3 / 64
前編
第二章 行き着いた世界-1
しおりを挟む同日夕刻、徐々に暗がりが広がる中、街灯が一つ、また一つと点灯していく。
中心部には摩天楼のごとき高いビルがいくつか建ち並ぶ、そこは大きな街だった。
夕刻とはいえ、まだまだ喧騒は続いている。会社員と思しき人々がちらほらと急ぎ帰路へついていく。
そんな中心街を離れ、落ち着いた住宅街の中に、その診療所はあった。
規模で言えば小さめだが、もう随分昔からそこに建ち、平日の昼はそれなりに患者が訪れる。
中年の男が、いつものように診察終了の札を入り口にかけ、伸びなどしながら建物の中へ入って行った。
そして誰もいない自室で机に向かい、これまたいつものように、その日の仕事の記録をつらつらと書き留めていく。
「おじさん、おじさん!!」
聞き慣れた声と共に、ノックもせず一人の女性が駆け込んで来た。
栗色の僅かにパーマのかかった髪に緑の瞳。今年大学に入学したばかりの姪であり、その慕ってくる様に、多少の無礼など物ともしない尊さがある。
男は自分の甘さに苦笑しつつ、彼女の名前を呼んだ。
「こらこら、マリエル、入ってくるときにはノックをしなさいとあれほど……」
「すぐそこで倒れてたのよ、この子!」
叔父の言葉を遮り、抱えていたその子供を診察台に乗せる。
診察時間外であったが、診察台に乗せられたその傷だらけの子供の姿に、男はすぐさま優しい叔父の表情を解き、医者のそれへと変えた。
子供の状態は芳しくなかった。
息はあるが意識は完全に失っている。無数の切り傷に打撲、右手左足の骨折。車にでも轢かれたのだろうか。
職員は全員帰宅してしまったが、昔から出入りしており勝手をよく知る姪を助手に、男は丁寧に処置をしていく。傷を縫い、折れた手足を固定し、薬を塗る。
その晩子供は高い熱を出し、意識は戻らなかった。
ーーーーディルク
仄かに顔を赤らめ、憧れの女性が上目遣いに少年を見上げる。
(あれ、ナリィの顔が下にある……そうだ、俺はとうとうナリィより背が高くなったんだ)
ずっと見上げて追いかけてきた彼女。でもようやくこれで彼女の隣に立つことが出来る。
ナリィはそんなディルクを嬉しそうに見上げ、その柔らかそうな唇を動かした。
ーーーーあのね、ディルク、私あなたのことがーーーー
「お、俺もーーーーっ!!」
ガバッと勢いよく、子供はベッドで体を起こした。
「いっ、たった……たたた」
次の瞬間痛みにうずくまる。
じっと動きを止め、息を吐き、痛みが治まるのを待つと、その子供ーーディルクは顔だけ上げて周りを見回した。
白い壁に天井、部屋の向こうには机、棚、見たこともない道具が整えられている。そして他に輪郭がぼやけてよく見えないが、椅子に布ーー。
「ここは……?」
『あっ、気がついたみたい! おじさん、おじさーーん!』
変わった格好をした女の人が入ってきたかと思うと、扉の外へ大声をあげた。
(!?)
ディルクは愕然とした。女性の格好もそうだが、何より彼女が放ったその言葉に。
(今の……言葉? 何だ今の言葉は!)
全く意味がわからなかったのだ。
『動かない方がいい、腕も足も折れているし、昨夜はすごい熱だったんだよ』
中年の男性が一緒に来たかと思うと、その人はもわもわした輪郭のはっきりしない椅子に座り、よくわからない言葉を話し始めた。
ブルッとディルクの身体が僅かに震える。
見知らぬ場所、話している言葉がわからないーー不安、恐怖。
どうしてしまったんだろうと考えた。言葉なら地方の方言や、精霊の言葉まで習ったはずだと。
でも彼らの言葉はそのどれでもない。そもそも発音から何から初めて聞くものだ。
自ずと悟る。ここは、自分の知る世界ではないーーと。
(なら、何処なんだ!?)
ディルクは怪我の痛みも忘れ、頭をフルに回転させた。
『君、大丈夫かね? 何処から来た? 名前を聞いてもいいかい?』
「あ、の……」
ディルクは咄嗟に自分の言葉を話そうとし、本能的にそれをやめた。
自分が相手の言葉を理解しないーーそのことを伝えても良いのだろうかと。
(もしかしなくても、俺の言葉も通じないんじゃ……)
ーーそうしたら、何が起きる? どう思われる? 考えろ、考えろ考えろーー!
今彼自身が感じているように、警戒心、恐怖心を抱かせるのではないだろうか。下手したら拘束されたり調べられたり、殺されることもあるかもしれない。
彼は今怪我で思うように動けない。
魔法だけで切り抜けられるか。相手の魔力はどのくらいか。逃れられたとしても何処へ向かえばいいのか。
(……っていうか違う、そうじゃない、喧嘩したいわけじゃなくて! 俺はただ、ここがいつ何処でどうしてここにいるのか知りたいだけで……!)
ーーなら穏便にことを済ますには? 警戒心を持たせず済ませるには? 考えろ、考えろーー!
ディルクは口を閉ざし、一言も発せないまま、困ったようにただ首を横に振り続けた。
「記憶喪失? あの子が?」
「うん、かもしれないねって。何を聞いても首をふるだけだろう?」
ディルクの病室の隣の休憩室で、医師の男は困ったように姪に伝えた。
「でも普通、記憶喪失といっても、言葉まで忘れるわけじゃないと思うんだけどな」
ぼそっと付け足したが、姪のマリエルは聞いていなかったようだ。
覚えていないなら覚えていないで、そう答えてくれればよい話なのだ。
しかし、少年は何も言葉を発しない。そして検査で脳の損傷がないのはわかっている。
とすると、これは警戒心ーー極度のコミュニケーション障害か、話せない事情でもあるのか、はたまた言葉自体通じていない可能性も否定できないと。
「さて、ショックによる一時的な言語中枢の麻痺ならまだよいのだが」
ずっと話が出来ないと困ったぞーー首を捻る男の傍から、姪は既にいなくなっていた。
「私、わたし、マリエル。マ・リ・エ・ル」
怪我のためか、見知らぬ所なためか動揺している少年に、マリエルは即席ではあるが温かいカップスープを与え、落ち着いた頃を見計らう。
そして身振り手振りをしながら、少年に一生懸命自分の名前を伝えた。
「マリ……エル?」
「そうそう、私。で、貴方は?」
ディルクは、ボディランゲージというのは、最強の言語だなと思った。
ほっと少しだけ気を緩め、彼女と同じように自分も指をさす。
「ディルク。ディ・ル・ク」
「そっか、ディルク君って言うんだ!」
大学で文系ーーしかも他文化に関し学ぶマリエルは、叔父とは全く異なった方向から少年に接触を試みた。
この世界にもいろいろな地方とそれに準ずる文化があり、王都や都市部から離れるほど言葉がなまって通じなくなっていく。
「なんだ、コミュニケーションが苦手とかじゃなくて、単に言葉が通じていなかっただけなのね」
とすると、記憶喪失というわけでもないのかもしれないと、彼女はふんふん考える。
しかし意思疎通が難しすぎる。
それにどうして彼は自分の言葉を話さないのだろうと思った。話してさえくれれば、どこの地方の言葉かわかりそうなのにと。
0
お気に入りに追加
33
あなたにおすすめの小説
【完結】私だけが知らない
綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話
ラララキヲ
恋愛
長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。
しかし寝室に居た妻は……
希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──
一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……──
<【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました>
◇テンプレ浮気クソ男女。
◇軽い触れ合い表現があるのでR15に
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇ご都合展開。矛盾は察して下さい…
◇なろうにも上げてます。
※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
【完】あの、……どなたでしょうか?
桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー
爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」
見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は………
「あの、……どなたのことでしょうか?」
まさかの意味不明発言!!
今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!!
結末やいかに!!
*******************
執筆終了済みです。
貴族に生まれたのに誘拐され1歳で死にかけた
佐藤醤油
ファンタジー
貴族に生まれ、のんびりと赤ちゃん生活を満喫していたのに、気がついたら世界が変わっていた。
僕は、盗賊に誘拐され魔力を吸われながら生きる日々を過ごす。
魔力枯渇に陥ると死ぬ確率が高いにも関わらず年に1回は魔力枯渇になり死にかけている。
言葉が通じる様になって気がついたが、僕は他の人が持っていないステータスを見る力を持ち、さらに異世界と思われる世界の知識を覗ける力を持っている。
この力を使って、いつか脱出し母親の元へと戻ることを夢見て過ごす。
小さい体でチートな力は使えない中、どうにか生きる知恵を出し生活する。
------------------------------------------------------------------
お知らせ
「転生者はめぐりあう」 始めました。
------------------------------------------------------------------
注意
作者の暇つぶし、気分転換中の自己満足で公開する作品です。
感想は受け付けていません。
誤字脱字、文面等気になる方はお気に入りを削除で対応してください。
【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?
みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。
ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる
色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く
屋台飯! いらない子認定されたので、旅に出たいと思います。
彩世幻夜
ファンタジー
母が死にました。
父が連れてきた継母と異母弟に家を追い出されました。
わー、凄いテンプレ展開ですね!
ふふふ、私はこの時を待っていた!
いざ行かん、正義の旅へ!
え? 魔王? 知りませんよ、私は勇者でも聖女でも賢者でもありませんから。
でも……美味しいは正義、ですよね?
2021/02/19 第一部完結
2021/02/21 第二部連載開始
2021/05/05 第二部完結
【完結】辺境伯令嬢は新聞で婚約破棄を知った
五色ひわ
恋愛
辺境伯令嬢としてのんびり領地で暮らしてきたアメリアは、カフェで見せられた新聞で自身の婚約破棄を知った。真実を確かめるため、アメリアは3年ぶりに王都へと旅立った。
※本編34話、番外編『皇太子殿下の苦悩』31+1話、おまけ4話
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる