A町日進月歩(BL)

一条 しいな

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第二章 武藤と女

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 奇妙な生活が始まった。武藤と白木と麻奈美と三人の生活。麻奈美はあれ以来至って普通である。武藤を食べたいという願望は消えたのかもしれない。武藤は床掃除をしていると健気に「がんばれ」と応援する。武藤は何も言わず、とがめることをしないで手を動かしていた。武藤と白木は相変わらずだった。麻奈美がいたから変化するわけにもいかない。以前のまま、白木が武藤をからかうという図ができあがっている。
 白木は悪質ないたずらをするわけではないので、武藤は静観していた。と言っても軽口に近いものだ。
「麻奈美。おまえ、そんなことをしても意味がないぞ」
 麻奈美はムッとした様子で振り返る。麻奈美は喜怒哀楽がはっきりしているようだと武藤は気がついた。怒るときにはあまり感情を出さないという子供のときの麻奈美と違って人間らしかった。武藤はフローリングの床を拭き終え、汚れた水を外の下水道に捨てた。麻奈美はヨイショと畳の部屋に行くようだ。
 武藤は肩を回して、腕を回した。スマホを見れば連絡が来ていた。折り返し電話をかける。
「飯塚(いいづか)さん。すみません。連絡をもらったのに出られなくて」
『いいです。気にしていませんから。私が気になるのは、その異界の子ですから』
「……私のところにいます」
『気をつけてください。彼女は体を求めている。肉体を欲しているから。あなたを襲った』
「じゃあ、どうすればいいんですか」
『腹を減らさないことです。乾きが彼女を変える』
 乾きと武藤はつぶやいた。
「とりあえず、食べ物を与えていればいいんですね」
『すぐに向かいますから』
 それまでに安全なところへ逃げ出してもいいですよと言われた。武藤はいえと言った。麻奈美を送り届けるのが大切な使命なんだと思った。白木は聞いていたのか、武藤の側にいた。振り返ると麻奈美がいた。
「なんの話ですか」
 恐る恐る言った麻奈美に安心させるように笑うことができない武藤は「出版社」と答えた。
「嘘ですよね。私、聞こえるんです。私、武藤さんに何かしたんですか」
 麻奈美の声は震えていた。麻奈美はガタガタと体を震わしていた。震わしながら、涙が出そうになっていた。武藤はじっとしていた。
「君は何もしていない」
「嘘。わかっているんです。私が何かしたらここにはいられないんです。だから私が悪い子だから」
「麻奈美さん?」
 戸惑った武藤は麻奈美の肩を触ろうとした。麻奈美の体から通り抜ける。麻奈美は泣き始めた。
「麻奈美さん。麻奈美さん。聞いてくれ」
 顔を上げた麻奈美の顔は、変形していた。牙をガチガチと鳴らし目は爛々と輝かせている。武藤は下がる。普通の人間ならば、あまりの怖さに足がすくんでいたが、武藤は二度目のせいか、対処できた。しかし、麻奈美の方が反応しやすかったのか、すぐに武藤に向かう。武藤の体をつかんだ。
「くれろ。肉体。私が完全なる肉体」
 飢えがそうさせるのか武藤にはわからない。ただ、麻奈美が肉体を欲しがっているのはわかる。武藤とてやすやすと肉体を奪われたくない。武藤の両腕を麻奈美はつかんでいた。ものすごい力である。痛みは体に走る。
 白木はただ見ている。助けてくれないのかと武藤は失望した。
「麻奈美さん。痛い」
「痛いならば、くれろ」
「あげられない。俺はどうしてもやらなければならないんだ」
「ほしい。ほしい」
 歯がガチガチと鳴る。武藤を食べようとする前に、白木が動いた。人参が投げ出された。それを白木は馬にあげるように、麻奈美に向かった。
「肉体がほしいのか」
 麻奈美は人参を見ていた。食べようともしない、麻奈美の目には武藤くらいしか映っていなかった。武藤は白木を見つめていた。白木は何もしない。
 なぜだと武藤が言いそうになった。白木は麻奈美を見つめていたままだった。
「肉体があればいいのか。乗っ取ればいい。食ったら最後だぞ。女がいいんじゃないか」
 まるでけしかけるようなことを言い出す。麻奈美は白木の言葉を聞いているだけだった。麻奈美の目は武藤が映っている。黒い目だった。純粋なものを固めて作ったような黒さだった。武藤は飲み込まれないよう己を強くしようとした。
「武藤さん」
 麻奈美が言ったような気がした。武藤はクラクラとしてきた。気分がすこぶる悪い。腕も痛い。しかし、何かが体の中に、魂が入ろうとするのがわかった。武藤は本能的に「白木」と叫んだ。白木は動かないでいる。麻奈美は牙をむき出しにして笑ったような気が武藤にはした。


 飯塚は普通車から降りて、武藤の家の敷地を歩いていた。駐車場は武藤の家の敷地にあった。窓から家の周りを伺ったからだ。武藤という前に異変に気がついた。暗いものが家の中にいる。
「武藤さんの家に何か用ですか」
 勝手に家の鍵をあげる前に、見知らぬ男は警戒するように言った。いや声をかけた。飯塚が人のいい笑みを浮かべ、女らしい口調で「ちょっと」と意味ありげに言った。しかし、男は「警察を呼びますよ。なんで合い鍵を」とつづける。
「本人からもらったんです」
「えっ」
 ドアは急に開いた。武藤がいきなり飯塚を押し倒そうとする。飯塚が反応できないまま、押し倒された。地面に頭をしたたか打ち、気絶しなかっただけもいい方かもしれない。
 飯塚の武藤を見つめる目は冷ややかである。飯塚はいきなり、ヒールで武藤の腹を蹴った。武藤は油断したのだろうか。生身の体には堪えたのだろう。ヒールの一撃は凶器だったのか、飯塚から離れた。
「武藤?」
 見知らぬ男がつぶやいた。部外者ということが飯塚からわかった。飯塚は何か呪文を唱える。祝詞とは違う、不思議な響きを持つ音だった。それを聞いた武藤は動けなくなった。動きたいのか体をピクピクさせていたが、動けないことに観念したのかだらりと手をおろした。
「中に入れるわよ」
 見知らぬ男に向かって飯塚が言った。見知らぬ男はぼうっと女を見ていたが、我に返った。飯塚はヒールを脱いでさっと武藤の家に上がっていく。見知らぬ男は武藤を抱きかかえるように、持つと必死に運んでいた。



 武藤はしばらく暗闇の中にいた。武藤の体はふわふわと海に漂うに浮かんでいた。武藤は目を開いた。小さな光が見える。そこから、飯塚の顔が見える。飯塚が何か言っていた。が、武藤にはわからない。武藤は焦りがあった。
 このままだと麻奈美の支配下におかれる。どうすればいいんだろうかと。
「麻奈美さん」
 頼りない、弱々しい声が闇の中響いていた。麻奈美の返事はしない。麻奈美はどこにいるか探そうと武藤はふわふわと漂うのをやめた。武藤は立ち上がると、一気に景色が変わった。
 畳である。靴下の武藤は畳の上にいた。そこにいたのは麻奈美だが、子供の姿の麻奈美だった。
「ああ。やられたな」
 呆れた口調で子供の麻奈美が言った。やられたというのはどういうことか武藤は考えていた。武藤のぼうっとしていることをいいことに麻奈美はポットのお湯から茶を出してくれた。
「飲め」
「いや」
「さすがに怖いか」
「まあ」
 正直に言う武藤を麻奈美はニヤニヤしながら笑った。麻奈美にこういう一面があることを大人の麻奈美慣れたせいかすっかり忘れていた。どちらと言えば白木を相手にしているような気分になる。
 畳はずっと広く、遠く彼方まで広がっている。白い背景に麻奈美が落ち着いて茶をすすっている。
「ここはおまえの世界かい」
「えっ」
 麻奈美の言葉に武藤は不思議そうに問い返した。麻奈美の目は細くなったままだ。
「麻奈美は私を待っている。私も麻奈美を待っている」
「あいにく、さっぱりだ」
「わからないか」
 少しあきらめたように麻奈美が言った。武藤は立ち上がり、歩き出す。
「子供の麻奈美にでは無理だったな」
「そうだな。ヒントは出会いだ」
 うふふと笑い出す麻奈美を他力本願になりそうな武藤がいたことは確かだ。麻奈美の方へと、無限に広がっていくような畳を歩いていく武藤がいた。麻奈美は後からついていく。麻奈美は何を考えて肉体を求めているのだろう。異界に行くことを嫌がった。また死に向かうのがいやだったのか。
 武藤は考えていた。
「麻奈美さん」
 大声で麻奈美を呼ぶ。そうしたないと途方に暮れそうな武藤がいたからだ。武藤は叫んでいた。武藤の言葉にぴんっと張り詰めたものがあった。そんなかすかな存在に気がついた武藤は駆け出した。
「麻奈美さん」
「武藤さん」
 麻奈美は膝を抱えて泣いていた。実際武藤は麻奈美の近くに寄った。子供の麻奈美に気がついた麻奈美は逃げ出そうとした。
 怯えた顔で首を振る。
「麻奈美さん。どうしてこんなことを」
「だって。ここは」
「居心地がいい」
 子供の麻奈美が言った。ニヤリと笑っている。大人の麻奈美は怯えたように武藤にすがりついた。まるで麻奈美から姿を隠すように。
「白木も武藤も私を邪険にしない。それに何より、あれを見て私を怖がらなかった」
「あれは、麻奈美さんの心の一部だ」
「違う。あれは私じゃない」
 大人の麻奈美が悲鳴を上げるように言った。麻奈美を見ながら武藤はつぶやいた。
「じゃあ、あれはなんだ」
「えっ」
「どこから生まれた」
 麻奈美の目は虚ろになっていく。渇きを感じたのだろう。顔が変形していく。ガチガチと歯を鳴らす。
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