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前編

第一章 後継の少年-1

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「ディルク、ディルクや、おーい」

 とある晴れた、平和な午後の昼下がり。
 静かな庭園の中に建つ、昔ながらの風情漂う屋敷から、しわがれた、しかしどこか厳しくもある老女の声が響き渡った。

 庭でゆったり読書をしていた子供が、その声に反応して本を閉じ、後方の屋敷の二階へとおもむろに顔を向ける。
 青い瞳に短い黒髪、額につけたサークレットには小さな宝石が青白く輝いている。年の頃は十に届かないくらいだろうか。
 顔を向けつつも、しばらく何もせず様子を伺う。しかしその声は全く止みそうにない。
 何度か続く名指しの呼び声に、その子供ディルクの顔はどんどんうんざりとした表情になっていった。

 やがて呼び声が途絶える。
 彼は面倒くさそうに本を置き、反対の手でくるりとある紋様を描いた。
 すると何処からともなく風が起こり、子供の身体は軽く宙へ舞い上がる。
 魔法使いが自身の魔力を用いて起こすことができる飛翔魔法。
 そのしっかりとした魔法で飛び上がり、ものの数秒で声のした二階の窓から部屋に降り立ったディルクは、室内の惨状を見て、思わずため息をついた。

 本という本、他にも資料や表、書類などが足の踏み場もなく散らばっている。
 そしてあろうことか、古い重そうな本棚までもが倒れている。運ぶには大の大人が四人は必要なくらいの本棚だ。

「なんだよ、ばーちゃん」

 読んでいた本が中途半端な上に呼びつけられ、少々不機嫌なディルクは、その本棚の下に明らかに押し潰されている老女の側にしゃがみ込み、何事もないかのように声をかけた。

「なんだじゃ、ない……見てわからないのかい。重い、助けてちょーだいよ」
「遊んでるんじゃなかったのか?」

 そもそもこんなの、ばーちゃんなら簡単に避けるなり脱出するなりできるだろー、とぶつぶつ言いながら、小さく魔法呪文を唱える。
 すると彼の仕草に呼応するように本棚が軽々と浮かび、そして何事もなかったかのように元の位置に落ち着いた。
 重い書棚とその収まっていた本に潰されていた老女は、軽くトントンと腰を叩きながら、すっと立ち上がる。
 今年八十四になる老体の筈だが、それは五十程サバを読んでも気づかれないだろう程の身のこなしであった。
 そんな彼女をジト目で眺めつつ、ディルクはため息をつく。

「はぁ、ちょっとは片付けろよ。まーた俺にやらせる気満々なんだろ」
「なぁに、軽く三日程、時間を戻せばいいだけさ。任せたよ、ディルク」

 言うと手をヒラヒラと振りながら部屋を出て行く。残された少年は拳を握りしめ、わなわなとその小さな身体を震わせた。

「何が軽くだよ、ちくしょぉおおお!」

 部屋ひとつ時間戻すのにどれだけ魔力と精神力いると思ってんだよ、もう今日これで五回目だぞ、このやろぉぉーーーーそんな叫び声を聞きながら彼女は部屋を後にした。
 老女、シオネ・プティール、八十四歳。
 彼女こそが、ここオスフォード王国に仕える宮廷魔法使い、第九十二代目、現東聖である。


  ◇◆◇◆◇


 少年ディルクに両親の記憶はない。
 物心ついたときには既にこの東聖シオネの屋敷におり、様々な知識や魔法、作法などを教え込まれていた。
 ここ王都の同じ年頃の子供達と遊んだりもしていたが、七の年に額に輪をつけるようになって以来疎遠になっている。
 一度この師であり親代わりであるシオネに聞いたところによると、ディルクの父親は王都の貴族でシオネの友人だったが、魔獣討伐の任務中、事故で亡くなったのだという。
 そして母親は元々身体が弱かった。 ディルクを産み落として半年後、夫の後を追うように他界してしまったのだと。

 しかし彼は、まわりに同情されたこともあるが、寂しさを感じたことはない。
 そんな暇もないくらいにシオネはディルクを鍛えており、額に上級魔法使いの証である輪をつけるようになってからは、他にかけがえのない友人ができたからだ。
 五つも年上でかつ、この国の第一王子であるその人を友と呼ぶことに、ディルクも王子も最初から全く抵抗はなかった。
 一国の王子相手に終始タメ口で話す弟子にシオネは慌てたが、今ではそれも当たり前の光景として受け入られている。
 それはまだ二人が子供であること、そしてディルクが王族にも引けを取らない称号をもつ東聖シオネの弟子であるからに他ならない。

 彼女の弟子である限り、実力がどうであろうと、ディルクには常に、将来素晴らしい上級魔法使いになるであろう期待が持たれているのだ。
 現にシオネには三十年程前にも弟子がいたが、厳しい鍛錬とまわりの期待に耐えきれず、数年で破門になってしまった。
 しかしディルクはそんなプレッシャーも物ともせず、時にはその王子とお互いを高め合いながら、ここ王都ですくすく育っていった。


 時空の流れ 生命の息に支配されしもの
 汝 今ここに 一時の支配を解き放ち
 失われし過去の姿を呼び戻し 再び生命のあるべき流れに従わんとす
 支配解き放つは すなわち反する流れの理なり

時戻法リワインド!」

 シュウウウウウウーーと光に包まれたかと思うと、散らかった東聖の執務室は、完璧なまでに三日前のきちんとした状態に戻る。
 ディルクはそれを確認すると集中を解き、ふぅと一息ついた。

「へぇ、すごいわね、ディルク、その魔法もう完璧じゃない!」

 背後から馴染みの、透き通った若い女性の声が聞こえる。
 ディルクはその声にびくっと背筋を伸ばすと、弾む心そのままに振り向き、僅かに頬を染めつつ満面の笑みを浮かべた。

「ナリィ姉!」

 ナリィ・プティール、十九歳。
 額には宝石が二つ程ついたサークレットをつけ、すらっとした長身に肩まで伸びるストレートの髪、大きなグレーの瞳をもつその美しい女性は、シオネの唯一無二の孫である。
 同じ王都に住み、祖母を尊敬する彼女は、よくこの屋敷に訪れてはディルクの面倒も見てくれた。
 シオネ程ではなくとも、ナリィも上級魔法使いであり、年相応以上の魅力と知識を持ち合わせている。
 そして厳しいシオネと対称的に優しく穏やかな彼女は、まさにディルクの憧れだった。

 彼はいつものように少しむくれて見せる。

「でもばーちゃんには、まだまだ合格もらえないんだよね。発動が遅いだとか、細かい構成が違うだとか。単純に練習量が足りないだけかもしれないけどさ」

 そんなディルクの様子に、思わず微笑むナリィ。

「私この時を戻す魔法覚えるの、すっごくかかったよ。もうここまで出来るなんてすごいよ! ディルクはおばあちゃんの弟子だし、きっと最高の魔法使いになるね!」
「まかせて! ナリィ姉もすぐ追い越して見せるから!」

 一転、Vサインを出しつつ調子に乗る彼に、言ったな、生意気~と言いながら、ナリィは自分より頭一つ分低い位置にある少年の頭をわしゃわしゃと撫でくりまわした。
 この世界最高峰の魔法使いである東聖シオネに鍛えられる以上、叱られることも多く、辛い訓練などもたくさんある。
 そんな時彼女はいつも、へこたれているディルクを応援し、励ましてくれるのだ。
 ナリィがいてくれるから、頑張ろうと思える。

(今はまだ子供かもしれないけれど見てて。大きくなって、うんと強くなって)

 この王都も王子もナリィも、いつか全部俺が守るからーーと。
 ディルクは満面の笑顔で彼女を屋敷へ導いた。
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