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 翌週、松谷から電話があった。
「常務の仏頂面、お前にも見せたかったぞ」
 彼は電話口で笑いながら伝えて来た。
「そっちは大丈夫か」
「全て終わりました。問題はありません」
「それならいい。いろいろあったが、こんなのは想定内だ。桑田もなあ、腰巾着だったわりには、あっさり親分に見限られたようだな。世が世なら常務にくっついて本社で羽振りを利かせていたはずだ。静岡でくすぶっているせいで屈託があったんだろな。
 いくら寄り合い所帯だからってあんな無能が本社に入れられるわけはねえからな。引継ぎをサボタージュする人間も出てくるかも知れんが、あくまで形式だ。事実上客先を君が押さえているんだから何の問題もない。頑張れよ」
「はい。ありがとうございます」
「あ、それからな」と松谷は付け加えた。
「君、詰所や現場に差し入れ持って行ってるんだってな。御前崎のトシさんがな、三十年この会社にいるが営業さんにこんなことしてもらったの初めてだって喜んでたぞ」
 松谷は本丸の桑田の対応だけは治夫任せにしなかった。まずくなれば切り捨てられるとさえ覚悟していただけに、松谷の親分肌な一面を見た思いがした。もともと将来に夢を持っていない治夫にはどうでも良いことではあったが。

 新しく選抜した営業たちが着任し、ようやく新体制での仕事がスタートした。
 名古屋と東京での大口の顧客対応を兼務する松谷は、週に一度仮事務所に来た。治夫か統合関係の進捗状況を聞き次週次月の見通しを確認する。それらが終わると山岸幸恵や土屋多恵子に親し気に声をかける。そして二週に一度は多恵子を連れだした。
「新人の彼女にいろいろ覚えてもらいたいからな。定時までには戻る」
 定時を過ぎ、他の営業や幸恵が退社した後、治夫が一人で電話をしていると、表に車が止まった。松谷と多恵子が事務所に入って来た。
「今戻りました」と彼女は言った。その表情からは何も伺えなかった。
「おう。渋滞にはまって遅くなっちまった」
 治夫は電話を続けながら頭だけ下げた。松谷は多恵子と二三事話してから軽く手を上げて事務所を出て行った。多恵子は何事もなかったようにPCに向かった。
 電話を終えてもしばらく黙っていた。しかし多恵子はなかなか帰る素振りを見せなかった。痺れを切らし、土屋さん、と呼びかけた。
「もう遅いし、帰ってください」
「ですが、外出していて今日やるはずだった分が・・・」
「今はまだ準備段階ですから」
「ですが、所長代理が頑張っていらっしゃるのに私だけ楽してるみたいで・・・」
「土屋さん」
 治夫は語気を強めた。
「これは自分の仕事なんです。あなたが松谷所長に同行して市場を視察するのも立派な仕事です。あなたは今日一日十分に働いたんですから気兼ねする必要はありません」
 言葉を選んだつもりだったが、どうしても嫌味っぽくなってしまった。少し後悔した。
「お子さん、まだ小さいんでしょう。今日はもう帰ってください」
「わかりました」
 蟠りを残した表情のまま、多恵子は席を立ち帰り支度を始めた。
「では、所長代理、お先に失礼します」
「お疲れさまでした」
 治夫は書類に目を落としたまま返事をした。
「あの・・・」
 目を上げた。
 多恵子は、いえ何でもありません、お休みなさいと事務所を出て行った。
 一体何を言おうとしたのだろう。
 少し気にはなったが、元々関心はなかったし、今後も持たないようにするつもりだった。女はもう二度とごめんだ。その気持ちに聊かも揺るぎはなかった。
 帰宅する前に工場の事務所にまだ灯りが点いているのを見た。丁度いい。今までに話の付いた工員たちの書類を届けておこう。
 事務所に上がると赤堀という女性事務員が一人で机に向かっていた。
「遅くまで大変ですね。これ、まだ途中ですが今日までに纏まった分です」
 カウンター越しに書類を手渡した。
「お手数をおかけして申し訳ございません」
 地味な紺の事務服の赤堀は丁寧に頭を下げた。
「いえ。この程度の事は・・・。ただ、出来ればくれぐれも面接や内定の決まった方には社員同士で話を出さないように伝えて下さい。無理かもしれませんけどね。
 それと、多少畑違いでも我慢してくださいと。変わらなければ、生き残れませんから。皆、そうですから」
「もちろんです。その辺はしっかり言い伝えますので」
「あの、赤堀さん。一つお尋ねしたかったのですが、再就職希望の方のリストにあなたのお名前がありませんでした。よろしいんですか」
 そこで初めて赤堀は表情を和らげた。
「まだ全員の行く末が決まってませんし、それにここが無くなったら家庭に戻ろうと思ってましたから。子供も就職してお金のかかる時期も過ぎましたし・・・」

 治夫は極力引継ぎに同行した。予想通り桑田をはじめ三名の古株が何かと理由をつけて引継ぎを拒んだ。バカな連中だ。直属の上司の業務命令に服さず、不満があると上司を飛び越えて上役に直訴を繰り返すような人間が組織の中で信頼されるはずがない。それにここまで来ればどう足掻いたところで決定は覆らない。前任者抜きでの挨拶回りを続行した。
 鋳物工場の工員たちの再就職先もあと四五名を残して決まりつつあった。残ったのはやはり資格のない若年工員たちだった。
 今日は名古屋近辺の大手自動車会社でもあたってみるか。下請け孫請けレベルでも社員寮を持った工場があったはずだ。
 そう考えながらいつもより早めに外回りから上がり、灯りの消えた仮事務所のドアを開錠しようとしているところだった。
 突然背後から殴られ、引き倒された。
 三人か四人なのかよくわからなかった。引き倒された後はひたすら蹴られた。腹と頭を丸めてじっと耐えた。暗がりで、皆帽子を目深に被ってマスクをしていたから顔はわからなかった。彼らが唾を吐いて立ち去った後に時計を見た。三十分ほども続いたかと思われたが実際には四、五分でしかなかったようだ。起き上がれるか試したが背中が異常に痛んだ。そのままでいた。起き上がろうとする気力もなかった。
 もう、いいや。
 起き上がらなければならない理由が見いだせなかった。傷ついた頬を夜風が弄るに任せた。
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