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「スターリングラード」攻防戦

22 偵察、そして、出陣

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 この村がかつてヴォルゴグラードと呼ばれていた大きな街だったころ。街はカスピ海に面してはいなかった。
 街の中を西へ、東へ、大きく蛇行したヴォルガ河は、それから南東へ向きを変えそのままほぼ直線に150㎞ほど流れ下ってカスピの海に注ぎこんで終わっていた。そこで行き止まりであり、外洋には漏れ出なかった。
ヴォルガの川沿いには多くの工場や街があった。カスピは年々水位を下げていて、しかも上流の工場や街から流れ出る汚染物質まで土砂と共にどんどん堆積してゆくので、仮にもしそのまま時が過ぎていればいずれ干上がって大きな汚い窪地になる運命だった。
 しかし、この青い球全てを巻き込んだ大災厄による「大地の作り変え」の余波はここにも及んだ。

 旧文明末期のカスピの海の総面積は約371,000 km²であり、同じく大災厄によって海の底に沈んだヤーパンの国土面積とほぼ同じであった。
 元々外洋に比べ20mから30mほども湖面が低かったところへ、巨大な地割れによってカスピの南とペルシャの海とが繋がったおかげで外洋の水が津波のように侵入してきた。
 10兆トンをはるかに超える天文学的な大量の海水が一気に流れ込み、それまで湖畔であった町や村は何十万何百万の人々と共にすべて飲み込まれ、ようやく水が静けさを取り戻したころに湖畔に残っていたいくつかの街のひとつがバクーであり、現在のヴォルゴグラだったのである。

 それからおよそ千年の時が流れ、昔よりもぐっと数は減ったが人々も戻って来た。
 だが、かつて100万以上の人口を抱えていた大都市ヴォルゴグラードの面影は全く消えた。漁業と、農業と、周辺の村々の決して多くはない物産をバクーや対岸のクンカーやテランに積み出す鄙びた港が辛うじてあるきりの村になっていた。
 押しなべて北の民族はお互いに仲が悪かった。だが、ここヴォルゴグラやバクーなど限られた村だけは、港を持つおかげで周辺の他部族と交流があった。
 シビルや、強襲作戦を行ったカザンの部落よりもはるかに大きな村だ。東から北から西から。そして南には港。人や騎馬や舟の者が行き来する頻度の高い村だった。古代シナの兵法でいう、「チューディー」衢地(くち)と呼ばれる要衝と言える。
 ヤヨイはまだ名を知らなかったが騎馬隊の頭目「ステンカ・ラージン」ことヘルマンもそこに着目してここを拠点にしたし、丸一日遠くからこの村を観察したヤヨイもまたそこに目を付けた。

 昼間は人の目につかぬよう、潜まねばならなかった。ヤヨイたちはたった8名の分隊程度でしかなく、万の単位に迫る住民をマトモに相手にするにはいささか人数が少なすぎた。それに20頭もの馬を隠すのは意外にホネである。
 幸いに航空偵察の限界点ギリギリであったため、航空写真を基にした周辺の地形図を得ていた。ヴォルゴグラを遠望できた地点から一度引き返し、浜辺まで迫る針葉樹の森の中の比較的標高の高い一角に手ごろな窪地を見つけたのでそこに馬と資材を隠し、しばし待機した。
 夕方を待って留守番をリーズルに託し、シェンカー大尉とアランとで連れ立って浜辺まで迫る森の中を進みヴォルゴグラを遠望する小高い丘の上に腹這った。
 双眼鏡で西を望んだ。



 カスピの海に点々と大小の島が浮かんでいた。その島の上にも、島の奥にも、いくつかの大小様々な大きさの木造の建物が見えた。港は島々の陰になっているのだろう。天然の良港。これは、大きな村だ。
 帝国南部の海軍総司令部のある軍港ターラントには比べるべくもないが、このヴォルガ=カスピ一帯では最も大きい村になるだろう。いや、もう港町と言うべきか。
「デカイな・・・。それに、石か、レンガだろうか。護岸まで整備してある」
 同じく双眼鏡を睨みながら、ヤヨイも感じたところを言った。
「彼らが作ったんでしょうか」
「いや、それは違うな。上物の小屋はともかく、あの石積みのやり方はドンの前の前の王朝の特徴がある。おそらくは、2、3百年前は、ここは北の奴らの土地ではなかったのかも」
 それを聞いて、ヤヨイも思い出した。
「先のチナ戦役で南のアルムに立て籠もった友軍部隊の救出作戦に参加しました。その時、大規模な地下排水路網を発見しました。それを作った王朝でしょうか」
 双眼鏡を降ろしたシェンカーがヤヨイを顧みた。
「たぶん、それだな。いつしかその王朝が衰え、その後にコイツらがやって来て遺産を分捕った、ってわけだ。そう考えると、納得がいく。コイツらにはムリだ。わざわざ対岸のテランまで舟を借りに行ったぐらいだからな。偵察機の足が伸びたら、是非ここの写真を撮ってもらいたいな」
「まず、極力近づいて様子を探ってきます。わたしが行きます」
 シェンカーの手がヤヨイの細い肩にぽん、と置かれた。
「わかった。キミに任せよう」
「陽が落ちて、月が上がってきたら行動を起こします! 」

 だが、出発前にいささか想定外のことが起こった。
「お願いです! あたしも連れてってください! 」
 単独で偵察行の準備をしていたヤヨイにハンナが縋りついてきたのだ。
 これにはヤヨイも参ってしまった。一人なら大抵のことは切り抜けられる自信があるが、下手に同道者がいるとそれも危うくなる。そんなヤヨイの懸念などお構いなしで、北の異民族の娘は迷彩を施した顔に好奇心いっぱいのエメラルドの瞳をキラキラさせていた。
「あのね、ハンナちゃん。アブないのよ。ヤヨイに任せておきな」
「でも、あたしがいれば、なにかと役に立ちます! 」
 リーズルの諫めも効かなかった。
「・・・」
 途方に暮れたヤヨイは指揮官であるシェンカーを見上げた。今回のミッションで彼に頼るのは、初めてかもしれない。
「たしかに、彼女は正規の帝国兵じゃない。しかも、まだ若い。銃の腕がいいというが、オレはまだ見ていない。
 だが、北の言葉を話せる。馬にも乗れる。死体を見ても動揺せず、キモも据わっている。そして何よりも、本人が希望している。
 キミさえ良ければ、帯同してみたら? 」
「・・・マ、マジですか」
 思わず素の言葉が出てしまった。
「イヤなら、その限りではないが」
 ハンナは、変わらないエメラルドの宝石のような純粋な瞳をヤヨイに向けていた。




 ヘルマンは、西部有数の部族トビリーの民が大挙して騎馬隊に加わったことに大いに気をよくしていた。兵力は一気に増え、すでに4千を超えようとしていた。帝国陸軍の編成ならば、優に一個旅団以上、帝国が未だ持ったことのない騎兵師団に匹敵するほどの戦力になる。
 ドンのクンカーでの大暴れに憧れ、さらに西の、騎馬隊に逆らった部族たちの運命を知ったせいもあったろうが、何よりも「ステンカ・ラージン」の英雄ストーリーが若い者たちの心を揺さぶったからだろう。長い間眠っていた民族の誇りが、アイデンティティが、魂が再び目覚めようとしているのを感じた。
 しかも、東へ先行させた斥候たちの報告はすべからく朗報ばかりだった。多くの村々が支配下に入った、と。トビリーの村の外は彼の部下たちの天幕が埋め尽くし、そこかしこで大きな鬨の声が上がるのが聞こえた。騎馬隊の者たちの誰の目にも、時が満ちたのが感じられた。
 その声援にも似た鬨の声を背に、
「セバスチャン、Единство и Независимость! 
 団結と独立の時だ! 」
 その逞しい身体に精気を漲らせ、眼(まなこ)に大きな闘志を燃やして、ヘルマンは言った。

 だが。
 肝心のシビルと帝国の前進基地を探らせに向かわせた者がまだ、戻っていなかった。
 すると。
「お頭! 」
 村の外からの大声に呼ばれ、門を出た。力尽きて横たわり口から泡を噴いている馬の傍に、青く染めた顔をさらに青くして息を切らせていた若い兵が、差し出されたひしゃくの水をガブ飲みしていた。
「北の、サ、サラトーСаратоの、む、村からの帰り、けものみ、けもの道に・・・」
「落ち着いてからでよい。大きく息を吸え」
 セヴァスチャンがいい、介添えした者たちがその息せき切ってやって来た仲間の背を何度も擦った。
「けもの道で倒れているムスチスラフを見つけました。あいつは、言いました。シ、シビルとクラスノが、手を結ぼうとしている、と。で、それを知らせようとこちらに向かう途中、帝国のやつらに捕まって、馬もなにも全て奪われたと! 」
「帝国の? どこでだ」
 ヘルマンは疲れ切った斥候の前に片膝を突いた。
「それを聞く前に、事切れました。大地に還してやりました。飲まず食わず、寝ずに駆けてきたらしくて・・・」
 そう言って、若き斥候もまた、がっくりと首を落とした。
「休ませてやれ。気付けに酒も」
とヘルマンは言った。
「セヴァスチャン。ムスチスラフに家族はいるか」
「たしか、カザンの出です。親と妻と兄弟が」
「カザンには寄らぬ。その代わり、ムスチスラフの家族に馬2頭と羊10頭を遣わせ。それから、この斥候にもドン金貨一枚を」
 ドン金貨とは先の王朝で流通していたチナ金貨であり、金貨一枚1両あれば半年は暮らせるほどの価値がある。まだこの北の地にはその価値が広まってはいないが、いずれは、とヘルマンは考えていた。
「かしこまりました」
「ただちにヴォルゴグラに急行する。それと・・・」
「バクーのレオニートにも急使を。船団を率いて急ぎ東へ遡上しヴォルゴグラに向かえ、と」
 ヘルマンは優秀な「諸葛孔明」の肩を叩いて笑った。そして、立ち上がった。
「皆の者! 出陣する! 」
 おおおおおおおおおっ!
 トビリーの村人の人数をはるかに凌ぐ大部隊が一斉に歓声を上げた。その大音声は周囲の野鳥たちを驚かせ、一斉に空の上に飛び立たせた。





 
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