A町日進月歩(BL)

一条 しいな

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第二章 武藤と女

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 麻奈美の目は揺れていた。事実、麻奈美は動揺していることが武藤にはわかっていた。麻奈美は自分が異界に帰ることに対して怯えている自分に気がつかなかったようだ。だから、武藤は「帰るべき場所があるということはいいことだ」と麻奈美にいう。麻奈美は頭を振った。駄々をこねるように。
「だって私は異界の人間じゃない」
「そうだね」
「でも。だったら」
 と言って麻奈美は怯えていた。ここにいさせてくれないのは麻奈美自身わかっていることである。しかし言わずにはいられない。何が怖いのか、麻奈美は言葉にできなかった。
「異界に行って食われないか心配なんだろう」
 白木がニヤニヤしながら言っている。笑いがこみ上げているのだろう。隠すつもりもない。部屋の中で二人の異世界からの住人達が言葉を交わしている。
「私は」
 麻奈美は気がついた。確かに自分が食われないか不安なんだと気がついた。それは一体なぜと自分を問いかける。ゾワゾワとしたものが麻奈美に襲いかかる。辺りを見回すが何もない。以前夫だった人もいないはずなのに。
「異界の人間なのかな」
 麻奈美はぽつりとつぶやいた。麻奈美の言葉を無視するように武藤はパソコンの前に座っていた。



 武藤は考えていた。麻奈美は帰れるだろうかと。麻奈美は異界に返した方がいいんだと武藤は自分に言い聞かせていた。武藤は文章を書くことに専念した。カチカチとキーボードを叩いていく。なんとか短編を書き上げる。
 編集者に送ることにした。ぼんやりと横になる。眠くないのに気がつけば武藤は目をつぶる。うとうとし始めていた。


 武藤の目の前には監獄にいるはずの麻奈美の夫がいた。男の隣には麻奈美がいる。麻奈美は手が振ると男は歩き出していた。麻奈美はそのまま家事をして、父親の世話をする。それは普通の日常である。ただ違いは黒い空間の中で劇のように同じ空間で演じているようだった。男は、働く。何をと思うと、工場である。食品加工をしている。調理を担当しているようだ。そこで男が振り返った。
「何を見ているんだよ」
「えっ」
 武藤が叫んだとき、男ではなく、白木に変わっていた。白木は武藤に向かって犬になって牙を向けようとした。
「何を見ているんだ。小僧」
 武藤は少年に戻っていた。そこで武藤は走っていた。
 目が覚めた武藤は息を荒くし、頭を片手で押さえていた。夕日が部屋に入っていく。バラ色の夕日である。雲のせいか、バラ色に染まった空は、ある意味武藤にとって恨めしいものになった。武藤はじっと空を見ていた。空がバラ色から、朱色に変わっていく。
 あくびをした武藤は仕事の確認するために編集者に電話をした。



 麻奈美はいっこうに現れない。それはそれで不安になるが、武藤にとって都合がいい。意見を言い合って衝突するにはある程度体力が必要になってくるからだ。武藤は浴槽に湯を張ると温度を確かめる。ちょうどいい温度。浴槽の蓋をして、簡単に風呂の準備をした。着替えと寝間着、ジャージくらいである。タオルも用意する。誰もいない居間に向かって風呂に入ると言った。暗闇の中、自分の声だけがむなしく響いていた。白木は返事もせず、眠っているのだろうと武藤は解釈した。
 麻奈美は知らない。
 脱いだ服が積み重ねられ、脱水所をあとにする。冷えた空気に武藤は息を吐いた。武藤はまず髪を洗う。以前読んだ本に、とある作家が風呂の描写を面白くするには、難しいと言ったと思い出す。確かに、面倒だが、その作家は風呂嫌いで有名だ。武藤は髪の毛を濡らしていく。シャワーの温度はちょうどいい。武藤は視線を感じて振り返った。濡れた髪の毛をオールバックの要領で視界を広くする。背中辺りで濡れた髪の毛が体に張り付き、お湯が下へと重力で流れていく。
 麻奈美がいた。麻奈美は武藤を見ている。武藤はとっさに「何か用か」と尋ねていた。非難するような言い方とは違い、感情のない言い方だった。
「美味しそう」
 麻奈美は生気のない目をして言った。武藤はゾワリと鳥肌が立った。理由はわからないが、武藤はとっさにシャワーをつかんだ。
 しかし、シャワーが出るお湯はすうっと、麻奈美を通り過ぎる。麻奈美は宙に浮いたまま、歩くこともなく、武藤に近づいてきた。メリメリと顎が変形していく。肉が盛り上がり、眉毛が上がり、口から犬歯のような牙が、そうして顎が大きくなり、頑丈な筋肉が見える。奈美の女の顔が鬼女を連想させるようなものに変化した。
「俺を食うのか」
「……」
 白木がいた。白木はじっと麻奈美を見つめている。冷ややかである。武藤のピンチに助けを呼ぶ前に麻奈美が振り返った。
「あっ。私何をやっていたのかしら」
 武藤は裸のまま、力が抜けるようだった。麻奈美を見つめる。あの顔は何だったと考える前にキャーという声が聞こえた。そのまま声が遠ざかる。
「なんだろう」
 あれはと白木に問いかけるが、白木はそれ以上何も言わないでいる。ただ、眉間にしわを寄せているだけだった。
 髪を洗って浴槽に浸かる。白木に一緒にいてくれと武藤は頼んだ。白木は何も言わないが、湯船の上にふわふわと浮かんでいる。
「なんで、おまえさ」
 いきなり白木が尋ねてくる。緊張している武藤はなんだと答えた。長い髪はタオルに巻かれている。
「やっぱりバカだな」
「どういう」
「意味がわからないならもっとバカだ。それだけだ」
 武藤は黙って聞いていた。それ以上二人は話さなかった。白木のおかげで助かったのか判断できない。しかし、白木がいなかったら多分武藤は麻奈美に食われたのかもしれない。麻奈美は異界の人間だということを武藤が失念していると白木が言いたいのだろうかと武藤は考えていた。
 浴槽のお湯が冷え始めて武藤は浴槽から出て行った。白木はその頃にはいなかった。
 白木と武藤が呼んでも白木には姿を現さなかった。なぜ風呂を安心して入れないのだろうかと武藤は思った。安心して入りたいと武藤が考えていた。白木がいないので警戒しながら着替える武藤がいた。


 食事を二人分作る。いつもより多く作るが、四人分というわけではないので別段苦ではない。武藤がそんなことを考えながら料理を作っていた。武藤の作る姿を麻奈美は見ている。あの姿になったのは記憶にないらしい。
 武藤は皿に盛り付けする。武藤の料理をキラキラとした目で麻奈美は見ている。
「麻婆豆腐」
 やけに嬉しそうな顔をしている。クンクンと鼻を動かす犬、それを連想させる。麻奈美には麻婆豆腐を食べ始める。白米も一緒だ。
「好きなのか」
「はい。とびきり辛くない奴が」
 本番ものは食べられないなと武藤はつぶやいた。武藤はレンゲを動かしていた。麻奈美は幸せそうだった。麻奈美を見ると武藤は少し気の毒に思う。麻奈美はここにいることが間違った人間であるとは思えない。
 しかし、こうしている間にも、麻奈美は消えるのだろう。骨によって呼び出されたのだ。代償は払ったのだろうか。もし払っていなかったら、武藤はどうするべきなのか。
「私、ここを出て行きます」
「そう」
「行くところないけど。前住んだ場所に戻りたいです」
「あの男の場所?」
「違います。私が暮らしていた場所」
 ぼうっとした顔になった麻奈美は、ゆっくり笑顔になった。武藤を見つめている。目が虚ろになったのは間違いない。それから変化は起きていない。武藤は身構えていた。
 麻奈美はまばたきをした。いつもの麻奈美だった。麻奈美は武藤を見て「武藤さん?」と尋ねた。武藤は強張った顔をしていた。あれはなんだろうかと武藤は考えている。麻奈美はそんな武藤を怖いものを見るような目で見ている。
「また変なことをしたか」
 いきなり白木の声が聞こえた。白木は武藤の横で立ったまま、テーブルに頬を両手で支えていた。いきなりの登場に武藤は面食らったようには見えなかった。
「まあ、武藤は考えすぎるんだ。簡単なことだろう」
 簡単と言う言葉では片付けられないのが本当のところだろう。しかし武藤は黙っていた。簡単という言葉に武藤は引っかかっていた。麻奈美は「武藤さんを困らせない」と言った。
「おまえの存在そのものが武藤を煩わしているんだよ」
「ひどい。そんな言い方はないわ」
「存在」
「武藤さん、私迷惑?」
「それじゃあ。言えない。本音は。あんたの願望を押し付けるなよ」
「私はただ。ただ」
 麻奈美は泣き出してしまった。武藤は考えをやめて、麻奈美に近づいてきた。触ることはできない。だからつい気の毒に思ったのか、何か考えがあるのか。
「異界に戻る前にここにいなさい」
「えっ」
「はっ」
 先に反応したのは白木だった。舌打ちをしていた。麻奈美は嬉しい顔を隠さずにいたのだ。白木にはわからない、武藤の意図というものが。
「おまえって本当に大バカなんだな」
 呆れている白木に「そうかもな」と武藤は言った。
「麻奈美、君のことは、報告書に書くから」
「はい」
 ここにいられればなんでもいいと麻奈美は考えているようだった。麻奈美は笑っているが、あの虚ろの表情はいったいどうしたいのか武藤にはわからない。ただ、あの鬼のようになったら食われる危険性があるということは確かだ。
 武藤は白木を見つめた。白木はうるさいものを見るような目で武藤を見ていた。
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