羅針盤の向こう

一条 しいな

文字の大きさ
上 下
26 / 83

23の2

しおりを挟む
『よかったな』
 喜一さんのメールの返信はそれだけだった。僕はちょっとたけ拍子抜けした。そんな僕を喜一さんはあのぎらついた目で見るんだろうなと予想はできた。季節はハロウィンに向かっている。ハロウィンのために新しいパンを考えているんだろうと僕は自分に言い聞かせていた。喜一さんは疲れたのかもしれない。
 それ以上僕は返事を返さなかった。
 バイトに行く日になり、コルセットを作るまで悪化しなくてよかったなとしみじみに思った。おばちゃん達がこそこそと動いていた。僕はまた小麦粉を運ぶ。ああまた悪化するなと思った。分量を鈴さんが確認する。そうして狭いながらも作っていた。
 お惣菜パンを作るためにシチューが作られる。パンによって小麦粉の量やたまご、イーストの量も変わってくる。たくさんの量はさすがに作られない。
 喜一さんは機械でこねているパンの様子を見ていた。
 話しかけにくいので話しかけなかった。
 よく動いた。失敗もした。怒鳴られた。それでもへこたれる時間はなかった。体をいっぱいに動かす。たまごを間違えて割ったなどよくあることだった。お互いに黙って作業をする。静かだった。いつもはおしゃべりをするおばちゃんが黙っていた。それは喜一さんが険しい顔をしていたからだ。
 迫力のある顔でパンを作っていた。
 休憩時間になり、やれやれと外に出た。喜一さんは一人残っていた。僕はなんとなく気になった。
 外に出て、白い呼気が出てくる。暑かった厨房より冷えている。冷たいコーヒーを二つ買った。ぼとんという缶が落ちる音が、外にひびいた。
「なんか。疲れたわね」
「あの人、あれで彼女いるのかしら」
「怖いものね」
「拓磨ちゃん。その缶」
「喜一さんに。病院を教えてもらったので」
 あんた、具合悪いのと言われたが、重い荷物を運ぶことに対して話題に触れなかった。僕は笑って立ち去った。
「悪い子じゃないけど」
「ちょっと気が弱いわね」
「でも顔はかわいらしいじゃない」
「まあね。もうちょっとしっかりしてほしいわね」
 聞こえている。わざとかはわからない。僕は舌を出した。そうしたら気分が少しよくなった。
「喜一さん。休憩にしませんか」
 喜一さんは僕を見て、表情を変えずにうなずいた。疲れているのが体から伝わってくるようなよれよれとした動き方だった。缶コーヒーを渡す。
「カフェインは夜取りたくないな」
「すみません。水にします」
「いい。飲むから貸せ」
 お互いに沈黙を守っていた。僕はなにを言えばいいかわからない上、余計なことを言って怒らせたくなかったからだ。僕は静かにコーヒーを飲んだ。甘かった。
「ありがとうよ」
「えっ」
「コーヒー」
「いえ」
「まあいいけど。俺に気を遣わなくていいから。別に、おまえに気を遣われても嬉しくない」
 女の子だったら泣くようなことを言うなと思った。不快な気分に僕はなった。偉そうな口調で気を遣われたくないというなら、気を遣われないようにしてくれと言いたくなる。それだけじゃない。関わってほしくないと言われたのだ。
「すみません。じゃあ行きます」
 感情を表に出さないように気をつけて言う。そのまま立ち去ろうとした。
「おい。どこに行く」
「いや、気を遣われるのは不快なんでしょう。だから、去ります」
「なんだ。違うよ。こっち来い」
「はい」
 しぶしぶと言った体で僕は来た。そうして喜一さんは少し照れたように言った。
「また飲もう」
 それだけだった。なんだ、それと僕は言いたくなったが、なんだかおかしくなって笑っていた。自分でもわからない。喜一さんの素直な一言がかわいらしいと感じたからか。
「笑うな」
「すみません。訳わかんなくて」
「そうだな。俺が悪かった」
「そうですね」
 自然と僕は言えた。難しい人なのかもしれない。だけど、確かにかわいらしい人だと思えた。喜一さんの難しい顔をした。
「姉貴には言うなよ」
「なんで、ですか」
「叱られる」
 へえ、と僕は言った。喜一さんの耳が赤くなったのを僕は見逃さなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

高校生の僕は、大学生のお兄さんに捕まって責められる

天災
BL
 高校生の僕は、大学生のお兄さんに捕まって責められる。

くまさんのマッサージ♡

はやしかわともえ
BL
ほのぼの日常。ちょっとえっちめ。 2024.03.06 閲覧、お気に入りありがとうございます。 m(_ _)m もう一本書く予定です。時間が掛かりそうなのでお気に入りして頂けると便利かと思います。よろしくお願い致します。 2024.03.10 完結しました!読んで頂きありがとうございます。m(_ _)m 今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。 2024.03.19 https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy イベントページになります。 25日0時より開始です! ※補足 サークルスペースが確定いたしました。 一次創作2: え5 にて出展させていただいてます! 2024.10.28 11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。 2024.11.01 https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2 本日22時より、イベントが開催されます。 よろしければ遊びに来てください。

俺と父さんの話

五味ほたる
BL
「あ、ぁ、っ……、っ……」   父さんの体液が染み付いたものを捨てるなんてもったいない。俺の一部にしたくて、ゴクンと飲み込んだ瞬間に射精した。 「はあっ……はー……は……」  手のひらの残滓をぼんやり見つめる。セックスしたい。セックスしたい。裸の父さんに触りたい。入れたい。ひとつになりたい。 ■エロしかない話、トモとトモの話(https://www.alphapolis.co.jp/novel/828143553/192619023)のオメガバース派生。だいたい「父さん、父さん……っ」な感じです。前作を読んでなくても読めます。 ■2022.04.16 全10話を収録したものがKindle Unlimited読み放題で配信中です!全部エロです。ボリュームあります。 攻め×攻め(樹生×トモ兄)、3P、鼻血、不倫プレイ、ananの例の企画の話などなど。 Amazonで「五味ほたる」で検索すると出てきます。 購入していただけたら、私が日高屋の野菜炒め定食(600円)を食べられます。レビュー、★評価など大変励みになります!

同僚に密室に連れ込まれてイケナイ状況です

暗黒神ゼブラ
BL
今日僕は同僚にごはんに誘われました

手作りが食べられない男の子の話

こじらせた処女
BL
昔料理に媚薬を仕込まれ犯された経験から、コンビニ弁当などの封のしてあるご飯しか食べられなくなった高校生の話

冴えないリーマンがイケメン社長に狙われて腹と尻がヤバイ

鳳梨
BL
30歳になっても浮いた話も無くただただ日々を過ごしていたサラリーマンの俺。だがある日、同い年の自社のイケメン社長の“相談役”に抜擢される。 「ただ一緒にお話してくれるだけでいいんです。今度ご飯でもどうですか?」 これは楽な仕事だと思っていたら——ホテルに連れ込まれ腹を壊しているのにXXXすることに!? ※R18行為あり。直接描写がある話には【♡】を付けています。(マーク無しでも自慰まではある場合があります) ※スカトロ(大小)あり。予兆や我慢描写がある話には【☆】、直接描写がある話には【★】を付けています。 ※擬音、♡喘ぎ、汚喘ぎ等あります。苦手な方はご注意下さい。

男色医師

虎 正規
BL
ゲイの医者、黒河の毒牙から逃れられるか?

イケメン大学生にナンパされているようですが、どうやらただのナンパ男ではないようです

市川パナ
BL
会社帰り、突然声をかけてきたイケメン大学生。断ろうにもうまくいかず……

処理中です...