろうな。そうなると聊か面倒なことになる」
「暗くて顔は確認できませんでした。いずれも若い奴のように感じました。恐らく違うんじゃないかと思います」
まるで他人ごとのように淡々と話した。松谷はそんな治夫をじっと見下ろした。
「そうか。あいつらもそこまでバカじゃないだろうしな。だが動機からすれば十分有りうる話だ。誰か、人を使ったとかな」
そう言いながら席を立った。
「すまんな。とにかく今日明日は仕事のことは考えずにゆっくり治療に専念することだ」
松谷は土屋君帰るかと声をかけた。
「所長代理のお世話をしたいので」
彼女は松谷の顔も見ずに買って来たコップや箸を整えていた。
「そうか・・・。土屋君。今日は本当にありがとう。君が来てくれなかったら、大切な人材を失うところだった。じゃあ松任君、大事にな」
松谷の後ろ姿に礼を言った。閉じたドアを見つめながら、ふと沸いてきた疑念を吟味し始めた。
何故彼はこんなにも早くここへ来たのだろう。偶然だとしてもタイミングが良すぎる。彼は直接病院へ来たのだろうか。それとも事務所で彼女と落ち合って来たのだろうか。そんなことはどうでもいいことだ。あらためて自分に言い聞かせる反面、モヤモヤとしたものが胸に渦巻いた。
何故か多恵子の表情が次第に険しくなっていった。彼女は下着の替えまで用意してくれていた。それらをベッドサイドの物入れの中に仕舞いながら事務的な口調で言った。
「お気に召さないかも知れません。おろしたてですから気持ちが悪いでしょうけどここに置いておきますから」
「そんなことまで。いろいろ申し訳ありませんでした」
多恵子は目礼で応え、立ち去りかけた。が、立ち止まって治夫を睨んだ。その視線に気圧され目を反らした。彼女はさらにベッドに寄って先刻まで松谷が座っていた椅子に腰を下ろした。
「所長代理」
鋭い目が真直ぐに治夫を射た。
「邪推かも知れませんが、もしかして所長代理は私と所長の間に何かあると疑っていらっしゃるのじゃないですか?」
いきなり核心をついてきた。
大人同士の関係をあれこれ詮索するつもりは無い。そもそも、興味が無い。それに女なんて一皮めくれば何を考えているかわからない生き物だ。諦めて多恵子に向き直り、当たり障りのない言い方を探した。
「まあ、あんなことがあってそこまで気にする余裕は無かったけど、でも言われてみればそうだね。どうしてあの時間に事務所に来たのかな」
「代理には申告していませんでしたが、この一週間、一度保育園へ娘を迎えに行き、友人の家に預けてから戻って残業していました」
「残業?」
「面接の時、残業なんてしなくて済むようにしますなんて大見得切ってしまったので恥ずかしくて言えなかったんです。今のシステムに納得が行かなかったので、既存のソフトをベースにして作り替えてみました。恐らく効率は今よりも良くなるはずです。完成したらご覧いただこうと思っていました」
意外な展開に治夫が沈黙していると彼女は言葉を継いだ。
「もう一つ。所長は私を営業に連れ出す度に食事にご一緒させてくださいました。一度だけお酒に誘われましたがきっぱりお断りさせていただいています。そういう態度を取ると今後仕事に差し支えるのかも知れませんが、そんな会社なら辞めてもいいやと思っていました。でも・・・」
そこまで一気に喋った。吐き出してスッキリしたのか、張り詰めていた気持ちから解放されたのか、初めて多恵子の瞳から挑戦的な色が消えた。
「所長代理の御側で働かせていただいているうちに、何か私でお手伝いできることは無いかと考えるようになりました。でも代理は最低限の事しか私たちにやらせてくれません。いつもお一人で何もかも抱え込んでいるように見えます」
涼し気で凛とした目元に癇が走っているのがよくわかった。彼女は怒っていた。
「どうしてもっと私たちを使ってくださらないんですか!」
ドアがノックされて、若い看護師がはいって来た。消灯時間を過ぎていると注意された。多恵子は立って看護師に頭を下げた。そして治夫に手を差し出した。
「所長代理のお部屋の鍵を貸して下さい。スーツ持ってきます。今日着てらしたのはボロボロになっちゃいましたから。退院の時に必要ですよね」
治夫は戸口のコートハンガーに掛けられた泥まみれのスーツを見た。
「あ、ああ」
それしか言えなかった。
多恵子は勝手に治夫のセカンドバッグを開け、これですねと目当ての鍵束を取り出し自分のバッグに仕舞った。
「明日また来ます」
そういって踵を返した。
「あ、あの・・・」
口が上手く開かず、舌を噛んだ。
「今日は、本当にありがとう。助かったよ。お子さんにも悪いことをした。申し訳ない」
何とかそれだけ言うことが出来た。
「大丈夫です。ご心配なく。お大事に。お休みなさい」
彼女の残り香が病室の孤独を惹きたてた。
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