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しおりを挟む仮事務所の表には事務用品のレンタル業者から今朝届いた備品が早春の眩しい光に照らされて放置されていた。治夫は一人で机や椅子や事務機器を運び入れていた。そこへ下ろしたてのジャケットにズボンという作業服姿の女がやって来た。
「おはようございます」
土屋多恵子は両手にバッグと紙袋とをぶら下げ、椅子を掻き分けるようにして事務所の戸口にやって来た。
「私、遅刻しました?」
「いいえ。時間どおりですよ」
古染みのある肘掛け椅子を運び入れながら治夫は答えた。レンタルだから文句は言えない。
「土曜日なのに無理を言って申し訳ない。PCのセッティングはあなたにお願いしたかったので。あの、お子さんは・・・」
「この近所に友達がいるんです。そこに預けてきました」
土屋は言った。
「ですから、もし残業とかになっても頼れます。今日からお世話になります。よろしくお願いします」
「そうですか・・・。こちらこそ、よろしくお願いします」
すぐ隣には建設会社の現場事務所があり、その向こう側には「箱馬」と呼ばれる黄色と黒に塗られ建設会社のロゴが入ったバリケードが並べられていた。新事務所棟を建てる予定になっている敷地の基礎工事が始まっていた。周囲は鋳物工場の内部を改装するための重機や資材を運び込むトレーラーや大型トラックが始終出入りしていて騒々しかった。
土屋も自分の荷物を片隅に置き治夫を手伝い始めた。
「他の方々はこれからですか」
「ぼちぼち来ると思いますけどね」
搬入が終わり、土屋が並べられた机に雑巾をかけていると、いつもの事務服でなく作業服姿の山岸が段ボール箱を抱えてやってきた。
「遅れてすみません」
土屋と山岸が「すみません」「いいえ」などと声を掛け合いながら営業車から段ボール箱を運び入れている間に、治夫は部屋の片隅をローパーテーションで仕切り、そこに粗末な応接を置いた。
防災放送の十二時のジングル「ふじの山」が鳴り渡った。
ヘルメットをかぶった建設作業員達の向こう側に見える鋳物工場。そのスレート葺きの造形棟から鉄粉混じりの粉塵が吐き出されてキラキラ輝いていた。埃と共に煤で真っ黒になった工員たちがぞろぞろと出てきて手洗い場に溜まった。二三人の影が集まってこちらを見ていた。鋳物工場の操業はその月一杯で終了する予定になっていた。
「二人はお昼にしてください。山岸さん、出来れば長めに。食事の後消耗品なんかを買いに行ってもらうと助かります」
「土屋さん、でしたね」
山岸は名前を確かめるように土屋に声を掛けた。
「行きませんか」
二人は連れだって車に乗り出て行った。
「あのう、何食べましょうか」
左右をしつこいくらい確認して車を公道に出しながら山岸は尋ねた。この辺りは周り一面田んぼで、そこかしこで耕運機がうなり土起こしが始まっていた。
「そうですねえ。こんな格好だしなあ。ラーメンか牛丼でいいです。さっさと済ませて戻りたいですね」
「あのう、多分松任さんは気を遣ったんだと思うんです」
「どういうことですか」
「松任さん、これから異動になる人の面接なんです。昨日で終わるはずだったんです。私も受けました。私は引き続き松任さんの下で働くことになりましたが、昨日来れなかった人もいて・・・。
本当は松谷所長がすることなのに松任さん、押し付けられちゃったんです。転属させられる人たち、皆不満だらけで・・・。多分修羅場になるから、来たばかりの土屋さんに見せたくなかったんじゃないかって・・・」
「そうだったんですか」
と土屋は言った。
「あの、そこのコンビニに停めて下さい」
車がコンビニの駐車場に停まると土屋はドアを開けながらこう言った。
「だったら、なおのこと早く戻らなくちゃ」
二人がレジ袋を提げて戻ると怒号が仮事務所の外にまで聞こえていた。通りがかった建設作業員達が目を丸くして顔を見合わせていた。
「お前にそんな権限があるのか!」
「いくら会社の方針といってもあまりにやり方が乱暴過ぎだら!」
「こういうことはあんたじゃなくて松谷所長から話があるべきじゃないのか!」
「二十も下のお前にこんな言われ方をするこんねえだ。お前みたいなやり方が通るなら会社はめちゃくちゃになっちまうに!」
パーテーション一枚の向こう側で繰り広げられる「修羅場」から大声が響く度に、山岸は首をすくめた。。
「私の権限は松谷所長から委嘱されたものです。お疑いでしたらどうぞ所長に直接ご確認ください」
土屋は背後から聞こえてくる諍いをBGMくらいにしか思っていないようだった。ひっつめ髪で化粧気もない。切れ長の涼し気な目元と引き締まった薄い唇は色白の肌に映えた。和服の似合いそうな典型的な美人顔が買ってきたクロワッサンを無造作に頬張り、梱包を解いたばかりのPCの立ち上げ作業に没頭する様が同じ女性である山岸の眼からみても魅力的に見えた。
「あの・・・、土屋さん?」
山岸は土屋を気遣い、小声で呼びかけた。
「多恵子でいいよ。私もさっちゃんて呼ぶ。いいかな」
そう言ってクロワッサンの残りを口に押し込み、缶コーヒーを流し込み、
「で、何?」
周囲の雑音などまるで気にもしないその気丈さに畏敬すら感じた。
「あ、いえ・・・。何でもないです」
治夫はポケットから名刺入れを取り出し、何枚かの名刺を選び出してテーブルの上に並べた。そして一枚ずつ指差して説明を始めた。
「この方はあなたに何度か空調と排防塵の設備について質問されていたはずです。この会社の方は設備を新しくしたいからと必要な工作機械の仕様をあなたに提示して電源と給排水設備の設計を依頼していた。この方は東南アジアに進出する取引先に付いて行こうか悩んでおられました。現地の実情を聞きたいとあなたに相談していた。
あなたはその全てを放ったらかしてましたね。何日も何週間も放っておいた。いずれも一日あれば見通しぐらいは返事できる案件ばかりです。私はそれらの案件をその場で回答し、新しい防塵設備を受注納入し、電源と給排水設備の構築を請け負い、本社の海外事業部に連絡してジャカルタまで同行してもらい、私の知っている顧客の工場と設備の見学をアテンドしました。社長先週決断されたみたいですね。海外事業部から仮契約したと報告もらいました」
ここで言葉を区切り椅子に座り直した。そして応接テーブルの向かいで憤怒に顔を染めている浜松の古参社員に止めを刺した。
「あなた、二十年近くもこの会社にいて今まで一体何をしておられたんですか。あなたみたいなのを給料泥棒って、言うんじゃないんですかね」
テーブルがひっくり返され茶が零れて治夫のスラックスにかかった。構わずに無言で相手を見上げ続けた。
「桑田さんが黙ってないぞ。増田常務とは昔から繋がりがあるんだ。あとで吠え面かくなよ」
「桑田さんなら今日本社で本部長と面談されてますよ。増田常務も同席されていると聞いてます」
浜松の古参は荒々しく立ち上がりゴミ箱を蹴飛ばした。ゴミ箱はころころと転がり、事務机の足にぶつかって止まった。山岸は顔を青くしていたが、土屋多恵子が平然と立ち上がり、パーテーションから出て来た男をひと睨みすると、黙ってひっくり返ったゴミ箱を片付け始めた。
「ケッ!」
実力では到底敵わない相手を、せめて嘲笑することで自らを慰める。浜松の古参はそうした手合だった。仮事務所の立て付けの悪い引き戸に八つ当たりしながら出て行った。山岸幸恵は眉一つ動かさずに平然と対応してのけた土屋のその態度に聊か驚いた。
「驚かせてすみません」と治夫は言った。
「あと二人ほど来ますが・・・」
「いいえ」と多恵子は言った。
「さっちゃん。よかったらそのPCもセットアップしてあげようか」
小柳津はカーペットに仰向けになりベッドの上に足を上げて天井を見上げていた。胸の上には艶々した毛並みの三毛が気持ち良さそうに眠っていて小柳津の指が頭を撫でる度にゴロゴロと喉を鳴らした。
今日、同僚の営業たちが松任の面接を受けた。受けた、としかわからない。彼には呼び出しがなかった。その代り、松任にこう言われた。
「小柳津さんは今日一日御前崎で研修を受けて下さい。トシさんには話が行っていますから向こうで指示に従ってください」
丸一日磐田のSMT、電子回路の表面実装機のラインの移設を手伝わされて先ほど帰宅した。すぐに同僚や先輩の営業たちに電話したが誰も出てくれなかった。その代り、桑田から連絡があった。
「お前、どうやって松谷に取り入っただ」
桑田はひどく、酔っていた。
「何の話ですか」
「お前だけ、今日松任の面接に呼ばれなかった。何でだ」
「知りませんよ。俺は御前崎に行けって言われただけです。それから丸一日磐田でビシャモン転がしてました。他の営業の衆とも電話も通じないし。みんなどうしたのか・・・」
「飛ばされるだ」
桑田は静かに小柳津の話を遮った。
「今日、東京本社に呼び出された。緊急の営業会議ってな。行ったらお前、俺の吊るし上げだに。本部長、副本部長、海外事業部長、企画部長、増田常務までいた。その衆らの前で、松谷の野郎、俺の業績から、経費の使途、失注の顛末。重箱の隅つついて、あることないことぶちまけてくれてよォ・・・」
電話の向こうで、桑田は乾いた笑い声をあげた。
「俺はただ中京のときと同じこんやってただけだに。お前や根暗の山岸みたいな引き籠りを面倒見てもやった。この景気悪い中、昔からの客をずっと繋いでいたんだ。それなのによお・・・。
増田さんにも切られたってことだな。あの人の我儘にもぞんぶん付き合っただけんなあ。それが全員、島流しだとさ。国内、国外、社内、社外。バラバラに飛ばされるだ。俺も中部支社長付になる。その後恐らく転籍出向だな。片道切符でどっかチンケな会社に飛ばされる。残るのは前から御前崎に行ってた佐藤と永井と阿部、それとお前だけだ」
「本当ですか」
「嬉しいか」
「そんなわけないですよ」
「もしかしてお前、松任を見張るふりして俺らのことを告げ口しただら。二重スパイだ。そうだら。あんだけ面倒見てやったのに、それがこれか。見事に裏切ってくれたわけだ」
「俺、知りませんよ! 何かの誤解です。桑田さんには恩義感じてますし・・・」
「だったらお前、誠意見せろや。このまま松谷とあの他所もんがデカい面して静岡でのさばるなんて許せん。俺もいい歳だ。今更辞めてもこのご時世ロクな行先はねえだろう。だがこのままじゃあ納得出来んだよ。気持ちよく静岡にバイバイするために、最後にお前の心意気、見せてくりょう・・・」
小柳津の眼に暗い光が宿った。傍らの携帯を取ろうと動いたら、猫が身を翻してカーペットに降りた。彼は小柳津をひと睨みすると、にゃあと凄んだ。
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