隣国は魔法世界

各務みづほ

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復興編

第二十六章 届いた言葉-2

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「あ、あの、その……ディルクって……噂とか、聞いたりする?」

 ライサがおそるおそる言葉を紡ぐ。ピクッと僅かに反応したように見えた。

「……どんな?」
「そ、その……れ、恋愛沙汰とか? わ、私も噂あるみたいで、こ、困るよね、みんなミーハーで」
「……大変だな」

 ディルクは一言言うとそのまま、話は終わったとばかりにまた戻って行こうとする。

「ま、待って、待って、ディルク! 違う! ヤオスさんは違う! 私ちゃんと断ってる!」

 ライサは慌ててディルクを追いかけ、その手を掴んだ。
 彼とようやく目が合う。しかし盛大なため息を吐かれてしまった。

「……かっこいいお兄さん、紹介してくれるんじゃなかったのか?」

 ディルクが力なく苦笑する。
 ライサは胸が苦しくなった。
 そうだ、何をやっているんだろう、もうこの人とは何の関係もないのにーーと。

「あ、そ、そう、だった……ごめん、変なこと、言ったね……」

 掴んでいた手が震える。
 未練がましいーーこの上なく。自分は大馬鹿だ。もう、離れたーー突き放したのは自分なのにと。

「……本当にごめん、ね。もう、話しかけたり、しないから……」

 彼の手を放し笑顔で言うと、ライサはそのまま後ろを向き、走り去ろうとした。
 だが、すぐにその腕を掴まれる。
 即座に振り向かされ、そして見られたくなかったその泣き顔を見られてしまった。

「……やっぱり、泣いてんのか。どうしたって、俺は……お前を泣かせちまうんだな……」
「ううん、ごめん、ディルクは……全然、悪くない……よ」

 ライサは涙を拭きながら一生懸命答える。しかしどうにも溢れるそれが止まらない。
 そんな彼女をディルクもまた直視できず顔を逸らせ、小さな声で問うた。

「なぁ、ライサ……お前は俺に、どうして欲しい?」

 ライサの動きがピタリと止まる。
 ゆっくりと涙を滴らせたまま、ディルクの顔を見上げた。


 彼女の言葉は、今度こそ彼をもどん底に落とし込んだ。

 ーーーー消して欲しいーーーー

 もう、生きていることが辛いと泣いた。
 この世から消え、全てなかったことにしたいと言った。
 あの頃に戻ることなんてできないーー彼女はそう答えた。


「……わかった」

 ディルクが静かに頷く。

「……消せば、いいんだな? それでケリがつく、と」
「消して……くれるの? 私を……」

 ライサは驚いて見返した。
 あの時、ディルクを殺そうとした償いをーー彼の仲間をたくさん殺した報いを、敵討ちをしてくれるのかと。

 ところが続いた言葉は、ライサの想像を軽く凌駕するものだった。

 ーーーーライサ・ユースティン、お前の十年間を消去するーーーーと。


「十年間を、消去……?」

 ライサは意味が分からず、一転間の抜けた顔をしてしまう。記憶消去とかその手の類だろうか。
 ディルクは苦笑した。

「文字通りの、消去、だ。ライサは今……十七か。つまり七歳にまでお前の全てが巻き戻る」

 魔法は時間を変えられる。止めることも、戻したり進めることも出来るのだという。

「ベコの食料庫は時間が止まっていただろ。転移魔法も、あれは文字通り移動と時間操作の合わせ技だ。ネスレイの先見とか、ガルの時間逆行を応用した治療とかは、俺には出来ない技だが」

 時間操作は膨大な魔力量に加え、半端ない知識と技術を要し、例えば死者は戻らないなど制約も多い。
 現在の彼が出来ることは、ライサ個人という特定範囲内での時間退行、しかも魔力量的に十年が限界だという。

「それってつまり、私はこれから七歳児になるの?」
「そういうこと」

 人生のやり直しーー人が一度くらいは夢見る内容である。
 しかも今のライサは切実だった。
 七歳といえば、ちょうど両親を亡くし、王女に引き取られた頃である。
 宮廷博士の知識も捨てることになるが、あの戦争の最悪の記憶も消える。
 そうなればもう誰も彼女など相手にしなくなるだろう。完全に別の人生になるのだ。

「ほ、ほんとに?」

 未だ信じられないような、今の科学ではありえない提案に、だがライサは期待し始めていた。

「生き直したところで、いいことだらけになるとは言えないけど?」
「わ、わかってるわよ、そんなこと!」

 赤い顔をしてライサは言った。生きていれば多かれ少なかれ、嫌なことくらいある。
 でも、もう何もかもが嫌でたまらない、生きていること自体が苦痛でしかない今の状況を挽回できるなら、賭けてみたかった。

「いいの? やり直しても……本当に出来るなら、やり直していいなら、私……」
「ん、了解」

 ディルクは深く息を吐き、そして静かに微笑み返した。

 十年分をすべて消去し、なかったことにするーーそれは彼にとっては苦渋の選択だった。
 王女や婆やなどは覚えているかもしれない。
 しかし宮廷博士の記憶、魔法世界の記憶、戦争の記憶、戦後の皆の記憶、そしてもちろんディルクとの記憶などは全てなかったことになる。
 しかも一度時間を戻してしまったら、もう二度と全てが完璧に戻ることはない。
 たとえ時間を進めることが出来ても、全く違った人生が進んだことになるからだ。

(一緒にいることは、もう、出来そうにないなぁ)

 亡くなった親友二人の言葉だったが、守れそうにない。
 しかし今のライサの言葉で、ディルクは完膚なきまでに思い知ってしまった。
 彼女にとって、自分の存在と記憶は全く必要とされていないことを。一方通行の想い程、迷惑でしかないものもないと。
 この世界の最大の敵である自分は、いつまでもここにはいられない。
 だから、本当に彼女とはこれで終わりになるのだ。

「ちゃんと……次の人生ではうまく生きるんだぞ」

 ディルクは感情とは裏腹に、軽く言いながら左右の手首をほぐし、魔法の準備をする。
 そんな彼の言葉に、ライサの方も悲しい笑みを浮かべ、そしてほっとしていた。

(私がディルクの記憶を失うことも……貴方には大したことじゃない……それはそう、よね)

 この優しい彼に、最後まで迷惑をかけっぱなしだった。
 殺されてもおかしくないのに、希望まで聞いてくれて。
 どうかもう、何も苦労せず幸せになってほしいと、ライサは心の底から願う。

「今まで本当にありがとうディルク。今度こそ貴方に幸せな未来が訪れますようにーー祈るね」

 しかし、ディルクはこれには怪訝な顔をした。

「なんだ、それ? 祈りなんていらねぇよ。自分のために使っとけ」

 軽く流した別れの返事が来ると思っていたライサは、首を傾げた。
 ディルクは顔をそらして目を閉じる。
 そして何か決心したように再びライサの方を見ると、最後だから勘弁な、と言って彼女を引き寄せた。

「言っただろ。俺には……お前がいない幸せなんてない。今のお前が好きだから……」

 むしろ俺の分の幸運も持って行けーーそう言って、彼はライサの唇に自分の唇を重ねた。

 深い深いキスーー憎しみの欠片も感じられない。
 彼の唇はあの魔法世界で交したときと同様、熱いままだったーー。

 それは、最後だとーー決して今のお前を忘れまいと、心に刻み込もうとするかのように続く。
 ライサの頭の中は、突如真っ白になった。

(すき……? だれを? え、あれ……ディルクは一体、何をしようとしているの……?)

 ドクンと、冷え切っていた彼女の心臓が高鳴り始める。
 滞っていた流れが一気に解き放たれたように、ドクドクと速く強い鼓動が全身を熱くさせていく。
 真っ白だった頭がフル回転しだした。

 もしかして、今から自分はとんでもない間違いを起こそうとしているのではないだろうか。
 だって今の自分がこの世から消えたなら、どうなるーー?

 ーーーーこの人は、どうなってしまうんだろうーーーーと。
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