疫病神の誤算 -母親に殺されかけた少年が父親になろうとしてやりすぎて娘にベタベタされる話-

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「畜生・・・」
 椅子に沈み込む小柳津を前に、桑田は舌打ちをした。
 中途で入社してきた北陸出身の仕事の出来なさそうな新人にこの静岡での仕事の仕方を見せつける。意気揚々として出掛けて行った筈の子飼いの部下は見るも無残に尾羽打ち枯らして帰って来た。
 松谷からの電話を受け、慌ててアンマプラスチックの専務に連絡したが相手は言を左右にしてあいまいな返事しか返してくれなかった。挙句、
「桑田さん。悪いけん、これからはあの松任って人に担当して欲しいやあ。あの子じゃ駄目だわ。社長もそう言ってるもんでさ」
 桑田には大きな自負があった。
 ハカマダ産業に吸収される以前の中京工商の時代以来、自分が静岡を支えてきたのだと。これまで何人もの若手を育てあげ一人前にしてきた。
 小柳津にしても、遠縁の頼みで高校を卒業しても家でブラブラしてばかりの若者を引き取り尻を叩いて独り立ちできるようにしてやった。去年事務員として採用し、今向かいの机で電話応対している山岸という女性社員も、娘を何とかしてくれ、と懇意にしている取引先に頼まれたからだ。大学まで行かせて都市銀行に入社させヤレヤレと思っていたらたった一年で辞めて帰って来た。陰気くさい、遠州弁でいう「無精(ぶしょ)ったい」娘だとは思ったが、長年の付き合いのある工場の経営者の頼みは断れなかった。そのお陰で多少単価が高めの商品でも文句を言わずに取引してくれている。
 アンマプラスチックにしても先代からの付き合いで代替わりした今の社長が若造の頃から何かと面倒を見て来た。聞けば小柳津の遠縁だということでまだ場数が足りない小僧でもなんとかなるだろうと担当を任せて来たのだ。
 ここのところ業績が落ち込み、ついに本社からの監視役としてやってきた松谷に所長の席を禅譲しても、実質的な静岡の総責任者は自分だと確信していた。
 松谷は着任早々沼津、静岡、浜松、御前崎に分散した拠点は不合理だと主張し、営業マンを減らして配置を再構築し集約すべきだと言い張った。
「長期にわたって売上が低迷している。贅沢言う余裕は無い」
 それに対し桑田は、静岡は東西に広く、そこに散在する顧客に密接なアプローチをするには現在の体制はギリギリだと反論した。
「個々の営業のスキルの問題でしょう。無能な人間が多すぎる。ゼロは一万個集めてもゼロなんだよ」
「だったら、あんたが言う優秀な人間を連れてくりゃいいだ。ひょっと出の人間に務まる市場じゃねえ。昔っからの付き合いってもんがあるだ」
 昨年からもう何度こんなやり取りを繰り返したか知れない。その答えがこれだというのか。
「まるで手品みたいでした」
 小柳津はやせ細った練り歯磨きのチューブをさらに絞るように言葉を繋いだ。
「専務が、ビデオに、釘付けになっているうちに、あっという間に、数字、出してくるんです。・・・俺には、無理っす。あんなの、出来ません」
 しばらく黙っていた桑田はやがて山岸を振り返った。
「サチエちゃん。今日はもういいで、上がんナイ」と言った。
 山岸は急いで帰り支度を整えると逃げ出すように事務所を出て行った。桑田は小柳津を見下ろし、言った。
「俊、お前明日から外回りはいいで。その代り、今から俺の言う通りに動け、ええな?」
 桑田は能面のような顔で小柳津を見下ろしていた。


 冬の静岡の空には雲がなかった。北陸と違い、南に鬱陶しい山がない。海と空がどこまでも青く続き乾いた風が吹き抜ける。凍るように冷たい風がアルプスを越えて吹き付け、治夫の湿った心をカラカラに干した。
 薄暗いアパートに戻り、ジャケットを脱いでネクタイを緩めながら窓を開けた。冷たい夜風が雑然とした部屋の中に吹き込んだ。
 先週末に引っ越してきた部屋は、まだいくつかの段ボール箱が壁際に積んだままだった。梱包をほどこうともしなかったし解く気もなかった。そもそも段ポール箱と二三着のスーツの他に何も持って来ていなかった。
 食事なんか全て外食すればいいと思っていた。それも時間に関係なく腹が減れば食えばいい。食欲がわかず抜くことも一再ではなかった。週末に一応の炊飯器や冷蔵庫や食器など一通りは買いそろえたけれどパッケージも開かずに積んだままにしてあった。冷蔵庫にだけは電源を入れたが、それすら数本のミネラルウォーターが入っているだけだった。スーツや作業着や部屋着は全てクリーニングに出し、下着は量販店でまとめ買いし、その都度捨てればいい。だから洗濯もしない。掃除もしない。布団は敷きっぱなしでいい。湿気の多い金沢なら布団が湿って寝られなくなることもあったが、幸い静岡は空気が乾いている。卸したてのシーツを敷き汚れたら捨てればいい・・・。そう考えれば全てが、何もかもがラクだった。
 去年の暮、勤めていた会社が倒産した。妻にそれを告げた途端、五歳になったばかりの息子と共にある日突然目の前から消えた。既に他に男がいたことを後で知った。数年間の家族の時間で残されたのは、箪笥の隙間に挟まっていた息子のスケッチブックだけだった。
 それからまもなく母が自ら命を絶った。
 片親で苦労しながらも治夫を大学まで行かせてくれた母だった。
「絶対にお前の足手まといにはならない」
 結婚が決まったとき、そう言って自ら望んで介護付きのホームに入っていた。
 ホームから連絡があり出張先から駆け付けたときには既に警察の検証が済んだ後だった。自分でシーツを裂いて紐を作り、最後の見回りが去った後に部屋を抜け出し、非常階段の手すりにぶら下がった。倒産のことや離婚のことは話してはいなかった。遺書のようなものもなかった。
 今にして思えばあれは最後の母の愛だったかも知れない。女神だと思っていた妻と天使だと思っていた息子とで作ってきた家族三人の幸せが全て幻想であったことを知らされた、哀れな息子に与えた最後の母の愛情だったのだ。死んでくれたおかげであっさりと故郷を捨てることが出来たのだから・・・。
 そう思うことにした。
 故郷のあの湿り気を含んだ温もりを懐かしく思うこともあった。しかし思い出の全てに崩れ去った家庭のイメージが二重露出してきた。それで故郷を想うこともやめた。それでも何度も夢を見た。別れた妻の浮気相手との痴態や幼い晃の顔が度々脳裏に浮かび狂おしいほどに治夫を苦しめた。そしてそれよりも恐ろしいのは幼いころのあの海での記憶。あの悪夢だけは絶対に見たくなかった。忘れようと努めるしかなかった。
 そうやって自分を突き放すと心が急速に乾いていった。乾くに任せた。もしかするとこのまま干からびて死んでしまえば楽になれるのかも知れない。そんな被虐的な妄想が不思議にも心を慰めた。そうやって汚れた下着やシーツと同じように、最後には自分自身も捨てることになるのだろう・・・。
「自分は泥をかぶるリスクは負わずにこの際根無し草を使って火中の栗を拾わせ甘い汁だけ吸おう」
 松谷のハラはそんなところにあるのだろうことは容易に察せられた。要するに、リストラ請負要員だ。
 でもそんな事もどうでもいい。出世にも栄達にも興味がない。あのまま故郷でじっとしているとやりきれない思いに苛まれるから、ただ言われるままに静岡に来て、言われるままにひたすら仕事に打ち込む。
 それだけだった。
 携帯の振動で物思いから覚め、我に返った。
「山岸です」
 電話の向こう側から暗く低い女の声が聞こえて来た。
「事務の、山岸幸恵です」
「ああ。どうも。お疲れ様です」と治夫は応じた。
「あの・・・」
 言いかけて、相手は黙ってしまった。要件を質そうと口を開けかけたとき、
「明日保険証を持ってきてください。本社の総務から手続するように言われたので・・・」
「わかりました」
「あの・・・」
「はい・・・」
「いいえ、何でもありません。じゃあ、よろしくお願いします。夜分、すみませんでした」
 不意の電話だったが、お陰で無益な感傷を止め気持ちを切り替えることができた。明日松谷に示す計画案の検討を始めた。簡単にレジュメをまとめてから床についた。そして、夢も見ない深い眠りに落ちていった。
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