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前編

第七章 血の接吻-3

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(嘘だ……うそだ、ナリィが……そんな……血だってたまたま、歯が当たっただけで……きっと、慣れてないから……)

 あまりに認めたくない現実に、少年の頭が混乱する。
 そしてとりあえず止血しようと、腕の袖を噛むと、

「きゃああああああああ!」

 突然意識を取り戻した彼女が、そんな少年の動作に、狂ったように絶叫を上げる。
 慌ててディルクが振り向くと、彼女は再び焦点を失い、嗚咽を繰り返す状態に戻っていた。

「ぃやぁああああああああ!!」

 しかし少し落ち着いたと思うと、また突然全力の叫びが繰り返される。
 ディルクは彼女の病室から転がるように外に出た。

 彼女の行動自体はよくわからないながらも、全力で拒絶されていることだけは確信できた。
 止血しようとする行為ですら、怯え否定する。
 自分はーー化け物は生きている価値がないのだと。もう死ねとーー言われている気がした。

 溢れそうになる涙を堪え、ディルクは走りながら治癒魔法を唱える。
 血が止まったのを確認して、口内に残っていた血を地面に吐き出した。

「うえっ! えほっ……ごほ……っ」
「ディルシャルク!」

 その時突如後ろから声がかかり、ディルクはビクッと肩を強張らせた。
 顔を見ずとも声の主が王子であることはすぐにわかる。

(だめだ、こんな顔あいつには見せられない!)

 僅かに振り向き声の主を一瞥すると、ディルクは即座に前方の森へと突っ走った。

「ディルシャルク! 待って! どうしたんだい!?」

 だが王子が止める声にも振り返らず、少年は一目散に森の中へと逃げていく。

(嫌だ! 会いたくない! 誰とも話したくない!)

 どこか、誰も俺を知らないところへーーーーふと浮かんだのはこれ以上ない逃げ先。
 ディルクは迷わず、その遠距離転移の魔法を、ものの一瞬で展開させた。



「うわああああああ! ナリィ……ナリィいいいいい!」

 世界の壁を越え、更にそれすら見えなくなった隣国の荒野で一人、ディルクは声を限りに泣き叫んだ。
 認めたくなかった。可能性に縋り付いていたかった。
 でもこれ以上、もう戻らない彼女を、壊れたまま見続けることなどできない。
 他でもない自分が、完膚なきまでに潰してしまったーー今まで堪えていた箍が外れ、大粒の涙が後から後から流れていく。

 変わらぬ月だけが、少年を優しく照らし続けていた。


 泣き疲れ、荒野に仰向けになったディルクは、傾きかけた月を見上げた。
 今はこの先のことなど何も考えたくない。
 だが散々泣き叫んだせいか、随分と落ち着いてきたようだ。

「あ~泥と汗と涙と鼻水まみれだー俺。きったねーな~」

 川とかあったかなと、泣きすぎてぼうっとしたままの頭を無理矢理働かせるが、ただただ怠いだけだった。

(いや、今は夜だし、この際……)

 何気なく浮かんだのは、もう随分欠席してしまっている小学校。
 季節は終わっているが、学校には水を張ったままのプールがあった筈だ。

「どのみちここまま人前になんて出られないし」

 よっこいしょとのんびり立ち上がったディルクは、再び転移魔法を唱える。
 学校のプールをイメージすると、正確に一瞬で転移した。

 プールのど真ん中に現れると、ドボーンとそのまま誰もいないプールへダイブする。少しして、仰向けのまま浮かび上がった。
 魔法世界に水泳の授業などない。泳ぎはこの世界で覚えたものだ。
 ぷかぷかと浮かびながら、ディルクはまたもや月を見上げる。頭もだいぶ冷えてきた。

「もう俺、ずっとこっちにいようかなぁ」

 本気で言葉を覚え、魔法を封印し、この世界で生きていこうか。
 ゆらゆらと水に浮きながら目を閉じ、でた呟きは、誰にも届くことはなかった。


  ◇◆◇◆◇


 日が昇ってきたので、ディルクはプールのシャワーを浴び、風の魔法で服を乾かす。
 そして額のサークレットから、大きくて目立つ宝石を一つ一つ外していった。
 その度に感じていく忘れていた解放感。

(うわぁ……めっちゃ軽いや)

 小さくて目立たないものと埋め込まれたものを残し、いつものように上からターバンを巻く。
 三ヶ月ぶりに自分の顔をまともに見た気がする。

(うん、おかしい所、ないよな)

 ディルクは自分の姿を確認すると、その足でドクターの診療所へ向かった。
 学校と掛け持ちを始めてから数は減っていたものの、たまには顔を出して手伝いを続けていたし、不自然ではない筈だ。

「あ、ディルクだ、おはようーなんか久しぶりだね。今日手伝いの日だっけ?」

 診療所のスタッフが、何事もなかったように声をかけてくる。
 ディルクはふっと笑った。なんだ、ここはこんなにも平常じゃないかと。
 誰も責めない。恐れられないし、期待もされない。
 ホッとして、気が緩んでーーそして涙が溢れてくる。

「え、どしたの、ディルク泣いてる?」

 少年は慌ててゴシゴシ目元を拭くと、ニヤッと力一杯笑って見せた。

「泣くかよ! 目にゴミが入っただけだって。おはよう! さ、仕事手伝うよ」

 ドクターどこ、と颯爽と診療所へ向かう。いつも通りの隣国の日常だった。



「うっわ! ディルク久しぶり! どうしてたのさ、この三ヶ月まるまる休みだったじゃん」

 驚くクラスメイトに、呆れながらもほっとした顔の先生。

「おはよーディルク君、ちょっと職員室いいかな?」

 登校拒否するような理由を聞かれたり、怒られたりするが、適当に理由をでっち上げながらなんとか解放される。そしてーー。

「さて、僕は何から聞いたらいいかな」

 放課後いつもの丘の上に来た途端、案の定ニーマにも質問攻めにされてしまった。



「ナリィさんが入院? そっか、それで忙しかったんだね。もう容体は安定したの?」

 僅かな戸惑い。しかしすぐにディルクは笑顔を見せた。

「うん、あとは時間が解決するから、またこっち来たんだ」

 卒業式くらい出たいもんなーなどと続ける。
 ニーマはそんな彼の様子に、違和感を感じていた。が、聞きたい衝動を何とか抑える。
 きっとそれ以上は話したくないのだと察する。

「……そっか。一緒に卒業できてよかった」

 いろいろな思いを噛みしめ、ニーマはそれだけ呟いた。



 卒業まで置いて欲しいーーディルクはドクターに頼んで、また診療所から小学校に通い始めた。

「えっと、ニーマ、コンニチハ、イツモ、アリガトウ」

 そして今更ながら、ニーマを相手にこの世界の言葉などかじり始める。
 おかしいことこの上ない。しかし、ディルクは理由を話そうともしなかった。

(あーもう、何にも聞かないでいてあげるけどさ)

 なんとなく、この世界に少し居座る気かもしれないとニーマは想像した。
 しかし、では隣国を捨ててきたのかと思えば、どうやらこの丘の樹の下でのみ、彼は魔法の鍛錬もやっているようなのだ。

(もしかしてナリィさん本当は亡くなったとか……? ディルクと親しいってか下手すると恋人とか婚約者だろ。なら情緒不安定なのも仕方ないけど)

 そうすると、やはりこれは一時だけなのだとニーマは考える。

(だって、君は国を……宮廷魔法使いの夢を捨てられないだろうーー?)

 すると、まるでニーマの考えを読んだかのように、ディルクが口を開いた。

「悪いね、ニーマ。もう少しだけ、見逃してくれよ」

 そして丘の樹の下で、夕日を眩しそうに眺めながら続ける。

「ここはいいよな。俺は本当にこの世界好きなんだ」
「侵略はお断りだよ」

 さらっとした突っ込みに、ぷはっとディルクは笑い出した。

 考えたこともなかった。
 ディルクは魔法のない、あるがままのこの世界が気に入っているのだから。

 魔法使いが無理矢理手に入れようとしたら、大きく動こうとしたら、全てが壊れてしまうことくらいわかる。
 だから、ここはこのままがいい。そして自分も、ここに長くいてはいけない。
 ずっと住むなどありえないのだ。

 科学世界で暮らすと、かえって自分の世界も見えてくる。
 自分はあの国を、王都を、王子を捨てられない。
 好きだから。完全に捨てようとすると、どうしても涙が出てきてしまうのだ。

(だから、もう少しだけーーーー待って欲しい。きっと、帰るから)

 自分は、憧れの人ですら簡単に潰してしまう化け物だ。
 それでもあの国の王都で、化け物なりに生きていくーーその覚悟を決めるために。
 どんなに罵られても、恐れられても、この力はただただ、陛下と国民のために。

 それならば、こんな化け物でも存在していいだろうか。
 王都にいても、許してくれるだろうかーーーー。
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