二番目の夏 ー愛妻と子供たちとの日々— 続「寝取り寝取られ家内円満」

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20 被告 マユ

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「知らねえの。間抜けじゃね? アンタの女、あんたのオヤジとヤッてるんだよ」
 ぞっ、として背筋が凍り付きました。
 コウタロウが俺を「あんた」と呼ぶのにも、「間抜け」よばわりするのにも、母親であるマユのことを「あんたの女」と言うのにも。
 そんな言葉がコウタロウの口から出てくるなんて想像もしていませんでした。
 そしてなによりも最も衝撃を受けたのは、
「あんたの女があんたのオヤジとヤッてる」
 その一言です。
 無意識に振り上げようとしていた手から力が抜けて行くのがわかりました。
 怒りではなく、恐怖を感じました。
 マユを、子供たちを、家族を失ってしまう。
 そう思いました。
 怖かったのです。ただひたすら、怖かった。
 彼の、愛する息子の、コウタロウの怒りの双眸に、俺は、逆上してオフクロを殺そうとしたかつての俺自身を見てしまいました。
 俺が近寄ろうとすると彼は叱られると思ったのかビクッと身構えました。でも、彼は逃げませんでした。震えつつも軽蔑したような目で俺を睨みあげていました。
「・・・すまない」
 そんな言葉が自然に出ていました。
「何で? なんでアンタが謝んだよ」
 コウタロウの手を握ろうとしました。でも、彼は俺の手を振りほどいて離れました。
「キモいよ、この家。アンタもあの女もじいじも、みんなキモい!」
 そう、言い捨ててコウタロウは部屋を出て行きました。階段を降りる音が家中に響き、玄関を開けて出て行くのが聞こえました。
 この家がガラガラと崩れ落ちてゆくような、そんな錯覚を覚えました。
 同時に心の中がスーッと覚めて行くのを感じました。
 
 俺のじいちゃんは俺が高三のときに亡くなりました。生前、剣道とその極意を俺に仕込んでくれたひとです。
 稽古の時、じいちゃんはいつも言っていました。
「いいか、タカシ。追い詰められても決してアセるな。逆にチャンスだと思え」
 竹刀を青眼に構えたじいちゃんは寸分のスキもない体で俺に対していました。
「相手はお前を追い詰めて勢いに乗って来る。必ずだ。そして打ち込んで来る。そこに僅かにスキが生まれる。それを見極めるのだ。
 わかるか、タカシ。追い詰められた時こそ、そこに必ず勝機が生まれる。心を無にして、そのスキを伺え。感じ取るのだ」
 その言葉は後々大いに俺を助けてくれました。
 オヤジにマユを寝取られた。
 その時だけは我を忘れて怒り狂い、危うくマユを殺してしまいそうになりました。
 ですが、その後タキガワがマユを襲いかけた時やビジネスで接所を迎えた時、困難にぶち当たったマユが頼り目で助けを求めてきたとき、そんな時は自分でも意外なほど冷静に、クールになれたのです。じいちゃんの薫陶のおかげでした。
 努めて冷静になろうとしました。
 まず、今の状況を正確に把握することです。
 マユはコウタロウに「無視された」といいました。ですが、彼は、俺には怒りをぶつけてきました。その違いは一体何だろうか。そう思えば思うほど、心が澄んでいったのです。
 そしてオヤジのことに思いを寄せました。
 ガンの発覚後、手術を終えて急に日本一周したいと言い出したオヤジ。
 そのこととコウタロウのこの一件に何かつながりがあるのではないか。
「お父ちゃん、どうしたの? コウタ飛び出して行っちゃったよ!」
 階下から心配したマユミの声が聞こえました。
 そこへ、
「ただいまー」
 下からマユの声がしました。
 おかあちゃ~ん、お帰り、と母親に纏わりついているだろう、コウジの声がしました。
「あのね、にいにがね・・・」
 コウジがコウタロウの異変をマユに伝えようとしていました。
 俺は吹き抜けから下を見下ろして言いました。
「マユ、帰った? ちょっとアガってきてくれないか。いいかな」
 俺は努めて平静を装い、コウタロウの部屋で待ちました。
 マユは子供たちに、どうしたの? ご飯は済んだ? などと言いながら階段を昇ってきました。刻々と「その時」が近づいてくるのがわかりました。
「コウタの部屋だ」
 俺は大きな声で言いました。
「あー疲れたー。・・・なあに?」
 部屋の戸口に立ったマユは、俺の尋常でない雰囲気を察してこういいました。
「どしたの? コウタ、なんかあった? そう言えばまだ帰ってないの? あれ、ランドセルがある。え、コウタ、どうしたの? また、ユミの事?」
 矢継ぎ早にそう言うマユを抑え、俺は言いました。
「ちょっと、ドア閉めて。そこ座って」
 ベッドを指して俺は言いました。
 何かを察したようで、マユは俺の顔色を伺っています。
「なあに?・・・どしたの」
「マユ・・・」
 俺は口を開きました。
「俺に、何かいう事はないか」
「何それ。またアレ、やるの?」
 笑おうとして、俺の態度がそれどころではないことに気付いたようです。さっと真顔になり、
「もしかして、コウタになにかあったの?」
 俺は立ち上がり、吹き抜けに向いた窓も、西に向いた窓も全部閉めました。それからエアコンを最大にしてワザと音を立てました。子供たちに話を聞かれたくないからです。
 そうしておいてコウタロウの椅子に掛け、マユに向き直りました。
「さっき、コウタが出て行った。すれ違わなかったか」
「ううん。・・・どうしたの? 何があったの?」
 俺は言いました。
「あいつ、お前とオヤジが実家でヤッてたの見たって・・・」
 俺は一気に核心を突く言葉を言いました。それしか、思いつきませんでした。

 今まで何度かマユの顔から血の気が引くのを見たことがあります。
 でも、その時のマユの顔は今までのとは比べ物にならない程の変わりようでした。
 がっくりと肩を落とし、下を向いたまま、マユは動かなくなりました。
 沈黙が、長かったです。
「・・・ごめんなさい」
 彼女は消え入りそうな声で言いました。
 その姿を見て、やっと、マユの行動の真実と理由がわかったような気がしました。
 マユの心が、わかったのです。
 崩れ落ちそうだった俺の家、俺の宝物のイメージはなんとか崩壊の一歩手前で持ちこたえました。
 多分、それしかないだろう、と思いました。コウタロウの言葉の真実が、です。
 だとすれば、この愛する女房、マユという女はとんでもなく、浅はかで、バカな女です。やっぱりマユは女だったんだな、と思いました。
「あの時だな。去年の年末、オヤジのガンがわかって、その直後だな」
 俺の問いに、マユは無言で頷きました。
「マユ」
 俺は、マユの前に座りました。
 俯いたマユの顔がどうしても見たかったからです。
「俺の目を見てくれ」
 マユは可哀そうなほど打ちひしがれた目をしていました。
「俺の、気持ちがわかるか?」
「・・・ごめんなさい」
 グレーの無地のスカートは、俺が先日街中の洋服屋で作らせて贈ったスーツでした。
 社長に言われずとも、俺たちのIDSももう終わるだろう。そうすればいずれ俺もマユも本社に戻ることになる。マユも、いつまでもTシャツにショートパンツにビーサンではいられなくなるだろう。スーツのニ三着も新調しとくか、とマユに買ってあげたものです。
 そのスカートに、ぽた、ぽた、と滴が落ちました。
 それを見て、俺は何をすべきか、マユに何を言うべきか、わかったような気がしました。
「お前は優しい女だ。オヤジを慰めようと思ったんだよな。副作用でうんうん唸って苦しんでいるオヤジを見るに見かねたんだろう。そうだろう?」
 マユは頷きました。
「もう一度オヤジが元気になるために何かしてやりたい、そう思ったんだよな?
 十五年前、あの時お前は俺を救うためとは言いながらオヤジを利用するだけ利用してしまった。そのことを申し訳ないという気持ちをずっと抱いていた、そうだろう」
 マユは俯いたまま無言で何度も頷きました。
「お前、オヤジの前で裸になっただろう」
 再びマユはゆっくりと頷きました。
「それを、運悪くコウタに見られたんだ」
 俺は言いました。
「お前は四つの罪を犯した」
 努めて、冷静に。それだけを心掛けて俺はゆっくり喋りました。そうでないと、震えて、どこかに消えてしまいたい衝動を抑えきれないような気がしていました。
「まず一つは、この俺を裏切ったことだ」
「でも、でもね、聴いて。お義父さんとは最後までしてないの。お義父さん、もう元気がなくなってて・・・それで・・・」
 言いながら、マユは俺の表情から何かを読んだのでしょう。
 そんなことはもう、どうでもいいんだ、と。その時俺は、本当にそう思っていたのですから。
「お前にオヤジのが入ったとか入らなかったなんて、そんなことどうだっていい。そもそも、抗がん剤でウンウン唸っているジジイがそんなんできるわけない。考えればわかることだ。
 だけど・・・、なんで・・・」
 マユの顔を起こしてやりたい衝動をかろうじて押えていました。そうでなけれな、多分殴っていたでしょう。
「なんで、俺に言ってくれなかったんだ。なんで黙ってたんだ。俺とマユの間って、そんなもんだったのか。
 俺は許したぞ。言ってくれれば、許した。
 お前の気持ち、知ってるから。俺のこと心から愛してくれてるの知ってるから。そしてオヤジのこと大切に思ってくれてるのわかってたから。
 なんで・・・、なんで一言言ってくれなかったんだ!」
「ゴメン。たー君に悪いと思って。だから・・・」
「二つ目の罪はもっと重いぞ」
 俺は続けました。
「お前は俺だけでなく、マユミもマコも、お前は娘たちも裏切ったんだ。
 あれだけ親として子供に偉そうなこと言っておきながら、一体なんだ。
 このことをマユミやマコが知れば、どうなるか。そのことを考えたか?
 マユミは普段は優しいけど一度怒ったら手が付けられない。たぶん、俺に似ちまったんだ。それに正義感が強い。あの子はお前を絶対に許さないだろう。
 マコも、心がねじ曲がってしまうかも知れない。信じられるものが無くなればそうなる。お前そっくりなんだから。お前がお義母さんを嫌っていた以上の事態になってしまうかもしれない。それはお前が一番わかってることじゃないか」
 俺は続けました。
「三つ目は。それらを合わせたよりもさらに重い。
 お前はオヤジの誇りをぶっ壊した。
 オヤジがなんて言ったか当てて見せようか。
『そんな必要はない』とか『お前の裸なんか見飽きた』とか言ったんじゃないか。
 そして最後に『出ていけ』と言ったろう。オヤジなら、きっとそう言う。
 俺にそういうオヤジを教えてくれたのは、マユ、お前自身じゃないか。意志の強い人なんだ。いい男なんだよって」
 やはりマユは頷きました。
 何度も、何度も、何度も。
「知ってるだろ? 俺はかつてオヤジを憎んでいた。でも、結婚してやっと、俺はオヤジの心がわかるようになった。
 マユ。それってお前のお陰じゃないか。忘れたのか。
 俺はお前にオヤジという男の真実を教えられた。俺はお前に心の底から感謝した。俺は本当にこの女、一生大事にしていこうと思ったんだぞ。
 多分、オヤジは嬉しかったと思う。
 オヤジは今でもお前を愛している。抗がん剤の副作用ってな酷いもんなんだってな。そういう死ぬほどの苦しみに耐えている最中だ。お前が来てくれて、死ぬほど嬉しかったと思う。
 お前は、おそらくオヤジの最後の女なんだから。そして、お前もそのつもりだったろう。
 だからなんだよ。
 だから急に旅に出るなんて言いだしたんだ。お前から遠ざかるために、お前がこの家庭を失うようなことにならないように。
 だから・・・、だからオヤジは旅に出たんだ」
 もうマユは声を上げて泣いていました。ドアが閉まっているとはいえ、チビ共に聞こえたらマズいので、俺は枕をとってマユに差し出しました。マユはコウタロウの枕に顔を埋めました。
「そして最後の四つ目。
 お前が犯した最大最悪の罪は、コウタの心をズタズタにした事だ」
 もう可哀そうにもなりましたが、俺は敢えて語気を強めました。
「あいつ、マユミにいろいろイタズラしてた。でも、俺にはアイツの気持ちがわかる。さっき、俺にこのことを告白した時、あいつ、お前のことなんて呼んだかわかるか?
『アンタの女』
 あいつは、そう言った。
 何であいつがそんな言葉を吐いたか、そんな言い方をしたか、わかるか? 
 あいつは、俺の子供のころそのままだからだ。
 俺もオフクロが大好きだった。その大好きなオフクロがセックスに狂った姿を見て逆上して刺し殺そうとしたぐらいだからな、俺は。
 あいつは、コウタはお母ちゃんが、お前が一番好きだったんだ。
 その大好きなお母ちゃんが、自分の祖父と・・・。
 あいつの心の痛みがお前にわかるか?
 おそらく、マユミにいろいろイタズラしたのはあいつ自身混乱していたからだろう。代償行為ってやつなんだろうな。
 実際の話、もしあいつが俺たちを信用できなくなれば、あいつが頼れるのは、すがれるのは、姉ちゃんのマユミしかいないじゃないか。
 半年以上も、あいつはずっと耐えてたんだろう。苦しかったろうにな。辛かったろうにな。
 コウタはマユミに縋りたかったんだ。縋り方がわからなくてああいうことしかできなかったんだ。きっと、そうだ」
 マユは無言で首を振りました。
「以上がお前の罪だ。何かいう事があるか」
 枕で顔を覆ったまま、マユは何度も髪を振り乱して首を振りました。何度も。何度も。
「苦しいだろう。でもこれはお前の最初の償いなんだ。コウタはもっと苦しかったはずなんだ。耐えるしかない」
 窓の外を見ました。もうすぐ日が暮れそうでした。
「俺はコウタを探しに行ってくる。もう、泣き止め。
 いいか、絶対に子供達に悟られるな。普段通りにしろ。これは、命令だ!」
「たー君。一つだけ、お願い。聴いてくれるなら、一つだけ、お願い。
 そうすれば、ちゃんとするから。普段通りにできるから。でないと、そうでないと、あたし・・・」
 マユは泣きはらした真っ赤な目を上げました。これまで見たマユの顔の中で、一番醜く、一番哀れで、そして一番切なくなるような顔でした。
「キスして」とマユは言いました。
 俺は、愛する妻、可愛いマユの願いを叶えてやりました。マユは熱い唇で俺に応えました。
「わかるな? 許したわけじゃないぞ。判決を下すのはコウタだ。お前はどんな判決であろうと、受け入れるんだ。俺も受け入れる。控訴はなし。いいな?」
 マユは頷き、また蹲りました。そして手を差し伸べてきて俺の手を握りました。、
「もう少し」と言いました。
「このままで。そうすれば、大丈夫だから。絶対、元気になるから。
 子供たちのために。たー君のために」
 マユの丸まった背中に触れました。震えている背中の温もりが伝わってきました。あまりにも可愛そうになりましたが、敢えて何も言わず、黙っていました。
「キスもらったから。もう大丈夫だから。行ってあげて。コウタ、探してきて。必ず連れて帰って!」
「わかった。待ってろ」
 俺は立ち上がりました。
 階下に降りてマユミとチビ二人に、お母ちゃんちょっと頭痛いって。すぐ降りてくるから待ってなさい。そう言い置き寝室でジーンズに着替えました。
「お父ちゃん、ちょっとお出かけだから。お利口にしてなよ」
「どこいくの?」
「マイも行く」
 そう言い出すチビ達を宥めていると、マユが降りてきました。何故かコウジのスノーケルを持ってササッと冷蔵庫を開け、製氷機から受け皿ごと氷をひっつかむと洗面所に消えました。
 顔を冷やして泣き顔をごまかすためでしょう。スノーケルを咥えて氷水に顔を突っ込んでいるマユの姿を想像しました。そういうところは相変わらずのマユに、少し安心しました。
「お父ちゃんこれからご用なんだから。遊びに行くんじゃないんだからね。今おやつ出すから。じゃ、たー君お願いね」
 洗面所の中から声を張り上げました。声だけは、いつものマユでした。
 えらいぞ、マユ。
 心の中で妻をホメました。



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