羅針盤の向こう

一条 しいな

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 土橋さんを送った。面白がっていたけど悪い子ではなかったようでからかうことはそれ以上言わなかった。家に帰って、スマホを見るけど、何も書いていない。僕はスマホをただ、見つめていた。
 何も書かれていない。ただ、青い画面が映っているだけだった。何か打とうとしたが、指が迷うように動かなかった。結局何も送らなかった。
 僕はシャワーを浴びて、ベッドの中に潜り込んだ。寒いせいかそこはまだ冷えていた。毛布にくるまってスマホの電源を消した。夜のことだからメッセージは送らないと気がついた。
 友達として心配してくれたんだとわかっている。だから、無理やりに考えていた。夜は忙しいんだ。多分ギターをはじいているだろう。夜はきっとそんなことをしている。ボールペンが紙にこする音を想像する。それは些細な、ほんのわずかな音。夜の唇から音がもれる。かすかに。
 そうすると、僕は不思議なことに眠りに落ちた。まるで水の中に体を落とされるよりも自然にあっけなく、眠りの世界に行く。体が疲れているのがわかる。このまま気持ちよく暖かな世界にいたいと願う。



 アラームが聞こえる。スマホのアラームだと気がついたとき、僕はぼんやりと目を開いた。視線の先には天井で白い、小さなつぶつぶが見える。ぼんやりとしたままベッドを見回す。ベッドは狭い。一人分。そこにはいつも見慣れた風景だった。パンツを見れば、ため息を一つする。パンツを脱いで、下着になる。汚れた下着を眺める。ああとつぶやいた僕は洗濯機に下着を入れた。
 夢精をした。言いたくないくらい、脱力感というか、夢ならば幸せなものを見た。それは言いたくないから思い出さない。それは、それは幸せで都合のいい夢だった。
「とりあえず、着替えて、ご飯」
 幸いコンビニで買った総菜パンがあるのでそれを食べる。熱々のインスタントコーヒーを入れる。楽だから。と僕はつぶやいた。コーヒーがあれは嘘で僕の脳内が勝手に作り出したものだと言うようだった。幸せだった気持ちも目覚めるようだ。もう少し眠ってつづきがみたい。そんな欲求もある。
 スマホを見る気にもなれず、食事を済ませ、食器洗いをした。学校で使う教材や教科書を入れたリュックを背負ったまま僕は冷たい空気の中に入って行った。冷たい空気が洗ったばかりの顔に突っぱねるようにヒリヒリしていくようだ。
 空は薄く曇り、白に近い灰色だった。電信柱にカラスが止まり、鳴き声をあげている。それが不吉に思えたから無視するように歩いていく。横断歩道を渡り、角を曲がって、もう少し道を歩く、住宅街から学校の敷地に入る。バス停から入ると戸井田の姿はなく、たくさんの生徒にあふれていた。人が海水浴に来ているくらいに若者に溢れている。水着ではなく、教材を持っているので学校だ。
 人、人、人。さらに人。そんな中を僕は歩いていた。


「拓磨ちゃん」
「あっ」
 真澄ちゃんが小股で駆け寄ろうとした。あまりの迫力に僕は逃げたくなる衝動を無理やり抑えた。真澄ちゃんは僕に駆け寄る。
「どうラブは」
「あのねえ」
「私も書き終えたの」
「は?」
「もう。拓磨ちゃんは短編だからかしら」
「でも計算が合わない」
「ほとばしるパッションで書き上げたのよ。読みたい」
 おかげで寝不足よおと疲れた声で言われた。真澄ちゃんは満足げな顔をしている。真澄ちゃんは漠然としたイメージを形にした。僕はなんとなく怖かった。僕以外から見た僕は歪んでいるのかわからない。ただ、僕は僕自身、それを承諾したときから怖いものと知っていた。
「見たい」
「じゃあ。パソコンを借りてみましょう」
 そう言われた。お昼休みに会おうと言われた。それだけ言って立ち去ると思っていたのに、真澄ちゃんは隣を歩いていた。
「なんだか、今日の拓磨ちゃんは幸せに見える」
「自分の作品ができたからだろう」
「そうかしら。でもね、ちょっと不幸の影が見えなくもない」
 真澄ちゃんの言葉を無視して僕はコンビニへと向かう。弁当はあらかた取られ、残りのお弁当を買うことにした。真澄ちゃんはキャラメルを買った。
「キャラメル?」
「甘くていいわよ。脳に糖分を入れないと」
「好きなの」
「好きじゃない。あんまり甘ったるいのもね。背に腹は変えられない」
 ふーんと、僕は言ってコンビニで弁当とジュースを買った。まるで僕自身、今朝見た夢を忘れようとした。あっと真澄ちゃんが言った。
「圭介ちゃん」
「おう。相変わらず仲がいいな」
「違いますよ」
「作品できたのよ」
「良かった、良かった」
「何よ。その適当な返事」
「別に」
 真澄ちゃんと梨田さんの会話を聞きながら歩いていた。作品ができたのはなぜか、そわそわしていた僕がいた。梨田さんはこんな気持ちだったのだろうか。チラッと梨田さんの顔を見る。
 一瞬だけ梨田さんがこちらを見ていた。


 夜にメッセージを送る。授業前に。戸井田は眠っている。彼女がなかなか寝かせてくれなかったのではなく、彼女と長電話のせいらしい。僕はスマホに打ち込む。打ち込んでは消して、入力しては消して。
『僕を小説のモデルにしたいっていった子が僕のモデルにした作品をできたと言われた。ちょっとビビっている』
 未読がついた。僕は授業を受けることにした。返事は昼過ぎになっても返ってこない。そのまま忘れているんだ。とスマホばかり見ている僕がいた。
 夜に話しかける会話について考えていた。最初から話が飛躍的すぎるかな。おはようだけで、良かった。うざかったのかと頭の中でぐるぐると考えがめぐって、苦しくなった。
「あら、具合悪いの。不機嫌そうな顔」
 真澄ちゃんに気がつかれた。真澄ちゃんはヒールをコツコツ言わせながら、僕の顔をのぞいてきた。僕は後ろに下がろうとすると、ずいっと男の顔が近づいた。女性用コロンの匂いと化粧品の匂いがした。
「熱はないわね」
「いちゃつくなよ」
 戸井田が注意する。
「あら、いやだわね、私はただ心配しただけ。いちゃつくわけがないじゃない」
「ああ、また噂されるぞ」
 拓磨かわいそうと戸井田が言う。真澄ちゃんはきっとそう考えていないことがわかっている。僕はため息をつきそうになるのを必死に我慢した。
「こいつ、朝からそわそわしているからなんかあるんだよ」
「そうよね。朝から幸せそうだったし」
「おっ。女か」
「違うから」
「まっいいんじゃない。とりあえず、逃げないでね」
 何をという前に真澄ちゃんは立ち去っていた。僕と戸井田はぽかんと真澄ちゃんの後ろ姿を見つめていた。
「なんだ。あれ」
「さあ」
 戸井田の問いに僕は返事をするだけで精一杯だった。真澄ちゃんはなんで僕の気持ち、逃げたいという感情を読み取ったのかわからない。顔に書いてあったのか。それともエスパーなのかと思った。多分どれも違うだろう。真澄ちゃんは何か後ろめたいことがあるのか。
「拓磨。ぼうっとするな」
「ごめん。つい」
「まったくさ。真澄ちゃんがあんなことをするから。拓磨がゲイって噂が流れるんだ」
「は?」
「浮いた話もない。出会いに奥手なだけなのにな」
「まあ。俺がおまえを見捨てることはないよ。あんなの噂話だし。まさか、マジじゃないよな?」
 慌てて首を振る。刃物に首を当てられたような気分になった。そんな噂を流されているなんて知らなかった。一番知られたくない。一番隠したい秘密。誰もきっと理解してないだろう秘密。
「顔色悪いな。保健室に行くか」
「いいよ。朝飯、消費期限切れのパンを食べたから、か」
「アホ。腐っているわけなかろう」
「だよな」
「やっぱりヤダよな」
 戸井田は僕に軽く励ますように背中を叩く。それが戸井田の優しさのようでありがたかった。背中の暖かさが少し緊張をほぐしたようだった。


「あら、拓磨ちゃん。顔色悪いわね」と、真澄ちゃん。
「悪いよ」
 おかげさまでと皮肉めいた口調になる。そんな僕を「機嫌悪いわね」と言われた。そんなのんきな姿が僕の荒れた気持ちに余計な刺激を与えていた。
「で、読む」
「はい」
 普通の恋だった。拍子抜けした。男同士の恋だったらどうしようかと。普通。男女の恋愛。マリオネット使いが、女の子を好きになる。マリオネットの恋には悲恋だった。女の子には相手がいる。
「センチメンタルすぎない」
「あなたにはぴったりよ。だっていつも私が見ていたとき、拓磨ちゃん。寂しそうな顔をしていた。だからこの話が思いついたの」
「ふうん」
「感想は」
「普通」
「なによ。それ」
 普通だから、と僕がいうとうまいけど普通。それくらいしか僕のボキャブラリーには存在しない。深いですとか。面白いですとか。あまり感情移入はできなかった。僕は欠陥人間かもしれない。
「まあ。女性向けだからかしら」
「うん」
 違いますとは言えなかった。定番だから面白くないと言えばいいのか。定石通りに動くからから。物語ならばカオスを入れないと。伝えたいことは伝わってくるが。ハラハラはない。それはどこかで見た物語だ。
「まあ、いいんじゃない」
 言いたいことはあったが、僕は編集者や物語を書く人間じゃない。だから、僕は立ち上がった。
「じゃあね。真澄ちゃん」
「待ちなさい」
「あんたが納得する物語を書くわ」
「他の作品は」
「あんたを長編にする」
「えっ、修正が」
「だから私が書くのよ」
 僕には意味がわからなかった。
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