零れる

午後野つばな

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20話

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「シオン!」
 夕食後、マリアのようすが気になっていたアオは、見知らぬベータの男と話をしているシオンを見つけ、思わず声をかけた。シオンはアオに気がつくと、一緒にいた男に何かをささやいた。男はうなずくと、ちらっとアオのほうを見てから、その場を立ち去った。
「悪い……」
 会話を遮ってしまったことをアオが謝ると、シオンは「いや」と否定した。
「それより何だ?」
「あ、うん。あのさ……」
 アオは昼間あった出来事をシオンに話した。アオたちと話をしていたときに、マリアが泣き出してしまったこと。何かを忘れていると呟いた少女の声が、絶望に満ちていたこと。シオンは黙って話を聞いていたが、ひょっとしたらマリアは何か思い出しているんじゃないか、というアオの言葉は否定した。
「でもさ……」
 アオはもごもごと口ごもった。
 あんたはあのときのマリアの顔を見てないからそんなことが言えるんだよという言葉を、アオはかろうじて呑み込んだ。
 シオンは、アオが納得していないことに気がつくと、眉を顰めた。その腕をつかむ。
「こい」
 シオンの部屋に入るのは、あの夜以来だった。シオンにそんなつもりはないことはわかるのに、アオはどぎまぎした。落ち着かなければと意味もなく室内を見まわし、そわそわと視線を揺らす。シオンはそんなアオの気持ちを知って知らでか、脱いだスーツの上着をソファに放り、シャツの襟元をゆるめた。どさっと、ソファに腰を下ろす。
「お前は、マリアについて何を知っている」
「えっ」
「普段側にいるだろう。誰かから何か聞いたか」
 探るような鋭い目でじっと見つめられて、アオはどきっとした。
「な、何も知らない。あんたから聞いたこと以外は何も。何か事情があるんだろうくらいしか知らないよ」
 慌てて頭を振るアオに、シオンは視線をわずかにやわらげた。ほっとしたような、疲れを滲ませたシオンのようすに、アオはにわかに心配になった。
「シオン……?」
「……数年前、マリアは出かけた先で初めてヒートになり、見ず知らずの男からレイプされ、そのとき首の後ろを噛まれた」
「えっ! そんな……っ!」
「相手のアルファはろくなやつじゃなくてな、マリアをつがいの相手にした後、一方的に関係を解消した」
 アオは、ザアッと青ざめた。瞬間、言葉にできない感情が一気に燃え上がり、怒りのあまり頭の中が真っ白になった。
「相手の男は……」
 アオが震える声で訊ねると、シオンはふんっと鼻で笑った。
「いまごろ生きていたら、マリアと同じ苦しみを味わわせてやるところだが、事件の後、すぐに事故で亡くなったよ」
 マリアにそんな衝撃の過去が隠されていたと知って、アオは言葉を失った。
 何がこれまでつらい思いもしたことがない幸せなお嬢さんだ。
 アオは自分が恥ずかしかった。
 同情なんて、これまで何の腹のたしにもならない。相手を憐れむことができるのは、自分に余裕があるからできるのだ。本気でそう思っていた自分を、アオははり倒してやりたかった。
 胸が苦しい。自分のことでもないのに、マリアという少女を知ったいま、彼女がそんなつらい目に遭ったことを想像するだけで心が痛んだ。だから、シオンからマリアはこのまま何も思い出さないほうがいい、お前もよけいなことを言うなと釘を刺されたとき、アオは素直にうなずけなかった。
 ほんとに? 本当にこのままでいいの? ずっと?
 もやもやとしたアオの思いは、表情にも表れていたらしい。
「何だ?」
 ソファの肘掛けに頬杖をつき、こちらを見ていたシオンが訊ねた。
 アオはごくりと唾を飲んだ。心臓がどきどきしている。
「……ほんとにそれでいいのかよ」
「何をだ?」
「……マリアは苦しんでる。自分が何か大事なことを忘れているんじゃないかって。それが思い出せなくて、不安に感じてる」
「ーー何が言いたい?」
 シオンが目を細める。部屋の温度が、すっと下がった気がした。初めて会ったころのような冷たい視線に見据えられて、アオは怯みそうになった。
 心のどこかでは、もういいじゃないかと、ささやく自分がいる。
 会ったばかりの自分にいったい何がわかる? マリアのことは、ずっと前からそばにいたシオンやカイルのほうがわかっているはずだ。もし仮に事実を告げて、それが間違いだったら? マリアのためになると思ったことが逆効果だとしたら? つらい過去なんて、知らないままでいいじゃないか。でもーー……。
 何か大事なことを忘れている気がする、と告げた少女の、まるで悲鳴のような声が、いまでも耳に残っている。
 事故で死んだというやつは、正直ザマーミロだ。同情の余地がない。けれど、そんなクソ野郎でも、たとえ行為が無理矢理だったとしても、マリアにとってそいつは、いまでもつがいの相手なのだろう。
 憐れだ。そして、なんて悲しいのだろう。
 アオの胸を鋭い痛みが走る。
 望まない相手に無理矢理つがいにされたマリアは、いまだにその絆に振り回されている。シオンだってそうだ。マリアの話を聞いたとき、アオはあれほどまでにシオンが”つがい”そのものを憎んでいるように感じられた理由がわかった気がした。みんながみんな、つがいという絆に弄ばれるように、振り回されている。
 つがいとは、運命のつがいとはいったい何なのだろう? 何のためにあるのか。
 アオは、つがいという絆に振り回されるすべての者が悲しいと思った。
 運命なんてくそくらえだ。
「くそったれ……」
 アオは、ぼそっと呟いた。
「え?」
 アオの言葉を聞き取れなかったらしいシオンが聞き返す。
 アオは顔を上げ、まっすぐにシオンを見つめた。
「いまのままじゃマリアは何も終われない。ちゃんと事実と向き合って、それから俺たちが支えてあげたほうがいいと思う」
 シオンを怒らせてしまうかもしれない。
 そう思ったけれど、アオは自分を睨みつけるシオンの目から、視線をそらさなかった。
「お前に何がわかる」
「え……っ?」
 シオンは苛立たしげにネクタイを引き抜くと、まるで感情をぶつけるように床に投げつけた。
「お前とマリアは違う。関係のない者がよけいな口を挟むな!」
 シオンはソファから立ち上がると、そのまま部屋から出ていった。後にはアオひとりが残された。
「……そりゃさ、関係はないけどさ」
 アオはシオンが投げつけたネクタイを拾うと、そっとソファの肘掛けにかけた。そのまま、どさりとソファに腰を下ろす。
 シオンが怒ることはわかっていたはずだった。言わずにすむことだってもちろんできた。せっかく、シオンが普通に接してくれるようになっていたのに。
 けれど、相手を失ったいまも、心に深い傷を残しているマリアの姿が自分に重なり、アオはどうしても放っておけなかった。
 胸の中にぽっかり空洞ができたみたいだった。
 お前とマリアは違うとシオンに言われたとき、アオの心は傷ついた。傷ついたことに、自分でも驚いてしまったくらいだった。最初から、自分とマリアとでは勝負にならないことなどわかっていたはずなのに。
「俺バカだ……」
 これまで何度思ったかもしれないことをぽつりと呟くと、アオは悄然と肩を落として立ち上がった。
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