羅針盤の向こう

一条 しいな

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 気がつけば朝だ。気分がもり下がるように憂鬱な雨だった。黒っぽい空に、大きな粒雨と水たまりに辟易する僕は傘を開いた。食欲も湧かないが、無理やり食べた。家事をする気力がないから昨日買ったパンを食べていた。総菜パンだ。コーヒーの匂いが頭に起きろとうながすようだった。起きろというのに僕の頭なぜか起きてくれなかった。学校を休みたいような気持ちだった。だるくて仕方がない。
 傘は雨粒が強く叩く音がする。僕はようやく仕方がないと思った。仕方ないで済ますことにした。夜に彼女がいることは仕方ない。僕が夜に懸想を抱くのも仕方がない。結局ほしいのは夜で、そこは曲げられない。
 そんな自分も仕方がない。
 スニーカーが道路の灰色水たまりに入らないように気をつけた。コンクリートの道にはあちこちに水たまりができていた。平らなせい、一カ所に集まることなく、冠水には程遠いが、なんとなくそういう連想をしてしまう。
 ため息をついた。それでなんとか気持ちは落ち着いた。ゆったりとした足取りで広い学区内の一角に入っていく。バス停は混んでいる。人、人、人。駅の混雑を連想させるくらいだ。距離も接近して、足取りは更にゆっくりとなった。雨だから色とりどりの傘が並んでいる。人の集まりによってできる活気がようやく頭が起きようとしていた。
 真澄ちゃんはいない。珍しい。
「おーい。拓磨」
 呼ばれて振り返ると戸井田がいた。戸井田と彼女がいた。僕は戸井田を待った。彼女がぺこりと頭を下げた。
「代勉よろしく」
「ふざけるな」
 そのまま図書館がある方へ街路樹がある方に行ってしまった。ちくしょうと僕は言葉汚く罵った。一番不幸という自覚があるせいか、今幸せな人間を見ることは精神上よろしくないとわかった。真澄ちゃんがいれば愚痴なんて言えた。
「あれ、拓磨だ」
 女子が僕に気がついたように振り返った。女子達は僕に気がつくと群がるように近づいてきた。傘は赤い。青のカラフルで、かわいい女子を演出している。女子は僕を囲む。グループの中心人物が言った。
「真澄ちゃんのことを知っている」
「?」
 僕が困惑していると、一番先に話しかけた女子がにっこりと笑った。ニンマリに、見えたのは僕の錯覚だろうか。そんなことを考えていた。
「真澄ちゃん、風邪を引いたの」
「あっそう」
「お見舞いに行きたいけど、やっぱり男の人だから、家に上がるのはちょっと困っていたの」
「……はあ」
 いやな予感がしていた。絶対にあれだと僕は考えていた。ただ、そんな決まりきったことをするのは嫌だった。
「真澄ちゃんは心細い思いをしていると思うんだ」
「だから、彼氏の拓磨がお見舞いに行けば元気になるかなって」
「彼氏じゃない。マジでやめて」
「大丈夫だよ。間違っても真澄ちゃんはいい子だよ」
 はいとビニール袋を渡された。青いボトルの清涼飲料と白いパッケージのお粥のレトルトが入ったものだ。その他には、冷却シート。タオルまである。僕は困惑した。袋は無理やり押し付けられた。結構重い。
「家知らない」
「地図書くから」
 憂鬱な一日が始まったとようやく僕は気がついた。女子達はにこやかな笑みを見せていた。その顔を見ると邪悪という言葉は頭によぎる。汚い字で書いた地図は、スマホから送られてきた。結局行くことになったのだ。


 お昼、学食で食べていると戸井田が現れた。永野と内田と食べていた。洒落たカフェじゃなくて、学食。こっちの方が、建物が古いが、作る料理は美味しい。白い長細いテーブルが並べられ、わいわい騒ぎながら食事を楽しんでいる生徒達に混じり、ゼミの集まりなのか教授と生徒という組み合わせもいる。
「いやあ、ごめんな。拓磨君。代勉ありがとう」
「どうせ彼女とイチャイチャしていたんだろうが。おまえのせいで大変な目にあったんだ」
 大変な目と戸井田は不思議そうに見つめてきた。永野と内田は爆笑していた。
「真澄ちゃんちにお見舞いに行くんだって」
「マジか。尻が危ない」
「するか」
「おおい。真澄ちゃんいい女だからって照れるなよ」
「だから違う」
「まあ。いいんじゃね。女の子がいれば」
「いねえから」
 泣けると笑い出す内田と永野を睨みつけながら僕に対して、戸井田は「まあ、がんばれ」と言いだす。
「おまえもついて来るの」
「はあ」
 戸井田が怒ったような声を上げた。だから「代勉にしただろうが」と返した。戸井田は水を飲んだ。彼女とカフェテリアで食事したらしい。落ち着いて、僕の隣に座った。プラスチックの透明のコップに水は入っている。口の大きい、ラーメン屋によくあるコップである。プラスチックかガラスかの違いである。持ってみると心もたないコップは戸井田の口にあてがわれた。
「なんで真澄ちゃんと」
「僕の尻を守ると思って」
「永野は行かないのか」
「オカマの家に行ったってね。女の子なら行くけど」
「同意」
 内田はニヤニヤしながらいう。周りも話でヒートアップしているのかそこら中で笑い声が聞こえてくる。僕は「一人で行くのは絶対いやだからな」と戸井田にしがみつくように言った。
「おまえらできているのか」
 永野がのんきにいう。永野はテリヤリチキンライスを平らげる。テリヤリチキンのソースのてりが皿に残っている。僕きっと永野の顔を見た。
「僕の尻」
「ああわかったから」
「じゃあ。あみだくじで決めようぜ」
 ルーズリーフを取り出して内田と戸井田が作った。
「なんで五つあるんだ。項目に」
 半分に折られた紙に、線が五つある。戸井田がじゃんけんに勝ち先に選ぶ。僕は最後だった。行く、行かないと選んでいくうちに、五つ目を選んだ。それを開いた瞬間、僕は怒りで永野を見つめた。
「一人で行くなんて項目作るな」
「あーよかったね」
「あーよかった」
「掘られた感想をよろしく」
 待てと言っても、みなやる気のないのか笑っていた。こうして午後の授業を知らせるチャイムの前に解散した。


 僕は悩んでいた。学区内一角、ちょうどビルとビルの谷間にいた。高いビルと古いビルの間の通路にいた。傘をさして、憂鬱な空を見ていた。新しいビルに入ると、静かである。教室待っているのか暇つぶしなのか、生徒がスマホを見ながら、教室の前にある木のベンチで座っていた。教室は部屋の両端にあるように設置され、間の広い通路には、ベンチが置かれている。そこに座る。エレベーターは通路を渡って右側の奥にある。隣には階段がある。僕はため息をついた。スマホを見た。
 スマホの画面にはうちの学校の掲示板が表示されている。一応確認したが気になる。メッセージを送る。戸井田にやっぱりダメらしい。一人頭が浮かぶ。行かないと逆に責められるのはわかっていた。面白がっているのはみんな同じだ。
 そう気がついた。ビルの中は静かだった。先生達の声も聞こえない。ビルの大きな窓、ちょうど通路の端、行き止まりには大きな窓が設置され、明かり取りになっている。そこから学区内が見え、その周辺の街並みが一望できる。僕はそれを見て唐突に梨田さんを思い出した。
『真澄ちゃんのお見舞いに行きませんか』
『なんで』
 実はことのあらまわしを伝えた。正直情けない奴と梨田さんが笑うような気がした。
『へえ。真澄ちゃんとできているのか』
『梨田さんまでからかわないでください』
『まあ。いいよ。行って』
『本当ですか』
『いいよ。まあ気にするな』
 梨田さんの了解が得たときの僕の心境は、まるで重い鎖を解き放った鳩のようだった。雨が憂鬱に降り続けていても僕には一条の光が差し込んでいるようだ。
 待ち合わせを決めて、僕は安心した。
『尻はどうなった』
 戸井田はメッセージを送った。
『一緒に行ってやるよ』
『先輩と行くことになった』
『あっ。真澄ちゃんの知り合いとか』
『そうだけど』
『大丈夫か』
『何が?』
『真澄ちゃんの知り合いならばそっち系か』
『まさか。そんな訳ない、彼女いるし』
『わからないものだぞ。人って』
 のんきに戸井田が言う。不安を煽っていくタイプなのかと僕は心底恨んだ。しかし、戸井田は『がんばれ』と言い出した。
『やっぱりついてきてくれ』
『えー』
『尻のため』
『代勉またよろしく。ノートも見せてくれ』
『するする』
 画面上で僕らそんな会話をした。
『友達がついて来ますが、いいですか』
『構わない』
『ありがとうございます』
 苦笑したスタンプが押された。そんなスタンプを見て、僕はとっさに外を見た。いや周りを。さっきのやりとりを見られたのかと思った。戸井田と僕のやりとりを梨田さんはわかってしまったのかもしれない。
 たまたまだと僕は思った。そうして僕は教室を見た。みな授業をしている教室は扉が防音性に優れているのか、笑い声すら遮断されたようだ。梨田さんに今あったらどうしようと僕は思わないでもない。
 あの夜に似た、雰囲気だけでも似た、あの顔を見たとき、僕はどう反応するだろうか。
『待ち合わせ、いつよ』
 戸井田のメッセージで僕は我に返った。メッセージを返すと戸井田はそれ以上何も言わなくなった。
 戸井田と彼女はキスくらいしただろうなとわかる。
 戸井田は急にいけなくなったと連絡が来た。彼女が会いたいと言ったからだ。ごめんと言われたが「末永くお幸せに」と皮肉を書いた。
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