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毎夜、日付が変わってから事務所に戻った。伝票を山岸の机の上に置き、明日の準備をして自分の部屋に帰る。帰ると今度は東遠州の件に取り掛かった。PCを開きメールをチェックする。毎晩二三時間程度しか眠っていなかった。が、不思議に疲れを感じなかった。
営業マンの選抜と並行してその業務をアシストするITに精通した人材を募集した。業務や物流の管理だけでなく、納入した機器にインプットするアプリケーションプログラムぐらいはメーカーに頼らずに作成したい。メンテナンスを含むサービスエンジニアリングの能力を持ち、さらにユーザーに講習できるぐらいのスキルの高い人材も必要だった。そうすればメーカーからの仕入れ価格も下がる。付加価値を高めるから利益も増す。
不況のせいもあってか、三名の募集に男女合わせて六十名以上の応募があったと松谷から聞いた。システム構築の実務経験者や、情報処理と物流や経理事務に明るい中堅を十名ほどに絞った履歴書の写しがメールで送られてきていた。例によって極端に短く、
「目を通しておけ」とだけ、コメントがついていた。
その際、治夫は大手のITソリューションの会社に在職したという女性を除外しようとした。スキルは申し分ないのだが、独身で扶養しなければならない小さな子供がいる。無理が利く人材とは思えなかった。履歴書の左肩にバツをつけた。
全てを秘密裏に運んでいるから当然事務所では面接などはできない。桑田の眼に入るかもしれないことを考え静岡ではなく東遠州駅前のホテルに会議室を取った。
駅で松谷と本社の人事担当を出迎えホテルに案内した。松谷は既に重役でもあるかのような貫禄を見せていた。治夫と同年代らしきその人事は気怠げに「どうも」と言っただけだった。このやる気の無さは自分が員数合わせで静岡くんだりまで連れてこられたと理解しているからだろう。治夫はそう解釈した。
松谷は抜け目がない。人事部まで確実に根回しが行われていた。本社の人事が同席した、ただそれだけで筋が通る。松谷の政治力は相当なものだということだ。強力な後ろ盾がいるのだろう。
会場となる小宴会場の一室に入ると、治夫はプリントアウトした履歴書の写しを松谷に渡した。ホテルの係員とテーブルや椅子をセットしている間、松谷は治夫がチェックした書類に目を通していた。
「何故、この人を外すんだ」
例の子持ちの女性の履歴書だった。治夫は思った通りの意見を述べた。
「その点は確認すればいい。本人次第だろ。この人は面白そうだ。美人だし、俺の好みだ」
ほとんどの質疑応答は松谷が行った。
人事は眠気を我慢するのに苦労していた。治夫は面接者と目も合わせることなく書類ばかり見ていた。だからその女性のこともあまり覚えていなかった。
「松任君、何かあるか」
「特にありません」
他の面接者に対した時と同様、素っ気なく応えた。あとは書類に目を落としていた。だからその女性が入室してきたことにもあまり注意を向けてはいなかった。
「土屋多恵子です。よろしくお願いします」
松谷は型通りの質問をいくつかした後、こう尋ねた。
「ところで配偶者無しで扶養一人とありますが。お子さんですか。おいくつです」
「子供は二才です。昨年、離婚しました」
土屋というその女性は臆することなくきっぱりと答えた。その点を訊かれることは十分承知していたのだろう。
「そうですか。今日は何処かに預けていらしたんですね。勤務中はどなたが面倒を?」
「今日は三島に住んでいる父が面倒を見ています。採用頂ければこちらに越してきますが子供は保育園に入園させます」
「場合によっては残業になるかもしれませんよ。大丈夫ですか?」
「その点は自分の能力でカバーします。ご心配には及びません」
治夫はふと顔を上げた。
女性は意志の強そうな口元を引き締め、余裕の笑顔を見せた。松谷は、ホラ本人がこう言ってるだろう、とでも言いたげに治夫を一瞥した。
数日後、三名の採用が本社で承認された。その中の一人にその女性が入っていたが、あまり深く係わらないことにした。松谷が職権を使って「現地妻」候補の人材を確保しようが治夫には何の関係もない。そう割り切るとその土屋という女性への関心を薄れさせていった。
あの二人。
松谷と松任はあの鋳物屋を巡って裏で何かを企んでいる。それが何かは判らないが、松谷は静岡を根こそぎ変えるために、すなわち自分達を追い出すために来た。そのことははっきりしている。頼みの増田常務も松谷の件ではなぜか及び腰だ。
桑田は自分が徐々に追い詰められているのを犇々と感じていた。
久々に地元の幼馴染が経営する機械加工の工場へ向かった。
規模は大きくはない。しかし腕のいい熟練工がおり、精密部品の微小加工を得意としていた。放電加工機も備える、その筋では一目置かれる位置に、その小さな会社はあった。
もちろん単に付き合いが長いだけではなかった。工場で使う切削機械の刃物や他の消耗材の顧客でもありお互いの家族ぐるみの交際もしてきた。ただ、慎重なタイプで、桑田がいくら新製品を紹介しても馴染んだ古い機械への愛着を捨てず、大口の取引先とはなっていなかった。それに桑田はここのところの業績の低迷から上層部のプレッシャーを強く受ける立場であり、訪問しても単に茶飲み話に花を咲かせるだけに終わるだけの客先からは自然に足が遠のいていた。
半年ぶりに訪れた工場の事務所には先客がいて、駐車場の営業車にはハカマダ産業のロゴが入った営業車が停まっていた。
受付のいない受付を通り抜けて勝手知った事務所のドアを開けると、社長と顔を知らない男の前に、営業車の主がいた。こちらに背中を向けている男の作業ジャケットは良く見慣れた自分の会社のものだった。男の首筋にはあの黒い醜い痣が見えていた。
「ああ、正ちゃん。久しぶりだなあ」
社長は快く迎えてくれたが、松任の存在で心中穏やかではなかった。
「この人正ちゃんとこの人なんだってなあ」
何故松任がここに居るのか。それを問いただしたい衝動を抑えていると、松任の方からそれを説明してきた。
「所長代理。早く着いちゃったんでお先にお邪魔していました。こちらの守谷さん、四谷にいた頃からお世話になっていた方で、半年前にこちらの社長にヘッドハントされたんです」
「いやあ、そんな、ヘッドハントだなんて・・・」
守谷と紹介された男は大いに照れながら桑田の名刺を押し頂きテーブルの上の松任の名刺の上にそれを置いた。
「リストラに遭っちゃって。それをここの社長に拾ってもらっただけですよ」
「ご謙遜でしょう。守谷さんは多くの大手の開発に名前を知られてる人ですよ。社長、初めてお目にかかりましたが、守谷さんを引っ張るなんてお目が高いですね」
「いや、実際に来てもらうまではこれほどの人だと思わんかったに」
「所長代理。社長は今回、守谷さんを総責任者にしてお取引先の進出先のクアラルンプールへついてゆく決断をされたんだそうです。丁度今現地の実情について話をしていたところだったんです。持ち込む機械もこの際一式新規に調達したいと・・・」
咄嗟に場を繕い、偶然鉢合わせした自分の立場を救い、初めて訪問した顧客の内情まで細かく把握して気分よく持ち上げる。
事務所では仏頂面しかしないのに、松任とはこんな寝技も出来るやつなのか。何より、自分がいくら押しても引き出せなかった大型案件を、今日初めて訪問したばかりの他所者が呆気なく成立させてしまっている。「長い付き合い」を誇っていた自分がたまらなく惨めに思えた。
「では、こちらはお急ぎになられているようですので、自分は見積の手配に移りたいと思います。所長代理、あとの詰めをお願いします」
松任は自然な形で先にその席を辞して帰って行った。
「桑田さん。あの松任さんはタダ者じゃありませんよ。静岡に来て松任さんが居てくれてホント、良かったですよ」と紹介されたばかりの守谷という男が言った。
「いやあ、正ちゃん。出来る人が来てよかったねえ。これで静岡営業所も盤石、万々歳だら」と社長はカラカラと笑った。
桑田は事務所に戻った。
山岸に顧客からの注文書を渡して説明している松任を見つけた。立ったまま、ただ治夫を睨みつけた。
その只ならぬ雰囲気に、それまで談笑していた営業マンたちも、挨拶もそこそこにそれぞれ鞄を手にして出て行った。少なからず事情を知っている小柳津だけが残った。
それを待っていたかのように、桑田は治夫に歩み寄った。傍目にもその威圧感は強烈で小柳津は背中に冷たい汗が流れるのを覚えた。
治夫は平然としていた。山岸も、その必要が無いのにも関わらず注文書に書かれている項目を一々音読し治夫に確認する風を装っていた。
「前田フライス製、KZL801、オプションのパレット十セット、でいいんですよね。本体同型を三台、初回サービスのバイトは五セット、でいいんですよね」
「ハイ。そこに書いてある通りに手配してください・・・」
「お前、何様だ」
桑田は切り出した。
互いの腕が相手の鼻面を直撃出来るほどの距離に詰められていた。治夫は何も言わなかった。
「あの対処で俺がお前に感謝するとでも思っただか。筋道が違うんじゃねえか。行くにしても本来担当である俺に断ってからにするのが当たり前だろう」
「その点については申し訳ありませんでした。以前お世話になった守谷さんが転職したというので挨拶しに行ったところ、あの一件を相談されまして」
治夫は鞄から先刻谷と社長に提示した資料を取り出し、桑田に示した。
「よろしかったら目を通してください。現地へ進出する際のメリットや問題点などを、先行しているいくつかの企業から集めてまとめてあります。今後桑田さんがあの案件を扱われる際に参考にして・・・」
「余分なこんすんな!」
桑田が払いのけた資料が飛散した。山岸が小さな悲鳴を上げた。
「知ってるぞ、松谷の犬みたいにお前が東遠州の鋳物屋で何かコソコソしてるのは。何をするつもりなのか知らんが、どうせ俺らを追い出すための策略だら。だけん、やり方ってもんがあるら。小柳津の客先にしてもそうだ。泥棒みたいに横から掻っ攫いやがって。何もトンジャクねえだな。裏でコソコソやるのがお前らのやり方だか」
治夫は何も言わなかった。
散らばった資料をかき集めてそろえ直し、再び桑田に差し出し頭を下げた。桑田は何も言わずに出て行った。
電話が鳴った。治夫が応対し、メモを取り、山岸に示した。
「御前崎のトシさんから。オイルシーリング三本追加しておいてって」
「何で松任さんは言い返さないんですか!」
メモを受け取り、山岸は立ち上がった。
「松任さんが来てからまだ二か月も経ってません。それなのに、静岡営業所全部のニ倍の売り上げを一人で稼いでいます。いえ、稼いで下さってます」
叫ぶように言った。治夫に、というよりも自席で下を向いて黙っている小柳津に聞かせるためであるかのように声を張り上げていた。
「それなのに・・・。恥ずかしいですよ、あの人達。文句があるなら、それなりのことをしてから言うべきなのに!」
彼女は自ら気を昂らせ肩を震わせた。
「いいんですよ。ありがとう、山岸さん」
事務所を出て車に乗り込むや松谷に電話をした。会議中だったらしく、しばらく待たされた。電話口に出た松谷は不機嫌そのものだった。
「何だ」と松谷は言った。
「例の東遠州の鋳物屋の件ですが、どうも桑田さんにバレたようです」
「・・・そうか・・・」
松谷はし沈黙の後、こう言った。
「じゃあ、それを逆手に取ろう。仮事務所はいつから使える」
「机や事務機器は既に搬入してあります。電話も引きました。いつでも使えます」
「わかった。それなら君は明日から東遠州で仕事しろ。すぐに東遠州営業所所長代理の辞令を出す。採用した三人も招集していい。すぐに掛かれ」
「一つ、お願いがあるんですが」
「何だ」
「静岡の山岸さんを残したいんですが」
「あれは、桑田の息のかかった女だぞ。やめとけ」
「現在の四か所の営業所の状況の把握、御前崎の詰め所との連絡、県内の顧客の知識。彼女なしで運営するといろいろ不都合が出てきます。彼女は必要です」
「あんな根暗な女のどこがいいんだか・・・。わかった。好きにしろ」
「ありがとうございます」
「それからな、選抜した三名とその山岸君以外は即刻飛ばすからな。君から引導渡しておけ。桑田だけは置いとけ。俺が直接介錯してやる」
営業マンの選抜と並行してその業務をアシストするITに精通した人材を募集した。業務や物流の管理だけでなく、納入した機器にインプットするアプリケーションプログラムぐらいはメーカーに頼らずに作成したい。メンテナンスを含むサービスエンジニアリングの能力を持ち、さらにユーザーに講習できるぐらいのスキルの高い人材も必要だった。そうすればメーカーからの仕入れ価格も下がる。付加価値を高めるから利益も増す。
不況のせいもあってか、三名の募集に男女合わせて六十名以上の応募があったと松谷から聞いた。システム構築の実務経験者や、情報処理と物流や経理事務に明るい中堅を十名ほどに絞った履歴書の写しがメールで送られてきていた。例によって極端に短く、
「目を通しておけ」とだけ、コメントがついていた。
その際、治夫は大手のITソリューションの会社に在職したという女性を除外しようとした。スキルは申し分ないのだが、独身で扶養しなければならない小さな子供がいる。無理が利く人材とは思えなかった。履歴書の左肩にバツをつけた。
全てを秘密裏に運んでいるから当然事務所では面接などはできない。桑田の眼に入るかもしれないことを考え静岡ではなく東遠州駅前のホテルに会議室を取った。
駅で松谷と本社の人事担当を出迎えホテルに案内した。松谷は既に重役でもあるかのような貫禄を見せていた。治夫と同年代らしきその人事は気怠げに「どうも」と言っただけだった。このやる気の無さは自分が員数合わせで静岡くんだりまで連れてこられたと理解しているからだろう。治夫はそう解釈した。
松谷は抜け目がない。人事部まで確実に根回しが行われていた。本社の人事が同席した、ただそれだけで筋が通る。松谷の政治力は相当なものだということだ。強力な後ろ盾がいるのだろう。
会場となる小宴会場の一室に入ると、治夫はプリントアウトした履歴書の写しを松谷に渡した。ホテルの係員とテーブルや椅子をセットしている間、松谷は治夫がチェックした書類に目を通していた。
「何故、この人を外すんだ」
例の子持ちの女性の履歴書だった。治夫は思った通りの意見を述べた。
「その点は確認すればいい。本人次第だろ。この人は面白そうだ。美人だし、俺の好みだ」
ほとんどの質疑応答は松谷が行った。
人事は眠気を我慢するのに苦労していた。治夫は面接者と目も合わせることなく書類ばかり見ていた。だからその女性のこともあまり覚えていなかった。
「松任君、何かあるか」
「特にありません」
他の面接者に対した時と同様、素っ気なく応えた。あとは書類に目を落としていた。だからその女性が入室してきたことにもあまり注意を向けてはいなかった。
「土屋多恵子です。よろしくお願いします」
松谷は型通りの質問をいくつかした後、こう尋ねた。
「ところで配偶者無しで扶養一人とありますが。お子さんですか。おいくつです」
「子供は二才です。昨年、離婚しました」
土屋というその女性は臆することなくきっぱりと答えた。その点を訊かれることは十分承知していたのだろう。
「そうですか。今日は何処かに預けていらしたんですね。勤務中はどなたが面倒を?」
「今日は三島に住んでいる父が面倒を見ています。採用頂ければこちらに越してきますが子供は保育園に入園させます」
「場合によっては残業になるかもしれませんよ。大丈夫ですか?」
「その点は自分の能力でカバーします。ご心配には及びません」
治夫はふと顔を上げた。
女性は意志の強そうな口元を引き締め、余裕の笑顔を見せた。松谷は、ホラ本人がこう言ってるだろう、とでも言いたげに治夫を一瞥した。
数日後、三名の採用が本社で承認された。その中の一人にその女性が入っていたが、あまり深く係わらないことにした。松谷が職権を使って「現地妻」候補の人材を確保しようが治夫には何の関係もない。そう割り切るとその土屋という女性への関心を薄れさせていった。
あの二人。
松谷と松任はあの鋳物屋を巡って裏で何かを企んでいる。それが何かは判らないが、松谷は静岡を根こそぎ変えるために、すなわち自分達を追い出すために来た。そのことははっきりしている。頼みの増田常務も松谷の件ではなぜか及び腰だ。
桑田は自分が徐々に追い詰められているのを犇々と感じていた。
久々に地元の幼馴染が経営する機械加工の工場へ向かった。
規模は大きくはない。しかし腕のいい熟練工がおり、精密部品の微小加工を得意としていた。放電加工機も備える、その筋では一目置かれる位置に、その小さな会社はあった。
もちろん単に付き合いが長いだけではなかった。工場で使う切削機械の刃物や他の消耗材の顧客でもありお互いの家族ぐるみの交際もしてきた。ただ、慎重なタイプで、桑田がいくら新製品を紹介しても馴染んだ古い機械への愛着を捨てず、大口の取引先とはなっていなかった。それに桑田はここのところの業績の低迷から上層部のプレッシャーを強く受ける立場であり、訪問しても単に茶飲み話に花を咲かせるだけに終わるだけの客先からは自然に足が遠のいていた。
半年ぶりに訪れた工場の事務所には先客がいて、駐車場の営業車にはハカマダ産業のロゴが入った営業車が停まっていた。
受付のいない受付を通り抜けて勝手知った事務所のドアを開けると、社長と顔を知らない男の前に、営業車の主がいた。こちらに背中を向けている男の作業ジャケットは良く見慣れた自分の会社のものだった。男の首筋にはあの黒い醜い痣が見えていた。
「ああ、正ちゃん。久しぶりだなあ」
社長は快く迎えてくれたが、松任の存在で心中穏やかではなかった。
「この人正ちゃんとこの人なんだってなあ」
何故松任がここに居るのか。それを問いただしたい衝動を抑えていると、松任の方からそれを説明してきた。
「所長代理。早く着いちゃったんでお先にお邪魔していました。こちらの守谷さん、四谷にいた頃からお世話になっていた方で、半年前にこちらの社長にヘッドハントされたんです」
「いやあ、そんな、ヘッドハントだなんて・・・」
守谷と紹介された男は大いに照れながら桑田の名刺を押し頂きテーブルの上の松任の名刺の上にそれを置いた。
「リストラに遭っちゃって。それをここの社長に拾ってもらっただけですよ」
「ご謙遜でしょう。守谷さんは多くの大手の開発に名前を知られてる人ですよ。社長、初めてお目にかかりましたが、守谷さんを引っ張るなんてお目が高いですね」
「いや、実際に来てもらうまではこれほどの人だと思わんかったに」
「所長代理。社長は今回、守谷さんを総責任者にしてお取引先の進出先のクアラルンプールへついてゆく決断をされたんだそうです。丁度今現地の実情について話をしていたところだったんです。持ち込む機械もこの際一式新規に調達したいと・・・」
咄嗟に場を繕い、偶然鉢合わせした自分の立場を救い、初めて訪問した顧客の内情まで細かく把握して気分よく持ち上げる。
事務所では仏頂面しかしないのに、松任とはこんな寝技も出来るやつなのか。何より、自分がいくら押しても引き出せなかった大型案件を、今日初めて訪問したばかりの他所者が呆気なく成立させてしまっている。「長い付き合い」を誇っていた自分がたまらなく惨めに思えた。
「では、こちらはお急ぎになられているようですので、自分は見積の手配に移りたいと思います。所長代理、あとの詰めをお願いします」
松任は自然な形で先にその席を辞して帰って行った。
「桑田さん。あの松任さんはタダ者じゃありませんよ。静岡に来て松任さんが居てくれてホント、良かったですよ」と紹介されたばかりの守谷という男が言った。
「いやあ、正ちゃん。出来る人が来てよかったねえ。これで静岡営業所も盤石、万々歳だら」と社長はカラカラと笑った。
桑田は事務所に戻った。
山岸に顧客からの注文書を渡して説明している松任を見つけた。立ったまま、ただ治夫を睨みつけた。
その只ならぬ雰囲気に、それまで談笑していた営業マンたちも、挨拶もそこそこにそれぞれ鞄を手にして出て行った。少なからず事情を知っている小柳津だけが残った。
それを待っていたかのように、桑田は治夫に歩み寄った。傍目にもその威圧感は強烈で小柳津は背中に冷たい汗が流れるのを覚えた。
治夫は平然としていた。山岸も、その必要が無いのにも関わらず注文書に書かれている項目を一々音読し治夫に確認する風を装っていた。
「前田フライス製、KZL801、オプションのパレット十セット、でいいんですよね。本体同型を三台、初回サービスのバイトは五セット、でいいんですよね」
「ハイ。そこに書いてある通りに手配してください・・・」
「お前、何様だ」
桑田は切り出した。
互いの腕が相手の鼻面を直撃出来るほどの距離に詰められていた。治夫は何も言わなかった。
「あの対処で俺がお前に感謝するとでも思っただか。筋道が違うんじゃねえか。行くにしても本来担当である俺に断ってからにするのが当たり前だろう」
「その点については申し訳ありませんでした。以前お世話になった守谷さんが転職したというので挨拶しに行ったところ、あの一件を相談されまして」
治夫は鞄から先刻谷と社長に提示した資料を取り出し、桑田に示した。
「よろしかったら目を通してください。現地へ進出する際のメリットや問題点などを、先行しているいくつかの企業から集めてまとめてあります。今後桑田さんがあの案件を扱われる際に参考にして・・・」
「余分なこんすんな!」
桑田が払いのけた資料が飛散した。山岸が小さな悲鳴を上げた。
「知ってるぞ、松谷の犬みたいにお前が東遠州の鋳物屋で何かコソコソしてるのは。何をするつもりなのか知らんが、どうせ俺らを追い出すための策略だら。だけん、やり方ってもんがあるら。小柳津の客先にしてもそうだ。泥棒みたいに横から掻っ攫いやがって。何もトンジャクねえだな。裏でコソコソやるのがお前らのやり方だか」
治夫は何も言わなかった。
散らばった資料をかき集めてそろえ直し、再び桑田に差し出し頭を下げた。桑田は何も言わずに出て行った。
電話が鳴った。治夫が応対し、メモを取り、山岸に示した。
「御前崎のトシさんから。オイルシーリング三本追加しておいてって」
「何で松任さんは言い返さないんですか!」
メモを受け取り、山岸は立ち上がった。
「松任さんが来てからまだ二か月も経ってません。それなのに、静岡営業所全部のニ倍の売り上げを一人で稼いでいます。いえ、稼いで下さってます」
叫ぶように言った。治夫に、というよりも自席で下を向いて黙っている小柳津に聞かせるためであるかのように声を張り上げていた。
「それなのに・・・。恥ずかしいですよ、あの人達。文句があるなら、それなりのことをしてから言うべきなのに!」
彼女は自ら気を昂らせ肩を震わせた。
「いいんですよ。ありがとう、山岸さん」
事務所を出て車に乗り込むや松谷に電話をした。会議中だったらしく、しばらく待たされた。電話口に出た松谷は不機嫌そのものだった。
「何だ」と松谷は言った。
「例の東遠州の鋳物屋の件ですが、どうも桑田さんにバレたようです」
「・・・そうか・・・」
松谷はし沈黙の後、こう言った。
「じゃあ、それを逆手に取ろう。仮事務所はいつから使える」
「机や事務機器は既に搬入してあります。電話も引きました。いつでも使えます」
「わかった。それなら君は明日から東遠州で仕事しろ。すぐに東遠州営業所所長代理の辞令を出す。採用した三人も招集していい。すぐに掛かれ」
「一つ、お願いがあるんですが」
「何だ」
「静岡の山岸さんを残したいんですが」
「あれは、桑田の息のかかった女だぞ。やめとけ」
「現在の四か所の営業所の状況の把握、御前崎の詰め所との連絡、県内の顧客の知識。彼女なしで運営するといろいろ不都合が出てきます。彼女は必要です」
「あんな根暗な女のどこがいいんだか・・・。わかった。好きにしろ」
「ありがとうございます」
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