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19 コウタロウの反乱
しおりを挟む「じゃあ、行ってくるね」
「行ってきます。お父ちゃん、オレのカブトムシ見張っててよ!」
「・・・ん、じゃ」
マユミを、次いで小学生組のコウジとマコを送り出す一学期最後の登校日。
ということは明日から夏休み。朝から晩まで賑やかさ倍増になるということだな、などと思いつつ、
「みんな気を付けてな」
と言い、それから、
「じゃ、なんとかやってくれるとこ見つかったからマイ頼むね。あたし美容院から直行する。帰りはマイと一緒に帰って来るから~」
落ち着いたグレーのサマースーツに着替えたものの、家じゅうをあたふたドタバタ小走りしながら喚き散らす騒々しいマユを、
「おい、ストッキング穿いたか?」
「あ、忘れた」
そうやってやっとこ送り出してやっと、末の娘の手を引き幼稚園に向かいました。
「・・・やれやれ。じゃ、行くか」
「うん!」
空は快晴。今日も暑い一日になりそうでした。
「見てみて、おとうちゃん! わたがしのくも、モクモクー!」
子供は元気です。
「おお、そうだなあ。立派な夏の雲だ」
「マイわたがし食べたい。おまつり、マダー?」
「そうだなあ。おぼんになったら、かなー」
「早くおぼん、こないかなー」
しかも子供は無垢で無邪気です。いつも未来は素晴らしいもの楽しいものと思っています。そんな素晴らしい、楽しい未来が来ることを指折り数えて待っているものなのです。それは子供だけの特権です。誰でも持っている、持っていた特権で、侵すことのできない大切なものなのです。
「そうだなあ。早く、来ないかなあ・・・」
もしかすると、今年のお盆が家族全員そろって楽しめ、お墓にお参りできる最後のお盆になるかもしれない。それもまた、試練かな、と思いました。大人ですし親ですから、未来に試練や苦難が待っているかもしれないと思ってもそれを隠してドーンと構えて見せねばなりません。
小さな娘ととりとめもない話をしながら歩き、幼稚園の門で先生にお預けするとおもわず、
「ふう・・・」と吐息が漏れました。
事務所に帰り、出社して来た社員たちを集め昨夜アイダとタキガワに伝えた件を話しました。えーっ、と驚いていたのは本社から回されてきたインターン君たちだけで、アイダの下にいる開発部隊の社員たちや営業の社員は皆黙って話を聞いていました。
「細かいところはアイダやタキガワから指示を受けてくれ。十月末まであと3か月ある。今後開発したり受注したりする案件はいずれ全部本社に移管されることになる。そのことを念頭において取り扱うように」
昨夜巨漢と巨根に打ち明けた時ほどには動揺はありませんでした。正社員全員が本社からの出向だったこともあるでしょう。15年前にアイダの汚いアパートで発足した当時よりはIDSもよりビジネスライクにドライになったようです。それがどこか寂しいような気もしました。これも時代の流れでしょう。
IDSが本社に吸収された後、この事務所はどうなるかな。事務所の部分の権利は会社から買い取ることになるのか。はたまた・・・。
自分のデスクに着いて、そんな四方山を考えながら10時を待ちました。
それはメールで送られてきました。
発信者はミヤモトさんの秘書のハナムラさんです。
表題は「おつかれさまです」で、文面は一行だけ。数字とアルファベットの羅列でした。
会社が使っているクラウドのファイルのIDです。
キーボードをたたいていると俺のスマートフォンのLINEの着信音が鳴りました。
パスワードだな。
なんと手の込んだことを・・・。
ミヤモトさんも必死なのだな。
そう思いつつ、LINEを開いて文面を読みました。
(うちのババアの誕生日)
とだけありました。
いやいや・・・。
前にミヤモトさんに夫婦でお呼ばれした折に伺っていました。
「おい、ジジイ!」
「うるっせいな、このクソババア!」
そんなふうに悪しざまに呼び合っているくせにラブラブなお二人の、奥さんの誕生日祝いの席でした。あれは、6月だったな。
デジタルの会社に勤めているくせに俺は超の付くアナログ人間なのです。
手帳を開いてお呼ばれした日の日付を確認しました。ミヤモトさんの奥さんは同級生だと聞いていました。
パスワードのフォームに、
「19700618」
と、入力しました。
ビンゴです。ファイルが、開きました。
その中に納められた二つの文書をダウンロードしてすぐにファイルを閉じました。
LINEには追加で、
(10分後にファイルを削除する)
とありましたから。
秘書室では常に役員室の入退室や使っているPCまでモニターしていると聞いていました。秘書室長の課長が社長とは別の派閥に属している人なのでミヤモトさんも最大限に警戒しているのでしょう。
公表前のIR、企業の経営情報をみだりに社外に出す行為は証券取引法に抵触する恐れが多分にあります。しかも、絶対社外秘の役員会の議事録においておや、なのです。
ざっと財務諸表に目を通しました。イカリ興業は今期もまずまずの商い。これが予定通りに発表されれば株価は上がるでしょう。これでもし俺が発表前に自社の株を買ったりすればインサイダー取引を疑われます。
そして問題の取締役会の議事録です。
精査している暇はありませんからこれもざっと流れを掴む程度に目を通しました。
内容を簡潔に言い表せば、「対立」と「凡庸」そして「停滞」でしょうか。
会社は明らかに新しい風を必要としていたのです。大企業の仲間入りをしたといっても世界のIT産業の中ではイカリ興業はまだまだ若輩で小物なのです。余力を駆って総力を結集して世界に打って出る。それを役員会の守旧派があの手この手で妨害している。
そんな様子が見て取れました。ミヤモトさんがタバコを吸い始めてしまった気持ちが良く分かりました。
ファイルをすぐにUSBメモリーに入れ、使ったPCは初期化しました。つまり、PCの中の情報を全て消去したのです。これでこの端末を使ってデータを閲覧した証拠は消えました。その上でアイダを呼びました。
「なんでしょうか」
「悪いけど、このPC捨てといてくれ。物理的にぶっ壊してな」
「・・・わかりました」
アイダは全てわかってくれているようでした。
「ちょっと、上行ってくる」
自宅の寝室に入り、壁に埋め込んだ金庫にメモリーを入れました。
後はマユが帰ってきてからです。
ミヤモトさんにLINEしました。
(確かに受領しました)
と送るとすぐに、
(頼むぞ)
と帰ってきました。
お昼になりました。
事務所に戻って仕事をしていると、終業式を終えた小学校組が帰ってきました。
マユからは、
(ちょっと遅くなるかも。マイとお昼外で食べて帰るから先食べてて)
とLINEが入っていました。
社員たちが弁当を開き外にメシを食いに出ていくのをシオにして俺も上に上がりました。
お昼は冷やし中華にするつもりでした。
ダイニングのテーブルの上には2人分の通信簿が置いてありました。マコのとコウジのです。
「あれ、コウタは? 一緒じゃなかったのか」
リビングのソファーで、やーっと夏休みだー、と大きく伸びをしているマコやさっそく大切なカブトムシをチェックしているコウジに訊いても、
「知らない」
「にいに、集合場所に来なかったんだ」
と、にべもありませんでした。
「そうか・・・」
一体どうしたんだろうか。
そう思いつつ、シャツの腕を捲ってキッチンに入り鍋に水を張って湯を沸かし始めました。
男子、厨房に入り浸る。我が家はそういう家です。
俺が率先して入り浸るのでコウタロウもコウジもご飯を炊いて冷蔵庫の残り物をレンジでチンするぐらいはフツーにやるようになりました。そろそろコウタロウにも味噌汁の作り方を伝授しようかな。そういう段階まで来ていました。
だから冷やし中華くらいは俺にだって造作もありません。
「いただきます」
コウタロウがまだでしたがハラを空かせたマコとコウジが可愛そうなので先に食べさせました。勢いよく面を啜る二人の横で貰って来た通信簿をめくり、おお、マコもコウジも頑張ったな、などと言っていると、玄関のドアが開きました。
暗い顔をしたコウタロウがドスドスとリビングを横切り無言で三階に上がってゆこうとするので、
「コウタ!」
と呼び止めようとしました。
でも彼はギロ、と俺たちに一瞥を加えただけでそのままダンダンと階段を上ってゆきました。
マコもコウジも口から麺をぶら下げて唖然としてそれを見送っていました。
なんだかわからんが、これは、マズいな・・・。
そう思いました。
「・・・ただいまー」
マユミが帰ってきました。中学校は明日が終業式で今日は先生方の都合とかで授業が午前中で終わり、部活もないと聞いていました。
ですが、いつもの元気がありません。ドアを開けるなりの「めっちゃお腹空いたー!」がなかったのです。
疲れたようにリビングに入って来ると、学校指定のリュックをドサッと下ろし、俺の顔を見るなり、
「お父ちゃん!」
そう叫んで顔を歪ませるではありませんか。
「あいつさ、もう、おかしいよ。ひどいよ!」
「え?」
いったいどうしたんだ。
俺がそう問い返す前に、マユミは泣き出してしまいました。
「あいつさ、今日、ヒロ君のうちの前で待ち伏せしてたらしいんだ」
なんだって?
耳を疑いました。コウタロウがそんなことしたなんてにわかには信じられませんでした。
「まさか・・・」
「ヒロ君から聞いたの。あいつ、ヒロ君に『俺の姉ちゃんに近づくな』とか言ったんだって。ねえ、なんでそんなこと言うの!?」
苦しげに涙をため、マユミは俺を見上げていました。
「ちょっと、来なさい」
マコやコウジを憚ってマユミを寝室に招きました。ドアを閉めて声を潜めました。
「それ、コウタに言ったか」
「ううん。まだ」
「じゃあ、お父ちゃんに任せなさい。お前はいつも通り、知らんぷりしてなさい」
「できないよ。・・・殴っちゃうかも」
「いいから。お父ちゃんを信じろ。いいな?」
「・・・わかった」
そう言うやいなやマユミは俺にしがみついてきました。
「お父ちゃん、あたし怖いよ」
「大丈夫。あいつも思春期で何かちょっと不安定なだけだろう」
肝心な時に頼りのマユはいません。でももう、一刻の猶予もない。そんな感じがしました。
着替えたらお昼食べなさい。お父ちゃんが降りてくるまで下に居なさい。
マユミにはそう言いおいて、彼の分の冷やし中華をトレーに載せ、三階のコウタロウの部屋に上がりました。
三階の西の対。彼の部屋の前に立ちました。本社の社長室に入る時よりもドキドキしました。
コンコン。
ノックしました。返事はありません。
「コウタ。お昼だぞ。お前、朝も食ってないだろう。・・・開けるぞ」
机に着いてボーっと網戸をした窓の外を見ているコウタロウの少しニキビのある横顔がありました。夏のそよ風が吹き込んでいて彼の髪を揺らしていました。小さな喉ぼとけが目立ち始めていました。
頭ごなしに怒鳴ってはいけない。
まずそれがありました。
「コウタロウは感じやすい子だから」
マユはいつもそう言っていました。外交的で勝気な姉に比べ、どこか内向的でセンシティヴでナイーヴなところが彼にはあります。
どのように切り出したものかと思いあぐねながら、彼の机の上にトレーを置きました。
「なあ。お父ちゃん感じるんだが、お前、何か悩み事があるんじゃないのか。あったら、話してくれよ。
あ、あれか。もしかして中学の部活のことか? 」
まずはコウタロウの懐に入って同じ目線になることだと思ったのです。
「あれな、じいじとも話してたんだが、無理に運動部じゃなくてもいいと思うぞ。文化部とかでも・・・」
するとコウタロウはクルリと振り向いて俺を睨みつけました。その双眸に今までにない強い怒りの炎が宿っていました。
「あのさ、俺の部活とかより先に、あんたのケツ、拭いた方がいいんじゃね?」
え?
「知らねえの。間抜けじゃね? あんたの女、あんたのオヤジとヤッてるんだよ」
俺のまわりの世界が、一瞬で凍りついてゆくように思えました。
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